彼曰く、林檎が赤いと言う人間は物事の本質を解っていないらしい。

「赤いのは皮だけだろ。中身は白いんだから赤なんて林檎全体の一割にも満たない」
「はぁ、」
「それに青林檎はどうするんだよ、林檎は赤いの命題が成り立つなら青林檎の立場がない。すなわちその命題は偽だ」
「うん……そうだね」

 軽率でした、とわたしが謝ると、解ればいいんだ、と智くんは眉間のしわを少しだけ和らげる。

「外見というのは当てにならない。現に、眼鏡をかけている人間は賢いと思われがちだけど、みのりは馬鹿だ」

 ……うーん。どうして林檎は赤いと言っただけで怒られて、挙句の果てに馬鹿呼ばわりされないといけないのだろう。昔からあまり勉強ができないのは否定しないけれど。
 近視なのは遺伝だよ、遺伝。

 心の中でぼやきつつ、「林檎のように赤くなった頬」と書いていた原稿の一節を消して「林檎の皮のように赤くなった頬」に書き直してみた。

 ……いや、青林檎の立場も考えないといけないんだっけ。
 じゃあ「熟れたサンふじの皮のように赤くなった頬」……なんかちがうなぁ……。


 ここは、放課後の文芸部部室。
 普段は自由にお菓子を食べたり本を読んだりできるオアシスだけれど、部誌原稿の締め切りが迫ればたちまち半泣きの部員が缶詰め状態になり修羅場へと変わる。

 ……というのは先輩から聞いた少し前までの話。全盛期に比べ部員が減り年の部誌刊行数も減った今は、もっとのんびりゆったりとした活動になっている。

 とはいえ藤島みのり17歳、ただいま絶賛修羅場中でございます。
 締め切りは明日。原稿に取り掛かり始めたのはつい先ほど。

 机の向かいに座る奇しくも同じ名字の部長、藤島(さとる)くんの視線がとてもこわい今日この頃です。

「……そんなに睨まなくても、明日にはちゃんと出しますよぅ」
「ちゃんとパソコンで清書して、データで出せよ。その汚ったないルーズリーフは受け取らないからな」
「へいへい」

 わたしには「デッドラインの女神」の二つ名がある。先輩から賜ったものだ。
 原稿の提出はいつも締め切りギリギリ。でも落としたことは一度もない。

 ちなみに夏休みの課題も最終日に始めて徹夜で終わらせるタイプだ。決して計画性がないわけじゃない、土壇場での集中力が人並外れていると言ってほしい。

 そんなわたしは、部長の智くんの目にはどうしようもない変人に映っているみたい。

 ……わたしには林檎の命題を語るあなたの方がよっぽど変人に見えるよ智くん。口が裂けても言わないけどね。

「おい、手が止まってる」
「……智くんが人の原稿にケチつけてくるからでしょう」
「はあ? 大体『林檎のように赤い』とかいう凡百な表現を使うなよ、もっと後輩の手本になるようなやつを考えろ馬鹿」

 また! また馬鹿って言ったよこの人。
 そんなに馬鹿馬鹿言われちゃ、さすがのわたしも黙ってはいられない。

 わたしはペンを置くと机に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて、にこりと笑って首を傾げてみせた。

「え〜じゃあお手本になるような書き方を教えてくださいよ智センパイ」

「……」

 すると、眉間のしわをさらに濃くして黙り込んでしまった智くん。
 険しい視線はわたしの手元にあるルーズリーフの走り書きに向けられている。


「……瑞々しく、桜桃色に煌めく頰、とか」


 やがて彼の口からこぼれてきたぶっきらぼうな声と、思いの外可愛らしかったその表現に。

 不覚にも、少しときめいてしまった。


「――さくらんぼ! なるほどその手があったか」
「真似するなよ。それに、今のは前後を読んでパッと思いついたやつだから……もう少し考えればもっといいのが浮かぶ……」

 本人にも可愛らしすぎた自覚はあるようだ。先ほどまでと比べもごもごと声に威勢がない。頰と耳が心なしか赤く染まって見える。相変わらず表情は不機嫌なままだけれど。

 ……でもたぶん、できるだけわたしの文章を崩さない表現を考えてくれたのだろう。
 林檎の赤から、さくらんぼの、赤。手法は違えど近しいところが、妙に嬉しい。

 なんだ。
 なんだかちょっと、得した気分。

「ほんと、外見は当てにならないね」
「……どういう意味だ」
「んー? 智センパイのおかげで原稿が捗りそうだなって」
「へぇそれは良かった。じゃあ今日中に書き上げろよ、俺が帰るまでに」
「うわぁ鬼がいる……」

 そんなことを言いつつも智くんは明日まで待ってくれるし、わたしは必ず明日までに書き上げる。お互いにちゃんと知っている。

 まぁなんというか、変人藤島同士、一周回って案外波長が合うのかもしれない。

 それがわたしには不思議と嫌ではなくて、こうしてふたりで過ごす時間も居心地がいいと思えるのだ。


「やっぱりわたしは林檎でいこうかな」
「……好きにしろ」

 ふふ、と笑みがこぼれ、わたしはまたペンを握った。

 ――そうだな、たとえば。たとえばこんなのはどうだろう。



 白くつややかな頰をほんのり赤く染めてはにかむその子はまるで林檎のようで、はて甘いだろうか酸っぱいだろうかと、そんなことを考えてしまうぼくは、


 たぶんきっと、恋をしている。





END