穴、穴、穴。

 大きな穴。深い真闇の穴。獣のように、うす汚れ、醜悪に満ちた穴。

 真綿が詰めわたるように、白い、白いものが……吐息と共に流れ出て、宙に絡めついた。

 歯。剥き出しの歯。何かを貪ろうとしている、獣の歯。

 いくつも、いくつも並んだ。口を開け、錆びた壁に並べながら、音を練り出す。

 「知っている?あの子って……」
 
 「実はあの人……」

 「あんなことがあって……」

 意味もなく根拠もなく、消化されたら忘れられる、小さな炎。

 でも、岩を擦り合わせることを辞めねば、小火は膨らみ、青芯を染め上げ……。

 野を焼き殺す業火になる。

 焦げる、炎が走る、真白の野原に、血水を垂らして。

 走る、垂れ下がる、終焉の匂いが立ち込めて。

 そして君にこう囁くんだ。

 「ねえ、知ってる?次はね……

 君の番だよ。」

 って。

 *
 
 木枯らしが木を揺らし、朽葉色に染まった木の葉が、音もせず地面に落ちた。
 虫たちの、朝の匂い。ため上がった、落ち葉の匂い。秋を永年看取った樹木の、跳ね返すような汁の匂い。
 外に踏み入れた瞬間、差し合わせたかのように、品のある秋の匂いが鼻腔に広がっていく。
 茹だるような汗に代わって、澄んだ秋風が肌を伝って覆い被さる。それがなんとも、心地よい。
 鰯雲が、青銅色の空に広がり、光が柔らかく、輝いていた。

 ようやく秋が来た。夏が少女なら、秋は奥ゆかしいオールドミスだろう。
 新聞を配る人や、犬を散歩させる人もいる。日常の匂い、足音、話し声……
 その全てが、慣れ親しんだ安心感をくれる。
 憂鬱な朝の気分さえも、錦秋漂う通学路を見ると、たちまち吹き飛んでしまう。

 「おはよう、奈々!」

 「美智香、……おはよう」

 後ろから追い上げてきたのは、幼馴染の美智香だ。弾けんばかりの笑顔に、跳ねた茶髪がよく似合う。スクールバックにぶら下げたキーホルダーの熊のおどけ顔は、いつも彼女の気風を反射しているようだった。

 「相変わらず元気ないね〜。中間テスト近いから?」

 「そうじゃないけど……。私たち、受験生じゃない。少し緊張するっていうか」

 私が眉を下げると、美智香は可笑げに笑った。

 「やだな、まだ1週間もあるじゃん。奈々は大丈夫だって、そうやっていっつもいい点とるでしょ?私の方がやばいよ、この間なんて数学赤点スレスレで……。あっ。」
 
 突然声を上げて、美智香が立ち止まる。
 光を浴びて茶髪の髪が揺れ、えくぼが浮かんだ笑顔が、戸惑う私に向けられた。
 
 「そういやさ、奈々知ってる?あの“噂話”!」

 「噂って……何が?」

 「やだな〜、奈々くん、勉強ばかりじゃダメだぞ〜?」
 
 そう言って美智香が口にした噂話は、なんともまあ、滑稽で、信じがたいおとぎ話だった。

 「1年3組のAがBの家を放火した……?
 何言ってるの、そんなこと起こったらニュースになってるよ……。」

 1年3組の、Aという女の子……。
 彼女は同じ部活の後輩で、真面目で、大人しく、とても放火犯とは思えない少女だった。

 むしろBの方が、素行が悪く、Aをいじめていたとも聞いている。
 この話はBがAを逆恨みして仕組んだものに違いない、とも思った。

 不服そうな私の顔を見て、美智香は唇を尖らせた。

 「大事になる前に火を消しとめたんだよ!その時B以外みんな寝ていて、危うく焼け死ぬとこだったって……!」

 「そんなの……眉唾だよ。証拠はないんでしょう?」

 「あるよ、ほら!」

 肩をすくめる私に向かって、美智香がスマホを差し出した。
 画面には、白壁の家の落ち葉に向かってマッチを振り下ろす、少女の姿が写っている。
 服装も、家の様子も、はっきりとはわからない。ただ、一筋の炎と、街頭の光だけが、彼女の歪んだ顔を照らし出していた。
 炎は浮き出て、作り込んだようにも見える。
 

