夏休みに入る少し前、テストも終わって一息ついていたある日のこと。
 汗だくでようやくたどり着いた我が家の門扉の前に、凛とした青年が立っていた。
 冷風をまとっているかのように、汗とか湿気とか、じめっとしたそういうものとは無縁の爽やかオーラが漂っている。
「岳さん、こんにちは」
 やっぱり、小湊くんだ。
 俺もこんにちはと返事をしたけど、それで、えっと……? という謎の沈黙が流れている。
 それなのに彼のビー玉みたいな瞳は、じっと俺を見据えたままだ。ぱちりとまばたきさえ見せない。
 いったいどうしてイケメンという人種は、この無言に耐えられるのだろうか……。
「えーと……泉は……」
「今日部活っす」
 聞いておいて、ですよね、と口を突いて出そうになった。
 泉は吹奏楽部でトロンボーンを吹いている。夏のコンクールに向けて本腰を入れて練習することになるから、夜も遅くなると母さんに迎えを頼んでいた。なので、知っています。
 俺が聞きたいのはつまり、泉はいないのになぜ君がここに立っているんですか、ということなんだけど。
 イケメンで頭脳明晰なはずなのに、行間を読むのは苦手なのだろうか。
「そうだよね、練習忙しくなるって言ってたけど……ええっと……」
「あの、俺……」
 小湊くんは、じり、と俺との距離を詰めて、それから悩ましげな吐息を吐く。
「えっ……と、ん……?」
 妙な色気に思わず後退(あとずさ)りすると、背中が玄関の門にぶつかって行き詰ってしまった。
 けれど小湊くんはそんなことお構いなしに、どんどん俺に迫ってくる。ゆっくりと伸びてくる、小湊くんの長い腕――
「や……なっ、なんだろう、か!?」
 思わず飛び出した素っ頓狂な声にも、小湊くんの視線は揺らいでくれない。まっすぐに見定められ、たまらず視線を地面に落とした。
 するとどうやら小湊くんの腕は、俺の背後の門の柵を掴んだらしい。カシャン、という乾いた音が耳元で響き――小湊くんに囲われてしまったことがわかる。
 ――こ、これは、まさか、壁、ドン……!?
「あ、あああの、小湊くん……!?」
「岳さん……」
 熱っぽい声で名前を呼ばれると、全身からどっと汗が噴き出してくる。
 おそるおそる顔を上げると、小湊くんの綺麗な顔が、みるみる眼前に迫ってきていた。
「こ、小湊くんっ――!」
 ごくりと生唾をのんだ、次の瞬間。
「……えっ……?」
 小湊くんは、へにゃりと地面にしゃがみこむ。
 見下ろした彼のうなじは、襟足の隙間からでもわかるほど、真っ赤に染まっていた。
「え、こ、小湊くん……? 大丈夫? 具合悪い?」
 しゃがみこんで顔を覗き込むと、綺麗な瞳は光を()くし、肩で息をしている。
 自分の頭頂部がじりりと焼け付くように熱をもって、そこでようやく気がついた。
「熱中症だ……!?」
 俺は本当に察しが悪い。いくら爽やかそよそよ涼しげに見えても、小湊くんだって人間だ。いくら人形のように綺麗な顔をしていたって、生身の人間なのだ。
 いつからここに立っていたのか知らないけど、この炎天下に日よけもない場所で突っ立っていたら、そうなったって不思議じゃない。もっと早くに気づいてあげなきゃいけなかったのに。
 なにを壁ドンにはしゃいじゃってんだ、俺は……!
 身体中から力の抜けた小湊くんを、どうにかこうにか家の中へと引きずって、なんとかソファーに寝かせた。
「小湊くん、これ飲めるかな……」
 父さんのランニング用にストックしてあったスポーツ飲料を一本頂戴し、小湊くんの熱い手に持たせる。
 弱々しく頷いた彼がごくりと喉を鳴らしたので、俺は次だと慌てて部屋の冷房を十八度に設定し、冷凍庫からありったけの保冷剤を引っ張り出してきた。
「岳さん、ごめ……」
「いーから、いーから、とにかく冷やそう。えっと……(わき)と、太ももの付け根に挟むといいみたい。できそう?」
 ソファーに横たわる彼の頭を軽く持ち上げ、タオルにくるんだ大きめの保冷剤を差し入れる。それからおでこに冷却シートを貼ろうとすると、ぴくっと小湊くんの肩が震えた。
 ――あ、あっぶな……! なに普通に触ろうとしてんだ、俺!
