正午を少し回った頃、見慣れた街並みを懐かしみながら俺は足を進めた。流れ作業のように淡々と歩きながら過去の記憶を巡らせ、その記憶に耽る。その繰り返しだ。
決して良い思い出はあまり無いが、一度地元を離れると、青すぎたあの日々がたまらなく眩しい。毎日のように感じていた悲しみも憎しみも、今はどこかへ行ってしまった。何せ今は清々しいくらいに毎日がキラキラと輝いているのだ。相反する現状にそう思っても仕方のないことだろう。
しかし、軽い足取りとは裏腹に俺の手は小刻みに震えていた。これから向かう場所に一歩、また一歩と踏み出す度にゾワゾワとした変な感覚が身体中を駆け巡る。心は落ち着いているはずなのに、何故か奥底から痺れがきていた。
あの場所をまだ、俺は拒んでいるのか……?
趣のある閑静な住宅街をすり抜け、曲がり角を突き進む。一番奥は公園で、そこからは行き止まりだ。そして、その公園こそが俺の目的地だ。
柵に留めてあるボロボロの看板の前で足を止めた。字が消えかかっていてわかりにくいが、一丁目第二公園と書かれている。中は看板と同様、廃れてひどい有り様になっていた。よくここまでこうなったな、と感心するくらいには遊具は錆びて腐りかけ、長年放っておいたのであろう雑草が天高く伸びている。
さらに俺が最もお気に入りで、存在感を示していたブランコが撤去されていた。あるのはベンチと鉄棒と……無造作に置かれた花束のみ。
子どもたちの笑い声が遠くから聞こえてきた。恐らくこの場所からすぐ近くにある、別の公園からだ。そりゃこんな何もなくて、花束なんて置いてある意味深な公園なんか来るはずもない。ましてや今、スーツを着た大の大人が突っ立っているから、なおさら不気味さが増す。
中学生の時、小さな子たちが怖がるから公園ではあまり遊ぶなと教師に言われた記憶がある。そんなこと当時は馬鹿馬鹿しいと一回も守ったことなんて無かったが、大人になってみれば、現状の痛々しい自分にブーメランになって返ってくるものなんだと改めて痛感した。誰かに見られていないかとヒヤヒヤするが、今は一旦大丈夫そうだ。
だが、たとえ子どもたちに人気が無くても、今、この場所にいるのが恥ずかしくても、ここが俺の思い出の場所であることには変わらない。誰にもこの魅力を知られてなんかたまるか。心の奥底からそんな気持ちが溢れてきた。
本当に何も、何も変わらない。十年の月日が経ったんだ。あの人が俺の前から消えてしまってから……。今思えば、夢のような一時だった。暗闇に閉じこもっていた俺を光射し込む世界へ導いてくれたあの人と出会ったのは、この場所。その人が全てを捨てて俺を裏切ったのが、十年前の今日。六年前に地元を離れて以降、ここへ戻ることもなかったし、思い出そうともしなかった。
ベンチの目の前に置いてある花束の側に行くと、急に目頭が熱くなった。咄嗟に上を向いて耐え、ハァーと大きく息を吐く。
春の青空は曇り一つ無く澄み、鳥が羽を大きく広げて羽ばたいていた。公園全体の空気が過去への道を誘い出す。俺も年を重ね、涙腺が緩んだのかもしれない。
ぼやけていく視界とは対称に、記憶は鮮明に蘇る。その記憶の始まりは、中学校三年の春だったー……。
十四歳という思春期真っ只中の時期、ちょっと選択を間違えたら、クラスから孤立してしまった。ただ単に俺は、先生は悪くないと言っただけなのに。
しかし、理不尽な理由で皆から嫌われている先生を庇った時、しまったと思った。周りと違う行動をすれば、浮いてしまうことはわかっていた。反感をくらうことも、嫌がらせに発展することも。
小学生の時にいじめの悲惨さを知って以降、中学校に入ってからはかなり慎重に行動していたはずだった。そんな俺の平和計画もあっさり終わり、肩の力が抜けた気がした。だが、それと同時に平凡な学校生活は失った。
嫌がらせに対して激しい憤りや屈辱感は通り越して、無の感情になり始めた。ちょっと前まで普通に話していた友人も俺とは話さなくなって、親や先生までもが知らないフリをする。
特に先生なんて、俺のこの辛い状況を「学生は色々とあるから」という最低なまとめで終わらせた。そのことを言われた時、確信した。世界は全員俺の敵となったのだと。先生の肩を持ってやったのは俺なのに。そのせいで、孤立してしまったというのに。
学校というものは汚い物に蓋をする人間関係の鎖に縛られた地獄なのだとつくづく感じた。
そんな環境から抜け出したくて、中学三年生になってから一週間も経たないうちに、俺は登校拒否をするようになっていた。
だが、両親にはとりあえず行けと言われていたので、制服を着たまま学校を行く程で、サボるというようなもの。学校から、俺が来ないと連絡が入っているはずなのに、両親は何も言わなかった。その時から、俺のことなんてどうでもよかったんだと思う。
それでフラッと何気なく足を踏み入れたのが、あの公園だった。
少々ボロくて、人が生活しているのか微妙な雰囲気のアパートと何を作っているのかわからない工場の間にあり、日の光がまったく当たらない。平日の朝だからとか関係なく、年中人がいないそんな場所。
幼い頃から見てきている公園だが、誰も使わないため、俺自身も入ったことは一度もなかった。不気味な場所ほど、人を寄せ付けたりはしないからだ。
しかし、そんな人がいない場所は人間関係を断絶したいと求めていた俺にとってはぴったりだった。だから初めて入った時は気分がとても良くなった。自分を卑下する奴なんか存在しない世界に一人でいられる。ここが楽園なんだと思った。
光ある場所なんていらない。影にまみれる場所こそが本当の真実を映す。自分をわかってくれる人もいないのなら、自分だけが自分の味方になればいい。欲しい言葉を、包み込む優しい慰めを、全部くれるのは俺だけなんだ。
世界は、そんな俺だけでいい。
この地で生まれ育って、今まで魅力に気が付かなかった。初めて入った楽園で、一番最初に乗ったのはブランコだった。意外にも楽しいもので、中学生にもなってブランコを満喫している男……そう考えると笑えてくる。こうなったら、存分に満喫してやろうと腹立つ学校の奴らを思い浮かておもいっきり地面を蹴った。
キイィと悲鳴をあげる音が響き、身体がブランコとともに宙に浮く。フワッと風が舞い、髪が全て後ろになびき、一気に落ちていく。心臓が、身体中の細胞が沸き立っていく。
こんなに楽しいものだったかと疑いたくなるほどだ。
いや、これは一人だからなんだと思う。他人がいたら、きっとここまで解放感という名の快感を味わえなかっただろう。
何せ俺だけの場所なんだから。本当にこの場所を選んでよかった。
もう一度楽しもうと足を立てた時、妙な違和感が瞬時に巡ってきた。気配と人からの視線……学校での経験からその手の類は敏感になっている。楽しさに心奪われ、気付かなかったが、絶対にそこにいると確信できた。
気まずさを持ちながらおそるおそる振り向くと、ブランコの斜め後ろのベンチに清楚な礼服のようなものを着た女性が座っていた。周りが暗い上に少し離れててわかりにくいが、こっちを見ているのがわかった。
こんな平日の朝っぱらから、俺以外にこんなとこ来る人なんているだろうか。ましてや、はしゃいでいるところを見られていたなんて……。
じわじわと襲ってくる羞恥を打ち消すように女性を見つめ返していると、優しくいざなうように手招きをされた。不思議に思いながらも、吸い込まれるように俺は近づいた。どんどんはっきりと目に映ってくる女性の風貌に驚きは増すばかりだった。
腰まである長い髪、透明感あふれる白い肌、整った容姿、目を引く紫色の花のヘアピン。纏う雰囲気でさえも特別なものを感じる。俺自身、美人なんて言葉ではおさめきれないほどこんなに綺麗な人を見たのは初めてだった。
女性の前に来て、圧倒的なオーラに言葉を失う。何か話そうにも頭が回らなかった。
「こんにちは。いきなりごめんね」
想像していたよりは少し低めの声。それもまた、心を惹き付けられた。
俺の現状を察したのか、女性が髪を耳にかけながら優しく微笑み、目を合わせてきた。少し茶色がかった瞳は怖いくらいによどんで見える。
「い、いや……別に」
かろうじて出た言葉がそれだった。声が上ずってしまい、消さない緊張感が走った。
「すごく楽しそうだったから、お話を聞きたくて呼んだのよ」
学校のことを聞かれるのではないかと俺はヒヤヒヤした。今の俺は制服を着ているし、公園内には学校指定のリュックまでもが置かれて置かれている。
事情を話すのはおぞましく面倒だし、不登校なんて甘ったれるなと説教されるのも嫌だ。そう思ったからなのか、俺の身体は素直に少しだけ硬直している。だが、彼女から放たれた言葉は意外なものだった。
「君、学校サボるなんて勇気あるね」
「えっ?」
「その制服、中学生でしょ?中学生が学校サボって公園を満喫してるなんて珍しいから」
