波嚙み

 「次は渋谷、渋谷。お出口は右側です。東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線…」
 僕が上京してから八ヶ月が経った。毎朝聞くことになったこの車内アナウンスで、上京した当時の僕は心踊らされていた。今では、それは毎朝の憂鬱を告げる合図となってしまった。窓に流れていく景色を眺めながら、僕の頭に高校生の記憶が蘇ってくる。
 僕にとって、ここ東京は夢でありふれている場所だった。
 ●●県の高校に通っていた僕は、外部との接触を避けるような山奥で暮らしていた。やりたいことや就きたい職もなく、高校生活は意味のないと感じていながらも、勉学とただひたすら向き合ってきた。高校三年になって、周りが受験勉強に追われているのを見ていたが、僕が焦燥に駆られることはなかった。みんなにはやりたいことがあっていいな、くらいに思っていた。いや、そうとしか思えなかった。卒業が迫る中、自分のやりたいことを探すことにも疲れていた。
 「フェス行こうよ。お前音楽よく聴くだろ?」
 夏休みに入ってすぐ、友人の倉島武人が連絡をくれた。僕は彼を「タケ」と呼んでいる。一部の人間以外とはあまり絡みたくなかったこともあり、授業中以外は基本的にイヤホンをつけ、携帯電話と睨めっこをしていた。タケはその一部の人間である。タケは僕が音楽好きでイヤホンをしているのだと勘違いしていたようで、僕をフェスに誘った。僕も音楽を全く聴かないわけではないので、渋々ではあったが了承した。
 タケは就職を決めており、受験勉強はしていないらしい。僕も受験勉強をするつもりはなかったため、夏休みのいい暇つぶしになると思った。

 フェスの当日、タケは駅前に姿を現した。タケの胸元には、彼が好きなバンドのロゴが大きく印刷されている。
 「お前は、高校卒業したら何すんの?」
 電車に揺られながら、タケは僕に尋ねた。
 「まだ決まってないかな。特にやりたいこともないし」
 ふと、僕は向かい側の窓を眺める。東京のビル群がそびえ立っている。そうだ、僕は初めてここに来たのだ。これまで東京に抱いていた嫌悪感が一瞬で消え去り、代わりに東京への期待と希望で胸がいっぱいになった。
 「東京ってすげぇ」
 ついこぼれた言葉に、タケは笑う。
 「お前、初めて来たんだっけ。東京って何でもあるし、何でもできる。色々な人がいるからいい刺激にもなるし。だから俺、東京がめっちゃ好きなんだよな」
 ここに来れば、もしかしたらやりたいことが見つかるかもしれない。
 東京の大学に入れば、夢が見つかるかもしれない。
 僕が上京するのを決めたのは、その瞬間だった。巨大なモニターに目を奪われていると、一瞬で人の波に流されてしまう。僕はそれでさえ楽しさを覚えてしまう。

 「次俺の好きなバンドの番!」
 登場したのはビッグハンマーというバンドだった。多くのドラマ・映画の主題歌に起用されていたこともあり、僕でさえ彼らを知っていた。彼らが楽器をかき鳴らす姿を見て、僕もギターを握りたくなってしまった。自分の想いをメロディーに乗せて、みなに聴いてもらう。そんなバンドのすばらしさに僕は一気に惹かれていった。
 東京の大学で、軽音楽サークルに入ろう。
 僕は心に決めた。

 「それが、僕がギターを始めた理由かな」
 僕が話し終えると、大学の友人・伊勢崎駿が返す。
 「東京は色んな人がいるからね~。みんながみんな優しいってわけでもないし。ね、吹谷先輩」
 「あぁ、たしかに」
 ドラムをセッティングしながら、一個上の先輩・大園吹谷が同意する。
 二人は、僕と同じ軽音楽サークルに所属している。僕らのサークルは少し特殊で、サークル内で組んだバンドで作詞と作曲を行うのがルールだ。そこで作った楽曲をライブハウスで定期的に演奏するというのが、主な活動内容だった。僕はボーカルを希望していたこともあり、作詞・作曲のほとんどは僕に任された。大学の勉強と曲作りに追われる日々が、僕は嫌いではなかった。あの日見た光景は今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。誰かが僕のことを見て、バンドを始めてほしい。その気持ちだけでここまでこれたのだ。

