翌日の学校は上の空だった。午前の授業が終わった途端ため息を吐きだした。
美莉花はあのまま出て行ったきり戻ってきていないらしく、佐倉家の皆で捜索が行われている。また別の男の元へ戻ったのではと言う者もいたが、俊陽はそれならばいいとんだがと言って捜索の手を止めなかった。
那月も捜索に加わっているので学校に来ていない。がらんと開いている前席を見ているとため息が漏れる。
那月は、美莉花をどう思っているのだろうか。
美莉花が酷い言葉を吐いている間、那月はじっと耐えるようにしていた。あの諦めた様子は初めてだとは思えない。これまで、どれだけ傷つけられたのだろうと考えるだけで嫌な気分になる。
美莉花が帰って来てからの那月はずっと春乃を気にかけているばかりで、自分の気持ちを吐露しなかった。ずっと何か我慢していたのに聞いてあげられていない。
「私、自分のことばっかりだ……」
もっとできたはずなのに、これまでずっと一緒にいたのに那月の変化に気が付けなかった。
美莉花が駆け落ちしたのは三年前だと言っていたが、その時の那月の様子は全く思い出せない。見えていないのだ、何も。
落ち込みそうになるのを頬を叩く。過去を引きずっていても仕方がない。今の那月と向き合わなくてはいけないと思い、気合を入れて立ち上がりスマホを片手に教室を出て屋上へ向かう。
屋上には人の姿がない。明るい日差しを浴びながらスマホで電話をかけた。
三回のコールで通話が繋がる。
『もしもし、春乃?』電話越しのいつもと違う那月の声にほっとする。
「もしもし、今大丈夫?」
『大丈夫だよ。どうした?」
優しい声に春乃は首を振る。
美莉花が見つかった時は連絡を入れると言ってくれていたので、まだ発見されていないのは分かっている。なのでその話題には触れず話題を探すが、なんと切り出せばいいのか分からない。
声が聞きたかっただけなのだが、恥ずかしくて言えない。
「何でもないんだけど、話がしたくて。えっと」
那月は春乃の言葉を待っていてくれる。
「私、那月の見ていたつもりだったのに何も知らなかったね。あやかしなのもだけど、美莉花さんが家を出た時の事も。那月は私のこと守ってくれているのに私は那月に何もできてなくて不甲斐ないです……」
話せば話すほど何故那月が自分を好きなのか分からなくなってきた。
自分が辛い時に能天気に笑っているような人間嫌になってもおかしくはないはずだ。
懺悔し始めた春乃にふっと、那月が電話越しで笑った。
『三年前に母親が出て行った時、俺は別に驚かなかった。元々酷い人間だったし母親としては最悪だったからな。それに愛されていないのも分かっていたから悲しくもなかったた。怒ってはいたかもしれないけど、春乃と会ったら全部消えた。春乃が俺の異変に気が付かないのは当たり前なんだよ。だって俺は春乃と会っている時は春乃のことしか考えてないんだから。幸せで、嫌な出来事を全部忘れてる』
ゆっくり聞かせるように那月が言う。
『春乃がいなかったらもっとぐれてたかもな』
「もうぐれてるのに、これ以上?」
『ぐれてないだろ。俺は優等生で通ってるよ。春乃よりも成績良いし』
那月の明るい声に春乃は自然と笑顔になっていた。那月のことが好きだと心の底から思う。
「那月、ありがとう。本当は声が聞きたくて電話したの」
憎まれ口を叩いていた那月の言葉が止まる。電話の向こうで照れているのが分かり、くすっと笑みが零れた。笑い声が聞こえたらしく、那月が悔しそうに唸る。
『お前な……』
「あはは。話せて元気出た。午後の授業も頑張るから、那月も頑張って」
『わかったよ。じゃあね。大好きだよ』
ちゅ、とわざとらしいリップ音を残し、通話が切れた。
今まで一回もしたことがないくせに春乃が笑った仕返しだろうが、那月の方が照れていそうだ。向こうは果たしてひとりきりの部屋で電話をしているのだろうか。
人に揶揄われている姿を想像して、笑いが止まらなくなった。