女性は俺の全身を、黒目を上手に使いながらあからさまに見てきた。予想していた言葉とは斜め上の言葉だったため、戸惑いを隠せない。
「……だから何ですか?説教でもするつもりですか?」
「そんなことしないよ。だって私、高校生だから。仲間だねって話だよ」
「アンタ高校生なんですか?……見えない」
「そうだよ。君と一緒で、学校行きたくないの」
彼女が高校生だということは正直信じられない気持ちが大きい。普通に成人してると言われても違和感がないくらい大人っぽく見えるからだ。しかしよく見ると、この着ている礼服も学生用の制服と言われれば通じる。
年が近いとわかって、俺は心のどこかで仲間意識に近い安堵を感じた。
「君の名前聞いてもいい?」
少しの沈黙の後、女性はベンチから立ち上がり、俺と目線を合わせた。認めたくなかったが、女性は俺より背が高く、俺がちょっと見上げるかたちになった。
「……ひかり、です」
「へぇー素敵な名前。というか、年も近いし敬語いらないよ。私はシオン。普通にシオンって呼んで」
彼女は右手を差し出し、勝手に俺と握手を交わした。冷たくて細い手が、精一杯に俺の手を包み込む。そして、そのまま誘われるようにベンチに一緒に座った。
「ねぇ、一個聞きたいんだけどさ、ひかりってどういう字を書くの?やっぱり光って漢字?」
「言いたくない」
「えっそんな即答しなくてもよくない?寂しいよ」
俺は覗き込んでくる彼女をそっと離し、俯いた。幼稚でガキくさいなと心底思う。だが彼女はあからさまな俺の行動に少し驚きつつも、またゆっくりと俺に寄ってきた。
「どうして?」
「俺のイメージと合ってないんだよ。きっとバカにするか、笑うかどっちかだから」
言われたことがある。根暗で陰険な俺が、そんな名前だなんて可笑しすぎるって。悔しいことに、俺自身も素直に言えないくらいには納得してしまった。
「私はそんなつもりはないけれど。信じられないかな?」
「……信じられるわけないだろ」
俺は前髪で彼女が見えないように目を覆った。そして、言ってから後悔した。人に接する態度の割に、失礼すぎる。じゃあ今信用できるか、と言ったら嘘になるけど。
だけど、また俺は間違ってしまった。彼女は俺に仲間として近付いてくれているのに、俺はその優しい厚意を突き放したんだ。簡単な二択なのに、どうして自分はいつも正しい行動ができないんだろう。
後から後悔したって意味ないのに。
「じゃあ、友達になろうか」
「は?」
いきなりのその言葉に俺はつい目を合わせた。絶対引かれたと思ったのに。普通の人なら俺みたいなヤツ、相手になんてしないのに。
「俺と友達だと?」
「そうだよ。友好関係を築けば、嫌でも信じられるでしょう?私、君と仲良くなりたいし」
彼女のよどんだ目に偽りは表れてないように感じた。
「本気で言ってるの?それ……。今日会ったばかりで、しかも年齢も性別も学校も、全てが違う……」
「だからどうしたの?せっかく奇跡的にもこうして会えたんだから。サボり仲間という点では、共通するものがあるよ」
言い放った言葉に迷いやからかいは含まれていなかった。この綺麗な人は、あんな態度を取った俺にこの先の関係を導いている。
「…………」
「その無言は、了承の答えと受け取っていいのかな?」
下唇を噛みながら、俺はゆっくり頷いた。
「びっくりだよ、本当。変な人だな。頭の中どうなってんだか知りたいわ」
「ふふっ。それは君が私を信じてくれたら、教えてあげるよ。私だけが心を開くなんて、不公平だからね」
「……そうかもな」
何でこの人はこんなに不思議な気持ちになるんだろうか。それに普段の俺なら、ここまで乱されることなんてない。あっという間に彼女のペースに引き込まれていたのだ。
「私と友達になることを認めたってことだね。君が見ず知らずの、年上で異性の私に心を許すのか、楽しみね」
「……うるせーよ」
俺はそう言うことしかできなかった。なのに、彼女はいかにも余裕感を醸し出している。くるくる回して掻き乱すようにこの状況を、戸惑う俺を楽しんでいるのだ。
「ねぇ、君は明日もまたサボるの?」
不意に彼女は尋ねてきた。
「……サボるよ。アンタも?」
「うん、もちろん。こんな辺鄙な場所で、シャイでツンデレのひかりっていう面白い子に出会えたしね」
「シャ、シャイじゃねーし!」
「声大きいって。冗談だよ」
彼女は微笑むと、背を向けて、顔だけこちらに向けた。
「私、これから行くところあるから。またね、ひかり」
そう言って片手を上げた彼女は、日陰にいるのにとても明るく輝いていた。まるで、俺の瞳の中に星がいくつも存在しているかのように、目をこすっても、その輝きは変わらなかった。
「……またな、シオン。来るって約束だぞ」
「……うん」
シオンは静かに頷くと、公園を出ていった。今日だけの関わりだと思っていたが、手を振り返し、一応友達となり、また会う約束までしてしまった。
楽園に侵入者を入れてしまったはずなのに、不思議と後悔はしていなかった。
シオンが見えなくなってから、手のひらををじっと見つめると、何かが始まる……そんな予感が脳裏をよぎった。何故だかはまだわからないけれど、きっと俺は不覚にも心のどこかで明日も、その明日も会いたいと思ってしまったのかもしれない。数分話しただけなのに、どんどん引き込んでいく綺麗な彼女に。
これが俺とシオンの運命の出会いだった。
それから次の日も、その次の日も俺が公園へ行くたびに案の定シオンはそこにいた。最初はベンチに座っていたが、いつの日かブランコに座り、俺を待っていた。
最初こそ話すことさえも慣れず、辿々しい雰囲気だったが、気付けば楽園にシオンがいることが当たり前になった。隣に座って談笑をすることで、さらに柔らかい空間と化していく。
毎日公園に通う俺とは対称に、シオンは来ない日ももちろんあった。しかし、その次の日は必ず待っててくれていた。だから寂しいとは思わせてくれなかった。
さらに、シオンはいつも行く場所があるからとすぐ帰ってしまう。数十分ほどしか話せないが、それでも全然気にならないくらいの満足感だった。
「シオン」
俺が名前を呼ぶと、彼女は顔を上げる。笑顔を見せてくれる。安心感を与えるその優しい表情を見られるだけで、俺が今、外に出る理由となっていた。
どんな他愛もない話も目を合わせて聞いてくれる。言葉に詰まっても俺が話し出すまで待ってくれる。話したことを全て肯定してくれる。
そしてシオンもたくさんのことを話してくれた。高校生の間で今流行っているゲーム、よく聴く音楽、近所に咲いていた桜、部屋に大きな虫が入ってきたこと。
他の人から見たらくだらない内容もあったかもしれない。だけど、それを楽しそうに話すシオンにつられて、俺自身も久々に楽しいという感情を思い出し始めていた。完璧にとまではいかないものの、徐々に彼女に心を開いていることも自覚していた。
「ひかり、……学校はどう?」
なんとなく暗黙の了解で学校の話題はなるべくしないでいるが、たまにシオンはそう不安そうに尋ねてきていた。
「……全然行ってない。こうやって制服着て、一応外に出てるだけ。俺は多分このまま変わらないよ。シオンは?シオンのこと聞きたい」
俺から見れば、シオンは謎の女性にすぎない。高校生だとは聞いたが、それ以上は何もわからないのだ。学校のことだって、俺よりもずっと避けているような気がする。
「私のこと聞いたってつまらないよ。ひかりの話しようよ」
シオンは長いまつげをふせながら呟いた。それは、何も聞くなと静かに訴えているようだった。
楽しそうなのに、時折見せる憂いた表情にモヤモヤとした疑惑が募る。
いつも俺と話した後にどこに行っているのか、いつからこの公園に通っていたのか、どうして学校に行かなくなったのか、知りたいことはたくさんある。納得いかないが、嫌なことをさせるのはさすがに気が引ける。出会ってから数日だし、シオンもまだ俺を信用していないのだろう。
話題を変えようとした時、ふとシオンが身に付けているヘアピンが目に映った。初めて会った時から存在感を示していて、紫色で小さな花のモチーフが可愛らしいデザインだった。
「そのヘアピン……」
俺はそっと指先で触れた。
「これ?これはね、宝物だよ」
シオンはそう言って俺の指先に覆うように自分のを重ねた。ひんやりとする彼女の指の感触に、強く胸が高まるのを感じた。儚げで、少し力を入れたらすぐにでも折れそうだった。
「……誰かからもらったの?」
自分の現状を誤魔化すように、俺は手を放した。指先からの余韻が身体全体に広がって熱くさせる。
「亡くなった母からもらったの。綺麗な花でしょ。これ、ひかりは何の花かわかる?」
「わかんないな。俺は綺麗っていうか、可愛い感じだと思うけど名前がわからない」
