波嚙み

 枕元の携帯電話が震えた。
 【あけましておめでとう。今年もよろしくね】
 未鈴さんからだ。忘年会の日から、未鈴さんとはメッセージでのやり取りを頻繁に行っている。僕は冬休み明けに行われるライブで披露する曲の、曲作りに追われていた。
 未鈴さんとの思い出を曲にしたかった。しかし、お酒が強くなかった僕は、未鈴さんとの会話も、酔ってほとんど忘れてしまう。だから僕は、未鈴さんとの会話をメモ帳に記しておくことにした。メモ帳をかばんにしまい、急いでスーツに着替えてバイト先へと向かった。

 「ここの文字にこれを代入すれば……」
 真っ先に耳に飛び込んできたのは、彼女の声だった。未鈴さんは僕を見て言う。
 「椎木先生、お疲れ様です」
 「み、あ、柿山、先生。お疲れ様です」
 つい下の名前で呼ぼうとしてしまう。下の名前で呼び合うのは「二人きり」のときだけだ。あの時の彼女の声が僕の頭のなかでリピート再生される。あのときの未鈴さんの表情を思い出すだけでも、自然と笑みがこぼれてしまう。僕は普段通りを装い、授業を行った。
 生徒を見送り、僕は片付けと戸締りをしていた。もう塾内には誰もいなかった。塾の外へ出ると、入り口に未鈴さんが立っていた。
 「あ、やっときた。ついてきてくれる?」
 未鈴さんは笑顔で僕を誘う。
 「え、どこに……?」
 「飲みだよ。相手してくれるよね」
 僕の心はまたもや踊り始める。
 未鈴さんがよく行くという居酒屋へ向かい、僕らは個室の席へと案内された。そうだ、この「二人きり」になれる空間が僕は好きだ。
 「生ビールを二つ、お願いします」
 苦手だったはずのビールが、いつしか飲めるようになっていた。きっと未鈴さんのおかげだろう。僕は自然に彼女の好みに合わせるようにしていた。彼女自身になろうとしていたのかもしれない。
 僕はかばんからペンとメモ帳を取り出した。
 「ちょっと、なにそれ」
 未鈴さんはじっと僕のメモ帳を見つめた。
 「未鈴さんとの会話を、忘れないようにしないといけなくて」
 未鈴さんは困惑したようすだったが、すぐに笑って返してくれる。
 「弘樹くんはマジメだね。私も見習わないとな~」
 卓に置かれた枝豆をつまんで、口元へやる未鈴さんを眺めていた。
 「未鈴さんみたいな人と付き合いたいです」
 やってしまった。どうしたものか、思っていたことをつい口にしてしまった。
 「急にどうしたの。付き合っちゃう?」
 彼女からの交際申込に僕は動揺を隠しきれなかった。
 「冗談だよ」
 未鈴さんは僕をからかっていた。それでも嫌な気持ちはしなかった。
 「やめてくださいよ」
 僕は「やめてほしくない」と思いながらも、呑みこみ、彼女の冗談に突っ込みを入れる。
 「じゃあ、私のお家来る?」
 きっとまた彼女お得意の冗談なのだろう。
 「また冗談ですよね」
 微笑みながら言う僕の手を、未鈴さんが掴んだ。見たことないくらい真剣なまなざしで、僕に言う。
 「本気だよ」
 この個室だけ、時間が止まったような気がした。誰も僕らの空間には干渉できないように、透明なバリアのようなものが張られているようだった。
 マンションの四階、エレベーターから一番離れた位置に、未鈴さんの部屋があった。女性の家に入ったことがなかったため、扉が近づくにつれて僕の鼓動は速まる。
 「ちょっと部屋汚いからここで待ってて」
 未鈴さんは僕を玄関に入れた。僕は周囲を見渡す。下駄箱の上には、たくさんの画鋲の刺された痕が残るコルクボードと、一輪の花が置かれていた。きっと、未鈴さんはコルクボードに色々な写真を飾っていたのだろう。それがどんな写真かはわからない。僕には知る由も、知る勇気さえもなかった。かばんからメモ帳を取り出し、思ったことを記してみる。
 「そこ、メモすることある?」
 服を抱えた未鈴さんが僕のほうを見ながら笑っていた。
 「もういいよ。おいで」
 部屋の片づけが終わったようで、未鈴さんはリビングへと案内してくれた。背負っていたリュックをゆっくりと床に置き、部屋の真ん中にある大きなテーブルの前に座った。真っ白な壁に囲まれ、何だか落ち着かない。未鈴さんは冷蔵庫の中を眺めながら言った。
 「何か買っとけばよかったな~。こんなのしかないけどいい?」
 缶ビールを二本両手に持って、振り返った。本日二度目の乾杯をして、未鈴さんはテレビで映画を再生し始めた。僕が見たことのないような恋愛映画で、彼女が高校生時代によく見ていたという。部屋は暗くなり、テレビの画面だけが僕らを照らしていた。
 映画が始まって、二十分が経ったころだ。未鈴さんは僕の手をゆっくりと握った。
 「こっち向いて」
 僕の耳元でそう聞こえた。未鈴さんと目を合わせ、見つめ合う。僕らの顔は次第に近づいていった。だが、今の僕にキスをする勇気はない。
 結局僕らは寝ることにした。

