赤く染まった空の下、一頭の黒い馬が街道を進んでいた。背には一人の少年と少しの荷物を乗せている。
日中の暑さは鳴りを潜め、気温が下がってきていた。しかし、馬体にまとわりつくハエたちにはまだ家路に着く様子はなく、馬は時折立ち止まってはいらいらと振り返る素振りを見せていた。
鞍上の鳶色の髪の少年――トゥルクはほらほら、と虫を気にする相棒を宥めてやりながら、
「リブレ、虫ばっかり気にしてないでよ。早く街に戻らないと夜になっちゃう」
トゥルクが声を掛けてやると、青鹿毛の牝馬は渋々といったふうに前を向いて、てくてくと歩き始めた。
今は夏で、日没が遅い季節だとはいえ、完全に日が落ちてしまえば冷え込むし、何かと物騒だ。ある程度きちんと整えられた街道沿いとはいえ、夜陰に紛れて獣や盗賊に襲われる危険だってある。仕事柄、多少の護身の術は心得ているものの、できることならそういった危険とは関わり合いにならないのが一番だった。
空に夜の藍色が混ざり始めた東の方角へと向かって、一人と一頭は進んでいく。この道をしばらく進めば、トゥルクが何日か前から滞在しているコルニスの街に着く。しかし、こんなゆっくりとした速度で進んでいては、コルニスに着くころにはおそらく月が昇ってしまう。
「リブレ、ちょっと走ろうか」
トゥルクが脹脛でリブレの腹部を圧迫して指示を出すと、それまでゆったりと歩いていたリブレの足取りがすたすたと早くなる。リブレの頭の上下動が大きくなり、歩幅が広がったことを確認すると、トゥルクは体を起こす。手綱を短く持ち直すと、左脚を後ろに下げる。トゥルクが左脚でリブレの腹を押すと、リブレは一瞬、嫌そうに耳を後ろに倒した。しかし、それ以上リブレは反抗を見せることはなく、タタタンタタタンと走り始めた。
西の地平線の向こう側へ沈みゆく夕日が、一人と一頭の後ろ姿を静かに見ていた。
トゥルクがコルニスの街に入ったころには、空は宵闇に覆われ、星々が思い思いの図形を描いていた。とっぷりと日は暮れ、肌を撫でていく風が少し冷たい。
運河と木組みの家々の間をトゥルクはリブレに跨ったままゆっくりと進んでいく。石畳の道の両端に等間隔に並べられた篝火がトゥルクの行く手を煌々と照らしている。
青い屋根の大きな木組みの建物の前まで来ると、トゥルクはぐっと手綱を握る手に力を込めた。トゥルクの合図に気づいた黒い馬はすぐに反応し、足を止める。
リブレが完全に止まったことを確認すると、トゥルクはぽんぽんと彼女の首筋を叩いて褒めてやる。そして、右脚を鐙から引き抜き、左脚を軸にしてトゥルクは体を回す。左脚も鐙から抜くと、体をリブレに押し当てながら、地面へとぽんと飛び降りた。左右の鐙を鞍の上に乗せると、トゥルクは手綱を引いて、リブレを厩へと連れて行く。
「リブレ、今日もお疲れ様」
労わる言葉をかけながら、トゥルクはリブレの背にくくりつけていた荷物を下ろしてやる。続いて鞍を固定するためのベルトを外し、よいしょ、と気合いをいれながら、ずっしりと重い鞍とその下の厚手の敷き布をリブレの背から下ろした。
喉元のベルトを解き、ハミと手綱が連なった革製の馬具――頭絡をリブレから外してやると、トゥルクはそれを慣れた手つきで畳んでいく。鞍と頭絡を片づけると、煩わしい荷物から解放されたリブレがおやつを求めてトゥルクへと擦り寄ってきた。
はいはい、とトゥルクは右手で相棒の鼻筋を撫でてやりながら、左手で腰に下げた革のポーチから角砂糖を取り出した。ご褒美の存在に気づいたリブレはトゥルクの左手に口元を近づけてきて、嬉しそうにそれを口にした。
荷物からブラシを取り出すと、角砂糖のお代わりを要求してくるリブレを適当にいなしながら、トゥルクは丁寧に彼女の黒い体毛を梳かしていく。体を刺激するブラシの感触が心地よかったのか、次第にリブレは大人しくなっていく。
トゥルクは腰のポーチから、小さなブラシと金属の突起がついた蹄を手入れするための道具――鉄爪を取り出すと、軽く屈む。足元を飛び交うハエを追い払いたいのか、時折振り上げようとしている後肢に注意を払いながら、トゥルクは肩でリブレの前肢を押す。足の裏を手入れしてもらえることを察したリブレは、トゥルクに押された足の角度を変える。トゥルクはリブレの足を持ち上げると、爪の部分を掴み、鉄爪の金属の突起で足の裏に詰まった土を抉り出していく。リブレの足があらかた綺麗になると、トゥルクは鉄爪の小さなブラシで彼女の足の裏にわずかに残っていた土を払い落とした。リブレの足を下ろすと、トゥルクは残りの三本も同様に手入れを続けていく。
一通りの手入れが終わると、トゥルクは出した道具をしまい直し、下に置いたままだった荷物の袋を背負う。額に愛らしいハート模様がある顔をすり寄せてきたリブレの首筋をぽんぽんと撫でてやると、「おやすみ、リブレ。ごはんとお水はもらえるように宿の人に言っておくね」トゥルクは厩を出ていった。
トゥルクは宿屋の正面に回ると、ガチャンと音を立てて木の扉を開く。扉の上部に付けられた真鍮のベルがチャリンと音を立て、彼の帰着を知らせた。
ベルの音を聞きつけたらしい女主人のエルカが他の宿泊客に給仕をしていた手を止め、トゥルクを出迎える。
「あら、トゥルクくん。遅かったわね」
「すみません。今日はバリュス廃坑のほうに行ってきたんですけど、少し奥の方に入り込みすぎちゃって」
「夢中になるのはいいけれど、気をつけないと駄目よ。子供があんまり危ないことをするべきじゃないし、こうして遅くまで出歩くのも心配だわ」
話の内容がだんだんと小言じみてきて、トゥルクは辟易する。歳の近い息子がいるというエルカは、ついトゥルクのことが心配になってしまうようだ。危険がつきものの商売に身を置くトゥルクは、気持ちだけはありがたく受け止めることにして、近くに置かれていた本日のお品書きへと視線をちらりと向ける。ここの宿はエルカの作る家庭料理がおいしい。本日のおすすめは朝採れたまごの半熟オムライスとなっている。
「エルカさん、今日ってまだオムライスありますか? 僕まだ晩御飯食べてなくって」
そう訊くと同時に、タイミングよくトゥルクの腹がぐぅぅと鳴る。昼食はりんごをリブレと半分に分け、軽めに済ませてしまっていたので、空腹なのは当然だ。エルカはまだ小言を言いたりなさそうにしていたが、仕方ないわね、と肩をすくめると、
「ちょっと待っててちょうだい。すぐ準備するから」
エルカは近くの客の空いた皿をテーブルから下げながら、カウンターキッチンの中へと入っていった。
エルカがとんとんと包丁で具材を切っている小気味よい音を聞きながら、トゥルクはきょろきょろと空いている席を探す。
「トゥルク」
ふいに男の声に名前を呼ばれ、トゥルクはそちらを振り向く。視線の先には、ビールがなみなみと注がれたジョッキを手にした赤ら顔に髭を生やした豪気そうな中年の男がいた。ジョッキを持ってない方の手で手招きをしているよく見知った男へと会釈すると、トゥルクはテーブルへと近づいていく。
「オーレンさん。この街に来てるなんて、偶然だね」
「おう。このエリン島の鉱山からはいい石がよく採れるからな。この街はどこに行くにしても便利だし、おまけにここの女将は美人な上に飯も美味いからな」
立ち話もなんだし座れって、と相席を勧められ、テーブルの下に荷物を置くと、トゥルクはオーレンの向かい側の椅子に腰を下ろす。
オーレンは旅の商人だ。日用品や高価な装飾品、果てには情報まで手広く扱っている。オーレンは、今は亡き、学者だった祖父のウェドフのもとで学問を教わっていたことがあり、一時期トゥルクの家に居候していた。その縁で、まだ十一歳だったトゥルクが唯一の肉親を失い、生きるためにトレジャーハンターとなった後も、彼は何かと良くしてくれていた。
「おまちどうさま」
エルカがたまごがとろとろのオムライスの皿を運んできて、トゥルクの前へと置いた。上からかけられたデミグラスソースの匂いが食欲を刺激する。
オムライス以外にも、皮がぱりぱりのチキンステーキやさくさくとしたきつね色の衣がついたコロッケ、バターが添えられたふかし芋や軽く炙られたバケットと、エルカはテーブルの上に次々と皿を並べていく。美味しそうではあるが、頼んだ覚えのない品の数々にトゥルクは困惑しながら、
「エルカさん……これは?」
「トゥルクくんは成長期なんだからもっと食べないと駄目よ。お代なら気にしないで。そこのおじさんが払ってくれるから」
しれっとエルカがそんなことをのたまうと、ぎょっとしたような顔でオーレンが口に含んでいたビールを吹いた。
「ちょっとオーレンさん、汚いわよ。その辺、後でちゃんと拭いておいて」
「いやいやいや! 知らないうちに俺の奢りになってる上にこの仕打ち! エルカさん、そりゃないっすよ!」
「冗談よ。トゥルクくん、これは私からのサービスだから気にしないで食べてちょうだい」
「ありがとうございます。あと、申し訳ないんですけど、リブレにもごはんとお水をあげてもらってもいいですか?」
「わかったわ。ちゃんとやっておくように息子に言っておくわね」
それじゃごゆっくり、とエルカは軽く一礼すると、踵を返して去って行った。エルカがいなくなると、何なんだよもうとぼやきながら、オーレンはビールを一息に飲み干した。