再びじっとヘアピンを見てみるが、やっぱり答えは出なかった。紫色の花びらと黄色い中心部。見たことはあるような、無いような微妙な記憶だ。
シオンはおかしそうに笑いながら、小さくブランコをこぎ始めた。
「答えはね、私の名前だよ」
「えっ紫苑の花?」
「そうだよ。名前は知ってても、頭に浮かんでこない花だよね。でも、私は好きだよ。この花も、自分の名前も。……ひかりは紫苑、好き?」
彼女の横顔は切なかった。風で髪が邪魔して、目を合わせることができない。何を思ってそんなことを聞いてきたのか、どんな感情を向けているのか俺には曖昧な答えしか出なかった。
「うん。今日好きになった」
俺がそう告げると、シオンはどこか無理をしているような、そんな笑顔に戻っていた。そして自分の髪からヘアピンを取り、しばらく見つめた後、おもむろに差し出してきた。
「これ、あげるよ。友達の証として」
「えっ」
俺は驚きつつも、両手でヘアピンを受け取った。
「お、俺がもらっても使い道ないけど」
「いいから。こういうのって心の支えになったりするんだよ。だからお守りとかに使ってよ」
「でもシオンにとって大切なものなんだろ?」
「そうだね。だからこそひかりにあげる。これで紫苑のこと忘れたりしないでしょ」
そう言われてヘアピンを青空に向けると、花びらのガラスの部分に反射して、少し薄暗い雲が見えた。
この花も、この記憶も永遠に残るだろうなと小さな確信が芽生えたような気がした。
シオンと出会って以降、目覚めが良くなった。普段なら、朝が来て陽射しを浴びる度に、また今日も朝がきてしまったなと病んでしまいそうになる。何度も何度も夜が巡ればいいと願っているのに、当たり前に朝は来る。なのに、柔らかい光が窓から射し込んできて、優しく身体を揺すられて起こされるような気がした。
恐らくベッドのわきに置いたヘアピンが効果を発揮したのかもしれない。シオンがいない家でも、たまにあるシオンが来ない日でも、これがあるだけで、彼女の存在を感じることができる。
意味もないのに制服を着て、冷たい視線を背中に受けながら家を出る。
今日は来ると約束したのだ。
本当に漠然としたイメージに過ぎないが、彼女は嘘はつかないと勝手に思っている。だって友達という存在ともう呼べる関係になっているから。戸惑っていた俺がそれを強く感じている。だから、俺はシオンを信用している。
ドアノブを握ろうとすると、靴ヒモがほどけているのが目に入った。玄関の隅に腰掛けてゆっくりと直していく。
すると、奥のリビングの部屋から、さっきまで無言であった両親がおもむろに話し始める声が聞こえた。自然と手が止まり、聞くほうに集中する。
「アイツはもう行ったのか?」
「さあ、今日はもう出たんじゃない?毎日毎日学校へも行かずに何してるのかしら。男子のくせに、嫌がらせごときで不登校になるなんて、本当に情けないわ」
「まぁいつも昼までは帰ってこないし、どこかには行ってるんだろう」
「恥ずかしいわ。はぁ……あの子なんて帰ってこなければいいのに」
母親の声がしっかりと耳に響いた。聞こえてるのはわかっているのか。それとも、わざとなんだろうか。どっちにしろ、あんなはっきり言われると胸が苦しく感じるのに変わりはない。
俺がいじめを受けていることは知っているのに、何もしてくれないし、薄々とは勘づいていた。それを認めたくなくて、今の今まで抑えてきたのは自分だ。だから、やっと親の本音をちゃんと聞いた気がした。
「いってきます」
靴ヒモを結び終わり、目元が熱くなるのを避けるように勢いよく立ち上がった。わざと聞こえるように扉を開けると、やけに重く感じた。
震える手も、張り裂けそうな想いも溢れてしまいそう。せっかく迎えた朝の良い気分もどこかにいってしまった。眠い目を擦っていると自分に言い聞かせ、なんとか出そうなものが出てこないように留めた。
たった一言で自分はこんなにも気持ちの浮き沈みが激しくなるタイプだったろうか。いや、違う。もっと冷めているはずだった。
俺はどうしてしまったんだろう。
ゆっくりと歩を進めて公園へと向かう。着いた時には彼女の姿はまだ見えなかった。来ないという選択肢は考えられなかったし、考えたくもなかった。
前まで平気だったというのに、今一人でいると、何だか嫌な気分になる。ずっとさっきの出来事が刺さって取れないような感じだ。忘れたいのに、母親の声と言葉が脳内にこだましていて、離れてくれない。父親のやるせのないため息でさえ、こびりついている。
嫌がらせごとき、なんてそんな軽いものじゃない。情けないのは俺自身が一番自覚している。一人っ子の俺が不登校で親戚からも色々と言われていて、将来への不安も含めて、申し訳なさだって無いわけじゃないんだ。でも、家族への微かな信頼と帰るべき場所までは失わせないでほしかった。助けてくれなくてもいいから、全てを否定しないでほしかった。
「……いなくなってしまいたいな」
ふと口から漏れ出た自分の言葉は、一層その気を強くさせた。シオンと出会って、俺は錯覚していたんだと思う。自分がどんな立場にいて、どんな状況下にいるのか。たった数日前に確信したこと、世界は自分以外敵……。
そよ風が吹き、寒気がする。若干のめまいを覚えると、気味が悪いくらいにタイミングよく、あの人が公園へ入ってきた。また今日も、背に光をまとっている。
「死にたいの?」
開口一番、シオンは俺の目を見て問いかけてきた。さっきまで我慢していたものがそっと頬をつたう。
「……死に、たい」
「じゃあ、一緒に死んであげるよ」
「……えっシオン?」
「私も全てを捨てたい。ひかりが一緒なら怖くない。飛び降りるとかどう?」
冗談とも本気ともとれるシオンの言葉に俺はゾッと悪寒がした。いつの間にか涙も枯れており、正気ではないような情緒の彼女への心配が勝ってくる。
「……シオン。で、でもさ」
「今になって怖じ気づいたの?自分から動かなければ何も変わらないよ。だって冷めていた君をそこまで追い詰めるくらいに世界は皮肉なんだから」
彼女の目はよどみを増していた。絶望を訴えているそれは、庇ってやった先生に裏切られた時の俺と一緒だった。そして、昨日までは無かった暗いオーラに俺は気付いた。
「シオン、何かあったの?」
俺は彼女の腕を引いて、共にブランコに腰掛けた。
「何も無いよ。ただ単に、君が死にたいって言うからお手伝いしようと思っただけ」
「そんなこと出来もしないくせに。俺なんかの為に自分の命を捨てるのか?」
「だから言ったじゃない。私も全てを捨てたいって。私も君も死にたいから、一石二鳥だよって話。何事も二人だと怖くないんだよ」
シオンは「ほら」と言って、ヘアピンを渡した時みたいに片手を差し出してきた。つい握り返したくなる衝動にかられる。
この手を取ってしまったら、本当に二人で死ぬことになるんだろうか。全てを捨てて死んでしまえば、確かに今の最悪な日々からは抜け出せる。本当の楽園に行けるかもしれない。実際、俺もいなくなってしまいたいと思った。
「……お、俺……」
「ひかり。私は握ってくれたら君の手を離さない。絶対に一緒に死ぬよ」
少しずつ彼女の手が近付いてくる。どうしてシオンはこんなに冷静でいられるんだろうか。死ぬ、なんて軽々しく言えても、行動することはこんなに怖いのに。
「私のこと、信用してくれるよね?友達だもんね」
「っ…………」
シオンの手が俺の指先に若干触れた時、抑えきれない様々な感情が一気に奔った。俺はこんなにおぞましい手を知らない。
「……できないっ!」
俺は思いっきりシオンの手を突き放した。バチンとかなりの鈍い音が鳴ったのに、彼女は痛がりも驚きもしなかった。
「どうして?」
シオンが小さく呟いたが、俺はそれに答えずに公園を後にした。息が切れるまで走って、気が付けば家の近くまで着いてしまっていた。
情けない、自分でもわかっている。自分から言っておいて逃げ出すなんて卑怯きわまりない。だけど、どうしてもあの手だけは握ってはいけないような気がした。
単に怖かっただけなのかもしれないけれど、自分の本能がやめとけと歌っていたみたいだった。
死ぬこと。楽になれる。シオンが一緒でも、俺にはどうしてもできなかった。
どんどん公園が離れていく度に罪悪感だけが増す。心がチクチクと痛んでくる。俺のせいでもしかしたら、明日シオンは愛想つきて来てくれないかもしれない。俺たち二人の間に流れる心地いい空気を、楽園を自分自身で潰してしまった。そして、あっという間に壊れた。
明日、もしまた来てくれたのなら精一杯に謝らなければならない。来なかったのなら、来てくれるまで待つ。それくらい覚悟しないとダメだ。
また、あの空気をもちかえす。何にもできない俺だけど、シオンの隣は俺のもう一つの居場所なんだ。それを失くしたくなんてない。
シオンのことだって何も知らない。だから、会うことに意味があるんだ。前に聞いた時は嫌がられたけど、俺はまだ彼女の名字さえも知らないし、俺の名前の漢字も教えてないから。
