昼を少し過ぎた頃。
 王城の奥、誰も足を踏み入れぬという 石畳(いしだたみ)回廊(かいろう)を私は永和様とその側に控える蒼史様と共に歩いていた。
 
 通い慣れた寝所や庭園とは違い、この先に広がるのは冷たい土と岩の匂いが満ちる場所。
 城の 深層(しんそう)に隠された地下の祭壇(さいだん)。 代々の鬼王が、契りや儀式を行ってきたという場所。

 足音が石壁に反響し、やけに大きく響く。
 空気は重たく、私の胸はじんじんと緊張で震えていた。

「……お顔が青ざめておられますよ、美月様」
 
 永和様の右隣を歩いていた蒼史様が低く心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫です。少し緊張しているだけで……」

 私は苦笑して返す。
 けれど、正直に言えば緊張どころか、足元がすくむ思いだった。

 自分の血と魂を賭けて永和様を救う。
 そう覚悟は決めたはずなのに、こうして儀式が現実になろうとしているとどうしても心臓が早鐘を打つ。

 その時、私の隣を歩いていた永和様がふと歩みを緩め、私の手を優しく取った。

 大きくて温かな掌に包まれるだけで、少し胸の高鳴りがおさまる気がする。

「……怖いか?」

 短く問われ、私は唇を噛む。

「怖くないといえば、嘘になります。でも……永和様を救えるのなら、私は」

 言葉が途切れ、視線が揺れる。
 すると永和様は、ほんの一瞬だけ眉をひそめて、それから柔らかく笑った。

「自らの命を削ってまで我を助けたいと思ってくれてありがとう。美月」

 その声音は、普段のクールで冷静な永和様と違ってどこか人間らしい響きを含んでいた。
 私は思わず息を呑む。

「永和様……」
「安心しろ、美月。私が美月の魂を喰らうことは決してない。ただ、共に繋ぎ合わせるだけだ。──二つの命を一つに」

 その言葉に私の胸は熱くなる。
 永和様と一つになる。
 それは恐怖ではなく、むしろ深い安堵をもたらした。



 王城の奥にある石畳の回廊を歩き続けて少し経った頃、重い鉄の扉が現れた。
 私達は立ち止まり、目の前にある重々しげな鉄の扉を見つめる。

 蒼史様が両腕で鉄の扉を押し開けると、ひやりとした空気が流れ出し、扉の中の壁にある松明の炎が揺らめいた。

 私達が地下へと続く階段を降りると古の時代から受け継がれてきたという黒石の祭壇が、厳かに 鎮座(ちんざ)していた。

 壁には鬼の紋様が刻まれ、赤黒い宝玉が光を宿すように脈打っている。
 まるで心臓の鼓動のように。

「……ここが」

 思わず息を呑む私に、永和様が低く告げる。

「鬼王の契りを交わす場だ。美月と私が魂を繋ぐ場所──」

 その瞬間、胸の奥に不思議な静けさが広がった。

 恐怖も不安も、もう霞んでゆく。
 ただ、永和様の隣に立ち、共に未来を歩んでゆきたいと。それだけを私は強く願っていた。



 ──静寂。
 地下祭壇の空気はひやりと湿り、蒼史様が手に持つ蝋燭(ろうそく)の灯りが壁に揺れる私達の影を映し出していた。

 まるで、この世とあの世の境目に立たされているかのような感覚だ。

 永和様は私の隣に立ち、静かに長い 睫毛(しょうもう)を伏せていた。

 彼の横顔は、普段の王の 威厳(いげん)を纏う姿とは違い、どこか儚さを宿しているように見える。

 蒼史様は一歩下がり、祭壇の外縁で私達の警護と見届けを兼ねて見守っていた。

「……美月」

 私の隣にいる永和様が、私の名を呼んだ。
 低く、けれどどこか震える声。

「これより交わすのは、単なる契りではない。魂を繋ぐ、命そのものを分け合う契約だ。お前が望まぬなら、ここでやめても構わない」

 その言葉に、私は胸の奥から強く湧き上がる思いを抱きしめる。

 ──もう、迷いはない。

 私は永和様と共に生きたい。
 彼の呪いを少しでも軽くしたい。
