開店初日の朝、シャーロットは一番奥のテーブル席にそっと腰を下ろした。

 朝日がレースのカーテンを透かして店内に降り注ぐ。その光の粒子一つ一つが、まるで祝福の花びらのように感じられる。磨き上げたグラスが虹色に輝き、真新しいテーブルクロスは雪のように白く、黒板に丁寧に書いた文字が希望に躍っていた。

 全てが整っている。

 だが――――。

(誰も来なかったら、どうしよう)

 胸の奥で小さな不安が羽ばたく。王都では、良くも悪くも「公爵令嬢」という看板があった。でも今の私は、ただの無名のカフェ店主。すでにいくつもカフェはあるのだ。そんな中でこの町の人々に受け入れてもらえるだろうか――――。

「大丈夫」

 シャーロットは両手を握りしめ、深呼吸をした。手のひらに、かすかに震えを感じる。

「きっと、大丈夫」

 立ち上がると、エプロンの紐をきゅっと結び直した。これは戦いの準備、戦闘ではなく優しい戦いの――――。

 厨房に立つと、既に仕込んでおいたスープが小さく歌を歌い始めていた。コトコト、コトコト。まるで「頑張って」と励ましてくれているよう。オーブンからは焼きたてパンの香ばしい匂いが立ち上り、店内を幸せの予感で満たしていく。

「よし!」

 シャーロットは勢いよく振り返ると、入口へと向かった。

 扉にかかった木札を手に取る。【CLOSED】の文字が朝日を受けて光っていた。

 これをひっくり返せば、新しい人生が始まる――――。

 期待と不安が入り混じる中、シャーロットは意を決して札を裏返した。

 【OPEN】

 その瞬間、世界が少し明るくなったような気がした。


      ◇


 一時間が過ぎた――――。

 カウンターの向こうで、シャーロットは姿勢を正したまま待ち続ける。ドアベルは沈黙を守り、窓の外を人々が素通りしていく。

 二時間が過ぎた――――。

 スープの歌声だけが店内に響く。焼きたてのパンが少しずつ冷めていく。

(マルタさんたちも急用だって言ってたし……仕方ないわよね)

 自分に言い聞かせながら、シャーロットは笑顔を保とうとした。でも、誰もいない店内で一人待つ時間は、想像以上に心を(むしば)んでいく。

 看板を見上げて立ち止まる人はいる。でも、扉を開ける人はいない。

(やっぱり、夢見すぎだったのかしら)

 肩を落としかけたその時――――。

「ねえ、すっごくいい匂い!」

 子供の声がした。

 シャーロットが顔を上げると、窓の外に小さな影が二つ。

「ダメよ、トム。お金ないでしょ」

 姉らしき少女が弟の手を引こうとしている。でも、トムと呼ばれた男の子は、窓ガラスに顔をぺったりとくっつけて、憧れの眼差しで店内を見つめていた。

 二人とも継ぎはぎだらけの服。でも、その瞳は宝石のように輝いている。

 シャーロットの心に、温かいものが広がった。

(この子たちが、私の最初のお客様だわ)

 扉を開けると、ドアベルが初めて澄んだ音を響かせた。チリンチリン――――。

「いらっしゃいませ、坊や」

 シャーロットが微笑みかけると、姉が真っ青になって弟をかばうように立った。

「す、すみません! 弟が勝手に……お金は持ってなくて……」

「あら、ちょうど良かった」

 シャーロットはニコッと笑った。

「実は今日、開店記念の無料サービスをする予定だったの。でも、誰も来てくれなくて困ってたのよ」

「え?」

「最初のお客様は特別なの。だからーー」

 シャーロットはトムの前にしゃがみ込んで、にっこりと目線を合わせた。

「美味しく食べてくれる? それが一番のお礼になるの」

 トムの顔がぱあっと輝いた。

「うん! いっぱい食べる!」

「ふふっ、じゃあ二名様、ご案内しまーす!」

 シャーロットは大げさに腕を振って、姉弟を店内へと導いた。まるで、王宮の晩餐会に招待するように――――。

 厨房に立つと、不思議と体が軽い。さっきまでの不安はどこかへ消えて、代わりに使命感が胸を満たしていく。

 フライパンが歌い、卵が踊る。チキンライスは黄金色に輝き、とろけるチーズは銀の糸を紡ぐ。

 最後にケチャップでニッコリ笑顔を描き上げた――――。

「お待たせしました!」

 皿を置いた瞬間、姉弟は同時に息を呑んだ。

 ふわふわの黄色いドレスを纏ったオムライス。真っ赤なケチャップの笑顔。立ち上る湯気が、まるで幸せの精霊のよう。

「わあああ!」

 トムが歓声を上げた。姉も初めて見る料理に目を輝かせている。

「いただきます!」

 スプーンが卵に触れると、中からとろとろの黄身が溢れ出した。一口――――。

「すっごく美味しい! お姉ちゃん、これすっごく美味しいよ!」

 トムが全身で喜びを表現する。姉も恐る恐る口に運び――――。

「あ……」

 その瞬間、少女の瞳から一粒の涙がこぼれた。

「美味しい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて……」

 シャーロットの胸が熱くなった。

(ああ、これだ)

 これこそが、私が本当に作りたかったもの。心を救う何か。幸せの記憶を作る、魔法の一皿――――。

「ごちそうさまでした!」

 空っぽの皿を前に、姉弟は満面の笑みで頭を下げた。