「匡さん――」
「ううん、ごめん。違うんだ」
震える息を整えようと冷たい空気を吸い込む。けれど、気を緩ませるとさらに涙が溢れ出そうで、思ったように十分に息が吸い込めない。そんな僕の様子に、伊都さんは狼狽している。僕はまた余計な心配をさせてしまっているなと思って、やっぱり情けなくて思わず自分自身を笑った。
目元を拭って、伊都さんに向き直る。驚きの所為か涙はすでに引っ込んで、心配そうな表情を浮かべて僕の顔を覗き込もうとしていた伊都さんと目が合った。
「……あの日、伊都さんが声を掛けてくれた時、僕は大切な人も仕事も、これから先のことも何もかも失ったように思ってた。でも、今はね、決してそんなことは無いって少しずつ思えるようになっている気がするんだ」
時々、夜に眠れない時はある。明良は今何をしているだろうと考えてしまう時がある。
「伊都さんとの生活も、パン屋でアルバイトしてるのも、すごく楽しい。そう思えたのは全部、伊都さんのおかげなんだ」
言いながら、声が震えてしまう。情けない情けない。こんな時だからこそ、ちゃんとしなきゃいけないのに。僕はまだ、ちゃんと伊都さんに感謝も何も伝えられてないっていうのに。
「今まで、ちゃんと伝えられなくてごめん。ありがとう、伊都さん」
暗がりで、僕の目には伊都さんの表情は普段よりも鮮明に映らない。けれど、彼女の目元から照明に反射した僅かな光がなだらかに頬を伝っていくのが見えた。
伊都さんは、泣いている。初めて見た表情だった。
「すみません、泣くつもりなんてなかったのに」
伊都さんは慌てた様子で頬を拭う。僕は何か変なことを言ってしまっただろうかと戸惑ってしまって「ううん、謝らないで」と声を掛けた。



