宿屋へ入ると、白い割烹着(かっぽうぎ)をまとい、後ろで黒髪をひとつに束ねた女将が私たちを迎えてくれた。
 
 目尻の(しわ)まで優しさを含んでおり、額から伸びる角が彼女が鬼人であることを物語っていた。

「いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました」
「予約している永和という者だ」
「永和様ですね。お部屋までご案内致します。こちらです」

 女将は丁寧に言葉を返し、広い玄関から続く廊下を先導して歩き出す。

「何処からいらっしゃったのですか?」
「鬼の国の王都からだ」
「まあ、そうなのですね。この宿屋から少し歩いた所に商店街があるので、そちらも良かったら行ってみてくださいな。色々、名物がありますので」

 女将の言葉に、美月が小さく頷いたのが視界の端に映る。

 おそらく、彼女の胸の内には「行ってみたい」という想いが芽生えたのだろう。
 そんな彼女の無邪気さを見て、心の奥が少し温かくなった。

「お部屋はこちらです。では、ごゆっくりお過ごし下さいませ」

 女将が立ち去った後、私は鍵を取り出し部屋の扉を開けた。

「先に入ってくれ」
「はい、ありがとうございます」

 美月が中に足を踏み入れる。
 畳の香りがふわりと鼻をかすめ、障子越しの柔らかな陽光が和室を満たしていた。

「とても素敵なお部屋ですね。落ち着きます」
「ああ、そうだな」

 扉を閉め、彼女の言葉に穏やかに返す。
 明日のことを考えるより、今日はただこの静けさの中で美月と共に過ごしたい。

「今日はゆっくりしよう。観光は明日でもいいか?」
「そうですね、明日で大丈夫ですよ」

         ❀❀❀

 夜。
 運ばれてきた夕餉を並んで口にしながら、明日の予定について話し合っていた。

「明日なんだが、部屋に案内してくれた女将さんが言っていた商店街にでも行かないか?」
「行きたいです……!」
「それじゃ、明日は商店街とか、その辺の観光をしよう」
「はい!」

 弾んだ声を聞き、自然と頬が緩む。
 ──そんな(せつ)、視線を感じて顔を上げると、美月の瞳がこちらに注がれていた。

「……永和様、茄子は最後に残してるんですか?」

 皿の隅に寄せておいた煮物。
 苦手なゴマ味噌和えの茄子を見られていたらしい。
 不意を突かれて少し赤面しながら、私は箸でそれをつまみ上げる。

「え、……ああ、実は……あまり得意じゃなくてな……最後に食べようと思っていた」

 情けない告白のようなものだ。
 だが、美月は笑みを浮かべただけで、咎めることも茶化すこともなかった。

 その優しい眼差しに救われ、苦手なはずの茄子の苦味が、なぜか少しだけ和らいだ気がした。

         ❀❀❀

 夕食を終え、美月と共に廊下を歩いて入浴所へと向かった。
 のれんの前で足を止め、互いに視線を交わす。自然と距離を取るのは、互いの礼儀を守るためだ。

「先に出たら、待っている」

 そう告げると、美月の瞳がわずかに潤み、胸の奥で何かを堪えているように見えた。

 小さく頷いて女湯ののれんをくぐっていく姿を見送り、私ものれんをくぐった。

         