いただきます、とエルカの厚意に感謝しながらトゥルクは手を合わせると、テーブルの隅にあったラタンのカトラリー入れからスプーンを手に取った。まだ固まりきっていない黄身と白身のマーブル模様が美しいオムライスをスプーンですくおうとしていると、オーレンが近況を尋ねてきた。
「トゥルク、最近どうだ? さっきエルカさんに今日はバリュス廃坑に行ったとか言ってたが、成果はどうだった?」
オーレンはテーブルに肘をつきながら、オリーブのオイル漬けをフォークの先でつついている。トゥルクは口の中のオムライスを飲み下し、スプーンを動かす手を止めると、
「オーレンさん、行儀悪いよ。今日は上々かな。帰りが遅くなっちゃったけど、おかげでまあまあ価値のあるものが出てきたし」
「お、何が出てきた? 物が悪くなければいつも通り買い取ってやるよ」
興味を示したように、オーレンはテーブルから身を乗り出し、酒臭い顔をトゥルクへと近づけてきた。トゥルクはスプーンを皿の上に置くと、テーブルの下に置いた荷物をまさぐり、じゃらじゃらと音がする小袋を取り出した。トゥルクは袋をオーレンに手渡しながら、
「たぶん、古い時代のお金だと思うんだよね。最近流通しているものとは、全然デザインも重さも違うし」
オーレンは袋を受け取ると、急に真顔に戻り、
「わかった。鑑定が終わったら、後で部屋に行く。ところで、トゥルクはまだしばらくこの街にいるのか?」
「どうしようかなって思ってる。北の森のほうにも足を伸ばしてみたいけど、今のところ特に目ぼしい情報もないし」
バケットを手に取って、オムライスのソースをつけながらトゥルクがそう答えると、オーレンは椅子の背に掛けていた上着のポケットから一枚の羊皮紙を引っ張り出した。
「北ってことは、ドバシアの森のことだよな? ここにドバシアの森の地図があるんだが、譲ってやろうか? 格安で」
本当に、とトゥルクは聞き返しながら、食事の手を止めると、口に運ぼうとしていたバケットを皿の上に置く。彼は茶褐色の目を輝かせ、テーブルから身を乗り出すと、
「オーレンさん、いいの!? いくら?」
「そうだなあ、そこのコロッケ一つと交換でどうだ?」
「お金なら別に持ってないわけじゃないし、払うのに……本当にいいの?」
「おう。エルカさんのコロッケは美味いからな」
わかった、とトゥルクが頷くと、持っていた地図をオーレンは差し出した。トゥルクがそれを受け取ると、「交渉成立、と。それじゃ遠慮なく」オーレンは手を伸ばし、コロッケへとフォークを突き刺した。
トゥルクは紙ナプキンで指を拭うと、がさがさと音を立てながら、オーレンからもらった地図を開く。目に飛び込んできた地図の緻密さにトゥルクは思わず息を呑んだ。トレジャーハンターなんていうものを生業にしていても、手に入る地図は大まかな地形と主要な道や川が記されているだけのものなどが多いのに、この地図には獣道と思しき細い道までしっかりと記入されていて、その精度に驚かされる。印がつけられた場所の近くには古い時代の文字で書き込みがされているが、トゥルクの語彙力ではその単語の読み方も意味もわからなかった。呼吸も瞬きも食事も忘れて地図を見入っていると、コロッケを食べ終えたオーレンが呆れたように、
「まったく、ウェドフ先生そっくりの顔しやがって。おーい、トゥルク」
名前を呼ばれて我に返ったトゥルクは地図から目線を上げ、髭面の男を見た。
「オーレンさん? 何?」
「何って、お前なあ……。まったくそんなきらきらした嬉しそうな顔しやがって。本当にウェドフ先生――じいさんそっくりだよ、お前は」
苦笑混じりにオーレンにそう言われ、トゥルクは在りし日の祖父のことを思い出す。考古学や地質学を専門としていたウェドフは、この世界の歴史についての考察をとっておきの物語を教えるように、時折トゥルクに話してくれた。そういうときのウェドフはいつだって楽しそうで、彼の口から紡がれる物語にトゥルクはいつしか憧れを覚えるようになっていた。
「この世界にまだ知らないものがあるかもって、見たことのないものがあるかもって思うと、僕はどきどきして仕方ないんだ。きっと、おじいちゃんもそうだったんだと思う。それに僕がおじいちゃんに似ているのは当然じゃない? おじいちゃんの話を聞いて育ったからこそ、自分で未知のものを探しに行きたいって思ったんだし。だから、おじいちゃんが死んで一人になったとき、僕はトレジャーハンターになる道を選んだんだよ」
オーレンは眩しいものを見るような目でトゥルクを見ていたかと思うと、ビールが入っていたジョッキにテーブルの上の水差しの中身をどばどばと注ぎ始めた。オーレンは水を一気に飲み干すと、
「トゥルク、そういうとこだよ、お前。体力仕事なトレジャーハンター様はちゃんと飯食え。っていうかさっさと食わねえと、せっかくの飯が冷めるぞ。いらねえなら俺が食うけどな。コロッケの中のクリーム濃厚で美味かったし」
ジョッキをテーブルに置き、フォークを握り直すと、げらげらと笑いながらオーレンはチキンステーキの皿に狙いを定める。トゥルクはテーブルの隅に地図を畳んで置くと、目の前の大人に冷ややかな視線を浴びせながら、「やめてよ、オーレンさん。大人が子供のご飯取るなんて恥ずかしくないの?」「えー、いいだろ少しくらい」二人は顔を見合わせるとぷっと吹き出した。
「もう何でもいいからさっさと飯食え。俺は先に部屋戻って、さっきのやつの鑑定やっとくから」
トゥルクのおかずを掠め取るのを諦めると、オーレンはフォークを置いて立ち上がる。
「それじゃあ後で」
「おうよ」
オーレンはふらふらとしながらもトゥルクが渡した小袋を持って踵を返すと、客室のある二階へと続く階段を登っていった。その背を見送ると、トゥルクはスプーンを握り直し、食事を再開した。
トゥルクが流行病で両親を立て続けに亡くしたのは五歳のときのことだった。一人ぼっちになってしまったトゥルクはソフィア島のユーヴル村で学者をして暮らしている祖父のウェドフに引き取られた。
ウェドフは老齢ながらも矍鑠としていて、自ら遠方の深い森や険しい山などに調査へ行くことも多かった。幼い子供を一人で家に残すわけにも行かず、ウェドフはいつも調査の仕事にトゥルクを連れて行ってくれた。
ウェドフはいつも、孫であるトゥルクの歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、この世界の歴史や、地質学から読み取れる世界の成り立ちについての仮説をわかりやすく話してくれた。ウェドフの話は面白く、すぐにトゥルクはこの世界の秘めるロマンの虜となった。
あるとき、ウェドフに連れられてエリュセカの森に訪れた際に、トゥルクは一頭の黒い馬と出会った。額に白いハート模様のあるその牝馬は背に鞍と荷物を乗せており、森に住む野生の馬ではないであろうことが推して知れた。
黒い馬は首を長く伸ばし、低い位置にいるトゥルクと目線を合わせた。トゥルクは大きく深い彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして息を呑んだ。
馬と見つめ合っているトゥルクの横で腰を屈め、ウェドフは馬へ向けて自身の手を差し出した。興味がトゥルクからウェドフに移ったらしい青鹿毛の馬は鼻先をウェドフの手へと寄せる。
「ほら、トゥルク。おじいちゃんの真似をして、お馬さんに挨拶してごらん」
うん、と頷くとトゥルクは祖父に倣い、手を馬の方へと差し出す。
「ねえおじいちゃん、この子迷子かな?」
どうだろうなあ、とウェドフは思案げな顔をする。馬の大きな瞳には物言いたげな光が浮かんでいる。視線と耳を背後へと向ける馬をウェドフは眺めながら、
「もしかしたら、あっちのほうに飼い主がいるのかもしれないね。この子を連れて様子を見にいってみようか」
ウェドフは馬の首にかけられていた手綱を下ろすと、それを引いて進み始める。「後ろは危ないから、おじいちゃんの横を歩きなさい」「うん」頷くと、トゥルクはウェドフの左側を歩き始めた。
馬と共に木立を進んでいくと、ウェドフとトゥルクは三十代半ばほどの男が蹲っているのを見つけた。タタ、とトゥルクは駆け出すと、男へと声をかけた。
「おじさん、大丈夫? 怪我してるの?」
男は苦笑すると、
「ああ、ちっとばかり背中を打っちまって。情けない話なんだが、木陰にいた小鳥に驚いたそいつにうっかり振り落とされてな。じいさん、そいつを――リブレを捕まえてくれて助かった。礼を言う」
よいしょ、と男は立ちあがろうとする。「痛っ」しかし、背中の痛みがひどいのか、男はよろけて再び蹲ってしまう。
「トゥルク。この子の手綱を持っていなさい。おじいちゃんがしていたのと同じようにやれば大丈夫だから」
トゥルクはウェドフから手綱を受け取ると、横にいるリブレをちらりと見る。横にいる馬という生き物は優しげで美しいが、まだ幼いトゥルクに比べるとかなり大きい。その大きさにわずかに恐怖を覚えていると、怖くないよとでも言いたげにリブレがそっと鼻面をトゥルクの肩へとつけた。
ウェドフは自分より体格の良い男に肩を貸し、立ち上がらせる。
「その体じゃ辛いだろう。ワシらが泊まっている村まで一緒に来るといい。医者も手配してやろう。ワシは学者のウェドフ・ツェイラー、この子は孫のトゥルクだ。きみ、名前は?」
