切り立った崖の縁に立つと、少し足が震えた。冷たい風が私の髪を乱す。ゆっくりと、下に落ちないように足元に注意を払いながら視線を下へと移すと、眼下の深い崖の底に人の形をした氷の塊があった。

 私の、夫である。




 彼は一年前の冬に、この崖の下で死んだ。登山の最中に足を滑らせて、崖下へと転落してしまったのである。

 崖の下の地面は分厚い雪で覆われており、落下時に死ぬことはない。だが、ここから崖の一番下までの距離はおよそ五十メートルほどで、人間が到底登って来れるような高さではない。さらに、この辺りの道は凸凹で、ヘリが着地できるような場所もない。

 だから、彼は、雪の中で凍えながら、ただ死ぬのを待っていたのだ。生前の彼の感情が、氷に閉ざされた亡骸に深く刻み込まれていた。





 私は、白い息を吐きだした。彼の名前を一度だけ呼ぶと
「また明日」

 そう呟いて、踵を返した。