【魔空間】
服部が退職願を差し出した瞬間、会議室の空気は凍りついた。
誰もが彼を引き止めることもせず、ただ視線を逸らす。その沈黙がやけに重く、不自然に長い。まるで全員が同じ台本を読み合わせているかのように。

その時、壁の時計が「コツ、コツ・・・」と逆回転を始めた。服部は瞬きをしたが、他の社員は気づいていないかのように振る舞っている。ただ、反町の眼だけが、釘で打たれたように時計に吸い寄せられていた。

「・・・またひとり、減ったな」
剛田が戻ってきたタバコ臭の中で、ぽつりと呟いた。

服部の耳に、妙な違和感が走る。
“また?”
この会社では、辞めた人間のことを誰も口にしない。辞めた翌日には机ごと消え、記録も削除される。まるで最初から存在しなかったかのように。

服部は知っていた。夜遅く、無人のフロアを歩いていると、確かに誰かのタイピング音が聞こえるのだ。空のデスクに、勝手に動くパソコンのカーソル。消されたはずの名前が、エクセルのセルの隙間から滲み出すように浮かび上がる。

“ソガ”
“イケダ”
“ナガセ”

辞めていったはずの社員の名が、蛍光灯のちらつきとともに点滅する。やがてそれは、血のように赤く染まっていく。

カイゼンミーティングは、ただの公開処刑ではなかった。
それは、この会社に取り憑いた「何か」が、人間を削り取り、名簿から抹消していくための儀式だったのだ。

剛田の声が低く響いた。
「副エリア長。お前も・・・ここに残るか、消えるか、選べ」

反町がやっと口を開いた。
声ではなく、耳の奥に直接届くささやきだった。
「出られないんだ。俺たちは」

服部の背後で、白い封筒が勝手に開き、中から黒い液体が滲み出す。封筒の紙を食い破り、床に落ちると、タールのようにじわじわと広がっていった。

社員が次々辞めていくもう一つの理由・・・それは、会社が社員を“喰っている”からだった。

黒い液体は、まるで自ら意志を持つかのように、床を這い回り始めた。
配線ダクトの隙間からじゅるりと吸い込まれ、次の瞬間・・・天井の蛍光灯が「バチッ」と爆ぜた。白い光の下、社員たちの影が壁に大きく伸びる。その影は、本人の動きとは微妙にズレていた。

服部は目を疑った。
反町の影が立ち上がり、反町本人を背後から抱き締めるように絡みついている。
剛田の影は煙草を吸い込むたび、肺ではなく影の奥に赤く火が灯り、じわじわと燃え広がっていた。

「・・・だから言ったでしょ・・・」反町が笑った。
「退職願なんて出すなよ。出した瞬間、あなたは“選ばれる”」

会議室のドアが、ひとりでに軋んだ。
外の廊下が、闇に沈んでいる。いつもなら営業マンの声が響くフロアが、まるで地下の廃墟のように静まり返っていた。

服部の足元で、封筒から溢れた黒が円を描く。その円は、会議室に座る社員全員を囲い込み、逃げ道を断っていく。
「契約済」
「契約済」
「契約済」

赤黒い文字が、次々と社員の背中に浮かび上がった。

ただ一人、服部の背にはまだ何も浮かんでいない。
「・・・君が、最後の空白だ」
剛田の声は人間のものではなかった。喉の奥から響く重低音に、会議室の机がビリビリと震えた。

そして、壁の時計が真夜中を指す。
その瞬間、服部の手帳が勝手に開き、空白のページに黒いインクが走った。

【副エリア長 服部 契約済】

服部は声をあげようとしたが、喉からは音が出なかった。
彼の影がゆっくりと立ち上がり、壁から抜け出して歩き出す。
反町や剛田の影と合流し、ひとつの巨大な黒い塊となる。

それは、社員を「辞めさせ」るのではなく、「喰らって」いたのだ。
辞表は魂のサイン。
退職とは、会社という怪物に完全に取り込まれることを意味していた。

服部の意識は遠のく。最後に見えたのは、会議室のホワイトボードに書かれた一文だった。

・・・次のカイゼンミーティング 参加者:未定