「職場で嫌な……というか、なんだかなぁって思うことがあったんです。 今年入社した後輩の子が、私の姉が亡くなっていることを知ってて。 他の社員に聞いたらしいんですけど」

 他の客の話し声、笑い声、食器と食器がぶつかり合う音、中華鍋をコンロに当てる音、さまざまな音が響き合う賑やかな店内で、僕の耳はトーンを落とした伊都さんの声を捉えようと必死だった。伊都さんが仕事の話と、姉の話をするのはあの日以来初めてだった。僕の、声までにはしなかった「え」という呟きは伊都さんには聞こえていないだろう。

 「それ、もしかしてその子わざわざ言ってきたの?」

 伊都さんの両目を伺うように見て訊くと、伊都さんは下げていた視線をこちらに向けたので、僕はなるべく自然に伊都さんと目線を合わせた。

 「話の流れだったんです。その子は人のことを根掘り葉掘り聞くようなタイプではないと思うので、他の社員から聞かされただけで、それを私に言うつもりもなかったと思うんです。まあ、姉が亡くなってることは隠してるわけでもないし、知られて困ることでもないんですけど……でも、なんか。 なんかこう、なんだかなぁって、思って」

 歯切れの悪い言い方をするのはなぜだろうと咄嗟に考える。思い当たったのは、伊都さんは、言いたいことがまとまっていないだけなのかとか、何か角を立てたくないと思っているのかなとか、僕に遠慮があるのかなとか……。もし後者のふたつだったら、すごく、悲しい。

 もしかしたら、僕だけが、伊都さんに安心を感じていただけで、伊都さんは僕には決してそんな感情を抱いてはいなかったのかもしれない。僕だけが、寄りかかっていたのかもしれない。

 僕だけが、また。
 
 「伊都さんが嫌な気持ちになるのは当たり前だよ。 他人がべらべら言いふらしていい訳がない」

 言いながら、胃の奥が沸々と湧き立っているのを自覚する。悲しいのに、腹が立っていて、自分でも処理できない感情のまま僕は続けて「そんな風に言いふらす人は、最低だよ」と言ってグラスの底に溜まっていたほぼ泡しかないビールをぐいっと煽った。目の前に視線を向けると、伊都さんは何か驚いているみたいにキョトンとした顔をしていた。