 まるで、観衆に、Aを的にさせるためのように。

 「これって……。」

 「ね。言ったでしょう?本当だって!大人しそうに見えて、案外この子強かよね〜……。あっ、やべ、もう8時だ!遅刻する!」

 ほらいくよ、と言って美智子は駆け出す。足の遅い私を待つ気はさらさらなく、軽やかに、校門先へと飛び込んだ。

 その様子を眺めながら……。

 私の脳裏には、不可解な画像が渦を巻き続けていた。
 玄関先のポスターも、赤く、白く、光っていた……。

 *

 教室に入ると、外の空気とは打って変わって、肌と吐息の交わる空気が充満していた。
 幕板が長年の重力で曲がり込み、剥がれ落ちて、白骨のような白い木肌が露出している。
 始業時刻だというのに、誰も座っていない。そればかりか、いつにも増して大きな声で、何やら話している。
 もしかして……。

 「1年のAって子が、Bの家を放火したらしーよ……。」
 「知っている〜。てかやばくね?証拠もあるし、捕まるんじゃ…?」
 「実際捕まったらしい。いま少年院で……。」
 
 やっぱり、あの噂だ。噂好きの美智香だけじゃない、もう既に広範囲で広まっているんだ……。
 肩を落とす。入り込む騒めきが、ひどく痛い。それなのに、私は否定することもできない。
 
 Aとはよく話していた。

 私とよく似て、静かなところを好むけど、絵と動物が好きで……。先輩として絵を教え込んでいるうちに、いつのまにか仲良くなっていた。

 彼女は優しい人だった。 芯がある、可憐な人だった。 

 いつだったか、彼女を公園で見たことがある。小さな子連れの母親と、話し込んでいる様子が見えた。
 母親は深く頭を下げている。嬉し涙を流し、安心し切ったような笑みを浮かべている。
 後に尋ねると、Aは、迷子の子を励まし、一緒に母親を探していたらしい。あの時Aは、感謝しても仕切れないと、母親に礼を受けていたのだそうだ。

 私はその時のAが、自分より遥かに強く、そして美しい魂の持ち主だと感じた。
 私は彼女より年上だけれど、そんな状況に直面した時、彼女のような対応をやり通す自信はない。
 むしろ知らないふりをして、素通りしてしまうだろう。