「俺はオーレン。オーレン・ヴェイオールだ」
ウェドフとトゥルクはオーレンとリブレを泊まっていたノルーム村まで連れ帰った。オーレンを医者に見せると、骨こそは無事だったものの打撲がひどく、しばらくの間、安静を言い渡された。
オーレンはノルームでの滞在中、看病兼留守番役として残されたトゥルクの話を面白そうに聞いてくれた。とりわけ、ウェドフの仕事の話について、オーレンは興味を持ったようだった。
数日にわたるエリュセカの森の調査が終わり、ウェドフとトゥルクがユーヴル村に帰ろうとしたとき、オーレンは話があると切り出した。オーレンはウェドフの元で学問を教わりたいと頭を下げ、彼はリブレを連れて、トゥルクたちの帰路についてきた。
それから、二年ほど、オーレンはユーヴル村のトゥルクの家に住み込み、ウェドフの元で手伝いをしながら学問を修めた。ウェドフは自分の専門である考古学と地質学以外にも、自分が知る限りの知識をオーレンへと教えた。
オーレンが居候していた二年の間に、彼が連れてきたリブレとトゥルクはすっかり仲良くなっていた。どうしてもリブレと離れたくなくて、無理を言ってトゥルクはオーレンが村を去るときにリブレを譲ってもらった。こうして、リブレはトゥルクの親友であり、無二の相棒となった。
オーレンがユーヴル村を去って二年半ほど経ったころ、ウェドフがこの世を去った。幸せになりなさい、それがトゥルクに向けられたウェドフの最期の言葉だった。
ウェドフが亡くなってしばらく経ったころ、十一歳にして天涯孤独となり、今後の身の振り方について考え始めていたトゥルクの元をオーレンが訪ねてきた。ウェドフの元で学んだ知識を活かし、商人となっていたオーレンは、自分と一緒に来ないかとトゥルクを誘った。
「俺にはお前を一人で放っておくことはできねえ。トゥルク、俺と一緒に来ないか? 旅から旅の不安定な暮らしだが、それでもお前一人を養ってやることくらいはできる」
しかし、トゥルクはオーレンの厚意からの言葉に首を横に振った。
「オーレンさん、僕は一緒に行けない。僕、トレジャーハンターになりたいんだ。僕、おじいちゃんが生きてたころからずっと考えてたんだ。この世界を、まだ見たことのないものの数々を、自分の目と足で見に行きたいって」
オーレンは言葉を重ねてどうにかトゥルクを説得しようとした。しかし、トゥルクの意志は固く、最終的には根負けしたオーレンが折れることとなった。
こうしてトゥルクはリブレを連れて、六年間暮らしたユーヴル村を離れ、トレジャーハンターとしての道を歩み始めた。
この辺りか、とあたりをつけるとトゥルクは手の中の手綱を強く握り込み、リブレを止めた。昨夜のうちに読み込んだ地図によれば、この先の小川の辺りにトゥルクの探しているものがあるはずだった。
トゥルクはリブレの首筋を軽く叩いて褒めてやると、腰のポーチからコンパスとオーレンからもらったドバシアの森の地図を取り出す。今いる場所と地図に記載された内容を見比べるが、大きくずれはなさそうだった。
生い茂った木々の枝々の隙間から、力強い太陽の光がトゥルクの背中を照らしている。太陽の角度から、そろそろ昼になるなとトゥルクは思った。朝早くに宿で朝食を食べたっきりの体が空腹を訴え始めている。腹が減っては戦はできぬという言葉もあることだし、探しものは昼食後にしようとトゥルクは決め、地図とコンパスをポーチにしまった。待つのに飽きてしまったのか、蹄で地面を掘っているリブレの腹をトゥルクはブラウンのブーツシャフトに包まれた脹脛で優しく圧迫した。すると、リブレは少し先に見える小川の方に向かってゆっくりと歩き始めた。
さらさらと穏やかに流れる小川のほとりで再びリブレを止めると、トゥルクは鐙を脱ぎ、リブレの胴に自分の体を押し当てながら、地面へと飛び降りた。擦り寄ってくるリブレの鼻面を軽く撫でてやると、手綱を掴んでトゥルクは川の中へ降りていく。トゥルクも水中に手を突っ込むと、水をすくい上げて乾いた喉へと流し込んだ。喉を流れ落ちていくひんやりとして甘やかな水の感触が心地よく、熱のこもった体が少しずつ冷やされていくのを感じる。
川で愛馬に水を飲ませてやると川辺に戻り、トゥルクは腰のポーチの中からある程度の長さのある紐を取り出した。紐の端をリブレの頭絡に取り付け、もう一方を手近な木の幹へと結んでいく。複雑な手順を繰り返して、結んだ紐が解けないことを確認すると、トゥルクはリブレの後ろに乗せた荷物から昼食を取り出した。
今日のトゥルクの昼食は具沢山のバケットサンド、リブレの分はトゥルクがコルニスの街の朝市で買ったバナナだ。トゥルクの分については昨日の彼の昼食について知ったエルカが「ちゃんと食べなきゃ駄目でしょ!」と小言まじりに作ってくれたものである。
トゥルクは自分の昼食を食べる前に、バナナの皮を剥き、小さくちぎる。ちぎったバナナを手のひらに乗せると、早くくれと言わんばかりに振り返ってくるリブレの口元へと持っていった。手に触れる愛馬のふにゃふにゃとした口の感触がくすぐったいと同時に愛しくて、トゥルクは目を細める。
リブレがバナナを食べ終えると、トゥルクも近くの木の下に腰を下ろした。昼食の包みを解く。燻したチーズに焼いた鶏肉、薄切りにしたゆで卵にしゃきしゃきとしたレタス、分厚いトマトが挟まれたバケットサンドが姿を現した。パンの香ばしい匂いとたっぷりと塗られたバターの香りに口の中に唾液が溢れてくる。腹がきゅうと音を立て、たまらなくなってトゥルクはバケットサンドへとかぶりついた。
カリカリとしたパンの食感。鼻の奥を満たす燻製の匂いとチーズのまろやかさ。食べ応えのあるトマトの存在感と甘酸っぱさ。甘辛いソースがよく合う、肉汁がジューシーな肉。朝採れたばかりだという黄味が濃厚な半熟のゆで卵。シャキシャキとしてみずみずしいレタスは、それぞれの主張に負けることなく、全体をさっぱりとまとめ上げている。
口の中に広がる食材たちのハーモニーをじっくり味わう間もなく、バケットサンドは無心で食べ進めるトゥルクの胃の中に消えていった。
トゥルクは中身のなくなったバケットサンドの包みを四角く折りたたむとカーキのズボンのポケットにしまう。満腹で苦しい腹を抱えて、トゥルクは背後にある木の幹に体を預けた。視線の先では、先程のバナナは前菜で、これがメインディッシュとでも言わんばかりにリブレがもぐもぐと草を食んでいた。
木々の間から夏の木漏れ日がきらきらと輝きを見せている。トゥルクはオリーブグリーンのジャケットの袖口をまくり上げると、黒いスタンドカラーシャツの襟ぐりを掴んで、服の中へとばたばたと風を送り込む。服が汗で肌に張り付くくらい暑いけれど、川辺を吹き抜けていく風は爽やかだ。
ふう、と息を吐くと、トゥルクは立ち上がった。そろそろ今日ここを訪れた目的を果たさなければならない。
トゥルクは機嫌良く草を食べているリブレへと近づく。トゥルクの存在に気づいて甘えるように擦り寄ってきたリブレの首筋を撫でてやると、トゥルクはリブレに積んだ荷物からスコップを取り出した。
オーレンにもらった地図によると、目的のものがあるのは、ちょうどこの小川を渡った向こう岸のようだ。トゥルクは茶色のブーツを濡らしながら、ひんやりとして気持ちのいい川の中に足を踏み入れる。さらさらと流れていく小川のせせらぎが耳に心地よい。きらきらと夏の日差しを浴びてたゆたう川面をかき分けて、トゥルクは対岸へと渡っていく。
川岸にトゥルクは何かきらりと光るものを見た気がした。岸に上がると、トゥルクはその場所にかがみ込み、スコップで地面を掘り始めた。
地面を掘り進めていくと、スコップの先に何かが絡みついた。何だろう、と思いながらトゥルクは茶色いグローブを嵌めた手で土を払い除けていく。
「何だ、これ……?」
土の中に埋まっていたのは、薄汚れた金色の棒だった。先端は鉛筆のようにとがっているが、上部には装飾が施されており、筆記具のようには見えない。オレンジ色と白色の小さなガラスの花が可憐に咲くそれをトゥルクはつぶさに観察していく。先程、スコップに絡んでしまったのは、花々の下から垂れ下がる金色の細いチェーンのようだった。その意匠から、装飾品の一種のようでもあるが、このようなものは見たことはなく、どのような使い方をするものなのか男のトゥルクには見当もつかなかった。
持って帰ってオーレンに見てもらったほうがいいかと思いながら、ポーチの中にそれをしまおうとしたとき、棒の側面にあった小さな突起にトゥルクの指が触れた。
ふいに棒の先端が光を放ち始め、何もない空間に光の文字が刻まれ始める。驚きのあまり、トゥルクは危うく手の中の棒を取り落としそうになった。棒を持ち直すと、トゥルクは空中に綴られていく文字を凝視する。
(これは昔の文字……?)
現代の言葉の読み書きであればトゥルクは問題ないが、古い時代の言葉となると少々難しい。学者であった祖父のウェドフから多少手ほどきを受けたことはあったが、今のトゥルクでは単語を断片的に読み解くのが限界である。
その文章は、祈るような言葉によって始まっていた。読み進めていくにつれ、トゥルクの顔に困惑の色が浮かんでいく。
(南西、千五百歩……、女の子……?)