翌日。なんて謝ろうか考えながら公園に向かった俺を待ち受けていたのは、とんでもない光景だった。ありえないことに、人だかりができている。年中人がいない場所に、こんなに潤いが戻ることなんてあるだろうかと疑いたくなるほどだ。
目を凝らしてみると、警察のような人々も見えた。
事件?事故?それとも……。
支えきれない大きな不安を持って、俺は人の波をかきわけた。黄色いテープで塞がれている入り口まで辿り着く。野次馬に押し潰されそうになりながら、公園内を見渡すと、ベンチの目の前に何かがあった。
目に映ったのは、信じがたいものだった。
「え……おい、……」
上手く呼吸ができない。めまいがする。広がって固まっている赤いもの、原型を留めない顔面。砂まみれの白い身体。変わり果てた彼女の姿。
昨日、俺と一緒に死ぬと言ってくれた、儚げな女の子。
震える手でポケットの中のヘアピンに握りしめた。
「シオン!!」
俺が叫ぶと同時に、彼女にブルーシートが被せられた。一気に今の状況を飲み込もうと頭が混乱する。
俺の声に驚いて、段々人が退いていくと、こそこそと話をする声が聞こえてきた。
「可哀想に。まだ高校生ですって」
「確か柊さんとこだよな?あの良いとこのお嬢さんがなぁ」
「ほら、目を引く容姿からいじめに遭っていたって過保護すぎなくらいに母親が騒いでいたじゃない?」
「あーでもその母親が亡くなってから、ずっと学校に行ってなかったらしいぞ。お嬢様学校で不登校は目立つからな」
「あれ、でも確か父親が厳しい人で、無理矢理一時間だけ授業受けに行ってたんじゃなかったかしら?嫌でもお家から逆らえなかったのね。でも、何も自ら命を絶つことなんてないのにねぇ」
どんどん人がいなくなっていく。こんな形で彼女のことを知りたくなかった。ちゃんと直接教えてもらいたかった。もっと学校のことについて話したかった。
信頼できたら、名前の漢字を教えるって話だった。だから今日、シオンに言うつもりだった。謝って、また他愛もない話をして、あの眩しい笑顔を見る。漠然と今日も来るって余裕があったはずなのに。
なのに、何で……。
「……意味わかんない……」
俺はその場に崩れ落ちた。近くにいた警察官が側にしゃがみこんでくる。
「君、大丈夫?もしかして関係があるのかな?」
「……友達です」
「そっか。悲しいね。とりあえず、時間もあれだから早く学校に行ったほうがいいよ」
「……そうですね」
学校へ行け、か。笑えない皮肉だな。当たり前にそう言うけれど、行けない人だって、どうしても行きたくない人だって当たり前にいるんだ。行きたくない苦しみと行かなくてはならない周りの圧が葛藤して、押し潰されそうになる。学校というものが、いつまでも追いかけてくる。
俺とシオンもそうだった。
シオンは昨日、一緒に死んであげると言っていた。それは、俺を助けるためでも何でもなかったんだ。自分が死にたいから、死んであげると言ったのだと思う。
冷静になっていく頭の中、思考は悪い方向に冴えていた。
シオンに何かあったのかと聞いた時、もっと深く踏み込めばよかった。学校に行かずに、俺と同じ状況下にいるのだから、何も無いはずないのに。あの時、俺が気付いていれば、俺のほうから手を差し伸べていれば、未来が変わっていたのかもしれない。こんな最悪な結末にならなかったかもしれない。今さら悔やんだって無意味なのはわかっているのに、思い返せばシオンの優しい笑顔ばかりが浮かんでくる。
「ごめんなさい……」
人の目なんて、もう気にする余裕もなかった。何も周りも見えてなんかいない。ただ、涙が溢れて止まらない。激しい後悔が押し寄せる。最初に死にたいと言った自分だけ生きて、友達だけが死ぬなんてそんなことあっていいことじゃない。
自分ばかり助けてもらって、俺自身はシオンに何もしてあげられなかった。
「ごめんなさいっ……ごめん……シオン」
面と向かって謝りたかった。久しぶりに楽しいという感情を思い出させてくれた。冷たい態度をとったにも関わらず、ゆっくり壁を壊してくれた。俺に居場所を作ってくれた。シオンのことが好きだった。
彼女が過去の人へとなる。たった数日間しか関わることができなかったけど、本当に濃密な日々で、最初出会った時からいつだって俺だけの支えになっていたんだ。
俺はシオンを友達だと信用していたから、シオンに相談しようと思った。シオンにとっても、俺は友達だったんだろう?それなのに、何で何も話してくれなかったんだ……。
あの時、シオンの手を握っていたら、俺は死んでいたのだろうか。シオンと一緒に隣のアパートの二階から飛び降りて、この公園で一生を終える。
考えると、かなり怖い。それを彼女はたった一人で実行したんだ。今の苦しみから解放されるために、誰にも、俺にも相談せずに。現に俺は今、死ぬことに恐怖を覚えている。手を握らなくてよかったと思っている。
死んだ人間のことなんて誰もわからない。ましてや、彼女のような人の心の内は。だけど、シオンは今、死んで後悔していないだろうか……。
十年前の記憶は悲しいものばかりだった。大切な人を失ってからというもの、想像を絶する辛さと戦うことになるなんて、当時十四歳の俺がわかるはずもない。
どうしてか、あの頃の記憶だけはこんなにも鮮明に覚えている。俺にとって彼女は本当に大きな存在だったんだ。俺に埋まらない深い後悔を残して、先に逝ってしまった。それは逃げたんじゃなくて、彼女なりの解決方法だったからなんだろう。
でも、そんな解決法ではダメなんだ。誰も特なんてしない。自殺が導くのは本人の絶望、そして残された人の後悔だけ。彼女が教えてくれた。そして、もう二度と同じ人を出すわけにはいかないと俺に堅い決意と将来をも与えてくれた。
無造作に置かれた花束の紫色のリボンには、「柊紫苑さんへ」と書かれている。本当にシオンという女の子はどこまでも綺麗なんだなと感じた。
花束の前でしゃがみ、掌を合わせる。
「……シオン」
そう名前を呼ぶと、「ひかり、どうしたの?」なんて声が聞こえてくるような気がした。前のように目を合わせて、俺が納得して話し終わるまでずっと待っててくれる。
俺は胸ポケットから、変わらずあの時から色褪せないヘアピンを取り出してみた。シオンが言った通り、お守りとして毎日持ち歩いている。受験だって、面接だって、この間から勤めることになった初めての就職先にだって持って行った。俺には、シオンのパワーが必要なんだ。
公園を出ようとすると、警察官二人が不思議そうに俺を見つめていた。不審者を見るような目付きに、背中に冷や汗が流れる。
「こんにちはお兄さん。何してたんですか?」
「あっこんにちは……。いや、少し散歩していまして……」
「あーそうなんですね。最近不審者が多いから、現在安全パトロール中でしてね。面倒なのはわかってるんですけど、少し話伺ってもいいです?」
やはり職質されてしまった……。後少しで出ていくっていうのに、タイミング悪すぎなんだよな。不審者として怪しまれているし、最悪すぎる。
「お兄さん、名前と職業教えてもらえる?あと、身分証見せてもらっていいかな」
俺は財布を取り出し、ピカピカの免許証を提示した。
「新堂陽です。カウンセラーです」
俺がそう宣言すると、太陽の光が一層強くなったような気がした。また、花束も綺麗に咲き誇っていた。ボロいアパートは取り壊され、駐車場が隣となったこの公園には、もう日陰は存在しない。だからこそ、顔がはっきり見える。
「はい、ありがとうねお兄さん。面倒かけちゃってごめんね」
「いえ、大丈夫です」
去っていく警察官たちに会釈をする。改めて公園出ていく時、振り返ると優しい雰囲気に包まれながら、穏やかな気持ちが降りてきていた。強くなっていく日射しを手で遮ることもせず、ただひたすらに空を仰ぐ。
追憶が悲しかったり、職質されたり色々あったけど、シオンと再会した今日だけは、なんとしても笑っていたいと思った。
「"君を忘れない"」
ほろりと出てきたこの言葉、曇り一つない晴れ空、輝く太陽、掌の花、成長した身体、彼女の面影。
すっかり明るくなった楽園は、花と太陽の思い出を懐かしそうに写していた。
決して良い思い出はあまり無いが、一度地元を離れると、青すぎたあの日々がたまらなく眩しい。毎日のように感じていた悲しみも憎しみも、今はどこかへ行ってしまった。何せ今は清々しいくらいに毎日がキラキラと輝いているのだ。相反する現状にそう思っても仕方のないことだろう。
しかし、軽い足取りとは裏腹に俺の手は小刻みに震えていた。これから向かう場所に一歩、また一歩と踏み出す度にゾワゾワとした変な感覚が身体中を駆け巡る。心は落ち着いているはずなのに、何故か奥底から痺れがきていた。
あの場所をまだ、俺は拒んでいるのか……?
