食パンをトースターにセットし、スクランブルエッグを作る。コップに野菜ジュースを注ぎ、テーブルに並べた。
 そのタイミングで、スマホがメッセージの着信を知らせる。
『おはよう、マサムネ。寒いけど、気を付けて学校へ行ってね』
 長期出張で留守にしている母からだ。バリバリ働き、女手一つで俺を育ててくれたキャリアウーマンなのだ。
『おはよう。そちらも頑張って』
 即返事をする。俺の幼少期からのモットーは、母に心配をかけないこと。きっと母にはたくさんの心配ごとがある。その一つに自分がならないことを、日々心掛けている。
『卒業式前日には帰るから』
『OK』とスタンプで返信した。
「いただきます」
 俺はトーストにバターをたっぷりと塗り、ガブリと噛みついた。

 毎朝、正確な時刻表示を見るためにテレビをつけているが、音は無音にしている。好きなアーティストの曲をスマホで聴きながら朝食を食べるのが、定番なのだ。
 でも今朝は、少しだけ事情が違う。
 朝七時半になったところで、情報番組の音量を上げた。
「CMのあとは、タコミンの朝の占いコーナーです」
 昨日初めてこの占いを見た。
 高校一年の春に、カズミチと見に行ったアニメ映画『大海原海中対戦』続編の話題が気になり、番組を見ていた流れだった。
『悔やんでいる過去の出来事を修復するチャンス!ラッキーカラーは青。ラッキープレイスは図書館』
 山羊座の俺はタコミンに言われた通り、青い折り畳み傘を持って図書館へ行った。このところずっと、何かのきっかけを欲していたのだ。
 信じられないことに、そこにはカズミチがいて、傘を貸してやることができたのだ。
 ごく短い会話だったが、言葉を交わしたのは二年半ぶりだった。
 俺は中学の卒業式で、ずっと仲の良かったカズミチに交際を申し込んだ。それは俺たちにとってごく自然な成り行きだった。
「仲良し」から「付き合う」に発展した結果、キスもしたし、身体を触り合ったりもした。互いに大好きだからこそ、とてもとても幸せな時間を過ごした。
 けれどそれを壊したのは俺だった。別れた、いや無かったことにしたのは、高校一年七月のことだった。

 CMが開け、タコミンが画面に現れる。
「二月十八日火曜日、朝の占いだタコ。今日の第一位は……」
 手を止めてテレビを見てしまう自分が、女子中学生みたいで少し恥ずかしい。
「第三位は山羊座のアナタ。借りたものはできるだけ早く返そう!ラッキーカラーは白。ラッキーアイテムは小さな贈り物。喜んでもらえるタコ」
 別に俺は占いを信じ始めたわけではない。それでも、タコミンに言われたことをしっかりと頭の片隅に置いた。
 乾燥機からふわふわに乾いたコバルトブルーのハンドタオルを取り出す。
 どうやってカズミチに返そうか考えながら、登校の支度をする。いつもより少しだけ気分が上がった。
 もし俺が「また付き合いたい」とカズミチに告げたら、何と言うだろうか。さすがに、あまりに自分勝手だと怒るかもしれない。

 ハンドタオルと一緒に渡したいと「白くて小さな贈り物」を考えてみたが、なにも思いつかないまま、学校へ到着した。
 玄関ロビーで、軽音楽部の部長に呼び止められる。
「おはよう、マサムネ。これ、渡しておく」
 QRコードが印刷してある名刺サイズの白い紙を、三枚渡された。
「なにこれ?」
「説明したじゃん、忘れたのかよ。この前の卒業ライブを動画投稿サイトに限定公開でアップロードするから、親とか友達に、QRコードから見てもらえるって」
「あぁ、そのQRコード。サンキュ」
「こんなタイミングであれだけど、マサムネが軽音楽部入ってくれて、うれしかったぜ」
「なんだよ、いきなり」
「いや、高一の春に誘ったときは興味ないって言ってたからさ」
「あぁ。そうだったな」
「とにかく、スタイルが良くてイケメンなマサムネのお陰で、軽音楽部のライブ集客は安泰だったってわけ」
「そこは、歌の上手いマサムネのお陰で、とか言えよ」
「いや、歌は俺のほうが上だから」
 部長とするくだらない会話からも、卒業間近な雰囲気をひしひしと感じた。