 「いてててて……」
 朝一番に僕を襲ったのは、頭痛だ。頭を押さえながらゆっくりとベッドから起き上がる。テーブルの上には、家の合鍵と一緒にメモ帳が開かれ、何か書かれているのが見えた。メモ帳を手に取り、記された文字を読んだ。メモ帳を閉じて、急いで大学へ向かう準備を始めた。
 講義中、メモ帳を見ながら何度も歌詞を考え、書いては消してを繰り返した。それゆえ、講義に集中できるはずもなかった。いつの間にか終わっている講義を後にして、僕は急いでスタジオへと向かう。
 「歌詞できたのか?」
 真っ先に吹谷先輩が僕に言う。完成した歌詞を駿と吹谷先輩に見せると、彼らは良い反応を示してくれた。それから僕らは、来週行われるライブに向けて、その曲の練習に打ち込んだ。
 未鈴さんとの日々は、変わらなかった。
 いつもの居酒屋へ向かい、未鈴さんの家に行く。それが僕らのルーティーンだった。手を出すこともなければ、出されることもない。こんな毎日がずっと続けばいい。それだけでよかった。他に望むものは何もなかった。

 ライブの前日の夜、横で寝ていた未鈴さんが、手のひらを天井に見せながら僕に言った。
 「ネイル、赤にしたの」
 真っ赤な爪が艶めいていた。
 「明日、僕のライブに来てくれませんか」
 「行けたらね」
 未鈴さんの返答は曖昧なものだった。続けて彼女は言う。
 「私、弘樹くんのこと好きなのかな」
 そう問いかけられた僕は、言葉を返せずにいた。二人の間にしばらく沈黙が流れ、僕はようやく口を開いた。
 「僕の彼女になってください」
 未鈴さんはもう既に眠りについていた。僕は溜息をついて、ゆっくりと目を閉じた。
 カーテンの隙間から入ってくる日差しで、僕は目が覚めた。いつも通り、テーブルの上には合鍵とメモ帳が置かれていた。
 メモ帳はテーブルの上に残し、リュックを背負って僕は急いでライブハウスへと向かった。

 僕ら三人の中に、緊張感が流れた。小さなステージに立ち、演奏を始めた。
 「この曲は僕の大切な人への想いを綴った曲です。聴いてください、『真赤』」
 観客席の一番端に、彼女はいた。
 なぜか泣いていた。僕はわからなかった。
 僕の曲が未鈴さんを悲しませてしまったのかもしれない。
 僕らの出番が終わると、すぐにライブハウスを出て行ってしまった。僕はその場を後にして急いで背中を追いかけた。
 「未鈴さん!」
 あの時、彼女を呼び止めたときと似ている。未鈴さんは振り返らずに、ただうつむいていた。
 「僕、未鈴さんのこと思って……。もし悲しませちゃったりとかしたら――」
 必死だった。彼女は僕の言葉を遮った。
 「違うの……。ただ、ただ申し訳ない気持ちで……」
 「どうして、申し訳ないなんて……」
 「ずっと言ってなかったんだけどね……。実は風俗で働いてるの。弘樹くんのことずっと弄んでた。仕事の一環というか、そんな感じで。ごめんね」
 「ごめんね」と言い続ける未鈴さんが次第にぼやけていく。
 色づいて見えた僕の視界は、一気にモノクロへと変わっていく。僕が見ていた未鈴さんは、本当の未鈴さんではなかった。
 「本当に……最低です」
 絞り出した言葉がそれだった。
 「いいよ。いくらでも言って? 私、最低だもん」
 僕は未鈴さんに背を向け、ゆっくりと歩き出した。涙をこらえるのに必死だった。未鈴さんがどんな表情をしていたのかはわからない。僕が離れていくことを願っていたのか、また新しい男をまた連れ込んでいるのか。僕にそうしたように。
 僕にはわからない。きっと彼女に会うことはもう二度とないだろう。
 「あれ、置いてきちゃった」
 僕は呟いた。ライブハウスから相当な距離を歩いていた。「あれ」とは、未鈴さんとの会話を記したメモ帳のことである。故意に置いてきたというわけではない。
 わずかな彼女との思い出が僕の脳内にフラッシュバックする。降り積もった雪は溶け始め、まるで僕の恋を終わらせてしまうようだった。

 また、会いたい。
 僕はゆっくりと眠りについた。
 未鈴さんはバイト先に来なくなった。体調不良という理由でしばらく休むそうだ。
 未鈴さんのいない日々の過ごし方を僕は忘れてしまった。もう思い出す必要もないかもしれない。
 毎晩僕は彼女の夢を見る。
 苦しい。
 ただ辛い。
 今年の冬は、長かった。