私の夫は崖の下

 人生に絶望しても、死なない限り地獄はつづくもので、息子は小学生になった。




  息子は相変わらず、人間らしいことは一切しなかった。私と目を合わせないし、私を母とも呼ばない。彼の世界に私は存在しない。

 私が用意した服を着て、私が用意した食事を食べて、気に入らないと暴れて癇癪を起こす。ただ淡々と、決められた時間割に沿って生活するだけ。彼の人生はまるで、テレビの番組表みたいだ。








 息子と家に帰る途中、駅のホームで癇癪を起こして暴れている見るからに障がいのありそうな中年男性の姿を見た。それを必死に押さえつけているのは、腰の曲がった今にも衰弱死しそうな小柄なおばあちゃん。

 私の顔は引きつり、喉の奥からヒキガエルみたいな声が出た。めまいと動悸で手足の感覚がない。とにかく、一分一秒でもその光景を見たくない。私は、目をそらす。

 そして、息子の顔を視界にとらえた。私の姿を映さない、漆黒の瞳。生まれてから死ぬまで決して人間の言葉を紡ぐことはない、固く閉じられた唇。

「……あ、」
 だめだ。だめだ。だめだ。考えるな。考えるな。考えるな。中年男性が癇癪を起こしている声が、少しづつ遠くなっていく。すすり泣きの混じった老婆の『ごめんなさい』の声も、かすかに聞こえた。

 




 あれが、未来の私の姿なのです……! そこに希望はなく、死ぬまで絶望しつづけなければならないのです。ああ、かみさま、かみさま、かみさま。なぜ私にこんな仕打ちをするのですか? 私は、こんな目に遭わなければいけないほどの悪いことをしましたか? かみさま、かみさま、教えてください。

 視界がぐるぐると揺れるような感覚に耐えられなくなって、

「ぅぉお゛げぇえ゛えええ゛え゛!!!」
 私は吐いた。


 びちゃびちゃと吐しゃ物が黄色い点字ブロックの上に吐き出されて、酸味を伴った苦みが口いっぱいに広がった。ホームにいた人たちは、みな嫌そうな顔をしてこちらを見て、その数秒後、何食わぬ顔をして電車に乗って行った。


「ぁ、まって゛、ユウ゛タ」
 私の手をするりと抜けて、息子が電車の中に吸い込まれていった。そうか、彼にとっては『この電車に乗って家に帰ること』が、最優先事項なんだよね。


 視界が滲むように歪んだ。ぺたんと座り込んでいる私の横を、たくさんの足が通り過ぎていき、そして誰もいなくなった。しばらくして、電車が発車した。