その日、彼は私を抱きしめたまま眠ってしまった。彼を起こさないように少しだけ頭を動かして、彼の顔をみた。彼の子どもみたいな寝顔。現実じゃないような、まるで私のほうが夢の中にいるような、ふわふわとした気持ちだった。これ以上ないくらい近くにいるのに、もっともっとと彼を求めて、彼の鼻先に自分の鼻をくっつけてみる。彼の髪を撫でて、唇を触って、ああ、この時間がずっと続けばいいのになんて思いながら、涙がこぼれ頬を伝っていく。
***
「美羽」
名前を呼ばれて目を開ける。目の前には、見慣れた車たち。どうやらここは、私の家の正面らしい。隣を見ると、彼がシートベルトを外している。
「送ってくれたの」
「ん」
車のナビゲーションの明かりが眩しい。時刻は深夜一時になろうというところだった。最後に時計を見たのは二十三時だったから、彼はニ時間近く運転していたことになる。
「思いっきり寝てた」
「そうだね」
「マジでごめん……こんな遅くにこんなところまで」
「まあ……あの状態で道端に放置するわけにはいかないよね」
私と彼は同じ大学、同じサークルで、学生時代はよくみんなで飲みに行くくらいには仲が良かった。だけど、サシで出かけるようになったのは最近のことだ。卒業後、友達の多くが他県へと引っ越して行く中、私たちはそれぞれ地元のそこそこ大きい企業に就職した。お互い転勤がつきものの企業で、初任点は私は県北、彼は県南の支社だった。入社してしばらくはお互い新しい生活に必死だったけれど、半年くらいたったある日、彼から会おうと誘われた。その日は、お互い会社がいかにブラックかという愚痴を垂れ流すだけに終わったが、それでも、久々に会う大学の友達との時間は純粋に楽しかった。
それからというもの私たちはこうやってわざわざ県央の都市部まで出向き、お互いの愚痴を語ってストレスを紛らわせている。私はまだ車を持ってなくて電車移動なわけだが、それをいいことにビール、カクテル、ワイン……と飲みまくり、見事にダウン。彼の前で思いっきり吐き、ついでに終電も逃した。そこまでは覚えているが、どうやって店を出たのか、どういった経緯で送ってくれることになったのか、私が送ってと頼んだのか……いや、おそらく彼は善意なのだろうけど、ここから彼の家までは少なく見積もっても三時間はかかる。彼のほうが時間的にも体力的にも大損だ。
「俺優しいからなー」
彼はおどけてそう言ったけれど、おそらくは私が罪悪感を抱かないようにと気を遣ってのことだろう。とはいえそのドヤ顔に突っ込まずにはいられないので、私も揶揄うように言い返す。
「優しくしてくれてありがとうね。それじゃあ、気をつけてお帰りください」
「おいおいおい、こっからまた三時間きついってー」
彼がわざとらしく天を仰ぐのをみて、私もケタケタと笑ってみせる。今から帰れなんて私が言わないこと、言えないこと、彼もわかってるのだろう。
だって、こんな時間だし。私のために、わざわざ送ってくれたんだし。こんな遠くまで私を送るって、彼が決めたんだし。
笑顔と言い訳の裏に罪悪感も自己嫌悪もぜんぶ閉じ込めて、そうして私はまた負けてしまう。
***
それは、あまりに唐突だった。
「実は俺さ、彼女いるんだよね」
その言葉が矢になって脳天を突き刺すような衝撃。当然言葉も出ない。呆然として、もうなにも言えなかった。だって、両思いだって疑わなかったから。だから「こうなった」のにって。
ごめん、と付け足して、彼は俯いた。そして、その彼女とはうまくいっていないこと、別れようと思っていること、私のことをちょっといいなと思っていること、でもそう思う度に罪悪感に襲われることなんかを話した。話しながら、彼は泣いていた。彼は私にどうして欲しかったんだろう。何を考えていたんだろう。その答えは、まだ、見つかっていない。
***
「こっちきて」
背を向けていた私に、彼が言う。身体の向きを変えてみると、彼は眠そうな表情でこちらに腕を伸ばしている。
「……なに?」
「落ちないようにしてあげる」
その言葉に、私は身体半分彼のほうへ寄せる。彼は私の首の下に手を回し、もう片方の手で私の頭を撫でた。そして、今日楽しかったねとか次は何するとかどこに行くとか、そんな話をした。そんなことをされると、私は戸惑ってしまう。