 学校にいると、カズミチの姿はあまり視界に入らない。もちろんA組とF組でクラスが違うせいでもあるが、彼が気を使って、俺との距離を置いてくれているからだ。
 結局、青いハンドタオルを返却するタイミングもないまま、下校の時刻を迎えてしまった。
 上履きを脱ぎ、革靴に履き替えようと靴箱を開ける。
 そこには俺の青い折り畳み傘が、丁寧に畳まれて入っていた。
(カズミチ……)
 自分の傘なのに、とても大切なもののように感じて、そっと取り出す。同時に何かがストンと下に落ちた。
 拾い上げると、ホッカイロだった。傘と一緒に、カズミチが入れてくれたのだ。
 よくみると、パッケージに緑のマジックで『ありがとう』と書いてあった。久しぶりに見るカズミチの字だった。
 俺はちょうど通りかかった知り合いに、声を掛ける。
「F組って、もう帰ったよな?」
「あぁ、ちょっと前に帰ってたぜ」

 俺は、折り畳み傘とホッカイロをカバンに仕舞い、正門へと急ぐ。そして駅へ続く通学路を走り始めた。
 ハッハッと白い息を吐きながら、同じ制服を着た者たちを、一人、また一人と追い抜いていく。冷たい空気のせいで顔と耳が痛い。
 カズミチがいたら後ろ姿だって、俺はちゃんと気が付くだろう。華奢で首が長くて、やわらない髪の毛がフワフワとしているのだ。けれど、いない。まだ、追いつかない。もうすぐ駅についてしまうのに、姿はない。
 駅の南口で立ち止まって、周囲をキョロキョロと見渡す。
 運動部ではないから、こんな風に走ることに慣れてなくて、呼吸が大きく乱れている。
 そのとき白いマフラーが、視界の片隅にチラリと入った。白。今日の俺のラッキーカラー。
 確信は持てないのに、そちらに向かって、俺は再び走り始めていた。

 普段は行かない駅の北口に回り込んだところで、はっきりとその後ろ姿が見えた。白いマフラーを巻いているのは、やはりカズミチだった。
(どこへ行くのだろう?)
 カズミチは、北口を出てすぐの公園へと入っていった。俺は一定の距離を保って後ろをついていく。
 大きな池の畔のベンチに、カズミチは腰掛けた。
 こんな寒いのに、一人でこんなところに来るなんて、どうしたのだろう。ちょこんと座るその姿が、ひどく寂しそうに見えてしまう。
 駆け寄って、抱きしめてやりたい。「どうした?」って訊いてやりたい。手を握って温めてやりたい。でも自分にその資格があるとは思えない。
 突然、背後からうなり声がした。
「ウー、ワンワン、ウー、ワンワンワン」
 振り返れば、真っ白い大きな犬が俺に向かって吠えている。飼い主は「コラ、吠えちゃダメ」と犬を叱っているが、ストーカーの真似事をした俺を咎めるように、犬は吠え続けた。
「え?マ、マサムネくん?」
 ベンチからカズミチが立ち上がって、こちらを見ていた。ずるい俺は咄嗟に、偶然出会ったフリをする。
「カズミチ?また会ったな。偶然だな。あぁ、そうだ。傘とホッカイロありがとな。受け取ったから」
 やましいことがあるとき、人は饒舌に喋ってしまう。
「あ、うん。昨日は傘、助かったから」
「そっか、よかった」
 白い犬は飼い主に引っ張られるように、公園の奥へと移動していった。池の畔には俺たち以外の気配はない。