趣のある閑静な住宅街をすり抜け、曲がり角を突き進む。一番奥は公園で、そこからは行き止まりだ。そして、その公園こそが俺の目的地だ。
柵に留めてあるボロボロの看板の前で足を止めた。字が消えかかっていてわかりにくいが、一丁目第二公園と書かれている。中は看板と同様、廃れてひどい有り様になっていた。よくここまでこうなったな、と感心するくらいには遊具は錆びて腐りかけ、長年放っておいたのであろう雑草が天高く伸びている。
さらに俺が最もお気に入りで、存在感を示していたブランコが撤去されていた。あるのはベンチと鉄棒と……無造作に置かれた花束のみ。
子どもたちの笑い声が遠くから聞こえてきた。恐らくこの場所からすぐ近くにある、別の公園からだ。そりゃこんな何もなくて、花束なんて置いてある意味深な公園なんか来るはずもない。ましてや今、スーツを着た大の大人が突っ立っているから、なおさら不気味さが増す。
中学生の時、小さな子たちが怖がるから公園ではあまり遊ぶなと教師に言われた記憶がある。そんなこと当時は馬鹿馬鹿しいと一回も守ったことなんて無かったが、大人になってみれば、現状の痛々しい自分にブーメランになって返ってくるものなんだと改めて痛感した。誰かに見られていないかとヒヤヒヤするが、今は一旦大丈夫そうだ。
だが、たとえ子どもたちに人気が無くても、今、この場所にいるのが恥ずかしくても、ここが俺の思い出の場所であることには変わらない。誰にもこの魅力を知られてなんかたまるか。心の奥底からそんな気持ちが溢れてきた。
本当に何も、何も変わらない。十年の月日が経ったんだ。あの人が俺の前から消えてしまってから……。今思えば、夢のような一時だった。暗闇に閉じこもっていた俺を光射し込む世界へ導いてくれたあの人と出会ったのは、この場所。その人が全てを捨てて俺を裏切ったのが、十年前の今日。六年前に地元を離れて以降、ここへ戻ることもなかったし、思い出そうともしなかった。
ベンチの目の前に置いてある花束の側に行くと、急に目頭が熱くなった。咄嗟に上を向いて耐え、ハァーと大きく息を吐く。
春の青空は曇り一つ無く澄み、鳥が羽を大きく広げて羽ばたいていた。公園全体の空気が過去への道を誘い出す。俺も年を重ね、涙腺が緩んだのかもしれない。
ぼやけていく視界とは対称に、記憶は鮮明に蘇る。その記憶の始まりは、中学校三年の春だったー……。
十四歳という思春期真っ只中の時期、ちょっと選択を間違えたら、クラスから孤立してしまった。ただ単に俺は、先生は悪くないと言っただけなのに。
しかし、理不尽な理由で皆から嫌われている先生を庇った時、しまったと思った。周りと違う行動をすれば、浮いてしまうことはわかっていた。反感をくらうことも、嫌がらせに発展することも。
小学生の時にいじめの悲惨さを知って以降、中学校に入ってからはかなり慎重に行動していたはずだった。そんな俺の平和計画もあっさり終わり、肩の力が抜けた気がした。だが、それと同時に平凡な学校生活は失った。
嫌がらせに対して激しい憤りや屈辱感は通り越して、無の感情になり始めた。ちょっと前まで普通に話していた友人も俺とは話さなくなって、親や先生までもが知らないフリをする。
特に先生なんて、俺のこの辛い状況を「学生は色々とあるから」という最低なまとめで終わらせた。そのことを言われた時、確信した。世界は全員俺の敵となったのだと。先生の肩を持ってやったのは俺なのに。そのせいで、孤立してしまったというのに。
学校というものは汚い物に蓋をする人間関係の鎖に縛られた地獄なのだとつくづく感じた。
そんな環境から抜け出したくて、中学三年生になってから一週間も経たないうちに、俺は登校拒否をするようになっていた。
だが、両親にはとりあえず行けと言われていたので、制服を着たまま学校を行く程で、サボるというようなもの。学校から、俺が来ないと連絡が入っているはずなのに、両親は何も言わなかった。その時から、俺のことなんてどうでもよかったんだと思う。
それでフラッと何気なく足を踏み入れたのが、あの公園だった。
少々ボロくて、人が生活しているのか微妙な雰囲気のアパートと何を作っているのかわからない工場の間にあり、日の光がまったく当たらない。平日の朝だからとか関係なく、年中人がいないそんな場所。
幼い頃から見てきている公園だが、誰も使わないため、俺自身も入ったことは一度もなかった。不気味な場所ほど、人を寄せ付けたりはしないからだ。
しかし、そんな人がいない場所は人間関係を断絶したいと求めていた俺にとってはぴったりだった。だから初めて入った時は気分がとても良くなった。自分を卑下する奴なんか存在しない世界に一人でいられる。ここが楽園なんだと思った。
光ある場所なんていらない。影にまみれる場所こそが本当の真実を映す。自分をわかってくれる人もいないのなら、自分だけが自分の味方になればいい。欲しい言葉を、包み込む優しい慰めを、全部くれるのは俺だけなんだ。
世界は、そんな俺だけでいい。
この地で生まれ育って、今まで魅力に気が付かなかった。初めて入った楽園で、一番最初に乗ったのはブランコだった。意外にも楽しいもので、中学生にもなってブランコを満喫している男……そう考えると笑えてくる。こうなったら、存分に満喫してやろうと腹立つ学校の奴らを思い浮かておもいっきり地面を蹴った。
キイィと悲鳴をあげる音が響き、身体がブランコとともに宙に浮く。フワッと風が舞い、髪が全て後ろになびき、一気に落ちていく。心臓が、身体中の細胞が沸き立っていく。
こんなに楽しいものだったかと疑いたくなるほどだ。
いや、これは一人だからなんだと思う。他人がいたら、きっとここまで解放感という名の快感を味わえなかっただろう。
何せ俺だけの場所なんだから。本当にこの場所を選んでよかった。
もう一度楽しもうと足を立てた時、妙な違和感が瞬時に巡ってきた。気配と人からの視線……学校での経験からその手の類は敏感になっている。楽しさに心奪われ、気付かなかったが、絶対にそこにいると確信できた。
気まずさを持ちながらおそるおそる振り向くと、ブランコの斜め後ろのベンチに清楚な礼服のようなものを着た女性が座っていた。周りが暗い上に少し離れててわかりにくいが、こっちを見ているのがわかった。
こんな平日の朝っぱらから、俺以外にこんなとこ来る人なんているだろうか。ましてや、はしゃいでいるところを見られていたなんて……。
じわじわと襲ってくる羞恥を打ち消すように女性を見つめ返していると、優しくいざなうように手招きをされた。不思議に思いながらも、吸い込まれるように俺は近づいた。どんどんはっきりと目に映ってくる女性の風貌に驚きは増すばかりだった。
腰まである長い髪、透明感あふれる白い肌、整った容姿、目を引く紫色の花のヘアピン。纏う雰囲気でさえも特別なものを感じる。俺自身、美人なんて言葉ではおさめきれないほどこんなに綺麗な人を見たのは初めてだった。
女性の前に来て、圧倒的なオーラに言葉を失う。何か話そうにも頭が回らなかった。
「こんにちは。いきなりごめんね」
想像していたよりは少し低めの声。それもまた、心を惹き付けられた。
俺の現状を察したのか、女性が髪を耳にかけながら優しく微笑み、目を合わせてきた。少し茶色がかった瞳は怖いくらいによどんで見える。
「い、いや……別に」
かろうじて出た言葉がそれだった。声が上ずってしまい、消さない緊張感が走った。
「すごく楽しそうだったから、お話を聞きたくて呼んだのよ」
学校のことを聞かれるのではないかと俺はヒヤヒヤした。今の俺は制服を着ているし、公園内には学校指定のリュックまでもが置かれて置かれている。
事情を話すのはおぞましく面倒だし、不登校なんて甘ったれるなと説教されるのも嫌だ。そう思ったからなのか、俺の身体は素直に少しだけ硬直している。だが、彼女から放たれた言葉は意外なものだった。
「君、学校サボるなんて勇気あるね」
「えっ?」
「その制服、中学生でしょ?中学生が学校サボって公園を満喫してるなんて珍しいから」
女性は俺の全身を、黒目を上手に使いながらあからさまに見てきた。予想していた言葉とは斜め上の言葉だったため、戸惑いを隠せない。
「……だから何ですか?説教でもするつもりですか?」
「そんなことしないよ。だって私、高校生だから。仲間だねって話だよ」
「アンタ高校生なんですか?……見えない」
「そうだよ。君と一緒で、学校行きたくないの」