 彼女を、心の底から尊敬した。そして、一生かけて彼女は、私と違う優しい人生を歩み続けるのだと、心密かに崇拝したりもした。

 だから。

 こんなこと、彼女がするはずない。あってはならない。

 ノートを積んだ机は、どこか冷たい感触がした。

 *
 
 「授業、始めるぞ〜。教科書開け〜。」

 いつも通り、ホームルームが終わって。友達と話して。
 いつも通り、授業が始まる。
 
 普通、普通、普通。 いつも通り。

 今日も、なんの変哲もない、一日だと思った。

 だけど。

 ノートに押された、びたびたしい文字を見て、私は言葉を失った。
 
 「何、これ……。」

 ノートいっぱいに書かれた、力強い文字。
触れると、濡れた墨がつく。爪先まで変色したように染まり、シャーペンの持ち手に、黒い軌跡がついた。

 『Aは犯罪者。粛正せよ。』

 息を丸ごと飲み込んだような音がした。目玉を隣の席へと、押しやると、その人のノートにもやはり、同じ文字があった。
 隣にも、そのまた隣にも……。

 『Aは犯罪者。粛正せよ。』

 ノートが、横螺旋のノートが、その文字に支配された。

 クラス中、めくっても、めくっても、同じ文しか現れない。
 手汗で墨がさらに滲んだ。紙はよれ、次のページが浮かび上がる。

 『粛正せよ。』
 
 『粛正せよ』

 『Aを粛正せよ』

 「ひっ……」
 
 視界が真っ黒になる。脳みそが塗りつけられる。べとりと筆が脳に刺さる。
 粛正せよ、粛正せよ、粛正せよ……。

 「どうした、如月。お前だけだぞ、ノート取ってないの。」
 
 先生に声をかけられて、ふと我に帰る。
 
 水でもかけられたかのように、文字は消え、代わりにシャーペンと紙を擦る音だけが聞こえた。

 「すみません……。」

 安心で、声が裏返った。よかった。もうない。何度見ても、ない。

 気のせいだったんだ。考えすぎ、そうだよね。

 「如月。珍しいな、疲れているんじゃないか。」

 効果音のような笑い声が、また上がる。 いつも通りだ。
 
 思考を押し込んで、私は、日常へと戻っていった。

 *

 「奈々〜。どうしたん?浮かない顔でさ〜。」

 休憩時間。次の授業の用意をしていると、級友の心愛が話しかけてきた。
 
 「別に、何も……。」

 「あれじゃね?オールしたとか!」

 続けて声を上げたのは、お調子者の大貴だ。前ボタンは相変わらず外されていて、前髪は四方八方に飛び散っている。

 「はー?あんたと違って、奈々はそんなことしないよーだ。ね、奈々?」

 「え、うん、そうだね……。」
 心愛の軽口も、返すのがやっとだ。喉に詰物でもされたかのように、しわがれた声しか出ない。
 私、どうしちゃったんだろう……。

 「やっぱ、元気ないじゃーん……。なんかあったら言ってよね……。」
 「そうだ、そうだ!水臭いだろ!」

 口を揃えて、二人は言う。軽い口調だけれど、顔には心配の色がよっている。

 そう、だよね……。

 こんなにも心配してくれる二人に、黙っているのも気骨が折れる。思い切って話してしまおう。

 声帯を閉じ、込み上げてきた言葉を、出した。

 「ノートに、変な文字書かれてなかった?Aを粛正せよ、みたいな。」

 すっきり、心が澄む。二人はきょとんとして、また白い笑い声を上げた。目尻は下がり、暖かい息遣いを感じた。

 「やだー。何言ってんの、奈々!やっぱ疲れてるって!」

 「眠たいなら、そういえよ〜。」

 安心した。気に病むことはない。噂話は、もう聞こえない。夢、夢、全部夢。

 だけど、空気が重い。どんよりと湿って、何かが空気の上を這っているような緊張が走る。

 忘れちゃいけない、気がする。

 「そうだよね、やっぱ疲れてるかも……。」

 屈託なく、笑ってみせた。普通を証明したかったから。目覚めたことを知らせたかったから。

 だけど。

 やっぱり。
 
 「うん、そうだよ。
 だってさ。
 Aは、悪い人なんだから。粛正される、モノだもん。」

 夢じゃ、なかった。

 さわ、さわ、さわ。

 「Aが放火を…。」

 「Aが放火を…。」
 
 また、音が聞こえてきた。騒がしい、音。眩暈がするような苦しい音。

 「どうしたの?奈々……。」

 視界が、白んだ。円盤状に世界は揺れて、喉はかれ、闇が広がっていく。

 「奈々……。」

 粛正。

 「先生、奈々が…。」

 粛正。

 「どうした、如月!?誰か保健室連れてけ!」

 粛正。

 夢じゃない。世界はやっぱり、おかしかった。

 意識が闇に引き込まれた。私はしばらく、気を失った。

 *
 
 「ここ、は……?」

 白く、黄ばんだ壁に、斑点のような引っ掻き傷が浮かび上がる。

 消毒液を蒸した匂いが、鼻を刺した。

 何重にも積まれたタオルが枕の代わりになっており、年代物の硬いシーツが触れる。

 保健室……か。

 そういえば、さっき気を失って……。

 「如月さん。気がついたの?」

 柔和な女性の声が聞こえた。養護教諭の森永先生だ。

 診察椅子を引く音に、ハイヒールが地面に当たる硬質な音が続いた。素早くカーテンを引くと、30代半ばの、赤い口紅が目立つ気の強そうな女性の姿が露になる。

 「顔色も戻ったみたいね。目が覚めて、よかったわ。」

 「あの……。私どれくらい気を失っていたんですか?」
 
 私が尋ねると、森永先生は目を左上にやって考えた。

 「そうね……。三十分くらいかしら。ちょうど4時間目が始まっていたところよ。授業は受けられる?」

 4時間、目……?

 おかしい。私の記憶が間違いじゃなければ、私が倒れたのは1時間目終わりの休み時間。
 となると今は、2時間目の終わりではないのか?

 この人、嘘を言っている?

 恐る恐る、カーテンの隙間から時計を見る。時刻は11時40分。確かに四時間目……。

 う、そ。どう、して……?

