にくゑ-断片

■断片28|おかえり
【メモ帳より】
 家に帰ったとき、誰もいないはずだった。
 玄関の鍵を開けたのは、私だった。
 お母さんはもう死んでるし、一人暮らしなのに。

 でも、扉を開けた瞬間、奥から声がした。

「おかえり」

 低くて、静かな声だった。
 女の人の声。どこかで聞いたことのある、でもすぐには思い出せない声。

 私は靴を脱いだまま、動けなくなった。
 冷たい空気が廊下を流れていた。
 台所からは、何の音もしなかった。

 リビングの電気は消えていた。
 でも、机の上にコップがひとつ置いてあって、水滴がついていた。
 さっきまで誰かが使っていたみたいだった。

 呼ばれた気がして、部屋をひとつずつ見てまわった。
 でも、誰もいなかった。
 押入れも、風呂場も、床下も。

 なのに、背中に何かの視線を感じた。
 それは、懐かしさと、怖さがまざったような気配だった。

 あとになって、思い出した。
 あの声、お母さんの声に似ていた気がする。
 でも、お母さんはもう死んでる。

 それとも、あれは――私自身の声だったのかもしれない。
 未来の私が、過去の私を迎えてくれたのかもしれない。