「ごっごめんね! これ、貼るときっとラクになるから、鏡持ってこようか……」
「……いい」
「へ」
「……貼ってもらえませんか」
 イケメンは弱っていてもイケメンだな……うるんだ瞳でそんなお願いされたら、逆らえるわけがない。
 妹の彼氏相手に最低な気持ちを自覚しつつも、おそるおそる彼の綺麗な肌に触れた。()きたてのゆで卵みたいにつるんとしたおでこに、そっとシートを貼りつける。
「ありがとうございます……やっぱ優しいな、岳さん」
 うわ言なんか言っちゃって、なんだかちょっとかわいく見えてきて困る。
「いつからうちの前にいたの?」
「えーと……二時間前くらい……かなぁ」
 二時間って、この子、本当に泉のことが好きなんだなぁ。俺が帰ってこなかったら、今頃どうなってたか……想像するとぞっとした。
「よかったよ、家の前で倒れてなくて」
 そう言うと、小湊くんは綺麗な瞳をぱちぱちさせて、それから、緩みきった顔でふにゃりとはにかんだ。
 ――いやいや、まったく笑い事ではないんだけど……?
 とはいえ、こんなふうに全身全霊で愛されるのって、いったいどんな気持ちなんだろうな。俺にはきっと一生縁のない話だから、今度泉に聞かせてもらおうかな……って、いやか、兄にそんな話するのは。

 ぱたぱたうちわで小湊くんを煽ぎつつ、いつかの夏ドラマの再放送をぼーっと眺めているうちに、だんだん彼の表情に生気が戻ってきた。救急車を呼ぶ手順もスマホで調べていたけれど、その必要はなさそうだ。
「ちょっとは気分マシになってきた?」
「ハイ、ほんとにすみません、勝手に待ち伏せしといて俺……」
「えっ、待ち伏せだったの?」
 待ち伏せってことは喧嘩でもしたんだろうか。
 はだけたシャツから漏れ出る色気にあてられそうになって、慌てて少し距離を取った。
「……俺、岳さんと話したくて。この前誤解させちゃった気がしたんで」
 なのに、ソファーから起き上がった小湊くんは、俺の隣にぴったり並んで座る。また、じっと見てくるんだ。たまらず目を逸らしてしまった。
 ひょっとして、俺のこの間の態度を気にしているのかもしれない。
 腐男子バレして、文字通りひっくりかえったのがあまりに恥ずかしかったから。俺はあのあと、一目散に自分の部屋へと逃げ帰ったんだ。あれ、ちょっと失礼だったよな。
「あの、ごめんね。そんなに気にさせてると思ってなくて……漫画のこと、あんまり人に言ってないことだったから、まさか妹の彼氏にバレてるなんてさ――」
「やっぱりな……。付き合ってないです。泉先輩とは付き合ってませんよ」
 ――え?
 小湊くんの大きな手は、さっきほど熱くはない。
 じんわり、心地よいあたたかさになっていて安心した。
 ――で、その手は今、なぜか俺の手に重ね合わされているんだけれど……?
「ん……? え、なんて……?」
 知らない彼の体温は、思考回路を完全にショートさせた。
 どんな顔を取り繕うべきかもわからなくなって、前髪のカーテンをゆらゆら揺らし、とにかく隠れたい気持ちでいっぱいになる。
「岳さんに会いたくて、泉先輩に紹介してくれって頼んだんです」
「……アイタクテ……」
「ていうかこの間も言いましたよね。一目惚れしたって」
「ヒトメボレ……」
 (つむ)がれる言葉を反芻(はんすう)しても、やっぱりわからない。
 一目惚れとはつまり、一目見て、惚れたということだ。
 小湊くんが……俺に? ありえない。ないないない。
「どうしても岳さんのこと忘れられなくて、もっと知りたくて、それなのに東京の大学に行くって言うから……それで泉先輩に頼みました。卑怯な手使ってすみませんでした」
 宙をさまよわせていた視線が、とうとう交わってしまった。その妙に熱っぽい瞳から逃げられず、背中がじわじわ熱くなっていく。
 ――……いや、まてまてまて。落ち着け俺……!