 たとえその代償が私の血や寿命であったとしても。

「永和様……私は、恐れてなどおりません」

 私はまっすぐに隣にいる永和様を見つめた。

「もし私の命を分けることで、永和様が生きられるのなら……それ以上に望むことはございません」

 永和様は一瞬、言葉を失ったように瞳を見開いた。
 蝋燭(ろうそく)の炎が永和様の青色の 双眸(そうぼう)に映り込み、揺れている。

「……お前は、なぜそこまで……」
「なぜ、でしょうね」

 私は小さく笑みを浮かべた。

「政略のために嫁いだはずなのに、今はただ……あなたに、生きてほしいと願っているのです」

 永和様は目を閉じ、深く息を吐いた。
 そして静かに私に向き直り両手を取る
 鬼の国の王である永和様の掌は大きくて、少し冷たかった。

「……ならば、美月。共に歩もう。この呪われた契りを……愛の証へと変えてみせよう」

 彼の言葉に、胸が熱くなる。
 頬がじんわりと 紅潮(こうちょう)しているのを自覚しながら、私は小さく頷いた。

 永和様は祭壇の前へ進み、短剣を手に取る。
 その刃先が蝋燭の光を受け、鋭く光った。

「まず、私が血を捧げる」

 彼はためらいなく自身の掌を切り、赤黒い血が祭壇の石盤へと滴り落ちた。
 石盤に刻まれた古代文字が、淡い紅光を帯びて浮かび上がる。

「次は……お前だ」

 差し出された短剣を受け取りながら、私は深く息を吸った。
 震える手を必死に抑え、永和様と同じように掌に刃を走らせる。痛みよりも、心の(たか)ぶりの方が大きかった。

 血が落ちた瞬間、祭壇全体が脈動するように光を放ち始める。
 永和様が私の切った手を取り、自分の傷口と重ね合わせる。血と血が混じり、熱が伝わり合った。

「美月……我らが魂は、今より一つ」

 低く響く声とともに、全身が熱に包まれた。
 まるで心臓の鼓動が重なり合うように、永和様の気配が私の内側に流れ込んでくる。

 ──ああ、これは……。
 ただの契約ではない。
 互いを深く知り、支え合うための魂の結びつき。

 私は彼の青い瞳を見つめ、囁くように答えた。

「はい……永和様。これからも、ずっと共に」

 その瞬間、祭壇の光が一際強く輝き、二人の影をひとつに重ねていった。



 地下の冷たい空気を背に、私たちは祭壇を後にした。
 長い階段を上がるにつれて、少しずつ外の光が差し込んでくる。
 永和様の手の温もりがまだ残っていて、私はそれを確かめるように隣にいる永和様の手をそっと握った。

「……美月」
 
 低く響く声が、階段の石壁に反射する。

「苦しくはないか? 契りの後は、身体に異変が出ることもある」
「……大丈夫です。むしろ、すごく……落ち着いています」

 外へと続く階段を登りながら自分の胸に手を当てる。
 鼓動は静かで、心の奥まで永和様の気配が染み込んでいるようだった。

「永和様と繋がっているんだって、ちゃんとわかるから」

 隣を歩いていた蒼史様が、ちらりとこちらを見た。

「……正直、驚きました。魂の契りを受け入れるなんて、普通の人間なら恐怖しかないはずですから」

蒼史様のその声音には、非難ではなく純粋な 感嘆(かんたん)が混じっていた。

 私は少し笑みを浮かべた。

「恐怖は、ありますよ。でも……永和様が苦しんでいるのを見ている方が、ずっとつらいです」

 永和様がふっと目を伏せ、歩みを止めた。
 光の射し込む出口が、もうすぐそこにある。

「……美月、お前は、やはり強いな」
「強くなんてありません。ただ……大切に思う貴方を守りたいだけです」

 その言葉に、永和様はわずかに微笑み、私の髪を撫でた。

「ならば、俺もまた、お前を守り抜くと誓おう」

 祭壇の重苦しい空気を抜け、外気が肌を撫でる。陽の光は眩しく、いつもよりも鮮やかに映った。

 永和様と私の魂は、確かに繋がったのだ――
 その事実が、胸の奥で静かに脈打っていた。