あれから、変わらない関係を続けるために、私は変わってしまった。どうしても、彼を求めてしまう。ただ電話をしたり、会って愚痴をこぼしたりしているだけなら、それだけなら、まだ、許されると思った。でももう手遅れだ。私は最低最悪な人間に成り下がった。
「……彼女と別れたの?」
彼の腕の中で小さく訊いてみる。返事はない。スースーと規則的な呼吸音に、私は苛立ちと、でも、ほんの少しの安心を覚える。少しだけ体を離して、彼の顔を見る。子どもみたいな寝顔。柔い時間。
そのとき、ブーブー、と、枕元でバイブレーションが鳴った。彼も私もビクッと体を震わせる。彼は体を起こし、顔をしかめながら充電器に繋がれたスマホを手に取る。スマホの明かりで彼の顔が照らされる。誰からかなんて、彼の表情を見れば聞かなくてもわかる。
「……出ないの」
「……いや、いいよ」
「そっか」
彼がスマホを置く。やがてバイブレーションは鳴り止み、部屋に静けさが戻った。
「ごめんね」
「なにが」
「いや、なんとなく」
「意味わかんない」
彼がまた私の隣に寝転ぶ。
「ねぇ」
「ん?」
「彼女とは別れないの?」
「んー……あいつすぐヒステリー起こすからなあ……」
「ふうん」
面倒臭んだよ、あいつは。そう付け足して、彼はため息をつく。再び眠りにつこうと、彼は布団を掛け直し仰向けになる。
「……ねぇ」
「ん?」
「私のことは?」
「なに?」
「好きなの?」
彼は、驚いたようにこちらを見る。体の向きを変え、私の頭を撫でた。
「今日どうした?」
「……どうしたって?」
「なんか変」
泣きそうだった。どうして。どうして、何度も会ってくれるの。明日三時間の運転が確定してるのに、わざわざ送ってくれたの。彼女を切ってもいないのに、どうして恋人みたいに抱きしめるの。私のこと、どう思っているの。
「……ねえ」
「ん?」
「……眠れない」
「……じゃあ、美羽が寝るまで起きててあげる」
違う。そんなことを望んでるんじゃない。一緒に起きていてほしいわけじゃないの。二人でいるのに、まるで一人みたいな、そういう関係でいたくないの。あなたの隣で、あなたと一緒に、眠りに落ちてしまいたいの。いつのまにか眠ってしまって、朝目が覚めたときそのことを悔やんで、もっと二人で話していたかったねと言い合って、でも同じことを繰り返していきたいの。
ただ私はーー。
あなたのそばで、安心して眠りたいだけ。完
***
「美羽」
名前を呼ばれて目を開ける。目の前には、見慣れた車たち。どうやらここは、私の家の正面らしい。隣を見ると、彼がシートベルトを外している。
「送ってくれたの」
「ん」
車のナビゲーションの明かりが眩しい。時刻は深夜一時になろうというところだった。最後に時計を見たのは二十三時だったから、彼はニ時間近く運転していたことになる。
「思いっきり寝てた」
「そうだね」
「マジでごめん……こんな遅くにこんなところまで」
「まあ……あの状態で道端に放置するわけにはいかないよね」
私と彼は同じ大学、同じサークルで、学生時代はよくみんなで飲みに行くくらいには仲が良かった。だけど、サシで出かけるようになったのは最近のことだ。卒業後、友達の多くが他県へと引っ越して行く中、私たちはそれぞれ地元のそこそこ大きい企業に就職した。お互い転勤がつきものの企業で、初任点は私は県北、彼は県南の支社だった。入社してしばらくはお互い新しい生活に必死だったけれど、半年くらいたったある日、彼から会おうと誘われた。その日は、お互い会社がいかにブラックかという愚痴を垂れ流すだけに終わったが、それでも、久々に会う大学の友達との時間は純粋に楽しかった。
それからというもの私たちはこうやってわざわざ県央の都市部まで出向き、お互いの愚痴を語ってストレスを紛らわせている。私はまだ車を持ってなくて電車移動なわけだが、それをいいことにビール、カクテル、ワイン……と飲みまくり、見事にダウン。彼の前で思いっきり吐き、ついでに終電も逃した。そこまでは覚えているが、どうやって店を出たのか、どういった経緯で送ってくれることになったのか、私が送ってと頼んだのか……いや、おそらく彼は善意なのだろうけど、ここから彼の家までは少なく見積もっても三時間はかかる。彼のほうが時間的にも体力的にも大損だ。
「俺優しいからなー」
