にくゑ-断片

■エピローグ・真実

 最初に、この封筒を投函したのは誰だったのか。
 その問いに答えるには、順番を正さなければならない。

 まず、村へ行った。私は一人ではなかった。彼女と一緒だった。吉川から届いた手紙に、私は紙の上で応じようとしたが、彼女は違った。

 「私も行く」

 彼女はそう言って引かなかった。私はルポライター、彼女はライター。現場で空気を吸う私と、資料に潜る彼女。視点は違っても、並んで同じ道を歩いた。

 村はすでに崩れていた。焦げた柱、黒く塗りつぶされた壁、冷えた灰。それでも資料を集めた。役場の控え、ノートの頁、写真の裏、診療所の記録。二人で黙って封筒に入れた。
 紙は最初から湿っていた。触れると、指先が生き物の体温を吸い取られるように沈み、甘い匂いが喉の奥に溜まった。

 ――そして、にくゑに会った。

 誰かの泣き声がした。幼い影がこちらを振り向いた気がした。その瞬間から、私の記憶は欠け始めた。彼女とどこまで歩いたのか、何を見たのか、どのページを拾い、どのページを落としたのか――白く上塗りされたように消えていった。



 今、私は机に座り、断片を整理している。

 封筒から紙片を取り出し、年代順に、出来事ごとに、筆跡で束ね直す。順番を並べ替えるたび、凍っていた部分がわずかに溶けていく。
 思い出す。

 村へ行ったことを。彼女と並んで歩いたことを。封筒に押し込んだことを。あの影を。

 そして、思い出す。
 私は受け取ったのではない。このマンションのポストに投函したのは、私自身だった。
 村から出て、意識も朦朧としたまま、村の外で気絶していた彼女を伴い、東京へと戻る。
 そして――資料をまとめた封筒を自分自身で郵便受けに入れたのだ。

 曖昧な記憶のまま、私は日常を取り戻した。
 唯一の救いは彼女が無事だったことだろう。
 あれから何度か話すことがあったが、彼女も恐怖のあまり記憶を失っていたようだ。
 
 私と村に赴いたことすら覚えてはいない。
 私も彼女を悪戯に刺激したくはないと、あのことは話さなかった。

 ――悪夢は言葉の形でやって来る。夜ごと、枕元で囁きが積もる。「おかあさん」――誰に向けられた声なのか、私は分からない。だが、その声に反応する私の手が、時々、他人のものに見える。

 指の腹に小さな口が生え、紙の粉を啜っている錯覚。鏡に映る自分の喉の奥で、何かが影のまま呼吸している。
 私はようやく気づいた。私もまた汚染の輪の中にいる。受け取ってからではない。封筒を作ったときから、もう。
 恐らく、あの村であれに出会った時から。

 だから、ここから先は希望を託す。
 私が順番を並べ直し、すべてを書き残し、そして――彼女に託す。彼女は有能なライターで小説家だ。資料を集め、分析し、言葉で世界を固定できる。 私にはもうできなくなったことが、彼女ならまだできるかもしれない。

 あそこで遭った恐怖の記憶を揺り起こすことは本意ではないが、もう彼女しかいない。
 私よりもずっと商業出版の実績がある彼女なら。
 ――それが原因で喧嘩もしたな。
 くだらない俺の劣等感のせいだ。

 だが彼女なら。
 そう、これを記事に。
 あるいは小説に。
 人の目に触れ、警告をつくることが彼女になら。

 夜道を歩く。手の中で封筒が脈を打つ。
 懐かしい彼女のマンションの前に立つ。
 表札の文字が夜気ににじんだ。私はポストの金属の口を開く。封筒を差し入れる。落ちる音が腹の底で響く。

 これが、私に残された最後の希望だ。
 闇の中で、封筒は静かに息を吸ったようだった。



 夜の街を彷徨う。
 人目を忍び、誰もいない路地から路地へ。
 生き物に出会ってはいけない。

 意識は随分と朦朧としていて、常に酒に酔っているようだ。そして頭の中には常に声がしている。
 腹にも目が生えてきた。肩には口。
 私が人でいられる時間も、そうは長くないだろう。
 このままだと、私自身が感染源になる。

 病院に行くことも考えた。
 しかし無理だ。真っ先に診察した医者が感染する。
 そしてその時、私が私でいる保証はどこにもない。

  ――そして今、私は実家のガレージにいる。
 最後の力を振り絞り、準備を整えるために。
 目の前にはガソリンが詰め込まれた一斗缶。地下のここなら火災が広がることもなく、私だけを、にくえだけを焼くことができるだろう。

 ああ、こんなことならさっさと寄りを戻しておけば良かった。
 未練がましいが、私はまだ彼女を愛している。
 手の甲に生えた口が、にやりと笑みを浮かべたようだった。
 
  ――後のことは頼む。
 君になら、きっと……。
 そう心の中で呟いて、私はライターに火をつけた。