「隣、座っていいか?」
「えっ、いいの?」
 逆にカズミチが聞いてくる。二人でいるところを人に見られるかもしれないのに、いいのか?という意味だろう。
 俺はそれには返事をせず、カズミチの隣に座る。
「こんな池があるなんて三年間知らなかった」
「僕は、この場所によく来てたよ。このベンチで本を読んだり、風景をスケッチしたり、散歩途中の犬を撫でさせてもらったりしてた」
「一人で?」
 口にしてから酷い質問をしたことに気が付いた。俺が突然カズミチを拒絶したりしなかったら、彼は全く違う高校三年間を過ごしていただろう。
 今日に限らず、ここで一人、寂しげに池を見ているカズミチを思い浮かべたら、せつない気持ちでいっぱいになった。けれど同時に、そう感じる自分のエゴにもうんざりとする。

「この場所、静かで一人で過ごすのに最適だよ。時々は、アキラくんも一緒だったし」
「アキラも?」
「うん。ここ、季節の移り変わりがよくわかるんだ。桜も咲くし、蝉もうるさく鳴くし、色々な色に紅葉もする。池にはたくさん鳥もくるし、絵を描くモチーフとして最適」
「そっか」
 以前のように、ごく自然に会話している状況に、心が弾んだ。
 けれど、ウォーキング中の老夫婦がお喋りしながら近づいてくるのが見えると、カズミチは急にソワソワとする。
「僕、もう行くね」
 また気を使わせてしまった。
 俺は慌ててカバンから、青いハンドタオルを取り出した。
「これ、ありがとな。使わせてもらった」
 コクリと頷いて、嬉しそうに受け取ってくれた。その笑顔に、タコミンの声が蘇る。
『ラッキーアイテムは小さな贈り物』
 結局何も用意できなかった……。いや、まて。
「そうだ、カズミチ、これもらってくれ」
「ん?QRコード?」
「この前の卒業ライブの動画。限定公開されてるのが、ここから見られるから」
「えっ!ホント!すごくうれしい。見てみたかったんだ。ありがとう」
 カズミチはQRコードの白い紙をブレザーのポケットに大事そうに仕舞い、「じゃあね」と駅へ走って行ってしまう。
 ちょうどそのとき、俺の目の前を通った老夫婦が好奇な目で、走り去ったカズミチと俺を見比べていた。
 俺は、腹にぐっと力を入れ、堂々とした態度を心掛ける。
 わざとゆったりした仕草でベンチに座り直し、足を組む。そして、もらったカイロを丁寧に開封し両手で包み込んだ。
 温まってくるのを待ちながら、カズミチが見ていただろう景色を、同じ角度から眺めた。



 夜。自分でもQRコードを読み込み、限定動画を見てみた。
 放送部の二年生がカメラマンとして入ってくれていたので、かなりいい感じの動画に仕上がっている。これなら、カズミチも楽しんでくれるだろう。
 文化祭のときも、新入生歓迎ライブのときも、この前の卒業ライブも、カズミチは会場に入らず、体育館の外で、音漏れだけを聴いてくれていたらしい。
 それはアキラが、俺を責めるような口調で、教えてくれたことだ。
 俺と、カズミチと、アキラは中学校が同じで、中学一年から三人で仲が良かった。
 俺とカズミチの関係について全てを知っているのは、アキラだけだ。彼は、俺の味方だし、カズミチの味方なのだ。
 しかし、そう思っていたアキラから、先日メッセージをもらった。
『卒業まであと二週間。カズミチとの関係を修復する気はあるのか?無いのなら、俺がカズミチに告白するぞ。マサムネは、それでもいいのか?』
 俺を奮起させるためのメッセージなのか、本当にそんなことを思っているのか、分からない。
 ただ、関西の大学へ進学するアキラは、卒業式の翌日には東京を離れ、大阪の叔母さんの家での下宿を始めるらしい。