彼はおどけてそう言ったけれど、おそらくは私が罪悪感を抱かないようにと気を遣ってのことだろう。とはいえそのドヤ顔に突っ込まずにはいられないので、私も揶揄うように言い返す。
「優しくしてくれてありがとうね。それじゃあ、気をつけてお帰りください」
「おいおいおい、こっからまた三時間きついってー」
彼がわざとらしく天を仰ぐのをみて、私もケタケタと笑ってみせる。今から帰れなんて私が言わないこと、言えないこと、彼もわかってるのだろう。
だって、こんな時間だし。私のために、わざわざ送ってくれたんだし。こんな遠くまで私を送るって、彼が決めたんだし。
笑顔と言い訳の裏に罪悪感も自己嫌悪もぜんぶ閉じ込めて、そうして私はまた負けてしまう。
***
それは、あまりに唐突だった。
「実は俺さ、彼女いるんだよね」
その言葉が矢になって脳天を突き刺すような衝撃。当然言葉も出ない。呆然として、もうなにも言えなかった。だって、両思いだって疑わなかったから。だから「こうなった」のにって。
ごめん、と付け足して、彼は俯いた。そして、その彼女とはうまくいっていないこと、別れようと思っていること、私のことをちょっといいなと思っていること、でもそう思う度に罪悪感に襲われることなんかを話した。話しながら、彼は泣いていた。彼は私にどうして欲しかったんだろう。何を考えていたんだろう。その答えは、まだ、見つかっていない。
***
「こっちきて」
背を向けていた私に、彼が言う。身体の向きを変えてみると、彼は眠そうな表情でこちらに腕を伸ばしている。
「……なに?」
「落ちないようにしてあげる」
その言葉に、私は身体半分彼のほうへ寄せる。彼は私の首の下に手を回し、もう片方の手で私の頭を撫でた。そして、今日楽しかったねとか次は何するとかどこに行くとか、そんな話をした。そんなことをされると、私は戸惑ってしまう。
あれから、変わらない関係を続けるために、私は変わってしまった。どうしても、彼を求めてしまう。ただ電話をしたり、会って愚痴をこぼしたりしているだけなら、それだけなら、まだ、許されると思った。でももう手遅れだ。私は最低最悪な人間に成り下がった。
「……彼女と別れたの?」
彼の腕の中で小さく訊いてみる。返事はない。スースーと規則的な呼吸音に、私は苛立ちと、でも、ほんの少しの安心を覚える。少しだけ体を離して、彼の顔を見る。子どもみたいな寝顔。柔い時間。
そのとき、ブーブー、と、枕元でバイブレーションが鳴った。彼も私もビクッと体を震わせる。彼は体を起こし、顔をしかめながら充電器に繋がれたスマホを手に取る。スマホの明かりで彼の顔が照らされる。誰からかなんて、彼の表情を見れば聞かなくてもわかる。
「……出ないの」
「……いや、いいよ」
「そっか」
彼がスマホを置く。やがてバイブレーションは鳴り止み、部屋に静けさが戻った。
「ごめんね」
「なにが」
「いや、なんとなく」
「意味わかんない」
彼がまた私の隣に寝転ぶ。
「ねぇ」
「ん?」
「彼女とは別れないの?」
「んー……あいつすぐヒステリー起こすからなあ……」
「ふうん」
面倒臭んだよ、あいつは。そう付け足して、彼はため息をつく。再び眠りにつこうと、彼は布団を掛け直し仰向けになる。
「……ねぇ」
「ん?」
「私のことは?」
「なに?」
「好きなの?」
彼は、驚いたようにこちらを見る。体の向きを変え、私の頭を撫でた。
「今日どうした?」
「……どうしたって?」
「なんか変」
泣きそうだった。どうして。どうして、何度も会ってくれるの。明日三時間の運転が確定してるのに、わざわざ送ってくれたの。彼女を切ってもいないのに、どうして恋人みたいに抱きしめるの。私のこと、どう思っているの。
「……ねえ」
「ん?」
「……眠れない」
「……じゃあ、美羽が寝るまで起きててあげる」
違う。そんなことを望んでるんじゃない。一緒に起きていてほしいわけじゃないの。二人でいるのに、まるで一人みたいな、そういう関係でいたくないの。あなたの隣で、あなたと一緒に、眠りに落ちてしまいたいの。いつのまにか眠ってしまって、朝目が覚めたときそのことを悔やんで、もっと二人で話していたかったねと言い合って、でも同じことを繰り返していきたいの。
ただ私はーー。
あなたのそばで、安心して眠りたいだけ。完



