一人になった寝室でベッドに身体を任せ、ゼノヴィアスは天蓋を見上げた。

 魔法で描かれた星空が、幻想的にきらめいている。だが、それも今は虚しく感じてしまう。

(一体、この気持ちは何なのだ?)

 胸の奥で、何かがうずいている。

 名前のつけられない、不思議な感覚。

 五百年の人生で、戦いに勝利した時の高揚も、敗北の屈辱も、裏切りの怒りも、全て経験してきた。

 だが、これは違う。

 もっと温かくて、もっと優しくて、もっと――恐ろしい。

 ゼノヴィアスはガバッと立ち上がり、ブランデーの瓶を手に取った。

 バルコニーへ出ると眼下に広がる魔界の風景。魔の闇に包まれた大地。所々に灯る魔族たちの明かり。

 空を見上げれば、厚い雲の間から時折、青白い月が顔を覗かせる。

 ふぅ……。

 気持ちの良い夜風に吹かれながらワインを一口――――。

 百年物の極上の味が口に広がる。だが、やはり心は満たされない。

(あの娘は、今頃何をしているだろう)

 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 きっと後片付けをして、明日の準備をして――、もう眠ったころだろうか?

「『また来る』か……」

 自分で言った言葉を思い出す。

 なぜ、あんなことを言ったのか。金貨一枚で何度も通うなど、魔王の威厳も何もあったものではない。

 だが――――。

(行きたい)

 その思いだけは、否定できなかった。

 もう一度、あの温かい場所へ。
 あの優しい笑顔に会いに。
 あの、心に響く料理を食べに。

 風が吹き、雲が流れる。

 月が完全に姿を現した。満月まであと数日といったところか。

 その白い光を浴びながら、ゼノヴィアスは杯を傾け続けた。

 いつもなら、一口で眠りに落ちる強い酒も、今夜は全く効かない。

 代わりに、頭の中で何度も何度も、同じ光景が繰り返される。

 ――「大丈夫ですか?」と駆け寄ってくるブラウンの瞳。
 ――背中をさする、小さくて温かい手。
 ――「ゆっくり、味わってくださいね」という優しい声。

 気がつけば、月が高く上っていた。

 五百年生きてきて、眠れぬ夜を過ごしたのは何度目だろう。

 戦いの前夜、謀略の最中、大切な者を失った時――――。

 だが、今宵のような理由は初めてだった。

「たかが人間の小娘に……この我が?」

 ゼノヴィアスはブランデーの水面に映る月を眺め――首を振る。

(明日も、行かねばならない。このもやもやの正体を確かめねば……)

 魔王としての威厳も、五百年の経験も、全てを忘れさせる何かが、あの小さなカフェにはある。

 それが何なのか、まだ分からない。

 分からないからこそ確かめに行かなければならない。

 何度でも――――。


       ◇


 その頃、王都では――――。

 朝靄が血のように赤く染まる中、鐘楼から響く音が人々の魂を凍らせていた。

 ゴーン……ゴーン……ゴーン……。

 弔いの鐘。

 もはや数えることさえ諦めた。朝から晩まで、鐘は鳴り続けている。まるで、王都全体が巨大な葬儀場と化したかのように。

「……また、増えたか」

 王城の執務室。国王陛下は、老いた手で報告書を持ち上げた。かつては威厳に満ちていたその手が、今は枯れ枝のように震えている。

 ――本日の新規患者数、三千二百名。死者、八百七十三名。

 羊皮紙に記された数字を見つめる国王の瞳から、一筋の涙がこぼれた。これは単なる数字ではない。一人一人が、誰かの父であり、母であり、子供だったのだ。

「陛下」

 近衛騎士団長が、まるで処刑台に上るような重い足取りで前に出た。

「市街地の……封鎖を進言いたします」

 国王の肩がびくりと震えた。

「封鎖だと? それでは、中にいる民は……」

「見殺しに……するしかありません」

 騎士団長の声が震えた。彼もまた、その市街地に家族を残している。

「これ以上の感染拡大を防ぐには、もはや――」

「却下だ!」

 国王の拳が、年代物の樫の机を打った。衝撃で、インク壺が倒れ、黒い染みが報告書に広がっていく。まるで、王都を蝕む病のように。

 窓の外に目をやれば、そこには死の風景が広がっていた。

 かつて「黄金の大通り」と呼ばれた目抜き通りには今や誰もいない。

 時折、白い布で顔を覆った者が、軋む車輪の音を立てながら通り過ぎる。荷台に積まれた何かを、誰も見ようとしない。

(我が王都が……腐っていく)

 国王は唇を噛んだ。鉄錆の味が口に広がる。

「聖女様は……?」

「治療を続けておられますが……」

 騎士団長の言葉が、まるで毒を飲み込むように途切れた。

 聖女リリアナ。その神聖魔法は確かに病を癒す。だが、一日に数十人が限界。新たに倒れる者は数千人。

 大火事にスプーン一杯の水――いや、燃え盛る地獄に、涙を一滴落とすようなものだった。