 時間がおかしい。 記憶と時計が、追いついていない。

 「あ、あのっ!」

 「……どうしたの?」

 時間、おかしくないですか……。

 思い切ったのに、言葉がまたしても出てこない。引き止めるように、思考が数珠つなぎになって絡めついた。
 透明な塊が喉に落ちて言って、痛みこむ。

 ……いえない。

 言っては、いけない………。

 不意にそう思い、俯く。情けない。まるで私が噂に支配されているようだ。

 何も言わぬ私に呆れたか、先生は投げやりにドアを指差した。
 
 「……まあ、元気なら。途中でも戻るといいわ。担任の先生には言っておくから。」

 「えっと、………はい。」
 
 思い込みすぎだ。学校はいつもと変わらない。いつもと同じ、なんの変哲もない楽しい学校。おかしいのは、私。

 きっとそう。

 心の中で宥める。息は浅くなり、やけに嗅覚は鈍る。押さえつけられたかのように胸が痛み、何かに怯えていた。

 ……何に?
 
 考えられることもせず、私は先生の手の向くまま、廊下へと足を踏み入れた。

 *
 
 雨漏りが、錆びたバケツに一つ、溢れた。

 いつのまにか、空は雨模様だ。どんよりとした重たい雲が、鉄格子のような学校の窓から覗いている。

 廊下からは、物音ひとつしない。先生の声も、生徒の声も、廊下を歩く足音も。

 まるで、音が雨の中に閉じ込められたようだ。

 トン、トン、トン。

 ぽた、ぽた、ぽた。

 自分の跳ね除く心音。小さな、雨音。

 それらが騒音のように、廊下の音を宿している。

 どうしたんだろうか。 なぜ、こんなにも静かなの?

 辺りを見回す。目を動かしたところで、壁に貼ってある一つのポスターが目についた。
 朝、見た、あのポスターだ。

 「!」

 心臓が縮み込んだ気がした。現実を、突きつけられた気がする。

 変わっている。

 『指名手配 A。即刻処罰せよ。』

 また、だ。こんなところにも……!

 逃げるように、今度は視線を左に、動かした。でも……。

 『Aを見つけたものはーーー処罰せよ。』

 『処罰せよ』

 『処罰せよ』

 とめどなく、とめどなく。文字がフロアいっぱいになだれている。

 処罰、処罰、処罰。

 見れば、見るほど。視線を動かせば、動かすほど。

 紙は、増え、私の視界を奪っていく。

 私の脳内を煽り返し、何かに為し変わろうと、している。

 辞めたい。

 処罰処罰処罰処罰……。
 
 こんなの……!

 処罰処罰処罰処罰……。

 誰か……!

 「どうしたの、奈々?」

 背後から、打ち消すように、明るい声が聞こえた。

 「えっと……。美智香……?どうして、ここに…?」

 息を荒めながら、口を動かした。寝汗のような汗が背中を濡らしていて、気持ち悪かった。

 「奈々こそ。何してるの?みんなもう、講堂にいるよ?」

 「講、堂……?」

 そうだよ、と美智香は笑って返した。いつもの美智香。茶髪は雨をも遮り輝いて、黄色いピン留めも、相変わらず輝いている。

 でも……。

 瞳に輝きは、見えなかった。実態のないものに、対峙している気分だった。

 本当に、美智香、なの……?

 疑いの目を向ける私を見て、美智香はなおおかしそうに笑う。

 「やだ〜。マジどうしちゃったの、奈々〜。講堂、ほら、朝言ってたでしょう?」

 「そう、かな……?何のために…?」

 「もー、大丈夫そ?なんたって……

 粛正、するためだよ?」

 空気が、淀んだ。黒く、粘液の持つ液体が、足からはい、肌を焼き尽くす鮮烈な痛みを感じた。

 鼻も、口も塞がれたように、動かない。酸が詰まったように、ぴん、と空気が張って、鼻の穴を伝う。

 息が、できない。

 顔から血色が失われているのを感じた。

 それなのに、美智香は築く様子がない。それどころか私の腕を引っ張り、足を動かそうとする。

 「何してるの?早く行こうよ、行こうよ……。」

 声を出すたび、液体の波紋が広がり、廊下中が淀んだ。口の隙間から、なんとか空気をかき集める。
 黄ばんだ視界に、一つ、二つ、人影が現れ、その度、液体が水増しされた。
 
 苦しい……!

