波嚙み

 私は東京が嫌いだ。東京もまた私が嫌いだろう。私は高校三年の時、ここ東京に引っ越した。両親は物心がつく前に離婚し、母親と二人暮らしをしていたが、母親はほとんど家にいることがなかった。家に帰ると見知らぬ男がいて、次の日には新しい男がいる。私が帰ると睨みつけられ、仕事でのストレスは暴力となって私に当たる。俗にいう虐待というやつだ。母は子ども―私の弟ということになる―を作り、別の場所で育てているらしい。私よりも愛情を注がれているだろうか。
 家族の中では、唯一祖父だけが私に優しく接してくれた。高校に馴染めない私に、お小遣いをくれたり、美味しいご飯を沢山食べさせてくれたり、勉強を教えてくれたりもした。そんな祖父が、私は大好きだった。そんな祖父は私が高校二年の時、病気で亡くなった。私はショックのあまり生きる気力を失い、まともに食事をすることさえできなかった。私のような立場でも、その状況を乗り越えて生きている人は私以外にも沢山いる。大事な人を亡くして悲しむ人を、少しでも増やさぬよう、私は医学部を出て医者になることを決意した。
 ところが、私の夢を母が応援してくれることはなかった。
 「あんたみたいなろくでなしが医者になったら、もっと人が死ぬわ」
 私はその一言で、この家を出ていくことを決めた。私の夢を応援できない母親など母親ではなかった。
 私は大学に進学するための学費をどのように稼ぐかをひたすら考えていた。私の中で考えついた方法は「風俗嬢になること」だった。自分の身体を売って大金が得られるなら、それでよかった。だが、実際稼げたお金は学費に達しなかった。
 そしてすぐに、私は医者になることを諦めた。
 担任から●●●大学を勧められたが、学費の観点から国公立大学に入学することにした。一般受験だったので、受験前は必死に勉強し続けた。塾で勉強した夜は、そのまま見知らぬ中年男性と躰を重ねた。そういう毎日の繰り返しだった。辛くて涙が出そうだった。今思えば、それが今の精神面の強さを築いてくれていたのかもしれない。
 
 部屋に入れば、男性が挨拶をしてくる。
 「今日はよろしくね~。こういうことするの初めて?」
 気色の悪いトーンで尋ねられる。
 「初めてです」
 と言えば、さらに相手の興奮を掻き立てることになることを知っている。私はお金のためなら自分の身体が汚れることもいとわなかった。キスから始まるはずの行為はしたことがない。雑に扱われ、思ってもいないであろうことを言われる日々。
 「かわいいね」
 「ここが気持ちいいんだ」
 「気持ちよさそうな声出てるね」
 思ってもいないのに、「気持ちいい」と言う。男性のそういう一言に嫌気がさして、行為中に吐きそうになったこともある。大金を払ってもらっている以上、私は何も言えなかった。果てた後の男性は恐ろしく、これまでにあった熱が突然にして一気に冷めていくのがわかった。私の気持ちなんて関係ない。身体がそこにあればそれで充分なのだ。
 仕事が終われば、そのままネットカフェに行き、参考書を広げて勉強に向かう。暗記をしているうちに、眠りに落ちる。そういう生活を日々送り続けていた。

 二次試験の試験会場に入ると、誰もいなかった。恐らく一番乗りに来てしまったのだろう。単語帳を読みながら、席に座っていると続々と受験生がやってくるのがわかる。自分のライバルが増えていくにつれて、緊張感も増していった。
 「未鈴なら大丈夫」
 祖父の声が聞こえる。きっと、私なら大丈夫だ。

 合格発表当日、震えながらパソコンを開く。自分の受験番号を入力し、結果を見た。
 「五二四番の方は、合格です。おめでとうございます」
 と表示された画面を見て、ネットカフェの中で叫んでしまった。今すぐ祖父に抱きつきたいくらい喜んだ。祖父に向かって呟く。
 「ありがとう、おじいちゃん」
 私は風俗をやめた。大学に入ってから、また始めるつもりだ。
 勉強ができた私は、塾のバイトをおよそ四年間続けた。