那月からお墨付きを得たので春乃は下を向くのはやめた。「よし」と声に出して立ち上がり、屋上を出た。
午後の授業を終え、ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴る。起立の号令に立ち上がるついでに窓を外を確認すると既に校門の前に車が止まっていた。礼をして鞄を持って教室を出る。
美莉花が見つかったと連絡があったのは一時間前だ。見つかったというよりは、行き先がなくて帰ってきたようで泣きながら俊陽に抱き着いたらしい。見つかって良かったが、この先一体どうなるのか不安だ。昨日のように取り乱さなければいいのだが。
靴を履き替え、昇降口を出た所でスーツ姿の男性が目の前に立った。
「春乃さんですね? 本日は健真さんの代わりにお迎えに上がりました」
美莉花の騒動で家は混乱しているから、健真もそちらに駆り出されているのだろう。そう思いながら男性の横を歩く。
しかし、車が見えていた時にふと違和感に気が付く。
車が少し汚れているのだ。健真の車はいつもぴかぴかに磨かれていたし、ちらりと見えた佐倉家が所有している他の車も曇りすらなかった。これは、本当に佐倉家の車だろうか。
不信感に足が止まりかけた時、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して確認すると那月の名前が表示されている。
慌てて通話ボタンを押そうとした。
「おい。早く乗せろ!」
突然後部座席の扉が開き、腕が伸びて来て、抵抗する間もなく車の中に引きずり込まれる。
「いやっ」
「暴れるな、殺すぞ」
がん、と頭頂部が車の天井にあたり、痛みに呻く。凄みのある声が鼓膜を震わせ、春乃は何が何だか分からないまま後部座席の収まった。両隣に黒いスーツ姿の男性が座っているので身動きが取れない。
一体、どういうことだ。
「出せ」と助手席に座っている男性が運転主の男性に指示を出す。車は音もなく発進した。
「あ、あの、誰なんですか? 何で私を」
「春乃ちゃんだろ。あやかしの花嫁っていい値段で売れるって知ってるか?」
助手席の男性が振り返り、にかりと歯を見せて笑う。前歯が一本かけている上に頬に何かで切られたような傷があり、一般人の風貌ではない。攫われているのだ、と遅れて理解する。
「いやあ、本当についてるぜ。まさかこんなに簡単に連れて来られるなんてな」
「今日は彼氏がママに夢中でいないんよな。那月くんだっけ?」
どうして、それを。春乃の感情はもろに表情に出たようで、男達は心底楽しそうな顔をした。
「酷いママだよね。息子の嫁売るなんて」
その言葉で、全てを察した。
美莉花だ。彼女がこの男達に春乃を連れ去るように指示したのだ。一時間前に家に帰ったのは行く当てがなかったからではなく、健真に送迎させないためだろう。時間を遅らせて連絡も取れないように佐倉家で暴れているのかもしれない。
手に握りしめたままのスマホがもう一度震えた。
「お、彼氏かな? 出てあげなよ。身代金でも要求する?」
予想通り電話をかけてきたのは那月だ。
春乃を手を取り、男性が通話ボタンを押した。途端、通話越しでもわかるぐらい焦った声が聞こえてくる。
『春乃、どうした? 何かあったのか?』
那月の取り乱した様子を男達は声も出さずに嗤う。春乃は怯えて震える唇で何とか言おうと試みたが、それよりも先に那月の心配そうな声が響く。
『健真が家を出るのを少し遅れたんだが、春乃がいないと連絡があった。何かあったなら』
不意に那月の声が不自然に止まった。
『――そこにいるのは誰だ』
淡々とした声にざわりと背筋が凍る。
『四人か? 全員男だな。誰の差し金だ?』
男達は少しも声を出していないのにバレている。驚きで、全員が顔を引きつらせた。
『まぁいい、覚悟をしておけ。春乃、少しだけ待っていて、すぐに行くから』
「う、うん」
何とかそれだけ言うことが出来たが、すぐに左隣にいた男がスマホを強引に奪って通話を切ってしまった。
「なんだよ、気味悪いな」