彼女が高校生だということは正直信じられない気持ちが大きい。普通に成人してると言われても違和感がないくらい大人っぽく見えるからだ。しかしよく見ると、この着ている礼服も学生用の制服と言われれば通じる。
年が近いとわかって、俺は心のどこかで仲間意識に近い安堵を感じた。
「君の名前聞いてもいい?」
少しの沈黙の後、女性はベンチから立ち上がり、俺と目線を合わせた。認めたくなかったが、女性は俺より背が高く、俺がちょっと見上げるかたちになった。
「……ひかり、です」
「へぇー素敵な名前。というか、年も近いし敬語いらないよ。私はシオン。普通にシオンって呼んで」
彼女は右手を差し出し、勝手に俺と握手を交わした。冷たくて細い手が、精一杯に俺の手を包み込む。そして、そのまま誘われるようにベンチに一緒に座った。
「ねぇ、一個聞きたいんだけどさ、ひかりってどういう字を書くの?やっぱり光って漢字?」
「言いたくない」
「えっそんな即答しなくてもよくない?寂しいよ」
俺は覗き込んでくる彼女をそっと離し、俯いた。幼稚でガキくさいなと心底思う。だが彼女はあからさまな俺の行動に少し驚きつつも、またゆっくりと俺に寄ってきた。
「どうして?」
「俺のイメージと合ってないんだよ。きっとバカにするか、笑うかどっちかだから」
言われたことがある。根暗で陰険な俺が、そんな名前だなんて可笑しすぎるって。悔しいことに、俺自身も素直に言えないくらいには納得してしまった。
「私はそんなつもりはないけれど。信じられないかな?」
「……信じられるわけないだろ」
俺は前髪で彼女が見えないように目を覆った。そして、言ってから後悔した。人に接する態度の割に、失礼すぎる。じゃあ今信用できるか、と言ったら嘘になるけど。
だけど、また俺は間違ってしまった。彼女は俺に仲間として近付いてくれているのに、俺はその優しい厚意を突き放したんだ。簡単な二択なのに、どうして自分はいつも正しい行動ができないんだろう。
後から後悔したって意味ないのに。
「じゃあ、友達になろうか」
「は?」
いきなりのその言葉に俺はつい目を合わせた。絶対引かれたと思ったのに。普通の人なら俺みたいなヤツ、相手になんてしないのに。
「俺と友達だと?」
「そうだよ。友好関係を築けば、嫌でも信じられるでしょう?私、君と仲良くなりたいし」
彼女のよどんだ目に偽りは表れてないように感じた。
「本気で言ってるの?それ……。今日会ったばかりで、しかも年齢も性別も学校も、全てが違う……」
「だからどうしたの?せっかく奇跡的にもこうして会えたんだから。サボり仲間という点では、共通するものがあるよ」
言い放った言葉に迷いやからかいは含まれていなかった。この綺麗な人は、あんな態度を取った俺にこの先の関係を導いている。
「…………」
「その無言は、了承の答えと受け取っていいのかな?」
下唇を噛みながら、俺はゆっくり頷いた。
「びっくりだよ、本当。変な人だな。頭の中どうなってんだか知りたいわ」
「ふふっ。それは君が私を信じてくれたら、教えてあげるよ。私だけが心を開くなんて、不公平だからね」
「……そうかもな」
何でこの人はこんなに不思議な気持ちになるんだろうか。それに普段の俺なら、ここまで乱されることなんてない。あっという間に彼女のペースに引き込まれていたのだ。
「私と友達になることを認めたってことだね。君が見ず知らずの、年上で異性の私に心を許すのか、楽しみね」
「……うるせーよ」
俺はそう言うことしかできなかった。なのに、彼女はいかにも余裕感を醸し出している。くるくる回して掻き乱すようにこの状況を、戸惑う俺を楽しんでいるのだ。
「ねぇ、君は明日もまたサボるの?」
不意に彼女は尋ねてきた。
「……サボるよ。アンタも?」
「うん、もちろん。こんな辺鄙な場所で、シャイでツンデレのひかりっていう面白い子に出会えたしね」
「シャ、シャイじゃねーし!」
「声大きいって。冗談だよ」
彼女は微笑むと、背を向けて、顔だけこちらに向けた。
「私、これから行くところあるから。またね、ひかり」
そう言って片手を上げた彼女は、日陰にいるのにとても明るく輝いていた。まるで、俺の瞳の中に星がいくつも存在しているかのように、目をこすっても、その輝きは変わらなかった。
「……またな、シオン。来るって約束だぞ」
「……うん」
シオンは静かに頷くと、公園を出ていった。今日だけの関わりだと思っていたが、手を振り返し、一応友達となり、また会う約束までしてしまった。
楽園に侵入者を入れてしまったはずなのに、不思議と後悔はしていなかった。
シオンが見えなくなってから、手のひらををじっと見つめると、何かが始まる……そんな予感が脳裏をよぎった。何故だかはまだわからないけれど、きっと俺は不覚にも心のどこかで明日も、その明日も会いたいと思ってしまったのかもしれない。数分話しただけなのに、どんどん引き込んでいく綺麗な彼女に。
これが俺とシオンの運命の出会いだった。
それから次の日も、その次の日も俺が公園へ行くたびに案の定シオンはそこにいた。最初はベンチに座っていたが、いつの日かブランコに座り、俺を待っていた。
最初こそ話すことさえも慣れず、辿々しい雰囲気だったが、気付けば楽園にシオンがいることが当たり前になった。隣に座って談笑をすることで、さらに柔らかい空間と化していく。
毎日公園に通う俺とは対称に、シオンは来ない日ももちろんあった。しかし、その次の日は必ず待っててくれていた。だから寂しいとは思わせてくれなかった。
さらに、シオンはいつも行く場所があるからとすぐ帰ってしまう。数十分ほどしか話せないが、それでも全然気にならないくらいの満足感だった。
「シオン」
俺が名前を呼ぶと、彼女は顔を上げる。笑顔を見せてくれる。安心感を与えるその優しい表情を見られるだけで、俺が今、外に出る理由となっていた。
どんな他愛もない話も目を合わせて聞いてくれる。言葉に詰まっても俺が話し出すまで待ってくれる。話したことを全て肯定してくれる。
そしてシオンもたくさんのことを話してくれた。高校生の間で今流行っているゲーム、よく聴く音楽、近所に咲いていた桜、部屋に大きな虫が入ってきたこと。
他の人から見たらくだらない内容もあったかもしれない。だけど、それを楽しそうに話すシオンにつられて、俺自身も久々に楽しいという感情を思い出し始めていた。完璧にとまではいかないものの、徐々に彼女に心を開いていることも自覚していた。
「ひかり、……学校はどう?」
なんとなく暗黙の了解で学校の話題はなるべくしないでいるが、たまにシオンはそう不安そうに尋ねてきていた。
「……全然行ってない。こうやって制服着て、一応外に出てるだけ。俺は多分このまま変わらないよ。シオンは?シオンのこと聞きたい」
俺から見れば、シオンは謎の女性にすぎない。高校生だとは聞いたが、それ以上は何もわからないのだ。学校のことだって、俺よりもずっと避けているような気がする。
「私のこと聞いたってつまらないよ。ひかりの話しようよ」
シオンは長いまつげをふせながら呟いた。それは、何も聞くなと静かに訴えているようだった。
楽しそうなのに、時折見せる憂いた表情にモヤモヤとした疑惑が募る。
いつも俺と話した後にどこに行っているのか、いつからこの公園に通っていたのか、どうして学校に行かなくなったのか、知りたいことはたくさんある。納得いかないが、嫌なことをさせるのはさすがに気が引ける。出会ってから数日だし、シオンもまだ俺を信用していないのだろう。
話題を変えようとした時、ふとシオンが身に付けているヘアピンが目に映った。初めて会った時から存在感を示していて、紫色で小さな花のモチーフが可愛らしいデザインだった。
「そのヘアピン……」
俺はそっと指先で触れた。
「これ?これはね、宝物だよ」
シオンはそう言って俺の指先に覆うように自分のを重ねた。ひんやりとする彼女の指の感触に、強く胸が高まるのを感じた。儚げで、少し力を入れたらすぐにでも折れそうだった。
「……誰かからもらったの?」
自分の現状を誤魔化すように、俺は手を放した。指先からの余韻が身体全体に広がって熱くさせる。
「亡くなった母からもらったの。綺麗な花でしょ。これ、ひかりは何の花かわかる?」
「わかんないな。俺は綺麗っていうか、可愛い感じだと思うけど名前がわからない」
再びじっとヘアピンを見てみるが、やっぱり答えは出なかった。紫色の花びらと黄色い中心部。見たことはあるような、無いような微妙な記憶だ。
