「うむ、確認した。下がって良し!」

 ゼノヴィアスは料理に視線を落とすこともなく、手を振った。

 小悪魔たちは安堵の表情を浮かべ、そそくさと退室していく。バフォメットも一礼して扉を閉めた。

 再び、静寂が訪れる――――。

 ゼノヴィアスは深いため息をついた。

(つまらぬ……)

 魔王は闇から生まれた存在。魔気の濃いこの城にいる限り、食事など必要ない。空腹を感じることもなければ、味覚を楽しむ必要もない。

 それでも部下たちは、毎日三度、律儀に食事を運んでくる。「魔王様も食事をなさるべきです」という、彼らなりの気遣いなのだろう。

 だが、五百年も生きていれば、どんな美食も灰のように味気ない。

(人間との大戦が終わって、もう四百年か……)

 思い返せば、あれは壮絶な戦いだった。

 人間たちは次々と勇者を送り込んできた。聖剣を掲げ、正義を叫び、仲間たちと共に魔王城に攻め込んでくる。とんでもないチートな攻撃を繰り出してくる勇者。しかし、ゼノヴィアスの方が一枚上手だった。その天才的な戦闘センスで勇者を葬っていく――――。

 ところがそれで終わらない。一人倒せば、また新たな勇者が現れる。まるで雑草のように、次から次へと。

 百年に及ぶ戦いの末、両陣営とも疲弊しきった。そして結ばれた停戦協定。

 以来、人間は人間同士で争い、魔族は魔族で静かに暮らしている。

(平和だ。退屈なほどに)

 ゼノヴィアスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

 眼下に広がる魔の森。かつては勇者たちの恐るべきチート攻撃で荒れ野原だったが、今では、ただの森だ。

「少し体でも動かすか……」

 呟いて、ゼノヴィアスは窓を開ける。

 冷たい風が吹き込み、黒髪を乱す。そのまま窓枠に足をかけ、ひらりと身を躍らせた。

 重力に引かれて落下する身体。しかし、魔王の表情は涼しげなままだ。

 地面が近づいた瞬間――――。

 ブワッ!

 紫色の魔法陣が足元に展開される。複雑な紋様が光を放ち、落下の衝撃を完全に吸収する。人間の魔法使いが見れば、腰を抜かすほど高度な術式――――。しかし、ゼノヴィアスにとっては呼吸も同然だった。

 優雅に着地し、中庭を見渡す。

 黒い石で敷き詰められた広場。かつては訓練用の人形が並び、若い魔族たちが汗を流していた場所。今は、誰もいない。

 と、その時だった――――。

「もらったぁぁぁ!」

 殺気が背中を撫でる。

 振り返る間もなく、赤い閃光が視界を切り裂いた。炎を纏った剣が、ゼノヴィアスの首筋めがけて振り下ろされる。

 しかし――――。

 パァン!

 ゼノヴィアスは振り返りもせず、ただ左手を後ろに伸ばしただけだった。その手の甲が、剣の腹を叩く。

 赤い剣は、まるで飴細工のように砕け散った。

「なっ……!?」

 襲撃者は若い魔族だった。赤い肌に、まだ短い角。おそらく百歳にも満たない若造だろう。目を見開き、信じられないという表情で砕けた剣の柄を握りしめている。

「お前、名は?」

 ゼノヴィアスがゆっくりと振り返る。

「ぐっ……」

 若者は答えない。いや、答えられない。魔王の瞳を見た瞬間、全身が金縛りにあったように固まってしまったのだ。

「まあ、いい」

 ゼノヴィアスは軽く腕を振るった。

 刹那、裏拳が若者の頬を捉え、放たれる凝縮した魔力が大爆発を起こす。

 ズン!

 身体が宙を舞い、弧を描いて飛んでいく。そして――――。

 ドゴォン!

 中庭の向こうの石壁に激突し、蜘蛛の巣状にひびが入る。若者はそのまま地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。

「次やったら処刑な……」

 ゼノヴィアスは若者を指さしたが――――。

「……って、聞こえてないか」

 倒れた若者を一瞥し、ふぅと深いため息をつく。

 こんなことも、日常茶飯事となっていた。

 若い魔族たちは、隙あらば魔王の座を狙ってくる。「俺が魔王になる」「新しい時代を作る」――威勢のいい言葉を吐いて、そして一撃で沈む。

 最初の頃は、まだ面白かった。どんな技を使ってくるか、どんな覚悟で挑んでくるか――――。しかし、何万回と繰り返されれば、もはや日常の一部でしかない。

「いつまでこんなつまらない暮らしが続くんだ?」

 ゼノヴィアスは空を見上げた。

 魔の森の空は、常に曇っている。雲が太陽を隠し、薄暗い光だけが地上に届く。たまにしか青い空は見られないのだ。

「もう、たくさんだ……」

 呟いて、ゼノヴィアスはすっと両手を広げた。

 紫色の魔力が身体を包み込む。風が渦を巻き、髪と衣服をはためかせる。

 ふわり――――。

 重力から解放され、身体が浮き上がる。高度な浮遊魔法。人間の魔法使いなら、一生かけても習得できない技術だ。

 しかし、ゼノヴィアスの表情に喜びはない。

 ただ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな瞳があるだけだ。

 そして、魔王は飛び立った。

 黒い影が、ものすごい速度で曇り空に吸い込まれていく。どこへ向かうのか、何を求めるのか。それは、ゼノヴィアス自身にも分からない。

 ただ、この退屈な日常から、少しでも離れたかった。

 五百年の時を生き、全てを手に入れ、そして全てに飽いた魔王。

 彼が求めているものが何なのか、まだ誰も――本人さえも――知らない。