まさかと思って僕は、そんな彼女の手に本を押しつけた。
 改まって声に出して読むなんてのは恥ずかしい。
「じ……自分で読みなよ」

 なお本を押しやると、不意に僕らの手の甲が擦れあった。
 つかみどころのない空気のように、頼りなく、また湿り気のあるその感触に、時間が止まる。
 僕は思わず喉の奥で声にならない声を上げると、さっと手を引いた。
 すると彼女は目を閉じたまま、形のよい唇を動かした。

「いいの。私は、ユウシの声で聞きたいの」

 このとき、僕は何をどう思ったか、うまく説明できない。
 でも間違いなく、とても、とても純粋(ピュア)な気持ちだった。
 手だけでなく心でもつながった、その熱を帯びた感覚は何にも代えがたい歓びに満ちみちていた。

 それでも僕は本を開かなかった。
 他人の書いた作品を自分が読み上げたところでそれは僕の言葉ではないからだと、ある意味本心でもあることを打ち明けたが、すぐにそれを後悔した。
 彼女が延々とサティの書いた曲を弾いていたからである。
 まるで彼女を揶揄したみたくなったのに気づいて、慌てて否定した。
「ごめん。そういうつもりじゃないんだよ」

 すると、あす未は表情もなく、さらりといった。
「気にしてないよ。私が追い求めているのは、サティの真似ごとではなく私だけの音だから。これだという音にたどり着くためにひたすら弾いているんだよ。ピアノの音がそうなら、言葉だってそうかもしれないと思ったんだ、私は」