文章が難しくてあまり細かいことはわからなかったが、光の文字で綴られたその文章には一人きりで眠る女の子を目覚めさせ、幸せに生きさせてほしいといったようなことが書かれていた。文章に込められた、心から少女を思う気持ちに胸がぎゅっとなった。
少女を探してみようとトゥルクは思った。無駄足に終わる可能性もなくはないが、幸いにも、この文章に書かれていた場所は、ここからはさほど遠くない。
トゥルクは金属の棒を腰のポーチへとしまった。トゥルクは立ち上がるとスコップを手に、再び川を渡る。
帰ってきた、と言わんばかりにリブレがトゥルクを振り返った。ただいま、とトゥルクはリブレへと声をかけてやると、
「リブレ。あっちの方に何かあるみたいなんだ。ちょっと行ってくるから待っていてくれる?」
青鹿毛の馬はわかったとでも言うように、ぶるると鼻を鳴らした。
トゥルクはリブレの背に積んでいる荷物からナップザックを取り出すと、中身を確認する。ロープにヤギ革の水筒、乾燥させた肉や果物といった携帯食料、トゥルクでも取り回しやすいサイズのナイフ、怪我をしたときのためのの応急処置キット、火口箱にランプ、双眼鏡などが入っている。トゥルクはナイフを腰のベルトに吊るし、スコップをナップザックの中にしまった。トゥルクはナップザックを背負うと、南西の方向へと歩き出す。
トゥルクの行く手では、昼の日差しを浴びながら、葉の生い茂った大樹が彼を見下ろしていた。
先程目にした不思議な文章の内容に従って、トゥルクが小川から南西の方角へ千五百歩ほど進んでいくと、小川の辺りから見えていた大木の根元へとたどり着いた。
遠目には大樹に見えたそれは、よく見るとツタがびっしりと巻き付いた建物だった。この辺りは木々が密集しているため、間近で見ない限りは大きな木が生えているようにしか見えない。コルニスではこの森にこんなものがあるなどという話をとんと耳にしなかったのも頷ける。ここまで周囲の風景に溶け込んでしまっていては、建物の存在に気づく人間はそういないだろう。
光の反射ではっきりとは見えないが、はるか頭上で屋根と思しき鋭くとがった円錐の先端が顔をのぞかせている。細長い形状から察するにこれは塔だろうかと思いながら、トゥルクは緑に覆われた建物を見上げる。この感じでは以前に誰かがここを調査した様子はないし、これは前人未踏の遺跡である可能性が高い。まだ見ぬものへの期待でわくわくとトゥルクの胸は躍った。
トゥルクはここを訪れた目的を半分忘れながら、建物を覆うツタを手でかきわけていく。建物の外壁に触れた指先に伝わるつるりとした手触りに、あれ、とトゥルクは違和感を覚えた。
(何だこれ……? 土とか石じゃなさそうだし、レンガでもなさそうだ)
この世界の建築物は木造や土を塗り固めたもの、石やレンガを積み上げたものに大別される。しかし、トゥルクの指先に伝わる感触はそのいずれのものでもなさそうだった。トゥルクは腰のベルトからナイフを抜くと、塔を覆うツタを切っていく。外壁があらわになると、トゥルクは茶褐色の目を丸くした。
(ガラス……? それとも金属かな……? いや、これは……たぶんどっちでもない)
見れば見るほどに不思議な材質の建物だった。トゥルクが知る限り、これは現代の建築様式によるものではない。
(まさか……まさか、ね)
もしかしたらこれこそがかつて祖父から伝え聞いた、自分が探し求めていたものの一つなのではないかと思うと、トゥルクはどきどきした。目の前にある、未知のものの存在にトレジャーハンターとしての感覚が疼いてたまらない。
入り口がないか調べてみよう、とナイフを手にしたままトゥルクは歩きだす。少し傾いた塔の外周を半分ほど進んだとき、トゥルクの腰の黒いポーチが内側から発光した。それに呼応するように、ツタの内側からピピっという無機質な音が聞こえてきた。
(何だ……?)
疑問を覚えつつもトゥルクは手に持ったナイフで、音がした辺りのツタを切り払っていく。
(これ……この塔の入り口かな?)
ツタの下では闇を湛えた空洞がぽっかりと口を開けていた。中を覗き込もうとすると、ジジっという音とともに遺跡の内部が白い光によって照らし出され、トゥルクは反射的に身を引く。しかし、それ以上何かが起きる様子はなく、罠や仕掛けの存在に気を配りながら、もう一度トゥルクは戸口から中を塔の中を覗き込んだ。
トゥルクの視界の範囲内には落とし穴もなければ、上から何かが落ちてくる気配もないし、毒針が飛んでくるような様子もない。この分ならこの辺りには妙な罠や仕掛けはないと思っていいだろう。
蝋燭や松明によるものではない白い明かりが時折ちかちかと明滅を繰り返しながら、遺跡の中を照らしていた。一体どういう仕組みなのかもわからないし、恐らく現代の文明によるものではないだろうと思いながらも、一旦はランプの準備は不要と判断し、トゥルクは遺跡の中へと足を踏み入れた。
トゥルクは壁に手をつきながら遺跡の中を進んでいく。手に伝わる壁の感触はつるつるとして冷たい。何の素材によるものなのかは見当もつかないが、やはり今の文明レベルによるものだとは思えない。
(……あれ?)
トゥルクは目に映る風景に既視感を覚えて、足を止める。ここを訪れるのは初めてのはずなのに、知っているとトゥルクは思った。彼は記憶の中から既視感の正体を探っていく。そして、それの正体に思い至ると、トゥルクはあっと声を上げた。
(夢の遺跡……!)
トゥルクは昔から同じ夢をよく見る。夢の中のトゥルクはいつもどこだかわからない遺跡を歩いている。その遺跡はちょうどトゥルクが今いるこの場所に酷似していた。
まさか、と思いながらもトゥルクは再び歩き続ける。不思議な材質の壁や床。ジジジと音を立てながらゆらゆらと揺れる白い明かり。近づくとひとりでに開く扉。あまりにも長年繰り返し見てきた夢の内容との符合が多すぎる。夢で見たのと同じ角で通路を曲がると、夢で見た通りに扉が待ち受けており、トゥルクは偶然で済ますにはあまりにも無理がある状況に頬を引き攣らせた。
(ということは……いつも、夢で見るあの女の子がもしかして……?)
そんなことを思いながら、トゥルクは夢の中で歩き慣れた順路に従って、通路を進んでいく。夢の通りにいくつも扉をくぐり抜けるうちに、トゥルクは遺跡の最奥にたどり着いた。
最奥の部屋は繰り返し夢で見てきたように、大小様々なガラスの板が壁のそこかしこに貼り付けられていた。巨大な金属製の円柱やよくわからない液体が満ちたガラスの水槽のようなものが異様な存在感を放ちながら壁際に佇んでいるのが見える。天井の長い棒状の白い明かりの下、部屋の中央に蓋がガラス張りになったぼんやりと光る棺のようなものを見つけると、トゥルクの心臓はどくりと鳴った。
トゥルクは棺に近づくと、そっと中を覗き込む。やはり、棺の中には夢で見たのと同じ、長い黒髪の少女が横たわっていた。
美しい少女だった。どこかの富豪の息女か何かなのか、その肌は白く滑らかだ。祈るように胸の前で組んだ指先にも傷ひとつない。長い黒髪もさらさらとしてつややかだ。しかし、その服装はだぼっとした丸襟の白いシャツのようなものに青色の長ズボンという娘らしからぬ風変わりなもので違和感があった。
どうして彼女はこんなところで、たった一人眠っているのだろうか。何回も何十回も夢の中で彼女のことを目にしてきたはずなのに、トゥルクはその理由を知らない。
(だけど、いつもこの子は僕を呼んでた。見つけてって言ってた……!)
