その声には、子どものような純粋な感動が滲んでいる。水槽の中を泳ぐそれを見て、僕は鳥肌が立った。
「『ダイオウグソクムシ』っていうんですよ。かわいいでしょ?」
「なんだよこれ、かわいくない」
館内の涼しさを更に際立たせるような生物だった。端から見落とすことなく、じっくりと魚を観察する凪を追うように、僕は歩いていた。
通路を進むにつれて、水槽の雰囲気も変わっていく。多少の不安感と、神秘的な照明の光が僕らを照らした。無数の魚たちが、まるで宇宙を漂う星屑のように、キラキラと輝きながら泳いでいる。僕らはベンチに腰掛けて、その幻想的な光景をただ黙って見つめていた。
「弘樹さん、行きましょう」
突然立ち上がった凪は、僕の腕を掴み出口の方へと急ぐ。水族館を出てから、僕は問いかける。
「なんだよ急に。どうした?」
青ざめた顔で凪は言った。
「女、女が、また」
「女? どういうこと?」
「い、いえ……、気にしないでください」
どこか一点を見つめたまま、凪は言った。
――カツカツカツカツ。
またあの音だ。地面を棒のようなもので突くような音。前回と同様、周囲にその音の発生源はない。「女」とは何のことを言っているのだろうか。頭が混乱している。
急いでその場を後にして、僕らは回転寿司屋へと向かった。
「さっきの、大丈夫?」
「はい。気にしないでください!」
先ほどまでとは違った、笑顔の凪に僕は安堵した。出会ったときから思っていたが、この子は少し変わっている。
「ていうか、水族館行ったあとによく寿司食べれるな」
「今日はもともとお寿司の気分だったんです」
レーンを流れていく皿を手に取りながら言う。僕も同じように好きな皿を取って、食べ進めていった。
食事も終盤に差し掛かり、僕らはお茶をすすりながら目を見合う。
「今日、このまま私の家来ませんか?」
家に誘い続けることについては疑問だったが、断り続けるのも申し訳ないので、僕は凪の誘いに乗り、家へ行くことにした。
「お邪魔しまーす」
初めて入る凪の部屋は想像していたよりも狭かった。無地の壁、ベッド、机、本棚。余計なものは一つも置かれていなかった。小さなベッドの上で寝転がると、凪は怒った口調で言う。
「ちょっと~、お風呂入ってからにしてくださいよ~」
「はいはい、お風呂入ります」
タオルを頭にかけながら部屋に戻ると、凪は携帯電話を操作していた。
「おかえりなさい」
僕と入れ替わるように、凪は風呂へと向かっていった。ベッドの上で横になり、窓の外から見える景色を眺めていた。
――ピンポーン。
インターホンの音だ。ドアの覗き穴から外のようすを見ていた。だが、そこには誰もいなかった。ドアの鍵を開け、ゆっくりとドアを開く。外に出て周囲を見渡したが、やはり誰もいなかったため、インターホンの誤作動だと思った。
――カッカッカッカッ。
まただ。いや、今回は少し違う。棒を突いたような音が速い。
やがて音は消え去ってしまった。凪といるときに限って、この音を聞いているような気がする。僕は過去の記憶を振り返った。この音を聞くのは普段からだ。僕の背後からカツカツと音が聞こえる。だが、それに気持ち悪さはなく、徐々に慣れていってしまった。
「どうかしました?」
背後に立つ凪は首を傾げながら言う。
「いや、さっきインターホンが……」
「あ~、最近よく鳴るんですよね」
凪にとっては、よくある出来事なのだろうと呑み込んだ。
「髪乾かしてください」
ドライヤーを差し出され、僕は凪の髪を乾かし始める。彼女は照れ臭そうに下を向き、僕も黙ったまま乾かし続けた。
「はい、これでいい?」
一通り乾かし終えて、ドライヤーを片付ける。
僕らはベッドに二人で横になった。シーツから伝わる温もりが、肌に心地よい。ただ互いの呼吸の音だけが、静かに聞こえる。僕は天井を見上げながら、今日一日を振り返った。
「弘樹くん、こっち向いてください」
凪の方へ振り返り、僕らは見つめ合う。僕らはキスをした。
数秒間キスを交わしていた。
――ドンドンドンドン!