そう言いながら春乃のスマホを自分の鞄へ入れてしまった。返して欲しいが、何をされるか分からないので大人しく黙ってじっとしておく。その間にも男たちは会話を続けていく。春乃の右隣にいた男が怯えたような声を出す。
「だ、大丈夫っすよね。俺あやかしを相手にすんの初めてなんすけど、大丈夫っすよね」
体が微かに震えているのがわかる。余程さっきの電話が怖かったのだろう。
「大丈夫だよ。人間と変わらねぇって。びびんなくてもいい。どうせはったりだ」
本当にただのはったりだろうか。全員が顔を強張らせる中、今度は助手席に座っていた男のスマホが鳴った。大きな音に皆がびくりと体を跳ねさせる。
「な、なんだよ、誰だ、こんな時に」
男はスマホの画面を見て顔色を変えた。
「ボスからだ」と嬉しそうな声を上げる。頼りになる者からの連絡に車内に安堵の空気が満ちる。
この人がボスかと思っていたが、違ったらしい。
助手席の男はこほんと咳ばらいをしてから通話ボタンを押した。
「ボス、お疲れ様です」
『お前ら今何してる? 何で事務所にいないんだ』
音量が最大してあるのか、スピーカー並みに爆音が車内に響くので内容が駄々洩れだ。
「実は大きな仕事を得たんですよ。驚かないでくださいね、あやかしの花嫁を売って金にするんです。しかも鬼の花嫁らしくて高く売れるのは間違いなしですよ」
『待て、今、なんて言った? 花嫁?』
「はい、鬼の花嫁を売るんです」
一瞬の沈黙の後、ひび割れたような怒声が轟いた。
『馬鹿が! 何を考えているんだ、お前は! 花嫁を売る? ふざけるなよ!』
叫ぶような声に全員が目を見開く。
「馬鹿ってそんな酷いですよ。俺達はちゃんと考えて……」
助手席の男は必死で平常心を保とうとしているらしく、微かに笑いながら言った。それに電話越しの男はため息を吐く。
『何もわかっていないな。あやかしがどうして恐れられているのか分からないのか? お前らはあやかしを見くびりすぎてる。あれは化け物だ。人間とは全く違うんだよ。花嫁が攫われたとなったら飛んでくるぞ』
そんな馬鹿な、と春乃の左隣にいる男が言う。声は怯えが隠せないぐらい震えている。
「飛んで来るなんて、そんなわけ……」
突然、ぷつんと通話が切れた。
「えっ」
再度電話をかけても『お掛けになった電話番号は――』と全く通じなくなってしまい、男は苛立ったようにスマホを鞄にしまった。
「くそっ」と助手席の男が悪態をつく。
「スマホにGPSが付いているかもしれない。捨てとけ」
「そんなのついてないですよ」
捨てられるのは困ると慌てて言うが、無視されてスマホを窓から捨てられそうになった。しかし、窓が開かない。
どれだけボタンを押してもうんともすんとも言わない。こんな時に故障か、と怒りを滲ませる男たちに追い打ちをかけるように運転手が声を震わせる。
「あ、あの、さっきからおかしいんです」
「はあ? 今度はなんだよ」
「さっきから誰も通らないんです。この時間の大通りなのに」
そう言われて春乃も初めて異変に気が付いた。本来ならば学校帰りの学生や退勤している会社員がたくさん行きかっているのに、人の姿がない。しかも赤信号が延々と点滅を繰り返している。それも全部の信号が。
「何だよ、これ」
そう助手席の男が泣き言を零す。最初から怯えてきた春乃の右隣の男は頭を抱えて外を見ないようにしている。
明らかにおかしい。まるで異世界に迷い込んでしまったみたいだ。
「あ」
急に赤信号が一個だけ点滅を止めた。その途端、歩道の信号が青になり、無音だった外界に錆びついた機械音のとおりゃんせが不気味に鳴り響く。
そして、そこに一人の男性が現れた。佐倉那月が、花嫁をより戻したに来た。
「こ、こわい」
助けるにしても演出がホラー映画すぎる。春乃はすっかり世界観に怯えていた。
「どうする。轢くか?」
「駄目です!」と春乃が声を上げる。
「そうですよ。罪を重ねてこれ以上祟られたらどうするんですか!」と後部座席から抗議の声が上がる。
