新婚旅行から戻って、一ヶ月。
　美月と共に暮らす豪奢(ごうしゃ)な寝所にもようやく慣れた頃、私は寝台に横たわっていた。

　夜の涼やかな空気が障子越しに忍び込み、虫の声が静かに響く。

　隣には美月の温もり。
　手を伸ばせばすぐに触れられる距離に最も愛しい人がいる。

　それでも、この胸の奥に澱のように沈む重苦しさは拭えなかった。
　夜ごと交わす他愛ない会話も、今宵ばかりは言葉が続かず沈黙が重くのしかかる。

「永和様……？　今夜は、少し元気がないように見えます」

　覗き込むように向けられた美月の緑色の瞳に心が揺れる。
　私はこんな弱い顔を彼女に見せたことがあっただろうか。

「……美月」

　押し殺した声で名を呼ぶ。
　喉が痛むほどの緊張を覚える。

「本当は……お前に、打ち明けねばならぬことがある」

　私は身を起こし、月明かりの下で拳を握りしめた。王として背負ってきた宿命。
　誰にも言えず、一人抱えてきた呪い。
　だが、美月にだけには隠し通すことができなかった。

「私の身には……呪いがある。生まれた時から課せられた、鬼の王の宿命だ」

　美月が小さく息を呑む。
　私は苦笑とも諦めともつかぬ顔で続ける。

「私の命は長くは続かない。やがて魂は裂け、鬼の血は枯れ果てる。だが──」

　目を逸らさず、彼女を真っ直ぐに見据える。

「お前の血だけが、その呪いを鎮めるのだ」

　言葉を告げた瞬間、胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。
　どれほど強く見せようと、結局私は彼女に縋らねば長くは生きられない。

「お前と魂を契り交わせば、私は生き永らえる。だがそれは同時に……お前の命もまた、私と分かち合うということになる」

　声が震える。
　王であるはずの私が愛する者を呪いに巻き込むなど本来許されぬことだ。

「お前が死ねば、私も死ぬ。お前が生きれば、私も生きる。……お前を巻き込むなど、あってはならぬ」

　その瞬間、美月の手が私の拳をそっと包んだ。柔らかく、温かく、逃げ場のない私を赦(ゆる)すように。

「そんなの……怖くなんてありません。私の命があなたと繋がるというのなら……それほど幸せなことはないです」

　震える声でありながら、美月の緑色の瞳は澄んでいた。そんな美月を見て私は胸の奥で何かが解ける音がした。

「ありがとう……美月」

　私は彼女の手を強く握り返し泣きそうになるのを堪えた。

　　　　　　　　　　