 思うように体が動かない。

 足と、頭が切り離されたように、どこかへ向かっていく。いつのまにか、行列も増えていた。一つ、二つ……。

 足元がやけに軋んだ。

 横目で流す壁紙には、例のポスターで覆い尽くされている。
 
 粛正せよ、粛正せよ……。

 もう、もう……。

 頭が、おかしくなりそう。

 目を見張る。列が蛇行し、明かりの中へ出た。突然、澄んだ空気に変わり、一体化した気体が、中へと、進むのがわかる。

 体育館だった。

 「ようやく、始まるね。」

 抑揚のない声で、美智香がいう。どういうことだろう。

 人混みに押されて、体育館の中央へと投げ出された。背伸びして、ようやく見れた光景に、思わずたじろぐ。

 う、そ。

 抑圧された、肉壁の先には……縛り付けられたAがいた。

 というより、Aだと思われる人だった。髪は乱れ、枝分かれしながら顔を覆い隠し、あちらこちらに赤腫れた傷で埋められていて……

 誰かは、わからなかったから。

 観衆は、見ていた。Aを、文字だけの、罪を。

 私は、どうすることも、できなかった。まもなく、私もあの波になりかけていた。嵐の中を泳ぐより、沈んでいた方が、楽だった。

 『Aさん、Aさん。助けてくれたBさんに、感謝しましょう。Aさん、Aさん……。』

 音声が、宙から、体育館中に、広まった。と、思うと、人々は石のようなものを、Aに向かって投げ出した。

 魔女裁判。

 頭に、どこからか、そんな言葉が浮かんだ。

 コツン、コツン。

 音、騒音。パラパラと、耳の中でさざめいた。

 Aは、それでも動かない。抵抗もせず、訴えもせず、ただ、岩のようにそこにいた。

 でも、でも……。

 こんなのって……。根も葉もないことで、こんなのって……。

 いいのだろうか、私は。このまま見過ごして、いいのだろうか。わかっているのに、石を持ち出す私の方が、波よりよっぽど罪なんじゃないか。
 
 どちらがいい。弱く、醜い罪を他人のせいにして、生きるか。それとも、せめて小英雄として、生きるか。

 どちらがいい?

 考える間もなく、私の足は動いていた。今度は自分の意思だった。群衆の中をかき分けて、私はいつのまにか、Aの手を取っていた。

 「え……?」

 「いくよ。」

 抱えるように、Aの手を引いた。冷たさの中に、まだ、少しだけ暖かさが残っていた。

 「Dadadada……」

 途切れ途切れの、音を出して、群衆は迫っていく。口が暗闇の中に、いくつも、いくつも並んで私たちを詰った。

 それでも、私はやめない。光、光、陽の光。

 それだけを求めて、私はAと外へ出ていく。

 群衆はやめない。遅かろうと、静かに、静かに床下を進んでいった。影のようだった。

 「せん、ぱい……。どう、して……?」

 「どうしてって、決まってるでしょ!あんた、何もしてないのに、こんな、あまりにも……。」

 「いいんですよ。」

 Aが、屈託なく笑った。腫れた目の下に、虚な、全てを諦めた光が飛んでいた。

 「先輩。濡れ衣でもなんでもないですよ。事実、ですから…。」

 「は?」

 影が、その場で止まった。追手ではなく、聴衆になった。

 「私、Bが憎かったんです。だから、火をつけました。Bを殺そうとしたんです。なので、私は……。」

 「嘘だよね?
 言わされて、いるんでしょう?あれは合成だし、あなたは……。」

 続きを、Aに遮られた。無気力に、諦めたような、世界を丸ごと拒むような、笑みをしていた。

 誰よりも強く、美しい笑みだった。彼女は私の、Aだった。

 結んでいた指が、ほつれた。前に、体を投げ出され、私は光の方へ放り投げ出された。ハイエナのような影たちが、Aにすがり、やがて、見えなくなった。

 しばらくして、Aの姿はなくなり、忘れたように、聴衆は散っていた。暗闇に、私だけが残された。

 寒さだけが、肌に、縛りついた。

 噂話は、止んだ。

 *

 「ねえ、知っている?3年3組の如月って人が……。」

 秋。

 夏が生命の季節なら、秋は晩年の季節だろう。

 紅葉は黒ずんで、野焼きの後の黒煙だけが立ち込める。

 皆の気を集める紅葉も、数日したら枯れ、雪の中に隠される。人の気の流れなど、永遠ではない。

 だから。

 「でもね、3年⚪︎組のCっていう人は、〜〜らしいよ…。」

 「ええ〜本当?近づかないようにしようっと」

 昔の人は、

 「それよりBが〜。」
 
 人の噂は七十五日、と言った。