彼女を目覚めさせよう、とトゥルクは棺の蓋を持ち上げようとする。しかし、ぴったりと張り付いているかのように、ガラスの蓋は微動だにしない。
何か仕掛けがあるのかとトゥルクは棺の周りを調べていく。棺の足元の辺りに小さな金属の箱を見つけ、よく見ようとトゥルクがしゃがみ込んだとき、腰のポーチが再び内側から発光した。腰のポーチを開くと、先程川辺で手に入れた棒の上部のガラスの花が光を放っていた。
『ジュンカンリユーザをニンショウ。カイハツキ、システムをテイシします』
金属の箱から感情も温度もない女の声が発され、ピーという長い音が響き渡った。その音にトゥルクはなんだか嫌な予感を覚える。壁に貼り付けられた全てのガラス板に光が灯り、白い文字が浮かび上がり始めた。こういうときは逃げるべきだと、トレジャーハンターとしての勘が警鐘を鳴らしていた。ポーチに棒を押し込み直すと、トゥルクは立ち上がる。逃げよう、とトゥルクが踵を返しかけたとき、棺からカチリという音がした。唐突に室内に静寂が戻り、誰が何をしたわけではないというのに、勝手にガラス張りの蓋が開いていく。いつの間にか、壁のガラス板群や棺に灯っていた光も消えている。
え、とトゥルクは目を見張った。棺の中に横たわっていたはずの少女が体を起こし、こちらを見ていた。
「君は……君は、誰?」
トゥルクの口をそんな言葉がついて出た。それは長年、トゥルクが夢の中の彼女に聞けずじまいになっていたことであり、知りたくて仕方なかったことだった。
天井の白い明かりが、少女の白い顔を照らしている。こうして、トゥルクが長年の間、繰り返し見続けてきた夢の続きが始まった。
日中の暑さは鳴りを潜め、気温が下がってきていた。しかし、馬体にまとわりつくハエたちにはまだ家路に着く様子はなく、馬は時折立ち止まってはいらいらと振り返る素振りを見せていた。
鞍上の鳶色の髪の少年――トゥルクはほらほら、と虫を気にする相棒を宥めてやりながら、
「リブレ、虫ばっかり気にしてないでよ。早く街に戻らないと夜になっちゃう」
トゥルクが声を掛けてやると、青鹿毛の牝馬は渋々といったふうに前を向いて、てくてくと歩き始めた。
今は夏で、日没が遅い季節だとはいえ、完全に日が落ちてしまえば冷え込むし、何かと物騒だ。ある程度きちんと整えられた街道沿いとはいえ、夜陰に紛れて獣や盗賊に襲われる危険だってある。仕事柄、多少の護身の術は心得ているものの、できることならそういった危険とは関わり合いにならないのが一番だった。
空に夜の藍色が混ざり始めた東の方角へと向かって、一人と一頭は進んでいく。この道をしばらく進めば、トゥルクが何日か前から滞在しているコルニスの街に着く。しかし、こんなゆっくりとした速度で進んでいては、コルニスに着くころにはおそらく月が昇ってしまう。
「リブレ、ちょっと走ろうか」
トゥルクが脹脛でリブレの腹部を圧迫して指示を出すと、それまでゆったりと歩いていたリブレの足取りがすたすたと早くなる。リブレの頭の上下動が大きくなり、歩幅が広がったことを確認すると、トゥルクは体を起こす。手綱を短く持ち直すと、左脚を後ろに下げる。トゥルクが左脚でリブレの腹を押すと、リブレは一瞬、嫌そうに耳を後ろに倒した。しかし、それ以上リブレは反抗を見せることはなく、タタタンタタタンと走り始めた。
西の地平線の向こう側へ沈みゆく夕日が、一人と一頭の後ろ姿を静かに見ていた。
トゥルクがコルニスの街に入ったころには、空は宵闇に覆われ、星々が思い思いの図形を描いていた。とっぷりと日は暮れ、肌を撫でていく風が少し冷たい。
運河と木組みの家々の間をトゥルクはリブレに跨ったままゆっくりと進んでいく。石畳の道の両端に等間隔に並べられた篝火がトゥルクの行く手を煌々と照らしている。
青い屋根の大きな木組みの建物の前まで来ると、トゥルクはぐっと手綱を握る手に力を込めた。トゥルクの合図に気づいた黒い馬はすぐに反応し、足を止める。
リブレが完全に止まったことを確認すると、トゥルクはぽんぽんと彼女の首筋を叩いて褒めてやる。そして、右脚を鐙から引き抜き、左脚を軸にしてトゥルクは体を回す。左脚も鐙から抜くと、体をリブレに押し当てながら、地面へとぽんと飛び降りた。左右の鐙を鞍の上に乗せると、トゥルクは手綱を引いて、リブレを厩へと連れて行く。
「リブレ、今日もお疲れ様」
労わる言葉をかけながら、トゥルクはリブレの背にくくりつけていた荷物を下ろしてやる。続いて鞍を固定するためのベルトを外し、よいしょ、と気合いをいれながら、ずっしりと重い鞍とその下の厚手の敷き布をリブレの背から下ろした。
喉元のベルトを解き、ハミと手綱が連なった革製の馬具――頭絡をリブレから外してやると、トゥルクはそれを慣れた手つきで畳んでいく。鞍と頭絡を片づけると、煩わしい荷物から解放されたリブレがおやつを求めてトゥルクへと擦り寄ってきた。
はいはい、とトゥルクは右手で相棒の鼻筋を撫でてやりながら、左手で腰に下げた革のポーチから角砂糖を取り出した。ご褒美の存在に気づいたリブレはトゥルクの左手に口元を近づけてきて、嬉しそうにそれを口にした。
荷物からブラシを取り出すと、角砂糖のお代わりを要求してくるリブレを適当にいなしながら、トゥルクは丁寧に彼女の黒い体毛を梳かしていく。体を刺激するブラシの感触が心地よかったのか、次第にリブレは大人しくなっていく。
トゥルクは腰のポーチから、小さなブラシと金属の突起がついた蹄を手入れするための道具――鉄爪を取り出すと、軽く屈む。足元を飛び交うハエを追い払いたいのか、時折振り上げようとしている後肢に注意を払いながら、トゥルクは肩でリブレの前肢を押す。足の裏を手入れしてもらえることを察したリブレは、トゥルクに押された足の角度を変える。トゥルクはリブレの足を持ち上げると、爪の部分を掴み、鉄爪の金属の突起で足の裏に詰まった土を抉り出していく。リブレの足があらかた綺麗になると、トゥルクは鉄爪の小さなブラシで彼女の足の裏にわずかに残っていた土を払い落とした。リブレの足を下ろすと、トゥルクは残りの三本も同様に手入れを続けていく。
一通りの手入れが終わると、トゥルクは出した道具をしまい直し、下に置いたままだった荷物の袋を背負う。額に愛らしいハート模様がある顔をすり寄せてきたリブレの首筋をぽんぽんと撫でてやると、「おやすみ、リブレ。ごはんとお水はもらえるように宿の人に言っておくね」トゥルクは厩を出ていった。
トゥルクは宿屋の正面に回ると、ガチャンと音を立てて木の扉を開く。扉の上部に付けられた真鍮のベルがチャリンと音を立て、彼の帰着を知らせた。
ベルの音を聞きつけたらしい女主人のエルカが他の宿泊客に給仕をしていた手を止め、トゥルクを出迎える。
「あら、トゥルクくん。遅かったわね」
「すみません。今日はバリュス廃坑のほうに行ってきたんですけど、少し奥の方に入り込みすぎちゃって」
「夢中になるのはいいけれど、気をつけないと駄目よ。子供があんまり危ないことをするべきじゃないし、こうして遅くまで出歩くのも心配だわ」
話の内容がだんだんと小言じみてきて、トゥルクは辟易する。歳の近い息子がいるというエルカは、ついトゥルクのことが心配になってしまうようだ。危険がつきものの商売に身を置くトゥルクは、気持ちだけはありがたく受け止めることにして、近くに置かれていた本日のお品書きへと視線をちらりと向ける。ここの宿はエルカの作る家庭料理がおいしい。本日のおすすめは朝採れたまごの半熟オムライスとなっている。
「エルカさん、今日ってまだオムライスありますか? 僕まだ晩御飯食べてなくって」
そう訊くと同時に、タイミングよくトゥルクの腹がぐぅぅと鳴る。昼食はりんごをリブレと半分に分け、軽めに済ませてしまっていたので、空腹なのは当然だ。エルカはまだ小言を言いたりなさそうにしていたが、仕方ないわね、と肩をすくめると、
「ちょっと待っててちょうだい。すぐ準備するから」
エルカは近くの客の空いた皿をテーブルから下げながら、カウンターキッチンの中へと入っていった。
エルカがとんとんと包丁で具材を切っている小気味よい音を聞きながら、トゥルクはきょろきょろと空いている席を探す。
「トゥルク」
ふいに男の声に名前を呼ばれ、トゥルクはそちらを振り向く。視線の先には、ビールがなみなみと注がれたジョッキを手にした赤ら顔に髭を生やした豪気そうな中年の男がいた。ジョッキを持ってない方の手で手招きをしているよく見知った男へと会釈すると、トゥルクはテーブルへと近づいていく。
「オーレンさん。この街に来てるなんて、偶然だね」
「おう。このエリン島の鉱山からはいい石がよく採れるからな。この街はどこに行くにしても便利だし、おまけにここの女将は美人な上に飯も美味いからな」
立ち話もなんだし座れって、と相席を勧められ、テーブルの下に荷物を置くと、トゥルクはオーレンの向かい側の椅子に腰を下ろす。
オーレンは旅の商人だ。日用品や高価な装飾品、果てには情報まで手広く扱っている。オーレンは、今は亡き、学者だった祖父のウェドフのもとで学問を教わっていたことがあり、一時期トゥルクの家に居候していた。その縁で、まだ十一歳だったトゥルクが唯一の肉親を失い、生きるためにトレジャーハンターとなった後も、彼は何かと良くしてくれていた。
「おまちどうさま」
エルカがたまごがとろとろのオムライスの皿を運んできて、トゥルクの前へと置いた。上からかけられたデミグラスソースの匂いが食欲を刺激する。
オムライス以外にも、皮がぱりぱりのチキンステーキやさくさくとしたきつね色の衣がついたコロッケ、バターが添えられたふかし芋や軽く炙られたバケットと、エルカはテーブルの上に次々と皿を並べていく。美味しそうではあるが、頼んだ覚えのない品の数々にトゥルクは困惑しながら、
