■断片I|『肉を祀る民俗──或る村落信仰の実相』第二章抄
(私家版・奥付なし/著者:鶴来 忍)
供物とは本来、愛の表明である。
子に乳を与える母のごとく、村人は神に米や酒を捧げる。そこには畏れと同時に「生きてほしい」「見守ってほしい」という愛情が潜んでいる。
だが、肉ゑ信仰においてはその愛が反転する。
人々は肉を差し出し、やがて人の肉をも差し出す。つまり「喰わせる」ことで愛を証明するのである。
愛の最終形は、肉体そのものを相手に委ねることだ。
村人が蓋の娘を送り出すとき、笑顔を強いるのもそのためだ。涙は「別れ」を示す。だが笑顔は「すべてを与えた」という姿勢を示す。
愛を断ち切らず、愛を肉に変えて捧げる。そこに共同体の歪んだ論理がある。
なり損ないとは、愛を中途で切られた存在である。十分に喰わせず、十分に捧げず、半端に与えられた愛が形を持ったものだ。だから彼らは飢え、歪み、笑うしかない。
私は考える。肉ゑとは「愛の集合肉」であると。
それは人間の根源的な欲望──与えたい、包みたい、同化したい──という衝動が、肉を通じて具現化したものだ。
だから肉ゑは恐ろしく、同時に甘美なのだ。祈りと愛が過剰になったとき、それは必ず「肉」として現れる。
(私家版・奥付なし/著者:鶴来 忍)
供物とは本来、愛の表明である。
子に乳を与える母のごとく、村人は神に米や酒を捧げる。そこには畏れと同時に「生きてほしい」「見守ってほしい」という愛情が潜んでいる。
だが、肉ゑ信仰においてはその愛が反転する。
人々は肉を差し出し、やがて人の肉をも差し出す。つまり「喰わせる」ことで愛を証明するのである。
愛の最終形は、肉体そのものを相手に委ねることだ。
村人が蓋の娘を送り出すとき、笑顔を強いるのもそのためだ。涙は「別れ」を示す。だが笑顔は「すべてを与えた」という姿勢を示す。
愛を断ち切らず、愛を肉に変えて捧げる。そこに共同体の歪んだ論理がある。
なり損ないとは、愛を中途で切られた存在である。十分に喰わせず、十分に捧げず、半端に与えられた愛が形を持ったものだ。だから彼らは飢え、歪み、笑うしかない。
私は考える。肉ゑとは「愛の集合肉」であると。
それは人間の根源的な欲望──与えたい、包みたい、同化したい──という衝動が、肉を通じて具現化したものだ。
だから肉ゑは恐ろしく、同時に甘美なのだ。祈りと愛が過剰になったとき、それは必ず「肉」として現れる。