その瞬間、ドアの叩く音が聞こえ、僕らは咄嗟にドアの方を見つめた。
「おい、今の音……」
「こんな時間に……。早く寝ませんか?」
不安感と恐怖感に飲み込まれそうになり、僕らはすぐに眠りについた。
「弘樹くん、やっぱり私おかしいのかも」
小さな机の上で、朝食を食べながら凪は言った。その「おかしい」ことについて彼女は続ける。
「あの飲み会の後、途中まで一緒に帰りましたよね」
「あ~、急に凪がどっか行っちゃったとき?」
「そうです。あの時、実は…見ちゃったんです」
「見ちゃった?」
「はい。今でも思い出したくないくらいなんですけど、女性が帰り道の先に立ってこっちを見て、ずっと笑ってるんです」
「ちょっと、どういうこと?」
「水族館のときもそうでした。あの時と同じ女性でした。毎日インターホンが鳴るんです。ドアをバンバン叩かれたのも。絶対あの女性のせいなんです。ハイヒールみたいな音も後ろから聞こえてくるんです」
ハイヒール、その言葉に僕はピンとくるものがある。あの音はハイヒールの音だったのかもしれない。
「僕もハイヒールの音、聞いてる。それも、毎日」
「え……?」
「幽霊か何かってことか?」
「私だって信じたくないけど、お化けに憑りつかれてるんじゃないかって……」
僕はとあることを思いついた。
「僕の高校の同級生で、オカルトに興味あるやついるんだけど、聞いてみようか?」
「タケ」と書かれた連絡先に、電話を掛けた。
今はちょうど暇な時期らしく、すぐに会って話すことになった。困っている凪をそのままにすることはできなかったため、急いで準備をして集合場所へと向かった。
タケが指定した集合場所は●●●駅徒歩二分圏内の喫茶店だった。喫茶店の角の四人席に彼は座っていた。
「久しぶり。元気だった? ちょっと瘦せた?」
「お前もだろ」
相変わらず高めのテンションでタケは接してきた。
「この子が『女』が見えるって子? よろしくね」
凪とタケが握手を交わす。僕らは席につき、凪が見たものや感じたことなどをタケに話し始めた。
「今のところ、幽霊っぽいね。俺色んなとこ取材してきたんだけど、そういう人いるよ。幽霊だったら、大体無視してれば大丈夫になったりするからね。もしそれでも何かあったらまた呼んでよ。ただのオカルト好きだから、良い感じのアドバイスができるわけでもないし」
凪は安堵したような表情を浮かべ、コーヒーをすすった。一時間ほど雑談をしてから、僕らは気分転換にと海へ向かった。
日差しのおかげでキラキラと輝く海面を眺める。嫌なこともすべて忘れさせてくれるような場所だ。
「弘樹くんと海見れてよかった」
「海行きたかったの?」
「はい。だからここは大切な場所になりました」
凪を家まで帰し、僕も自宅へ帰ることにした。
帰り道、ポケットの携帯電話が震えた。
【久しぶり。今から家来れる?】
それは未鈴さんからだった。僕は走って未鈴さんの家へと向かった。
――ピンポーン。
インターホンを押すだけで、鼓動が高鳴る。あのころの思い出が一気に蘇ってくるような感覚だ。
「あ、久しぶり」
ドアを少しだけ開けて、真珠のピアスをつけた未鈴さんが顔を出した。
「お久しぶりです」
気まずい空気が二人の間に流れた。
「実は、メモ帳を返したくてね」
「え、それだけですか」
「ふふ、嘘だよ。お家あがってく?」
僕は躊躇うことなく、未鈴さんの家へとあがった。コルクボードや花はなくなっており、テーブルの上にはパソコンが開かれていた。未鈴さんは急いで衣類を片付け、パソコンを閉じた。
「昨日の残りのカレーでも食べる? 結構自信作なんだよね~」
「はい! いただきます」
未鈴さんに差し出されたカレーを食べ終えたとき、意外な言葉を口にした。
「弘樹くん、好きな子できたでしょ」
「え、どうしてですか」
「顔に書いてあるよ。なんちゃって、冗談だよ」
未鈴さんに会わなくなったからといって、未鈴さんのことを好きではなくなったわけではない。今でも未鈴さんのことを想っているのは事実だ。だが、凪のことを何とも思っていないわけでもない。恋愛的な感情ではなく、守ってあげたい。そんな感覚だ。さまざまな気持ちが交錯するなか、彼女は言った。
「私、ちゃんと就職しようと思って。弘樹くんにまた『好き』って言ってもらえるように」