「エルカさん……これは?」
「トゥルクくんは成長期なんだからもっと食べないと駄目よ。お代なら気にしないで。そこのおじさんが払ってくれるから」
しれっとエルカがそんなことをのたまうと、ぎょっとしたような顔でオーレンが口に含んでいたビールを吹いた。
「ちょっとオーレンさん、汚いわよ。その辺、後でちゃんと拭いておいて」
「いやいやいや! 知らないうちに俺の奢りになってる上にこの仕打ち! エルカさん、そりゃないっすよ!」
「冗談よ。トゥルクくん、これは私からのサービスだから気にしないで食べてちょうだい」
「ありがとうございます。あと、申し訳ないんですけど、リブレにもごはんとお水をあげてもらってもいいですか?」
「わかったわ。ちゃんとやっておくように息子に言っておくわね」
それじゃごゆっくり、とエルカは軽く一礼すると、踵を返して去って行った。エルカがいなくなると、何なんだよもうとぼやきながら、オーレンはビールを一息に飲み干した。
いただきます、とエルカの厚意に感謝しながらトゥルクは手を合わせると、テーブルの隅にあったラタンのカトラリー入れからスプーンを手に取った。まだ固まりきっていない黄身と白身のマーブル模様が美しいオムライスをスプーンですくおうとしていると、オーレンが近況を尋ねてきた。
「トゥルク、最近どうだ? さっきエルカさんに今日はバリュス廃坑に行ったとか言ってたが、成果はどうだった?」
オーレンはテーブルに肘をつきながら、オリーブのオイル漬けをフォークの先でつついている。トゥルクは口の中のオムライスを飲み下し、スプーンを動かす手を止めると、
「オーレンさん、行儀悪いよ。今日は上々かな。帰りが遅くなっちゃったけど、おかげでまあまあ価値のあるものが出てきたし」
「お、何が出てきた? 物が悪くなければいつも通り買い取ってやるよ」
興味を示したように、オーレンはテーブルから身を乗り出し、酒臭い顔をトゥルクへと近づけてきた。トゥルクはスプーンを皿の上に置くと、テーブルの下に置いた荷物をまさぐり、じゃらじゃらと音がする小袋を取り出した。トゥルクは袋をオーレンに手渡しながら、
「たぶん、古い時代のお金だと思うんだよね。最近流通しているものとは、全然デザインも重さも違うし」
オーレンは袋を受け取ると、急に真顔に戻り、
「わかった。鑑定が終わったら、後で部屋に行く。ところで、トゥルクはまだしばらくこの街にいるのか?」
「どうしようかなって思ってる。北の森のほうにも足を伸ばしてみたいけど、今のところ特に目ぼしい情報もないし」
バケットを手に取って、オムライスのソースをつけながらトゥルクがそう答えると、オーレンは椅子の背に掛けていた上着のポケットから一枚の羊皮紙を引っ張り出した。
「北ってことは、ドバシアの森のことだよな? ここにドバシアの森の地図があるんだが、譲ってやろうか? 格安で」
本当に、とトゥルクは聞き返しながら、食事の手を止めると、口に運ぼうとしていたバケットを皿の上に置く。彼は茶褐色の目を輝かせ、テーブルから身を乗り出すと、
「オーレンさん、いいの!? いくら?」
「そうだなあ、そこのコロッケ一つと交換でどうだ?」
「お金なら別に持ってないわけじゃないし、払うのに……本当にいいの?」
「おう。エルカさんのコロッケは美味いからな」
わかった、とトゥルクが頷くと、持っていた地図をオーレンは差し出した。トゥルクがそれを受け取ると、「交渉成立、と。それじゃ遠慮なく」オーレンは手を伸ばし、コロッケへとフォークを突き刺した。
トゥルクは紙ナプキンで指を拭うと、がさがさと音を立てながら、オーレンからもらった地図を開く。目に飛び込んできた地図の緻密さにトゥルクは思わず息を呑んだ。トレジャーハンターなんていうものを生業にしていても、手に入る地図は大まかな地形と主要な道や川が記されているだけのものなどが多いのに、この地図には獣道と思しき細い道までしっかりと記入されていて、その精度に驚かされる。印がつけられた場所の近くには古い時代の文字で書き込みがされているが、トゥルクの語彙力ではその単語の読み方も意味もわからなかった。呼吸も瞬きも食事も忘れて地図を見入っていると、コロッケを食べ終えたオーレンが呆れたように、
「まったく、ウェドフ先生そっくりの顔しやがって。おーい、トゥルク」
名前を呼ばれて我に返ったトゥルクは地図から目線を上げ、髭面の男を見た。
「オーレンさん? 何?」
「何って、お前なあ……。まったくそんなきらきらした嬉しそうな顔しやがって。本当にウェドフ先生――じいさんそっくりだよ、お前は」
苦笑混じりにオーレンにそう言われ、トゥルクは在りし日の祖父のことを思い出す。考古学や地質学を専門としていたウェドフは、この世界の歴史についての考察をとっておきの物語を教えるように、時折トゥルクに話してくれた。そういうときのウェドフはいつだって楽しそうで、彼の口から紡がれる物語にトゥルクはいつしか憧れを覚えるようになっていた。
「この世界にまだ知らないものがあるかもって、見たことのないものがあるかもって思うと、僕はどきどきして仕方ないんだ。きっと、おじいちゃんもそうだったんだと思う。それに僕がおじいちゃんに似ているのは当然じゃない? おじいちゃんの話を聞いて育ったからこそ、自分で未知のものを探しに行きたいって思ったんだし。だから、おじいちゃんが死んで一人になったとき、僕はトレジャーハンターになる道を選んだんだよ」
オーレンは眩しいものを見るような目でトゥルクを見ていたかと思うと、ビールが入っていたジョッキにテーブルの上の水差しの中身をどばどばと注ぎ始めた。オーレンは水を一気に飲み干すと、
「トゥルク、そういうとこだよ、お前。体力仕事なトレジャーハンター様はちゃんと飯食え。っていうかさっさと食わねえと、せっかくの飯が冷めるぞ。いらねえなら俺が食うけどな。コロッケの中のクリーム濃厚で美味かったし」
ジョッキをテーブルに置き、フォークを握り直すと、げらげらと笑いながらオーレンはチキンステーキの皿に狙いを定める。トゥルクはテーブルの隅に地図を畳んで置くと、目の前の大人に冷ややかな視線を浴びせながら、「やめてよ、オーレンさん。大人が子供のご飯取るなんて恥ずかしくないの?」「えー、いいだろ少しくらい」二人は顔を見合わせるとぷっと吹き出した。
「もう何でもいいからさっさと飯食え。俺は先に部屋戻って、さっきのやつの鑑定やっとくから」
トゥルクのおかずを掠め取るのを諦めると、オーレンはフォークを置いて立ち上がる。
「それじゃあ後で」
「おうよ」
オーレンはふらふらとしながらもトゥルクが渡した小袋を持って踵を返すと、客室のある二階へと続く階段を登っていった。その背を見送ると、トゥルクはスプーンを握り直し、食事を再開した。
トゥルクが流行病で両親を立て続けに亡くしたのは五歳のときのことだった。一人ぼっちになってしまったトゥルクはソフィア島のユーヴル村で学者をして暮らしている祖父のウェドフに引き取られた。
ウェドフは老齢ながらも矍鑠としていて、自ら遠方の深い森や険しい山などに調査へ行くことも多かった。幼い子供を一人で家に残すわけにも行かず、ウェドフはいつも調査の仕事にトゥルクを連れて行ってくれた。
ウェドフはいつも、孫であるトゥルクの歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、この世界の歴史や、地質学から読み取れる世界の成り立ちについての仮説をわかりやすく話してくれた。ウェドフの話は面白く、すぐにトゥルクはこの世界の秘めるロマンの虜となった。
あるとき、ウェドフに連れられてエリュセカの森に訪れた際に、トゥルクは一頭の黒い馬と出会った。額に白いハート模様のあるその牝馬は背に鞍と荷物を乗せており、森に住む野生の馬ではないであろうことが推して知れた。
黒い馬は首を長く伸ばし、低い位置にいるトゥルクと目線を合わせた。トゥルクは大きく深い彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして息を呑んだ。
馬と見つめ合っているトゥルクの横で腰を屈め、ウェドフは馬へ向けて自身の手を差し出した。興味がトゥルクからウェドフに移ったらしい青鹿毛の馬は鼻先をウェドフの手へと寄せる。
「ほら、トゥルク。おじいちゃんの真似をして、お馬さんに挨拶してごらん」
うん、と頷くとトゥルクは祖父に倣い、手を馬の方へと差し出す。
「ねえおじいちゃん、この子迷子かな?」
どうだろうなあ、とウェドフは思案げな顔をする。馬の大きな瞳には物言いたげな光が浮かんでいる。視線と耳を背後へと向ける馬をウェドフは眺めながら、
「もしかしたら、あっちのほうに飼い主がいるのかもしれないね。この子を連れて様子を見にいってみようか」
ウェドフは馬の首にかけられていた手綱を下ろすと、それを引いて進み始める。「後ろは危ないから、おじいちゃんの横を歩きなさい」「うん」頷くと、トゥルクはウェドフの左側を歩き始めた。
馬と共に木立を進んでいくと、ウェドフとトゥルクは三十代半ばほどの男が蹲っているのを見つけた。タタ、とトゥルクは駆け出すと、男へと声をかけた。
「おじさん、大丈夫? 怪我してるの?」
男は苦笑すると、
「ああ、ちっとばかり背中を打っちまって。情けない話なんだが、木陰にいた小鳥に驚いたそいつにうっかり振り落とされてな。じいさん、そいつを――リブレを捕まえてくれて助かった。礼を言う」
よいしょ、と男は立ちあがろうとする。「痛っ」しかし、背中の痛みがひどいのか、男はよろけて再び蹲ってしまう。
「トゥルク。この子の手綱を持っていなさい。おじいちゃんがしていたのと同じようにやれば大丈夫だから」