 バンドの練習を終え、僕はバイト先の塾へと向かう。人並みに勉強ができたこともあり、僕は高い時給の塾講師というアルバイトを選んだ。

 「おつかれさん、椎木くんそんな薄着で大丈夫なん?」
 この寒い冬に似合わない格好の僕に、塾長は笑いながら言う。それにつられるように、みなが僕を見て笑っている。
 「今日でもう最後ですね」
 カレンダーを眺めながら、先輩講師の柿山先生は話す。この塾内で唯一の女性社員であった彼女は、僕を含む男性講師の憧れの的だった。
 年内最後のバイト、余計に気が引き締まる。
 「今年も仕事終わり行こか」
 塾長のその言葉に、僕は何を言っているのかわからないまま、立ち尽くしていた。
 「そこの若いお二人さんも、もちろん行くやろ?」
 恐らく僕と柿山先生のことだろう。僕は反射的に「行きます」と答えてしまった。
 「あの、今夜はどこに行くんですか?」
 僕の近くに座っていた社員に声を潜めて尋ねると、彼は答えた。
 「忘年会だよ。塾長酔っぱらうとうるさいから、気をつけてね」
 そう言い残して授業へと向かっていった。僕も急いで授業の準備を始めるために、机に向かう。担当の生徒に渡すプリントを印刷したり、今日行う授業の計画を書いたりと、いつも通りの作業を行った。

 「椎木先生」
 背後から聞き心地の良い女性の声がした。振り返ると、柿山先生が教材を抱えながら、笑顔で立っていた。
 「あ、はい」
 こんな僕に何の用だろう。
 「椎木先生は、今日の忘年会行きますか?」
 「今のところは行きますけど……。柿山先生は?」
 僕の質問に、彼女は意外な言葉で返した。
 「椎木先生が行かれるなら、行こうと思ってました」
 僕は動揺して言葉を詰まらせた。柿山先生のその言葉のおかげで、僕の景色はいつにも増して色づいて見えた。突然のことで、鼓動は速まる一方だ。塾内の社員同士での飲み会は幾度か開催されているようだったが、僕は参加したことがない。不安がさらに僕に襲い掛かってくる。
 高まる緊張感の中、僕は何とか最後のバイトを終えた。

 「かんぱ~い!」
 塾長の掛け声とともに、全員でグラスをぶつけ合う。隣に座る柿山先生に、社員と塾長が質問をする。
 「柿山先生は、彼氏とかおらへんの?」
 「いないですよ~」
 さらに社員が笑いながら続ける。
 「俺と付き合っちゃう~?」
 「え~、どうしよっかな~」
 僕はドキッとした。柿山先生の恋愛事情を掘り下げたいという気持ちと、知ったら知ったで理由もなく傷ついてしまうのではないかという不安が織り交ざっていた。僕は気にしない素振りを見せて、グラスに残ったお酒を一気に飲み干した。それ以降、話題は生徒の話やバイト、大学の話へ切り替わり、僕はほっと一息ついた。
 「いやぁ、ほんと柿山先生と椎木先生は優秀だよぉ。二次会、来るよねぇ?」
 呂律の回らない塾長が二次会に誘ってきたが、これ以上話したいこともなく、僕はそのまま家に帰ることにした。
 「ほら、塾長次行きますよぉ~」
 社員と肩を組み合う塾長の背中を見つめる。ゆっくりと振り返り、ふらつく足に身を任せ、帰路を歩いていく。

