その男の部屋はとてもシンプルで、言い換えれば何もなかった。
あるのは本が数冊、布団ひと組、僕が持ち込んだマグカップふたつ。
テレビもなければPCもない。キッチンで小さな黒い冷蔵庫だけがぶうんと低く存在をアピールしていた。
男はいつものように美しく微笑んで、何もない事を詫び、
それからは僕の家に来るようになった。
夜と雨は男に良く似合った。清潔な黒髪と黒いジャケット。
ビニール傘に、
世界をぼやけさせる悪戯な水滴がついていて、
男はさっと玄関の前でその水滴を払った。

僕の部屋は少し散らかっていて、慌てて片付けたのが見え見えだった。
男はそれを気にするような素振りも見せず、6畳間に出した折りたたみ式の白いテーブルに右ひじをついて文庫本を広げていた。
手元を覗くとそれは、いつかの『草枕』だった。