【クーリングオフ】
服部の喉を黒い影が締め上げるように塞いだその瞬間、
胸ポケットのボールペンが「カチッ」と音を立てた。
それは日常の、何気ない筆記具の音だった。だが、服部の意識を縛っていた黒い霧が、一瞬だけ揺らいだ。
「・・・俺は、契約なんかしていない」
声にならない呻きが、ようやく音として空気を震わせた。
黒い円陣は、ざわついた。
影の群れが、ざらざらと壁を這い、天井を滑り、耳元で誰かの声を模倣する。
「契約済だろう」
「署名したはずだろう」
「ここに残るしかない」
服部は手帳を睨みつけた。
そこには確かに【副エリア長 服部 契約済】と記されている。だが、インクはまだ乾いていない。にじむ文字の上から、彼はペン先を突き立てた。
インクが弾け、黒い滴が飛び散る。
次の瞬間、会議室全体が低く唸り、照明が乱舞した。
影たちは呻き声を上げ、彼の腕にまとわりつこうとする。
「俺は・・・お前らの餌じゃない」
服部の言葉に呼応するように、ペン先から青い光が走った。
それはただのインクではなかった。日々の工事記録や、赤字だらけのメモや、改善案の走り書き・・・服部が積み上げてきた“働く証”が、文字という形で刻まれていたのだ。
影はその光に怯えた。
反町の影が後ずさる。
剛田の影が煙のように崩れる。
「俺は契約しない。俺の署名は俺の意思だけで決める」
服部はそう叫び、手帳の契約済の文字を力任せに塗り潰した。
・・・その瞬間、会議室のドアが「ガンッ」と弾け飛んだ。
外には闇ではなく、蛍光灯に照らされたいつもの廊下が広がっていた。
ざわざわと営業マンの声が遠くに聞こえる。日常が戻ってきたように見えた。
だが、服部は知っている。
机に座る彼らの背中には、赤黒い「契約済」の文字が依然として浮かんでいることを。
抗ったのは自分ひとり・・・この会社そのものが“飢えて”いる以上、次の会議でも喰らわれる者は出る。
服部はボールペンを強く握りしめた。
「・・・俺が抗わなきゃ、誰も帰れない」
そして、会議室を出る服部の背中には、まだ何も刻印されていなかった。
服部は、会議室を出た。
背中に「契約済」の刻印がないことだけが、唯一の救いだった。
だが、それは救いではなく、選ばれた印でもあった。
以後のカイゼンミーティングで、社員たちがひとり、またひとりと消えていくたびに、服部のボールペンは青白く光を放った。
それを振るうたび、黒い影を押し返し、仲間の魂を“ほんの少し”引き戻すことができた。
・・・代わりに、服部の身体は日に日に痩せ細り、眠るたびに耳の奥で影たちの声が響くようになった。
「お前はまだ人間か?」
「抗うほど、我らの中に近づくのだ」
「残りたいのか? 残るのなら、喰らう側になれ」
ある夜、彼は夢の中で会議室に座っていた。
社員は誰もいない。
目の前のホワイトボードにはただ一文・・・
【議長:服部】
気づくと、影たちがずらりと並んでいた。
反町、剛田、そして名も知らぬ営業マンたち。
彼らの顔は溶け、黒い墨汁のようになって、机の上に滴り落ちている。
「お前の声で会議を始めろ」
「お前が指示を出せ」
「我らを導け」
服部は首を振る。
しかし、ペン先からはもはや光ではなく黒が滴り、ページに広がっていった。
目を覚ますと、手帳の余白には自分でも書いた覚えのない文字が並んでいた。
【改善案1:退職者は処理済】
【改善案2:欠員分は補充不要】
【改善案3:残存者は服従】
文字は日ごとに増え、やがて服部の思考と区別がつかなくなっていった。
ある日、ふと鏡を見た。
瞳の奥に、赤黒い「契約済」が浮かんでいた。
その瞬間、服部は悟った。
・・・抗っているつもりで、いつの間にか自分が“会社”そのものになりかけている。
そして、次のカイゼンミーティングの開始を告げるアラームが鳴った。
服部の口は、自分の意思とは関係なくこう告げていた。
「議題は・・・人員整理です」