突然襲ってくる眠気と戦いながら、僕は返した。
「今も好き……です……」
僕はその場で倒れ込んでしまった。視界がぼやけてよく見えなかったが、未鈴さんの顔だけが見えた。
「私もだーいすきだよ」
そう言いながら、満面の笑みで僕の顔を覗き込んでいた。
「『ダイオウグソクムシ』っていうんですよ。かわいいでしょ?」
「なんだよこれ、かわいくない」
館内の涼しさを更に際立たせるような生物だった。端から見落とすことなく、じっくりと魚を観察する凪を追うように、僕は歩いていた。
通路を進むにつれて、水槽の雰囲気も変わっていく。多少の不安感と、神秘的な照明の光が僕らを照らした。無数の魚たちが、まるで宇宙を漂う星屑のように、キラキラと輝きながら泳いでいる。僕らはベンチに腰掛けて、その幻想的な光景をただ黙って見つめていた。
「弘樹さん、行きましょう」
突然立ち上がった凪は、僕の腕を掴み出口の方へと急ぐ。水族館を出てから、僕は問いかける。
「なんだよ急に。どうした?」
青ざめた顔で凪は言った。
「女、女が、また」
「女? どういうこと?」
「い、いえ……、気にしないでください」
どこか一点を見つめたまま、凪は言った。
――カツカツカツカツ。
またあの音だ。地面を棒のようなもので突くような音。前回と同様、周囲にその音の発生源はない。「女」とは何のことを言っているのだろうか。頭が混乱している。
急いでその場を後にして、僕らは回転寿司屋へと向かった。
「さっきの、大丈夫?」
「はい。気にしないでください!」
先ほどまでとは違った、笑顔の凪に僕は安堵した。出会ったときから思っていたが、この子は少し変わっている。
「ていうか、水族館行ったあとによく寿司食べれるな」
「今日はもともとお寿司の気分だったんです」
レーンを流れていく皿を手に取りながら言う。僕も同じように好きな皿を取って、食べ進めていった。
食事も終盤に差し掛かり、僕らはお茶をすすりながら目を見合う。
「今日、このまま私の家来ませんか?」
家に誘い続けることについては疑問だったが、断り続けるのも申し訳ないので、僕は凪の誘いに乗り、家へ行くことにした。
「お邪魔しまーす」
初めて入る凪の部屋は想像していたよりも狭かった。無地の壁、ベッド、机、本棚。余計なものは一つも置かれていなかった。小さなベッドの上で寝転がると、凪は怒った口調で言う。
「ちょっと~、お風呂入ってからにしてくださいよ~」
「はいはい、お風呂入ります」
タオルを頭にかけながら部屋に戻ると、凪は携帯電話を操作していた。
「おかえりなさい」
僕と入れ替わるように、凪は風呂へと向かっていった。ベッドの上で横になり、窓の外から見える景色を眺めていた。
――ピンポーン。
インターホンの音だ。ドアの覗き穴から外のようすを見ていた。だが、そこには誰もいなかった。ドアの鍵を開け、ゆっくりとドアを開く。外に出て周囲を見渡したが、やはり誰もいなかったため、インターホンの誤作動だと思った。
――カッカッカッカッ。
まただ。いや、今回は少し違う。棒を突いたような音が速い。
やがて音は消え去ってしまった。凪といるときに限って、この音を聞いているような気がする。僕は過去の記憶を振り返った。この音を聞くのは普段からだ。僕の背後からカツカツと音が聞こえる。だが、それに気持ち悪さはなく、徐々に慣れていってしまった。
「どうかしました?」
背後に立つ凪は首を傾げながら言う。
「いや、さっきインターホンが……」
「あ~、最近よく鳴るんですよね」
凪にとっては、よくある出来事なのだろうと呑み込んだ。
「髪乾かしてください」
ドライヤーを差し出され、僕は凪の髪を乾かし始める。彼女は照れ臭そうに下を向き、僕も黙ったまま乾かし続けた。
「はい、これでいい?」
一通り乾かし終えて、ドライヤーを片付ける。
僕らはベッドに二人で横になった。シーツから伝わる温もりが、肌に心地よい。ただ互いの呼吸の音だけが、静かに聞こえる。僕は天井を見上げながら、今日一日を振り返った。
「弘樹くん、こっち向いてください」
凪の方へ振り返り、僕らは見つめ合う。僕らはキスをした。
数秒間キスを交わしていた。
――ドンドンドンドン!