　夜が明けても、心に影は残っていた。
　美月を巻き込んでしまった現実は変わらない。

　寝所の窓から差し込む朝の光の中で、彼女がどんな思いを抱いているのかを考えると胸が締め付けられる。

　愛するがゆえに彼女を縛り、呪いと命を共有させてしまった。
　私は鬼の王でありながら、一人の男としては弱く、愚かだ。

　　　　　　　　　　❀❀❀

　昼を少し過ぎた頃。
　私は美月と蒼史と共に王城の奥深く──
　普段は誰も足を踏み入れることのない石畳の回廊を歩いていた。

　馴染みある寝所や庭園とはまるで違う。
　漂うのは冷えた土と岩の匂い。
　この先にあるのは、代々の鬼王が契りを交わし、呪いを繋いできた地下の祭壇(さいだん)。

　石壁に反響する三人の足音が妙に大きく響く。空気は重く、緊張に押しつぶされそうな気配が漂っていた。

「……お顔が青ざめておられますよ、美月様」

　隣を歩く蒼史の声が響く。
　私はちらりと横目で美月を見ると強がっているものの、その瞳には迷いと恐れがわずかに滲んでいた。

「大丈夫です。少し緊張しているだけで……」

　そう返す声は確かに震えていた。
　当然だ。この儀式は命と命を繋ぐ契り。
　軽んじてよいものではない。

　私は歩みを緩め、美月の手を取った。
　小さな掌を包み込むと彼女の震えが直に伝わってくる。

「……怖いか」

　短く問う。
　彼女は唇を噛みしめて答えた。

「怖くないといえば、嘘になります。でも……永和様を救えるのなら、私は」

　その健気さに、胸の奥が熱くなった。
　私は思わず微笑みを浮かべる。

「自らの命を削ってまで私を助けたいと思ってくれてありがとう。美月」

　そう口にした時、王としての仮面ではなく、ただ一人の男としての私の声が滲み出ていた気がした。

「安心しろ。私が美月の魂を喰らうことは決してない。ただ、繋ぎ合わせるだけだ。二つの命を一つに」

　その言葉に、美月は安堵を帯びた瞳で頷いた。
　それを見て、私自身もまた、恐れではなく静かな覚悟に満たされていった。



　やがて重い鉄の扉の前へと辿り着いた。
　蒼史が押し開くと、冷たい空気が流れ出し、奥の松明(しょうめい)が揺らめく。

　階段を降り、祭壇の間に足を踏み入れる。
　黒石(くろいし)の祭壇には古の紋様(もんよう)が刻まれ、赤黒い宝玉(ほうぎょく)が心臓の鼓動のように脈打っていた。

「……ここが」

　美月が小さく息を呑む。
　私は低く告げた。

「鬼王の契りを交わす場だ。美月と私が魂を繋ぐ場所──」

　その言葉を吐いた時、彼女の気配から恐れが薄れ、静かな決意が芽生えているのを感じた。


　蝋燭(ろうそく)の炎に照らされ、私と美月の影が祭壇の壁に揺れる。
　蒼史は一歩下がり、見届け人として控えていた。

「……美月」

　そう彼女の名を呼んだ自分の声は震えていた。

「これより交わすのは、単なる契りではない。魂を繋ぐ命そのものを分け合う契約だ。お前が望まないならここでやめても構わない」

　だが、美月の瞳には迷いがなかった。

「永和様……私は、恐れてなどおりません。もし私の命を分けることで、永和様が生きられるのなら……それ以上に望むことはございません」

　私は思わず目を見開いた。
　人は本来、恐怖にすくむはずだ。
　だが彼女は違う。

「……お前は、なぜそこまで……」

　私の問いに、美月は小さく微笑んだ。

「政略のために嫁いだはずなのに、今はただ……あなたに、生きてほしいと願っているのです」

　その言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
　私は目を閉じ、深く息を吐いた。

「……ならば、美月。共に歩もう。この呪われた契りを……愛の証へと変えてみせよう」

　彼女の両手を取り祭壇の前に進んだ。
　そして短剣を手に取り自らの掌を切る。
　血が祭壇へ滴り落ち、古代文字が光を帯びて浮かび上がった。

「次は……お前だ」

　美月が震える手で短剣を受け取り、私と同じように掌を切った。
　血が落ちた瞬間、祭壇全体が脈打つように光を放ち始める。

　私は彼女の手を取り、自らの傷口と重ね合わせた。血が交わり、魂が交わる。

「美月……我らが魂は、今より一つ」

　全身を熱が包み込み、心臓の鼓動が重なり合う。彼女の気配が内に流れ込み、私の中に溶けていった。

「はい……永和様。これからも、ずっと共に」

　その囁きを聞いた瞬間、祭壇の光が強く輝き、私と美月の影は一つに重なった。


　儀式を終え、祭壇を後にする。
　階段を上がるにつれて、外の光が差し込んでくる。

　美月の手はまだ温もりを残し、私はその感触を確かめるように握り返した。

「……美月。苦しくはないか？　契りの後は身体に異変が出ることもある」
「……大丈夫です。むしろ、すごく……落ち着いています。永和様と繋がっているんだって、ちゃんとわかるから」

　その返答に私は胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
　そんな美月を見て蒼史が静かに呟く。

「……正直、驚きました。魂の契りを受け入れるなんて、普通の人間なら恐怖しかないはずですから」

　だが美月は、静かに笑った。

「恐怖は、ありますよ。でも……永和様が苦しんでいるのを見ている方が、ずっとつらいです」

　そんな彼女の言葉に私は思わず足を止めた。
　光の出口が近い。

「……美月、お前は、やはり強いな」
「強くなんてありません。ただ……大切に思う貴方を守りたいだけです」

　その言葉を受けて私は心の底から美月への愛おしさが込み上げる。
　そんな気持ちを見透かされないように私は美月の髪を撫で微笑んだ。

「ならば、俺もまた美月を守り抜くと誓おう」

　
　地下の重苦しい空気を抜け、外の光が眩しく射し込む。世界が以前よりも鮮やかに映った。

　──美月と共に生きる限り、呪いすら愛に変えてみせる。そう強く思い私は歩みを進めた。