一
放課後の校舎は、昼の喧騒をすっかり飲み込んで、静かな影を伸ばしていた。
三つ先の音楽室から、かすかにトランペットの音が響いてくる。窓ガラスを震わせるような華やかさではなく、まだ不安定で、時折つまずくように途切れる音。
遥斗は、自分のいる教室の机にノートを広げ、カリカリと鉛筆を走らせていた。
――忘れないうちに書き留めなくては。
文字は震えがちで、何度も同じ言葉を繰り返している。
「消えないように。
消えないように。」
そう書いて、息を吐いた。
二
「お前、また残ってんの?」
クラスメイトの海斗が顔を出す。
「まあな。」
遥斗は笑ってごまかした。
「部活も入ってないのに、毎日遅くまで。何してんだよ?」
「勉強、みたいなもんだよ。」
曖昧な返事しかできない。海斗が首をかしげて帰っていくと、再び校舎にあの音が満ちた。
三つ先の教室から届くトランペットの旋律。少し苦しくて、でもまっすぐな音色。
遥斗はノートに書き足した。
「美羽の音。まだ揺れてる。」
三
雨の夕暮れ、下校途中の軒先で、彼は思いがけずその「音の主」と隣り合った。
「……君、吹奏楽部の人?」
不意に口にしてから、自分でも変な質問だと思った。
少女は濡れた前髪を払って、少し驚いたように彼を見た。
「うん。三年の、美羽。……あれ?もしかして……」
互いに視線を交わし、ふっと時が巻き戻る。
学芸会の劇。小学校の教室。舞台袖で手を握りしめていた小さな自分たち。
「……遥斗、くん?」
呼ばれた瞬間、胸の奥で音が鳴ったような気がした。
四
それから、二人はときどき話すようになった。
三つ先の教室で練習する美羽の音を、遥斗は教室で聞きながらノートに記す。
「今日の音、少し跳ねてた。」
「昨日より柔らかかった。」
美羽は最初、からかわれていると思った。
でも、遥斗が本気のまなざしで言葉を並べるのを見て、次第に胸が温かくなるのを感じた。
五
ある日、美羽は聞いた。
「ねえ……どうしてそんなに、私の音を気にしてくれるの?」
遥斗は少し俯いて、鉛筆を握り直す。
「……僕、時々、忘れるんだ。」
「忘れる?」
「事故のせいでさ。記憶が抜け落ちることがある。昨日のこととか、人の名前とか……。気づいたら、空っぽになってるんだ。」
美羽の表情が固まる。
遥斗は続けた。
「だから書き留めてる。大事なものを、消さないために。……君の音も、その一つなんだ。」
六
夏のコンクールの日。
照明に照らされた舞台で、美羽は震える唇をトランペットに当てた。
客席に目をやると、そこに遥斗の姿がある。
彼のノート。彼の言葉。
「君の音を忘れないように。」
その一文が胸を支えていた。
音は、迷いなく空に放たれた。
校舎の壁に反響し、客席を震わせ、まるで光のように彼の胸へ届く。
七
演奏が終わり、美羽がホールを飛び出して彼を探したとき、すでに遥斗の姿はなかった。
ただ、ケースの中に折り畳まれたノートが置かれていた。
開くと、最後のページに震える文字が並んでいた。
「たとえ僕が忘れても、君の音は僕の中に残っている。
だから、吹き続けて。」
涙が視界をにじませる。
美羽はノートを胸に抱き、夏の夜空を見上げた。
遠くで花火が弾け、その残響が空気を震わせる。
「大丈夫。私が吹き続けるから。」
彼の残した光は、音とともに、彼女の心で永遠に鳴り響いていた。
放課後の校舎は、昼の喧騒をすっかり飲み込んで、静かな影を伸ばしていた。
三つ先の音楽室から、かすかにトランペットの音が響いてくる。窓ガラスを震わせるような華やかさではなく、まだ不安定で、時折つまずくように途切れる音。
遥斗は、自分のいる教室の机にノートを広げ、カリカリと鉛筆を走らせていた。
――忘れないうちに書き留めなくては。
文字は震えがちで、何度も同じ言葉を繰り返している。
「消えないように。
消えないように。」
そう書いて、息を吐いた。
二
「お前、また残ってんの?」
クラスメイトの海斗が顔を出す。
「まあな。」
遥斗は笑ってごまかした。
「部活も入ってないのに、毎日遅くまで。何してんだよ?」
「勉強、みたいなもんだよ。」
曖昧な返事しかできない。海斗が首をかしげて帰っていくと、再び校舎にあの音が満ちた。
三つ先の教室から届くトランペットの旋律。少し苦しくて、でもまっすぐな音色。
遥斗はノートに書き足した。
「美羽の音。まだ揺れてる。」
三
雨の夕暮れ、下校途中の軒先で、彼は思いがけずその「音の主」と隣り合った。
「……君、吹奏楽部の人?」
不意に口にしてから、自分でも変な質問だと思った。
少女は濡れた前髪を払って、少し驚いたように彼を見た。
「うん。三年の、美羽。……あれ?もしかして……」
互いに視線を交わし、ふっと時が巻き戻る。
学芸会の劇。小学校の教室。舞台袖で手を握りしめていた小さな自分たち。
「……遥斗、くん?」
呼ばれた瞬間、胸の奥で音が鳴ったような気がした。
四
それから、二人はときどき話すようになった。
三つ先の教室で練習する美羽の音を、遥斗は教室で聞きながらノートに記す。
「今日の音、少し跳ねてた。」
「昨日より柔らかかった。」
美羽は最初、からかわれていると思った。
でも、遥斗が本気のまなざしで言葉を並べるのを見て、次第に胸が温かくなるのを感じた。
五
ある日、美羽は聞いた。
「ねえ……どうしてそんなに、私の音を気にしてくれるの?」
遥斗は少し俯いて、鉛筆を握り直す。
「……僕、時々、忘れるんだ。」
「忘れる?」
「事故のせいでさ。記憶が抜け落ちることがある。昨日のこととか、人の名前とか……。気づいたら、空っぽになってるんだ。」
美羽の表情が固まる。
遥斗は続けた。
「だから書き留めてる。大事なものを、消さないために。……君の音も、その一つなんだ。」
六
夏のコンクールの日。
照明に照らされた舞台で、美羽は震える唇をトランペットに当てた。
客席に目をやると、そこに遥斗の姿がある。
彼のノート。彼の言葉。
「君の音を忘れないように。」
その一文が胸を支えていた。
音は、迷いなく空に放たれた。
校舎の壁に反響し、客席を震わせ、まるで光のように彼の胸へ届く。
七
演奏が終わり、美羽がホールを飛び出して彼を探したとき、すでに遥斗の姿はなかった。
ただ、ケースの中に折り畳まれたノートが置かれていた。
開くと、最後のページに震える文字が並んでいた。
「たとえ僕が忘れても、君の音は僕の中に残っている。
だから、吹き続けて。」
涙が視界をにじませる。
美羽はノートを胸に抱き、夏の夜空を見上げた。
遠くで花火が弾け、その残響が空気を震わせる。
「大丈夫。私が吹き続けるから。」
彼の残した光は、音とともに、彼女の心で永遠に鳴り響いていた。