シオンはおかしそうに笑いながら、小さくブランコをこぎ始めた。
「答えはね、私の名前だよ」
「えっ紫苑の花?」
「そうだよ。名前は知ってても、頭に浮かんでこない花だよね。でも、私は好きだよ。この花も、自分の名前も。……ひかりは紫苑、好き?」
彼女の横顔は切なかった。風で髪が邪魔して、目を合わせることができない。何を思ってそんなことを聞いてきたのか、どんな感情を向けているのか俺には曖昧な答えしか出なかった。
「うん。今日好きになった」
俺がそう告げると、シオンはどこか無理をしているような、そんな笑顔に戻っていた。そして自分の髪からヘアピンを取り、しばらく見つめた後、おもむろに差し出してきた。
「これ、あげるよ。友達の証として」
「えっ」
俺は驚きつつも、両手でヘアピンを受け取った。
「お、俺がもらっても使い道ないけど」
「いいから。こういうのって心の支えになったりするんだよ。だからお守りとかに使ってよ」
「でもシオンにとって大切なものなんだろ?」
「そうだね。だからこそひかりにあげる。これで紫苑のこと忘れたりしないでしょ」
そう言われてヘアピンを青空に向けると、花びらのガラスの部分に反射して、少し薄暗い雲が見えた。
この花も、この記憶も永遠に残るだろうなと小さな確信が芽生えたような気がした。
シオンと出会って以降、目覚めが良くなった。普段なら、朝が来て陽射しを浴びる度に、また今日も朝がきてしまったなと病んでしまいそうになる。何度も何度も夜が巡ればいいと願っているのに、当たり前に朝は来る。なのに、柔らかい光が窓から射し込んできて、優しく身体を揺すられて起こされるような気がした。
恐らくベッドのわきに置いたヘアピンが効果を発揮したのかもしれない。シオンがいない家でも、たまにあるシオンが来ない日でも、これがあるだけで、彼女の存在を感じることができる。
意味もないのに制服を着て、冷たい視線を背中に受けながら家を出る。
今日は来ると約束したのだ。
本当に漠然としたイメージに過ぎないが、彼女は嘘はつかないと勝手に思っている。だって友達という存在ともう呼べる関係になっているから。戸惑っていた俺がそれを強く感じている。だから、俺はシオンを信用している。
ドアノブを握ろうとすると、靴ヒモがほどけているのが目に入った。玄関の隅に腰掛けてゆっくりと直していく。
すると、奥のリビングの部屋から、さっきまで無言であった両親がおもむろに話し始める声が聞こえた。自然と手が止まり、聞くほうに集中する。
「アイツはもう行ったのか?」
「さあ、今日はもう出たんじゃない?毎日毎日学校へも行かずに何してるのかしら。男子のくせに、嫌がらせごときで不登校になるなんて、本当に情けないわ」
「まぁいつも昼までは帰ってこないし、どこかには行ってるんだろう」
「恥ずかしいわ。はぁ……あの子なんて帰ってこなければいいのに」
母親の声がしっかりと耳に響いた。聞こえてるのはわかっているのか。それとも、わざとなんだろうか。どっちにしろ、あんなはっきり言われると胸が苦しく感じるのに変わりはない。
俺がいじめを受けていることは知っているのに、何もしてくれないし、薄々とは勘づいていた。それを認めたくなくて、今の今まで抑えてきたのは自分だ。だから、やっと親の本音をちゃんと聞いた気がした。
「いってきます」
靴ヒモを結び終わり、目元が熱くなるのを避けるように勢いよく立ち上がった。わざと聞こえるように扉を開けると、やけに重く感じた。
震える手も、張り裂けそうな想いも溢れてしまいそう。せっかく迎えた朝の良い気分もどこかにいってしまった。眠い目を擦っていると自分に言い聞かせ、なんとか出そうなものが出てこないように留めた。
たった一言で自分はこんなにも気持ちの浮き沈みが激しくなるタイプだったろうか。いや、違う。もっと冷めているはずだった。
俺はどうしてしまったんだろう。
ゆっくりと歩を進めて公園へと向かう。着いた時には彼女の姿はまだ見えなかった。来ないという選択肢は考えられなかったし、考えたくもなかった。
前まで平気だったというのに、今一人でいると、何だか嫌な気分になる。ずっとさっきの出来事が刺さって取れないような感じだ。忘れたいのに、母親の声と言葉が脳内にこだましていて、離れてくれない。父親のやるせのないため息でさえ、こびりついている。
嫌がらせごとき、なんてそんな軽いものじゃない。情けないのは俺自身が一番自覚している。一人っ子の俺が不登校で親戚からも色々と言われていて、将来への不安も含めて、申し訳なさだって無いわけじゃないんだ。でも、家族への微かな信頼と帰るべき場所までは失わせないでほしかった。助けてくれなくてもいいから、全てを否定しないでほしかった。
「……いなくなってしまいたいな」
ふと口から漏れ出た自分の言葉は、一層その気を強くさせた。シオンと出会って、俺は錯覚していたんだと思う。自分がどんな立場にいて、どんな状況下にいるのか。たった数日前に確信したこと、世界は自分以外敵……。
そよ風が吹き、寒気がする。若干のめまいを覚えると、気味が悪いくらいにタイミングよく、あの人が公園へ入ってきた。また今日も、背に光をまとっている。
「死にたいの?」
開口一番、シオンは俺の目を見て問いかけてきた。さっきまで我慢していたものがそっと頬をつたう。
「……死に、たい」
「じゃあ、一緒に死んであげるよ」
「……えっシオン?」
「私も全てを捨てたい。ひかりが一緒なら怖くない。飛び降りるとかどう?」
冗談とも本気ともとれるシオンの言葉に俺はゾッと悪寒がした。いつの間にか涙も枯れており、正気ではないような情緒の彼女への心配が勝ってくる。
「……シオン。で、でもさ」
「今になって怖じ気づいたの?自分から動かなければ何も変わらないよ。だって冷めていた君をそこまで追い詰めるくらいに世界は皮肉なんだから」
彼女の目はよどみを増していた。絶望を訴えているそれは、庇ってやった先生に裏切られた時の俺と一緒だった。そして、昨日までは無かった暗いオーラに俺は気付いた。
「シオン、何かあったの?」
俺は彼女の腕を引いて、共にブランコに腰掛けた。
「何も無いよ。ただ単に、君が死にたいって言うからお手伝いしようと思っただけ」
「そんなこと出来もしないくせに。俺なんかの為に自分の命を捨てるのか?」
「だから言ったじゃない。私も全てを捨てたいって。私も君も死にたいから、一石二鳥だよって話。何事も二人だと怖くないんだよ」
シオンは「ほら」と言って、ヘアピンを渡した時みたいに片手を差し出してきた。つい握り返したくなる衝動にかられる。
この手を取ってしまったら、本当に二人で死ぬことになるんだろうか。全てを捨てて死んでしまえば、確かに今の最悪な日々からは抜け出せる。本当の楽園に行けるかもしれない。実際、俺もいなくなってしまいたいと思った。
「……お、俺……」
「ひかり。私は握ってくれたら君の手を離さない。絶対に一緒に死ぬよ」
少しずつ彼女の手が近付いてくる。どうしてシオンはこんなに冷静でいられるんだろうか。死ぬ、なんて軽々しく言えても、行動することはこんなに怖いのに。
「私のこと、信用してくれるよね?友達だもんね」
「っ…………」
シオンの手が俺の指先に若干触れた時、抑えきれない様々な感情が一気に奔った。俺はこんなにおぞましい手を知らない。
「……できないっ!」
俺は思いっきりシオンの手を突き放した。バチンとかなりの鈍い音が鳴ったのに、彼女は痛がりも驚きもしなかった。
「どうして?」
シオンが小さく呟いたが、俺はそれに答えずに公園を後にした。息が切れるまで走って、気が付けば家の近くまで着いてしまっていた。
情けない、自分でもわかっている。自分から言っておいて逃げ出すなんて卑怯きわまりない。だけど、どうしてもあの手だけは握ってはいけないような気がした。
単に怖かっただけなのかもしれないけれど、自分の本能がやめとけと歌っていたみたいだった。
死ぬこと。楽になれる。シオンが一緒でも、俺にはどうしてもできなかった。
どんどん公園が離れていく度に罪悪感だけが増す。心がチクチクと痛んでくる。俺のせいでもしかしたら、明日シオンは愛想つきて来てくれないかもしれない。俺たち二人の間に流れる心地いい空気を、楽園を自分自身で潰してしまった。そして、あっという間に壊れた。
明日、もしまた来てくれたのなら精一杯に謝らなければならない。来なかったのなら、来てくれるまで待つ。それくらい覚悟しないとダメだ。