その瞬間、ドアの叩く音が聞こえ、僕らは咄嗟にドアの方を見つめた。
「おい、今の音……」
「こんな時間に……。早く寝ませんか?」
不安感と恐怖感に飲み込まれそうになり、僕らはすぐに眠りについた。
「弘樹くん、やっぱり私おかしいのかも」
小さな机の上で、朝食を食べながら凪は言った。その「おかしい」ことについて彼女は続ける。
「あの飲み会の後、途中まで一緒に帰りましたよね」
「あ~、急に凪がどっか行っちゃったとき?」
「そうです。あの時、実は…見ちゃったんです」
「見ちゃった?」
「はい。今でも思い出したくないくらいなんですけど、女性が帰り道の先に立ってこっちを見て、ずっと笑ってるんです」
「ちょっと、どういうこと?」
「水族館のときもそうでした。あの時と同じ女性でした。毎日インターホンが鳴るんです。ドアをバンバン叩かれたのも。絶対あの女性のせいなんです。ハイヒールみたいな音も後ろから聞こえてくるんです」
ハイヒール、その言葉に僕はピンとくるものがある。あの音はハイヒールの音だったのかもしれない。
「僕もハイヒールの音、聞いてる。それも、毎日」
「え……?」
「幽霊か何かってことか?」
「私だって信じたくないけど、お化けに憑りつかれてるんじゃないかって……」
僕はとあることを思いついた。
「僕の高校の同級生で、オカルトに興味あるやついるんだけど、聞いてみようか?」
「タケ」と書かれた連絡先に、電話を掛けた。
今はちょうど暇な時期らしく、すぐに会って話すことになった。困っている凪をそのままにすることはできなかったため、急いで準備をして集合場所へと向かった。
タケが指定した集合場所は●●●駅徒歩二分圏内の喫茶店だった。喫茶店の角の四人席に彼は座っていた。
「久しぶり。元気だった? ちょっと瘦せた?」
「お前もだろ」
相変わらず高めのテンションでタケは接してきた。
「この子が『女』が見えるって子? よろしくね」
凪とタケが握手を交わす。僕らは席につき、凪が見たものや感じたことなどをタケに話し始めた。
「今のところ、幽霊っぽいね。俺色んなとこ取材してきたんだけど、そういう人いるよ。幽霊だったら、大体無視してれば大丈夫になったりするからね。もしそれでも何かあったらまた呼んでよ。ただのオカルト好きだから、良い感じのアドバイスができるわけでもないし」
凪は安堵したような表情を浮かべ、コーヒーをすすった。一時間ほど雑談をしてから、僕らは気分転換にと海へ向かった。
日差しのおかげでキラキラと輝く海面を眺める。嫌なこともすべて忘れさせてくれるような場所だ。
「弘樹くんと海見れてよかった」
「海行きたかったの?」
「はい。だからここは大切な場所になりました」
凪を家まで帰し、僕も自宅へ帰ることにした。
帰り道、ポケットの携帯電話が震えた。
【久しぶり。今から家来れる?】
それは未鈴さんからだった。僕は走って未鈴さんの家へと向かった。
――ピンポーン。
インターホンを押すだけで、鼓動が高鳴る。あのころの思い出が一気に蘇ってくるような感覚だ。
「あ、久しぶり」
ドアを少しだけ開けて、真珠のピアスをつけた未鈴さんが顔を出した。
「お久しぶりです」
気まずい空気が二人の間に流れた。
「実は、メモ帳を返したくてね」
「え、それだけですか」
「ふふ、嘘だよ。お家あがってく?」
僕は躊躇うことなく、未鈴さんの家へとあがった。コルクボードや花はなくなっており、テーブルの上にはパソコンが開かれていた。未鈴さんは急いで衣類を片付け、パソコンを閉じた。
「昨日の残りのカレーでも食べる? 結構自信作なんだよね~」
「はい! いただきます」
未鈴さんに差し出されたカレーを食べ終えたとき、意外な言葉を口にした。
「弘樹くん、好きな子できたでしょ」
「え、どうしてですか」
「顔に書いてあるよ。なんちゃって、冗談だよ」
未鈴さんに会わなくなったからといって、未鈴さんのことを好きではなくなったわけではない。今でも未鈴さんのことを想っているのは事実だ。だが、凪のことを何とも思っていないわけでもない。恋愛的な感情ではなく、守ってあげたい。そんな感覚だ。さまざまな気持ちが交錯するなか、彼女は言った。
「私、ちゃんと就職しようと思って。弘樹くんにまた『好き』って言ってもらえるように」
突然襲ってくる眠気と戦いながら、僕は返した。
「今も好き……です……」
僕はその場で倒れ込んでしまった。視界がぼやけてよく見えなかったが、未鈴さんの顔だけが見えた。
「私もだーいすきだよ」
そう言いながら、満面の笑みで僕の顔を覗き込んでいた。