服部の喉を黒い影が締め上げるように塞いだその瞬間、
胸ポケットのボールペンが「カチッ」と音を立てた。
それは日常の、何気ない筆記具の音だった。だが、服部の意識を縛っていた黒い霧が、一瞬だけ揺らいだ。
「・・・俺は、契約なんかしていない」
声にならない呻きが、ようやく音として空気を震わせた。
黒い円陣は、ざわついた。
影の群れが、ざらざらと壁を這い、天井を滑り、耳元で誰かの声を模倣する。
「契約済だろう」
「署名したはずだろう」
「ここに残るしかない」
服部は手帳を睨みつけた。
そこには確かに【副エリア長 服部 契約済】と記されている。だが、インクはまだ乾いていない。にじむ文字の上から、彼はペン先を突き立てた。
インクが弾け、黒い滴が飛び散る。
次の瞬間、会議室全体が低く唸り、照明が乱舞した。
影たちは呻き声を上げ、彼の腕にまとわりつこうとする。
「俺は・・・お前らの餌じゃない」
服部の言葉に呼応するように、ペン先から青い光が走った。
それはただのインクではなかった。日々の工事記録や、赤字だらけのメモや、改善案の走り書き・・・服部が積み上げてきた“働く証”が、文字という形で刻まれていたのだ。
影はその光に怯えた。
反町の影が後ずさる。
剛田の影が煙のように崩れる。
「俺は契約しない。俺の署名は俺の意思だけで決める」
服部はそう叫び、手帳の契約済の文字を力任せに塗り潰した。
・・・その瞬間、会議室のドアが「ガンッ」と弾け飛んだ。
外には闇ではなく、蛍光灯に照らされたいつもの廊下が広がっていた。
ざわざわと営業マンの声が遠くに聞こえる。日常が戻ってきたように見えた。
だが、服部は知っている。
机に座る彼らの背中には、赤黒い「契約済」の文字が依然として浮かんでいることを。
抗ったのは自分ひとり・・・この会社そのものが“飢えて”いる以上、次の会議でも喰らわれる者は出る。
服部はボールペンを強く握りしめた。
「・・・俺が抗わなきゃ、誰も帰れない」
そして、会議室を出る服部の背中には、まだ何も刻印されていなかった。
服部は、会議室を出た。
背中に「契約済」の刻印がないことだけが、唯一の救いだった。
だが、それは救いではなく、選ばれた印でもあった。
以後のカイゼンミーティングで、社員たちがひとり、またひとりと消えていくたびに、服部のボールペンは青白く光を放った。
それを振るうたび、黒い影を押し返し、仲間の魂を“ほんの少し”引き戻すことができた。
・・・代わりに、服部の身体は日に日に痩せ細り、眠るたびに耳の奥で影たちの声が響くようになった。
「お前はまだ人間か?」
「抗うほど、我らの中に近づくのだ」
「残りたいのか? 残るのなら、喰らう側になれ」
ある夜、彼は夢の中で会議室に座っていた。
社員は誰もいない。
目の前のホワイトボードにはただ一文・・・
【議長:服部】
気づくと、影たちがずらりと並んでいた。
反町、剛田、そして名も知らぬ営業マンたち。
彼らの顔は溶け、黒い墨汁のようになって、机の上に滴り落ちている。
「お前の声で会議を始めろ」
「お前が指示を出せ」
「我らを導け」
服部は首を振る。
しかし、ペン先からはもはや光ではなく黒が滴り、ページに広がっていった。
目を覚ますと、手帳の余白には自分でも書いた覚えのない文字が並んでいた。
【改善案1:退職者は処理済】
【改善案2:欠員分は補充不要】
【改善案3:残存者は服従】
文字は日ごとに増え、やがて服部の思考と区別がつかなくなっていった。
ある日、ふと鏡を見た。
瞳の奥に、赤黒い「契約済」が浮かんでいた。
その瞬間、服部は悟った。
・・・抗っているつもりで、いつの間にか自分が“会社”そのものになりかけている。
そして、次のカイゼンミーティングの開始を告げるアラームが鳴った。
服部の口は、自分の意思とは関係なくこう告げていた。
「議題は・・・人員整理です」