 うっかり熱に(ほだ)され、小湊くんの言葉を真に受けそうになっている自分に、ひやりとした。
 危ない危ない。そんなラブコメ展開、平凡中の平凡である俺の身に起こるわけがないだろ。ご都合展開がすぎる。
 ……ん? というかこの子、いま、俺が東京の大学に行くって言わなかったか? なんでそんなこと知ってるんだ……?
 慌ただしく脳内会議をしている間にも、小湊くんは、俺の指を確かめるように一本ずつ撫でてきたり、かと思えば爪をきゅっと強く握ったり。やりたい放題である。
 重ね合わされた俺の右手は、されるがまま、石みたいに固まっている。
「ど、どうして俺なんか……人違いじゃない?」
 言葉にして、腑に落ちた。そうだ、人違いだこれ。
 俺みたいなオタク、わりといるし。というかそもそも、前髪のカーテンで顔なんてほぼ見えないはずなんだ、俺である確証なんてどこにも……。
「だから、この間の漫画のタイトル、心当たりありますよね?」
「……あ、ハイ」
「ね、俺の好きな人が買って行った漫画なので、人違いじゃありませーん」
 ありませーんじゃない。かわいこぶったってダメだ。
 一体どこでその情報を入手したっていうんだ? 本屋では必ず周囲を警戒しているし、そもそも一字一句違わず漫画のタイトルを把握しているなんて、相当ヤバい。
 俺が腐男子だということを知っているのは、スバくんと泉の二人だけだ。けれどその二人が吹聴したとも考えにくい。だってさすがに、購入した漫画のタイトルまで教えてないし……。
 隣で家主よりくつろいでいる様子の小湊くんに、不気味だという意味の視線を送る。
 頑張って三秒以上目を合わせた。そうしなきゃ、伝わらなそうだし。
 けれど彼はそれを受け取って、なぜかにこりと微笑む。
「腐男子、っていうんですよね。岳さんは男が好きなんですか?」
「べっべつに、ちがっ……! 物語として、おもしろいだけだよ」
「……調教指導が……? なるほど、そういう性癖なんです――」
「ちがくてっ!! それは小湊くんが把握してるのが偶然そういう……過激なタイトルのものってだけで、BLは尊いんだよ。アルファ様の調教指導だってストーリーはすごく切ないんだ。俺はそういう泣ける系が特に好きで、別に性癖ってわけじゃ――」
 ――しまった、しゃべりすぎ……!
 はっと口をつぐんだ俺を、小湊くんは、にこにこ見つめている。
 次の言葉を待つように、ソファーの背もたれに肘をついて、まったりしながら。
「……うん? それで? 泣ける系を読んで、岳さんは泣くんですか?」
 空いているほうの手で、ふわりと優しく、俺の髪の毛に指を通してくる小湊くん。俺の髪なんか触ったところで、なんの面白みもないだろうに。いったいなにがどうなってその行動にでるのか、俺にはちっとも理解できない。
 ただとにかく、このほの甘い空気をどうにかしたい。
 変な汗がとまらない。
「な、泣ける系なら、幼馴染ものがね、特にいいんだよ。少女漫画では幼馴染って大体当て馬だけど、BLでは正規ルートなことが多くて、でもそこに至るまでが切なくて……」
 って、また余計なこと言ってしまった……。
 なのに、どんどんおかしくなっていく俺を、小湊くんはちっとも笑い飛ばさないんだ。
「ふ~ん、俺少女漫画も読まないしわかんないなぁ。岳さんのおすすめ貸してくださいよ」
「やっ、やだよ! ぜったいやだ!!」
「あーわかった、やっぱりエロいのしか持ってないんだ~」
「なっ……!?」
 まんまと手の上で転がされた俺は、幾度となく読み返した健全BLを三冊、小湊くんに貸してしまった。
「なにしてんだ俺は……っ!」
 ご迷惑おかけしました、と足取り軽そうに帰っていく小湊くんの後ろ姿に後悔を募らせたって、もう遅い。
 彼の手に渡ってしまったのだ、俺の宝物たちが。
 俺が腐男子だと言いふらされるのはともかく、泉にまた迷惑をかけてしまうかもしれない。
 そんなことが起きてからでは遅いと、部活から帰ってきた泉に慌てて報告すると、「小湊くんは大丈夫に決まってるじゃん」と鼻で笑われた。