トゥルクはウェドフから手綱を受け取ると、横にいるリブレをちらりと見る。横にいる馬という生き物は優しげで美しいが、まだ幼いトゥルクに比べるとかなり大きい。その大きさにわずかに恐怖を覚えていると、怖くないよとでも言いたげにリブレがそっと鼻面をトゥルクの肩へとつけた。
ウェドフは自分より体格の良い男に肩を貸し、立ち上がらせる。
「その体じゃ辛いだろう。ワシらが泊まっている村まで一緒に来るといい。医者も手配してやろう。ワシは学者のウェドフ・ツェイラー、この子は孫のトゥルクだ。きみ、名前は?」
「俺はオーレン。オーレン・ヴェイオールだ」
ウェドフとトゥルクはオーレンとリブレを泊まっていたノルーム村まで連れ帰った。オーレンを医者に見せると、骨こそは無事だったものの打撲がひどく、しばらくの間、安静を言い渡された。
オーレンはノルームでの滞在中、看病兼留守番役として残されたトゥルクの話を面白そうに聞いてくれた。とりわけ、ウェドフの仕事の話について、オーレンは興味を持ったようだった。
数日にわたるエリュセカの森の調査が終わり、ウェドフとトゥルクがユーヴル村に帰ろうとしたとき、オーレンは話があると切り出した。オーレンはウェドフの元で学問を教わりたいと頭を下げ、彼はリブレを連れて、トゥルクたちの帰路についてきた。
それから、二年ほど、オーレンはユーヴル村のトゥルクの家に住み込み、ウェドフの元で手伝いをしながら学問を修めた。ウェドフは自分の専門である考古学と地質学以外にも、自分が知る限りの知識をオーレンへと教えた。
オーレンが居候していた二年の間に、彼が連れてきたリブレとトゥルクはすっかり仲良くなっていた。どうしてもリブレと離れたくなくて、無理を言ってトゥルクはオーレンが村を去るときにリブレを譲ってもらった。こうして、リブレはトゥルクの親友であり、無二の相棒となった。
オーレンがユーヴル村を去って二年半ほど経ったころ、ウェドフがこの世を去った。幸せになりなさい、それがトゥルクに向けられたウェドフの最期の言葉だった。
ウェドフが亡くなってしばらく経ったころ、十一歳にして天涯孤独となり、今後の身の振り方について考え始めていたトゥルクの元をオーレンが訪ねてきた。ウェドフの元で学んだ知識を活かし、商人となっていたオーレンは、自分と一緒に来ないかとトゥルクを誘った。
「俺にはお前を一人で放っておくことはできねえ。トゥルク、俺と一緒に来ないか? 旅から旅の不安定な暮らしだが、それでもお前一人を養ってやることくらいはできる」
しかし、トゥルクはオーレンの厚意からの言葉に首を横に振った。
「オーレンさん、僕は一緒に行けない。僕、トレジャーハンターになりたいんだ。僕、おじいちゃんが生きてたころからずっと考えてたんだ。この世界を、まだ見たことのないものの数々を、自分の目と足で見に行きたいって」
オーレンは言葉を重ねてどうにかトゥルクを説得しようとした。しかし、トゥルクの意志は固く、最終的には根負けしたオーレンが折れることとなった。
こうしてトゥルクはリブレを連れて、六年間暮らしたユーヴル村を離れ、トレジャーハンターとしての道を歩み始めた。
この辺りか、とあたりをつけるとトゥルクは手の中の手綱を強く握り込み、リブレを止めた。昨夜のうちに読み込んだ地図によれば、この先の小川の辺りにトゥルクの探しているものがあるはずだった。
トゥルクはリブレの首筋を軽く叩いて褒めてやると、腰のポーチからコンパスとオーレンからもらったドバシアの森の地図を取り出す。今いる場所と地図に記載された内容を見比べるが、大きくずれはなさそうだった。
生い茂った木々の枝々の隙間から、力強い太陽の光がトゥルクの背中を照らしている。太陽の角度から、そろそろ昼になるなとトゥルクは思った。朝早くに宿で朝食を食べたっきりの体が空腹を訴え始めている。腹が減っては戦はできぬという言葉もあることだし、探しものは昼食後にしようとトゥルクは決め、地図とコンパスをポーチにしまった。待つのに飽きてしまったのか、蹄で地面を掘っているリブレの腹をトゥルクはブラウンのブーツシャフトに包まれた脹脛で優しく圧迫した。すると、リブレは少し先に見える小川の方に向かってゆっくりと歩き始めた。
さらさらと穏やかに流れる小川のほとりで再びリブレを止めると、トゥルクは鐙を脱ぎ、リブレの胴に自分の体を押し当てながら、地面へと飛び降りた。擦り寄ってくるリブレの鼻面を軽く撫でてやると、手綱を掴んでトゥルクは川の中へ降りていく。トゥルクも水中に手を突っ込むと、水をすくい上げて乾いた喉へと流し込んだ。喉を流れ落ちていくひんやりとして甘やかな水の感触が心地よく、熱のこもった体が少しずつ冷やされていくのを感じる。
川で愛馬に水を飲ませてやると川辺に戻り、トゥルクは腰のポーチの中からある程度の長さのある紐を取り出した。紐の端をリブレの頭絡に取り付け、もう一方を手近な木の幹へと結んでいく。複雑な手順を繰り返して、結んだ紐が解けないことを確認すると、トゥルクはリブレの後ろに乗せた荷物から昼食を取り出した。
今日のトゥルクの昼食は具沢山のバケットサンド、リブレの分はトゥルクがコルニスの街の朝市で買ったバナナだ。トゥルクの分については昨日の彼の昼食について知ったエルカが「ちゃんと食べなきゃ駄目でしょ!」と小言まじりに作ってくれたものである。
トゥルクは自分の昼食を食べる前に、バナナの皮を剥き、小さくちぎる。ちぎったバナナを手のひらに乗せると、早くくれと言わんばかりに振り返ってくるリブレの口元へと持っていった。手に触れる愛馬のふにゃふにゃとした口の感触がくすぐったいと同時に愛しくて、トゥルクは目を細める。
リブレがバナナを食べ終えると、トゥルクも近くの木の下に腰を下ろした。昼食の包みを解く。燻したチーズに焼いた鶏肉、薄切りにしたゆで卵にしゃきしゃきとしたレタス、分厚いトマトが挟まれたバケットサンドが姿を現した。パンの香ばしい匂いとたっぷりと塗られたバターの香りに口の中に唾液が溢れてくる。腹がきゅうと音を立て、たまらなくなってトゥルクはバケットサンドへとかぶりついた。
カリカリとしたパンの食感。鼻の奥を満たす燻製の匂いとチーズのまろやかさ。食べ応えのあるトマトの存在感と甘酸っぱさ。甘辛いソースがよく合う、肉汁がジューシーな肉。朝採れたばかりだという黄味が濃厚な半熟のゆで卵。シャキシャキとしてみずみずしいレタスは、それぞれの主張に負けることなく、全体をさっぱりとまとめ上げている。
口の中に広がる食材たちのハーモニーをじっくり味わう間もなく、バケットサンドは無心で食べ進めるトゥルクの胃の中に消えていった。
トゥルクは中身のなくなったバケットサンドの包みを四角く折りたたむとカーキのズボンのポケットにしまう。満腹で苦しい腹を抱えて、トゥルクは背後にある木の幹に体を預けた。視線の先では、先程のバナナは前菜で、これがメインディッシュとでも言わんばかりにリブレがもぐもぐと草を食んでいた。
木々の間から夏の木漏れ日がきらきらと輝きを見せている。トゥルクはオリーブグリーンのジャケットの袖口をまくり上げると、黒いスタンドカラーシャツの襟ぐりを掴んで、服の中へとばたばたと風を送り込む。服が汗で肌に張り付くくらい暑いけれど、川辺を吹き抜けていく風は爽やかだ。
ふう、と息を吐くと、トゥルクは立ち上がった。そろそろ今日ここを訪れた目的を果たさなければならない。
トゥルクは機嫌良く草を食べているリブレへと近づく。トゥルクの存在に気づいて甘えるように擦り寄ってきたリブレの首筋を撫でてやると、トゥルクはリブレに積んだ荷物からスコップを取り出した。
オーレンにもらった地図によると、目的のものがあるのは、ちょうどこの小川を渡った向こう岸のようだ。トゥルクは茶色のブーツを濡らしながら、ひんやりとして気持ちのいい川の中に足を踏み入れる。さらさらと流れていく小川のせせらぎが耳に心地よい。きらきらと夏の日差しを浴びてたゆたう川面をかき分けて、トゥルクは対岸へと渡っていく。
川岸にトゥルクは何かきらりと光るものを見た気がした。岸に上がると、トゥルクはその場所にかがみ込み、スコップで地面を掘り始めた。
地面を掘り進めていくと、スコップの先に何かが絡みついた。何だろう、と思いながらトゥルクは茶色いグローブを嵌めた手で土を払い除けていく。
「何だ、これ……?」
土の中に埋まっていたのは、薄汚れた金色の棒だった。先端は鉛筆のようにとがっているが、上部には装飾が施されており、筆記具のようには見えない。オレンジ色と白色の小さなガラスの花が可憐に咲くそれをトゥルクはつぶさに観察していく。先程、スコップに絡んでしまったのは、花々の下から垂れ下がる金色の細いチェーンのようだった。その意匠から、装飾品の一種のようでもあるが、このようなものは見たことはなく、どのような使い方をするものなのか男のトゥルクには見当もつかなかった。
持って帰ってオーレンに見てもらったほうがいいかと思いながら、ポーチの中にそれをしまおうとしたとき、棒の側面にあった小さな突起にトゥルクの指が触れた。
ふいに棒の先端が光を放ち始め、何もない空間に光の文字が刻まれ始める。驚きのあまり、トゥルクは危うく手の中の棒を取り落としそうになった。棒を持ち直すと、トゥルクは空中に綴られていく文字を凝視する。
(これは昔の文字……?)
現代の言葉の読み書きであればトゥルクは問題ないが、古い時代の言葉となると少々難しい。学者であった祖父のウェドフから多少手ほどきを受けたことはあったが、今のトゥルクでは単語を断片的に読み解くのが限界である。
その文章は、祈るような言葉によって始まっていた。読み進めていくにつれ、トゥルクの顔に困惑の色が浮かんでいく。
(南西、千五百歩……、女の子……?)