 湯から上がったあと、売店横の長椅子に腰を下ろし、手にしたペットボトルの水を口に含む。身体と髪に染み付いた石鹸の匂いがまだ残っている。
 
 しばらくすると、浴場から出てきた美月が小走りでこちらへやって来る。

「永和様、お待たせしました」

 頬をほんのり赤く染めた美月に自然と口元が緩む。

「ああ。それじゃあ、部屋に戻るか」
「はい……!」

 部屋へ戻ると畳の上に二組の布団がまるで寄り添うようにぴったりと敷かれていた。

「あ……あの、永和様」
「な……なんだ?」

 美月は頬を染めて視線を揺らしている。
 その仕草に、胸の奥が微かに熱を帯びる。

「その、永和様が良ければ同じ布団で寝ませんか?」
「ああ、私は構わないが」
「じゃあ、一緒に寝ましょう!」
「ああ」

 障子際の布団へ向かう美月の背を見送り、私は灯りのスイッチへ手を伸ばした。

「電気、少し明るくしとくか?」
「いえ、全部消していただいて大丈夫ですよ!」

 その言葉に頷き、部屋の灯りをすべて落とす。
 闇に目が慣れぬうちに布団へ入り、美月の気配をすぐ傍に感じた。

「それじゃあ、寝るか」

 そう言ったところで、美月がはっと顔を上げる。

「はいと言いたいところなんですが、すいません、永和様、私、まだ歯磨きしてません……」
「え、あ、そういえば私もしていない」
「一緒にしてから寝ましょう」
「そうだな」

 二人で布団から抜け出し、洗面所へ向かう。 
 ──こうした何気ないやり取りすら心地よかった。

         ❀❀❀

 翌日、宿屋を出て商店街や街を散策した。
 昼まで歩き回り、坂を下ると和菓子のカフェにたどり着く。

 店内に入り、窓際の席に美月と向かい合うように座り、私と美月の元までやって来た店員に注目をする。
 
 その後、私と美月は注文した品を待ちながら他愛のない会話を交わし始めた。

「なんだか落ち着きますね。鬼の国にもこういうお店があるなんて知らなかったです」
「……私普段から甘い物はあまり取らないのだが、城下の民達には評判だと聞いた」

 私は背筋を伸ばし、淡々と答える。

 視線は自然と窓際のメニュー表の表紙の和菓子の見本絵に引かれる。美月の小さな笑顔を確認し、心の中で微かに温かさを感じた。

「ふふっ、じゃあ今日が初めてですか?」
「ああ。……美月がいなければ一生来ることもなかっただろう」

 美月の頬が微かに上気するのを見て私は静かに微笑む。

「見てください、永和様。あの子、団子を三本も持っています」

 そう言い指をさす美月に、私は眉をひそめて、美月が指差した窓の外に顔を向けると子供が団子を三本も抱えて駆けていく姿が見えた。

「……戦支度か?」
「ちがいます! ただのおやつです!」
「三本も抱えて戦わぬのならなぜだ」
「だから食べるんですってば!……もう」

 美月が吹き出すと俺の口元がわずかに緩む。
 ──そのとき、店員が静かに卓まで運んできた。

「お待たせしました」

 抹茶ケーキと小さな菓子盆が、香りとともに目の前に置かれる。
 美月は微笑み、店員に礼を言う。
 私も視線だけで返して机に置かれた菓子の香りを吸い込む。

 店員が静かに立ち去った後、美月が小さなフォークで抹茶ケーキを口に運ぶのを眺め、自然に少し口角が緩む。

「どうぞ、永和様も」

 美月から差し出されると私は少しためらったあと、フォークを受け取り一口味わう。

「…………苦い。だが……悪くない」

 美月はくすくすと笑い、次に桜餅を食べる。
 葉ごと口にする姿に少し驚きながら私も手を伸ばす。

「……本当に葉を食うのか」
「ほら、試してみてください」
「……悪くない」
「ふふ。永和様、今日は悪くないばっかりですね」
「……誉め言葉だ」
「そうですか? なら、もっと聞きたいです」

 笑い合う視線の間に卓の上には静かな温かさが広がっていた。

         ❀❀❀

 夕方頃。
 宿屋を出た私と美月は女将らと数人の女中の見送りを受けた。
 私は軽く頷くだけにとどめたが、美月は丁寧に会釈していた。
 
 宿屋を出た私と美月は並んで石畳の小道を歩き、駐車場に向かう。

 車の中に入り、エンジンをかけようとしていた私を見つめながら、美月の余韻が含まれた声が聞こえてきた。

「今日一日、あっという間でしたね」
「……悪くない一日だった」

 助手席に座る美月が茜色に染まる空を見上げて小さく呟く。

「……また来られるでしょうか」

 その横顔を見つめ、私は言葉を返した。

「……美月が望めば、いくらでも来られる」

 私がそう返せば彼女(美月)の瞳がぱっと綻む。その笑みを胸に刻みながら、ハンドルを握り、エンジンをかけた。

 車は静かに発進し、宿の灯は徐々に遠ざかっていった。