また、あの空気をもちかえす。何にもできない俺だけど、シオンの隣は俺のもう一つの居場所なんだ。それを失くしたくなんてない。
シオンのことだって何も知らない。だから、会うことに意味があるんだ。前に聞いた時は嫌がられたけど、俺はまだ彼女の名字さえも知らないし、俺の名前の漢字も教えてないから。
翌日。なんて謝ろうか考えながら公園に向かった俺を待ち受けていたのは、とんでもない光景だった。ありえないことに、人だかりができている。年中人がいない場所に、こんなに潤いが戻ることなんてあるだろうかと疑いたくなるほどだ。
目を凝らしてみると、警察のような人々も見えた。
事件?事故?それとも……。
支えきれない大きな不安を持って、俺は人の波をかきわけた。黄色いテープで塞がれている入り口まで辿り着く。野次馬に押し潰されそうになりながら、公園内を見渡すと、ベンチの目の前に何かがあった。
目に映ったのは、信じがたいものだった。
「え……おい、……」
上手く呼吸ができない。めまいがする。広がって固まっている赤いもの、原型を留めない顔面。砂まみれの白い身体。変わり果てた彼女の姿。
昨日、俺と一緒に死ぬと言ってくれた、儚げな女の子。
震える手でポケットの中のヘアピンに握りしめた。
「シオン!!」
俺が叫ぶと同時に、彼女にブルーシートが被せられた。一気に今の状況を飲み込もうと頭が混乱する。
俺の声に驚いて、段々人が退いていくと、こそこそと話をする声が聞こえてきた。
「可哀想に。まだ高校生ですって」
「確か柊さんとこだよな?あの良いとこのお嬢さんがなぁ」
「ほら、目を引く容姿からいじめに遭っていたって過保護すぎなくらいに母親が騒いでいたじゃない?」
「あーでもその母親が亡くなってから、ずっと学校に行ってなかったらしいぞ。お嬢様学校で不登校は目立つからな」
「あれ、でも確か父親が厳しい人で、無理矢理一時間だけ授業受けに行ってたんじゃなかったかしら?嫌でもお家から逆らえなかったのね。でも、何も自ら命を絶つことなんてないのにねぇ」
どんどん人がいなくなっていく。こんな形で彼女のことを知りたくなかった。ちゃんと直接教えてもらいたかった。もっと学校のことについて話したかった。
信頼できたら、名前の漢字を教えるって話だった。だから今日、シオンに言うつもりだった。謝って、また他愛もない話をして、あの眩しい笑顔を見る。漠然と今日も来るって余裕があったはずなのに。
なのに、何で……。
「……意味わかんない……」
俺はその場に崩れ落ちた。近くにいた警察官が側にしゃがみこんでくる。
「君、大丈夫?もしかして関係があるのかな?」
「……友達です」
「そっか。悲しいね。とりあえず、時間もあれだから早く学校に行ったほうがいいよ」
「……そうですね」
学校へ行け、か。笑えない皮肉だな。当たり前にそう言うけれど、行けない人だって、どうしても行きたくない人だって当たり前にいるんだ。行きたくない苦しみと行かなくてはならない周りの圧が葛藤して、押し潰されそうになる。学校というものが、いつまでも追いかけてくる。
俺とシオンもそうだった。
シオンは昨日、一緒に死んであげると言っていた。それは、俺を助けるためでも何でもなかったんだ。自分が死にたいから、死んであげると言ったのだと思う。
冷静になっていく頭の中、思考は悪い方向に冴えていた。
シオンに何かあったのかと聞いた時、もっと深く踏み込めばよかった。学校に行かずに、俺と同じ状況下にいるのだから、何も無いはずないのに。あの時、俺が気付いていれば、俺のほうから手を差し伸べていれば、未来が変わっていたのかもしれない。こんな最悪な結末にならなかったかもしれない。今さら悔やんだって無意味なのはわかっているのに、思い返せばシオンの優しい笑顔ばかりが浮かんでくる。
「ごめんなさい……」
人の目なんて、もう気にする余裕もなかった。何も周りも見えてなんかいない。ただ、涙が溢れて止まらない。激しい後悔が押し寄せる。最初に死にたいと言った自分だけ生きて、友達だけが死ぬなんてそんなことあっていいことじゃない。
自分ばかり助けてもらって、俺自身はシオンに何もしてあげられなかった。
「ごめんなさいっ……ごめん……シオン」
面と向かって謝りたかった。久しぶりに楽しいという感情を思い出させてくれた。冷たい態度をとったにも関わらず、ゆっくり壁を壊してくれた。俺に居場所を作ってくれた。シオンのことが好きだった。
彼女が過去の人へとなる。たった数日間しか関わることができなかったけど、本当に濃密な日々で、最初出会った時からいつだって俺だけの支えになっていたんだ。
俺はシオンを友達だと信用していたから、シオンに相談しようと思った。シオンにとっても、俺は友達だったんだろう?それなのに、何で何も話してくれなかったんだ……。
あの時、シオンの手を握っていたら、俺は死んでいたのだろうか。シオンと一緒に隣のアパートの二階から飛び降りて、この公園で一生を終える。
考えると、かなり怖い。それを彼女はたった一人で実行したんだ。今の苦しみから解放されるために、誰にも、俺にも相談せずに。現に俺は今、死ぬことに恐怖を覚えている。手を握らなくてよかったと思っている。
死んだ人間のことなんて誰もわからない。ましてや、彼女のような人の心の内は。だけど、シオンは今、死んで後悔していないだろうか……。
十年前の記憶は悲しいものばかりだった。大切な人を失ってからというもの、想像を絶する辛さと戦うことになるなんて、当時十四歳の俺がわかるはずもない。
どうしてか、あの頃の記憶だけはこんなにも鮮明に覚えている。俺にとって彼女は本当に大きな存在だったんだ。俺に埋まらない深い後悔を残して、先に逝ってしまった。それは逃げたんじゃなくて、彼女なりの解決方法だったからなんだろう。
でも、そんな解決法ではダメなんだ。誰も特なんてしない。自殺が導くのは本人の絶望、そして残された人の後悔だけ。彼女が教えてくれた。そして、もう二度と同じ人を出すわけにはいかないと俺に堅い決意と将来をも与えてくれた。
無造作に置かれた花束の紫色のリボンには、「柊紫苑さんへ」と書かれている。本当にシオンという女の子はどこまでも綺麗なんだなと感じた。
花束の前でしゃがみ、掌を合わせる。
「……シオン」
そう名前を呼ぶと、「ひかり、どうしたの?」なんて声が聞こえてくるような気がした。前のように目を合わせて、俺が納得して話し終わるまでずっと待っててくれる。
俺は胸ポケットから、変わらずあの時から色褪せないヘアピンを取り出してみた。シオンが言った通り、お守りとして毎日持ち歩いている。受験だって、面接だって、この間から勤めることになった初めての就職先にだって持って行った。俺には、シオンのパワーが必要なんだ。
公園を出ようとすると、警察官二人が不思議そうに俺を見つめていた。不審者を見るような目付きに、背中に冷や汗が流れる。
「こんにちはお兄さん。何してたんですか?」
「あっこんにちは……。いや、少し散歩していまして……」
「あーそうなんですね。最近不審者が多いから、現在安全パトロール中でしてね。面倒なのはわかってるんですけど、少し話伺ってもいいです?」
やはり職質されてしまった……。後少しで出ていくっていうのに、タイミング悪すぎなんだよな。不審者として怪しまれているし、最悪すぎる。
「お兄さん、名前と職業教えてもらえる?あと、身分証見せてもらっていいかな」
俺は財布を取り出し、ピカピカの免許証を提示した。
「新堂陽です。カウンセラーです」
俺がそう宣言すると、太陽の光が一層強くなったような気がした。また、花束も綺麗に咲き誇っていた。ボロいアパートは取り壊され、駐車場が隣となったこの公園には、もう日陰は存在しない。だからこそ、顔がはっきり見える。
「はい、ありがとうねお兄さん。面倒かけちゃってごめんね」
「いえ、大丈夫です」
去っていく警察官たちに会釈をする。改めて公園出ていく時、振り返ると優しい雰囲気に包まれながら、穏やかな気持ちが降りてきていた。強くなっていく日射しを手で遮ることもせず、ただひたすらに空を仰ぐ。
追憶が悲しかったり、職質されたり色々あったけど、シオンと再会した今日だけは、なんとしても笑っていたいと思った。
「"君を忘れない"」
ほろりと出てきたこの言葉、曇り一つない晴れ空、輝く太陽、掌の花、成長した身体、彼女の面影。
すっかり明るくなった楽園は、花と太陽の思い出を懐かしそうに写していた。