文章が難しくてあまり細かいことはわからなかったが、光の文字で綴られたその文章には一人きりで眠る女の子を目覚めさせ、幸せに生きさせてほしいといったようなことが書かれていた。文章に込められた、心から少女を思う気持ちに胸がぎゅっとなった。
少女を探してみようとトゥルクは思った。無駄足に終わる可能性もなくはないが、幸いにも、この文章に書かれていた場所は、ここからはさほど遠くない。
トゥルクは金属の棒を腰のポーチへとしまった。トゥルクは立ち上がるとスコップを手に、再び川を渡る。
帰ってきた、と言わんばかりにリブレがトゥルクを振り返った。ただいま、とトゥルクはリブレへと声をかけてやると、
「リブレ。あっちの方に何かあるみたいなんだ。ちょっと行ってくるから待っていてくれる?」
青鹿毛の馬はわかったとでも言うように、ぶるると鼻を鳴らした。
トゥルクはリブレの背に積んでいる荷物からナップザックを取り出すと、中身を確認する。ロープにヤギ革の水筒、乾燥させた肉や果物といった携帯食料、トゥルクでも取り回しやすいサイズのナイフ、怪我をしたときのためのの応急処置キット、火口箱にランプ、双眼鏡などが入っている。トゥルクはナイフを腰のベルトに吊るし、スコップをナップザックの中にしまった。トゥルクはナップザックを背負うと、南西の方向へと歩き出す。
トゥルクの行く手では、昼の日差しを浴びながら、葉の生い茂った大樹が彼を見下ろしていた。
先程目にした不思議な文章の内容に従って、トゥルクが小川から南西の方角へ千五百歩ほど進んでいくと、小川の辺りから見えていた大木の根元へとたどり着いた。
遠目には大樹に見えたそれは、よく見るとツタがびっしりと巻き付いた建物だった。この辺りは木々が密集しているため、間近で見ない限りは大きな木が生えているようにしか見えない。コルニスではこの森にこんなものがあるなどという話をとんと耳にしなかったのも頷ける。ここまで周囲の風景に溶け込んでしまっていては、建物の存在に気づく人間はそういないだろう。
光の反射ではっきりとは見えないが、はるか頭上で屋根と思しき鋭くとがった円錐の先端が顔をのぞかせている。細長い形状から察するにこれは塔だろうかと思いながら、トゥルクは緑に覆われた建物を見上げる。この感じでは以前に誰かがここを調査した様子はないし、これは前人未踏の遺跡である可能性が高い。まだ見ぬものへの期待でわくわくとトゥルクの胸は躍った。
トゥルクはここを訪れた目的を半分忘れながら、建物を覆うツタを手でかきわけていく。建物の外壁に触れた指先に伝わるつるりとした手触りに、あれ、とトゥルクは違和感を覚えた。
(何だこれ……? 土とか石じゃなさそうだし、レンガでもなさそうだ)
この世界の建築物は木造や土を塗り固めたもの、石やレンガを積み上げたものに大別される。しかし、トゥルクの指先に伝わる感触はそのいずれのものでもなさそうだった。トゥルクは腰のベルトからナイフを抜くと、塔を覆うツタを切っていく。外壁があらわになると、トゥルクは茶褐色の目を丸くした。
(ガラス……? それとも金属かな……? いや、これは……たぶんどっちでもない)
見れば見るほどに不思議な材質の建物だった。トゥルクが知る限り、これは現代の建築様式によるものではない。
(まさか……まさか、ね)
もしかしたらこれこそがかつて祖父から伝え聞いた、自分が探し求めていたものの一つなのではないかと思うと、トゥルクはどきどきした。目の前にある、未知のものの存在にトレジャーハンターとしての感覚が疼いてたまらない。
入り口がないか調べてみよう、とナイフを手にしたままトゥルクは歩きだす。少し傾いた塔の外周を半分ほど進んだとき、トゥルクの腰の黒いポーチが内側から発光した。それに呼応するように、ツタの内側からピピっという無機質な音が聞こえてきた。
(何だ……?)
疑問を覚えつつもトゥルクは手に持ったナイフで、音がした辺りのツタを切り払っていく。
(これ……この塔の入り口かな?)
ツタの下では闇を湛えた空洞がぽっかりと口を開けていた。中を覗き込もうとすると、ジジっという音とともに遺跡の内部が白い光によって照らし出され、トゥルクは反射的に身を引く。しかし、それ以上何かが起きる様子はなく、罠や仕掛けの存在に気を配りながら、もう一度トゥルクは戸口から中を塔の中を覗き込んだ。
トゥルクの視界の範囲内には落とし穴もなければ、上から何かが落ちてくる気配もないし、毒針が飛んでくるような様子もない。この分ならこの辺りには妙な罠や仕掛けはないと思っていいだろう。
蝋燭や松明によるものではない白い明かりが時折ちかちかと明滅を繰り返しながら、遺跡の中を照らしていた。一体どういう仕組みなのかもわからないし、恐らく現代の文明によるものではないだろうと思いながらも、一旦はランプの準備は不要と判断し、トゥルクは遺跡の中へと足を踏み入れた。
トゥルクは壁に手をつきながら遺跡の中を進んでいく。手に伝わる壁の感触はつるつるとして冷たい。何の素材によるものなのかは見当もつかないが、やはり今の文明レベルによるものだとは思えない。
(……あれ?)
トゥルクは目に映る風景に既視感を覚えて、足を止める。ここを訪れるのは初めてのはずなのに、知っているとトゥルクは思った。彼は記憶の中から既視感の正体を探っていく。そして、それの正体に思い至ると、トゥルクはあっと声を上げた。
(夢の遺跡……!)
トゥルクは昔から同じ夢をよく見る。夢の中のトゥルクはいつもどこだかわからない遺跡を歩いている。その遺跡はちょうどトゥルクが今いるこの場所に酷似していた。
まさか、と思いながらもトゥルクは再び歩き続ける。不思議な材質の壁や床。ジジジと音を立てながらゆらゆらと揺れる白い明かり。近づくとひとりでに開く扉。あまりにも長年繰り返し見てきた夢の内容との符合が多すぎる。夢で見たのと同じ角で通路を曲がると、夢で見た通りに扉が待ち受けており、トゥルクは偶然で済ますにはあまりにも無理がある状況に頬を引き攣らせた。
(ということは……いつも、夢で見るあの女の子がもしかして……?)
そんなことを思いながら、トゥルクは夢の中で歩き慣れた順路に従って、通路を進んでいく。夢の通りにいくつも扉をくぐり抜けるうちに、トゥルクは遺跡の最奥にたどり着いた。
最奥の部屋は繰り返し夢で見てきたように、大小様々なガラスの板が壁のそこかしこに貼り付けられていた。巨大な金属製の円柱やよくわからない液体が満ちたガラスの水槽のようなものが異様な存在感を放ちながら壁際に佇んでいるのが見える。天井の長い棒状の白い明かりの下、部屋の中央に蓋がガラス張りになったぼんやりと光る棺のようなものを見つけると、トゥルクの心臓はどくりと鳴った。
トゥルクは棺に近づくと、そっと中を覗き込む。やはり、棺の中には夢で見たのと同じ、長い黒髪の少女が横たわっていた。
美しい少女だった。どこかの富豪の息女か何かなのか、その肌は白く滑らかだ。祈るように胸の前で組んだ指先にも傷ひとつない。長い黒髪もさらさらとしてつややかだ。しかし、その服装はだぼっとした丸襟の白いシャツのようなものに青色の長ズボンという娘らしからぬ風変わりなもので違和感があった。
どうして彼女はこんなところで、たった一人眠っているのだろうか。何回も何十回も夢の中で彼女のことを目にしてきたはずなのに、トゥルクはその理由を知らない。
(だけど、いつもこの子は僕を呼んでた。見つけてって言ってた……!)
彼女を目覚めさせよう、とトゥルクは棺の蓋を持ち上げようとする。しかし、ぴったりと張り付いているかのように、ガラスの蓋は微動だにしない。
何か仕掛けがあるのかとトゥルクは棺の周りを調べていく。棺の足元の辺りに小さな金属の箱を見つけ、よく見ようとトゥルクがしゃがみ込んだとき、腰のポーチが再び内側から発光した。腰のポーチを開くと、先程川辺で手に入れた棒の上部のガラスの花が光を放っていた。
『ジュンカンリユーザをニンショウ。カイハツキ、システムをテイシします』
金属の箱から感情も温度もない女の声が発され、ピーという長い音が響き渡った。その音にトゥルクはなんだか嫌な予感を覚える。壁に貼り付けられた全てのガラス板に光が灯り、白い文字が浮かび上がり始めた。こういうときは逃げるべきだと、トレジャーハンターとしての勘が警鐘を鳴らしていた。ポーチに棒を押し込み直すと、トゥルクは立ち上がる。逃げよう、とトゥルクが踵を返しかけたとき、棺からカチリという音がした。唐突に室内に静寂が戻り、誰が何をしたわけではないというのに、勝手にガラス張りの蓋が開いていく。いつの間にか、壁のガラス板群や棺に灯っていた光も消えている。
え、とトゥルクは目を見張った。棺の中に横たわっていたはずの少女が体を起こし、こちらを見ていた。
「君は……君は、誰?」
トゥルクの口をそんな言葉がついて出た。それは長年、トゥルクが夢の中の彼女に聞けずじまいになっていたことであり、知りたくて仕方なかったことだった。
天井の白い明かりが、少女の白い顔を照らしている。こうして、トゥルクが長年の間、繰り返し見続けてきた夢の続きが始まった。



