私の夫は崖の下

 空が遠くなっていく。そして、眼下には、氷漬けの夫の姿。その無念の表情が、少し笑ったような気がして……。


「嫌だぁあああ!!! 死にたくない死にたくない死にたくないぃいいい!!!!!」

 崖下へと落ちていく速度が、とても長く感じられた。そして、


「あれ……?」
 私は自分が宙ぶらりんになっていることに気づく。そうか。崖から出た木の枝に服が引っかかって助かったのか。いや、この状況は助かったと言えるのか?



 崖の上を見る。私がいる場所から崖の上までは、およそ五メートルもない感じだ。

 誰かにロープで引っ張ってもらえれば、助かるだろう。でも、誰に……? 息子の姿はすでに崖上にはなかった。きっとどこかに行ったんだろう。障がいがあるから、私が死んだらこの山を下山できずに一人どこかで死ぬのだろう。

 あーあ。息子を健常者に産んでおけばなぁ……。そうしたら、助けてくれるかもしれなかったのに。いや、それならそもそも夫とこうなることだってなかったのに。母や父はもうすでに死んでいる。親友の美香は、もうずっと連絡を取り合っていない。だって、息子と彼女の娘を比べるとひどく惨めになってしまうから。



 あーあ。私も最後は一人で死んでいくんだ。しかも、崖の下で夫と一緒に死ぬことも出来ずに、こうやって宙ぶらりんのままで一人さみしく死んでいくんだ。

「はは……あはは」
 自嘲するように、笑い声が漏れ出る。それは白い吐息となって、口の端から消えて行った。


 私らしい死に方。なんて情けなくて、みっともないんだろう。





 青空がだんだんと白く煙って来て、もうすぐ吹雪が来ることを知らせていた。足元から少しずつ冷えていく体をミノムシのようにぶら下げて、私は目を閉じた。




「おやすみなさい」