 ――タッタッタッ。
 背後から聞こえる足音の方を振り向くと、そこには息を荒げた柿山先生が立っていた。相当な距離を走ってきたのだろう。ハイヒールを履いていたためか、足を酷く痛めているようすだ。
 「柿山先生、二次会はどうされたんですか……」
 ただただ混乱していた。何か忘れ物でもしてしまっただろうか。
 「椎木先生ともっとお話すればよかったなって。抜け出してきちゃいました」
 笑いながら柿山先生は言う。思いもよらない理由に、僕は呆気に取られた。僕の顔はきっと紅色に染まっていることだろう。身体が熱くなっていくのがわかった。
 「じゃあ」
 僕らは同時に言い出した。僕は即座に発言権を彼女に譲る。
 「公園で終電まで飲みませんか」
 柿山先生はそう僕に提案した。こんなにも胸が締め付けられたのは、いつぶりだろう。高校でもある程度恋愛はしてきたが、すぐに破局してしまうことが多く、甘酸っぱい青春とは程遠い高校生活を過ごしていた。女性と二人きりの空間に慣れない中で、僕らはお酒を買いにコンビニへと向かった。お互いに好きなお酒をかごに入れ、レジ袋を持って近くの公園へと向かう。

 すべり台しかない質素な公園の隅に置かれた、木製の古びたベンチに二人で腰掛けた。プシュっと炭酸の音が公園内に響き、缶をぶつけ合った。
 「椎木先生の下のお名前は?」
 「弘樹です。未鈴さん、ですよね?」
 「ふふ。そうです。よく知ってますね」
 柿山先生の名前をどこで知ったのかは、僕もよく覚えていない。
 「二人でいるときは、下の名前で呼び合いませんか?」
 そんな彼女の提案は、僕の鼓動を更に加速させた。もはや鼓動の音がうるさい。
 「ね、弘樹くん?」
 柿山先生の顔をじっと見つめる僕に、笑って言った。
 「早く、呼んでみて。『未鈴さん』って」
 「いやぁ、恥ずかしいですよ」
 「え~、つまんないの」
 不貞腐れたような顔で柿山先生は頬を膨らませる。女の子と話すことが滅多になかった僕は、ただ手元にある缶ビールを眺めていた。
 数分経ってから、柿山先生が口を開く。
 「私ね、気になってる相手しか下の名前で呼ばないんだよね」
 その言葉の真意を理解するのに、数分はかかった。腕時計の時間を確認すると、柿山先生は振り返って僕に言う。
 「じゃあ、またね」
 駅へと向かう柿山先生の背中を見ながら、僕は叫ぶ。
 「未鈴さん」
 未鈴さんは振り返って、「ん?」と首を傾げた。僕は続けて叫ぶ。
 「未鈴さんの連絡先、教えてください」
 公園には僕の鼓動だけが響いていた。
 「その言葉、待ってた」
 未鈴さんは笑いながら携帯電話をポケットから取り出した。僕らは連絡先を交換して、駅へ向かった。

 夜空に光る満月が、未鈴さんの顔を白く照らしている。
 「弘樹くんがそんなに勇気ある子だと思ってなかったな~」
 僕より二、三歩先で歩く未鈴さんが夜空を見上げながら言う。僕のことを下の名前で呼ぶ未鈴さんを見ながら、先ほどの言葉を反芻する。
 「ちょっとそれ、馬鹿にしてません?」
 「してないもーん」
 僕らは駅前にある小さな商店街で笑い合った。
 「気をつけてね」
 「未鈴さんも、気をつけて」
 改札の奥にいる未鈴さんに、僕は大きく手を振る。未鈴さんの背中が徐々に小さくなっていく。各駅停車は、未鈴さんを連れ去っていってしまった。僕が知らない未鈴さんの毎日を、知りたくなった。
 駅を出ると、雪が少し降り始めていた。この寒さも忘れていた。僕は未鈴さんのトーク画面を開き、メッセージを送る。
 【今日はありがとうございました】
 携帯電話をポケットにしまい、僕は思う。
 やっぱり、東京が好きだ。