 「椎木弘樹くんね~。なかなか男前やね」
 大学四年の春、バイト先の塾にやってきたのが彼だった。
 「うちには若い連中おらへんねん。あそこの柿山先生くらいやね」
 塾長は私に向かって指をさす。私は彼に会釈をして、授業の準備を始めた。犬のような眼差しでこちらを見つめてきた椎木先生という男に、私は今までに感じたことのない心の揺らめきがあった。彼のことをもっと知ってみたい。
 彼と一番初めに会話を交わしたのは、彼の模擬授業の日だった。よれよれのスーツを羽織る彼は、私と全く目を合わせてくれない。女と話す機会がこれまでになかったのだろう。女慣れしている男と風俗以外で接するのは御免だ。それでいうと、椎木先生は他の男とは違う、オーラがある。私と会話をするたびに言葉を詰まらせる彼が可愛くて仕方なかった。
 しかし、バイトの飲み会には全く顔を出さない。普段お酒を飲まないのだろうか。飲みに行くとしたら、誰とどんなお酒を飲むのだろう。ダメだ。考えれば考えるほど気になってしまう。
 毎年行われる十二月の忘年会。さすがに彼は来るだろう。私はその機会に、彼に連絡先を聞こうと思った。私は十二月まで必死に堪えた。

 「かんぱ~い!」
 塾長の掛け声とともに、全員でグラスをぶつけ合う。隣に座る椎木先生を横目見ていた。
 「柿山先生は、彼氏とかおらへんの?」
 「いないですよ~」
 さらに社員が笑いながら続ける。
 「俺と付き合っちゃう~?」
 「え~、どうしよっかな~」
 いや、あんたじゃない。私が付き合いたいのは、隣に座る彼なのだ。
 二次会を抜け出して、私は椎木先生を追いかけた。そう遠くにはいないはずだ。私はただ走り続けた。数分走った先、彼の後ろ姿が見えた。ゆっくりと彼に近づいていく。私の足音に気が付いたのか、彼は振り返った。
 「柿山先生、二次会はどうされたんですか……」
 彼はきっと混乱していただろう。
 「椎木先生ともっとお話すればよかったなって。抜け出してきちゃいました」
 笑いながら私は言う。私の顔はきっと紅色に染まっていることだろう。身体が熱くなっていくのがわかった。
 「じゃあ」
 私たちは同時に言い出した。私はこう提案した。
 「公園で終電まで飲みませんか」
 こんなにも胸が高鳴ったのは、いつぶりだろう。
 プシュっと炭酸の音が公園内に響き、缶をぶつけ合った。
 「椎木先生の下のお名前は?」
 「弘樹です。未鈴さん、ですよね?」
 「ふふ。そうです。よく知ってますね」
 彼の下の名前はもちろん知っているが、知らないフリをした。
 「二人でいるときは、下の名前で呼び合いませんか?」
 無茶な提案だと思った。ただ彼を「弘樹くん」と呼んでみたかった。
 「ね、弘樹くん?」
 照れる彼の頭を撫でたくなった。勇気を出した自分のことも褒めてあげたい。
 「私ね、気になってる相手しか下の名前で呼ばないんだよ?」
 まさか彼は、この言葉の意味を理解していないのか。腕時計の時間を確認して、私は立ち上がる。
 「じゃあ、またね」
 やっぱり、私じゃだめなのかな。そう思った矢先、彼は叫んだ。
 「未鈴さん」
 私は振り返って、「ん?」と首を傾げた。彼は続けて叫ぶ。
 「未鈴さんの連絡先、教えてください」
 公園には私の鼓動だけが響いていた。
 「その言葉、待ってた」
 寒くなかった。
 「私ろくな恋愛してこなかったからね~。みんな身体ばっかり」
 「気持ちの方が大事なのに……」
 彼のその言葉は、私の壮絶な過去を肯定してくれているような気がした。弘樹君の言葉に、その仕草に心が揺らいでしまう。
 改札の前に立つ彼に大きく手を振った。彼の笑顔は今でも目に焼き付いている。
 ねぇ、弘樹くん。いつになったら私のものになってくれるの。出会ったあの時から、私は感じてたよ。君は私のものになるんだって。
 帰宅してから携帯電話を開くと、一件のメッセージが届いていた。
 あぁ、私にもようやく来たんだ。
 こんな寒い季節に、春が。