左隣にいた男がいつの間にか黒い数珠を手でこすり合わせていた。後部座席に座るふたりにもう敵意はない。今すぐ春乃を返すべきだと訴えている。
「もう無理です、ごめんなさい。許してください」
運転席の男は泣きべそまで搔いている。もう限界だ。
どん、と車が揺れた。いつの間にか那月が運転席の隣に立っていた。ぎゃあっと運転手から悲鳴が上がる。
「今すぐ、春乃を返せ」
那月の言葉に後部座席にいたふたりに同時に扉を開けて、車から飛び出した。助手席の男が咎めるように声を上げるが、もう誰も聞いていない。
「春乃」
名前を呼ばれ、春乃は車の外へ出て那月に縋りついた。
攫われていた時間はほんの数十分だが、あんな耳元で怒声を浴びる機会がこれまでの人生でなかったのですっかり委縮してしまっていた。
「怪我は? なんともないか?」
「大丈夫だよ。那月は、早かったね」
「いてもたってもいられなくて。最短で来たんだぞ」
那月は何でもないことのように言う。
きっとあの現象はあやかしにとっては何でもないことなのだろう。電話越しのボスの言葉を思い出す。彼はあやかしを化け物だと言い、人と違うものだと認識していた。春乃はこれまで人間とあやかしの差を感じていなかったが、今ようやく違う生き物だと気が付いた。自覚させられた。
だが、それでも那月を化け物だなんて思わなかった。
「ホラー映画みたいだった。めちゃくちゃ怖かった」
「俺が怖くなった?」
困ったように聞いてくる那月に笑顔で首を振る。
「ううん、全力で来てくれて嬉しかったよ」
那月がにっこりと笑い、春乃を抱きしめた後、車内とその周りにいる男性陣に目を向けた。
「さて、無事に帰りたかったら全部話してもらおうか」
信号が全て赤に変わる。車は那月の許可なく進めない。それに恐らくエンジンも使い物にならない気がする。
「……あ、あの女が悪いんだ、あの派手な女に唆されたんだ」
助手席に座っている男が顔面蒼白なまま言う。派手な女が美莉花を差していると那月もすぐに気がついたようだ。スマホを取り出して美莉花の写真を見せて確認させる。
「派手な女とはこの女か?」
「そうだよ!」と肯定され、那月は苛立ちを抑えもせずに舌を打った。
「早くこんな所から帰せよ」
男が喚く。
「まずは謝罪だろ」
那月が冷たく言うと男は癪に障ったのか、顔を歪ませて声を荒げようとした。それを周りで見ていた男性陣が止めに入る。
「謝りましょう。すみませんでした」
「もうしません。申し訳ありませんでした」
「本当に、すみません。ごめんなさい。許してください」
男達に頭を押さえられ、漸く助手席の男も頭を下げた。
「すみませんでした」と男が言った途端、ぱっと世界が晴れた。春乃達はいつの間にか学校の校門の前に戻ってきていた。人も車も通っている。
「か、帰って来たんだ」
全員がほっと安堵の息を吐いたが、厄介なのはこの後に待っている。
学校で待機していた健真の車に乗り換え、佐倉家に帰宅した。春乃が連れ去られたのは佐倉家に既に知れ渡っているらしく、玄関には心配そうに数人が待機している。
到着するなり那月が車を降り、待っていた佐倉家の皆をかき分けて玄関の前に立っている美莉花に一直線に向かっていく。
「那月、ちょっと待って」
春乃は車から転がるように降りながら那月に制止をかける。那月の手が美莉花に伸びるが、それを遮るように俊陽が美莉花の前に立った。
「落ち着け」
「落ち着け? その女のせいで春乃が売られかけたんだぞ」
那月の呼気が興奮で乱れている。こんなに怒っている那月を見るのは初めてだった。
「私知らないよ、そんなの。私じゃない」
「犯人はお前の姿を見てる。調べればすぐにわかるんだよ、嘘つくな」
那月の強い言葉に焦ったのか、美莉花は子供みたいに首を振る。
「だ、だって、その女が邪魔だったから……いいじゃん別に、大したことなかったんでしょ? 売られずに済んで良かったねで済ませてよ」
「何言ってんだお前」
「だってそうじゃん。ただ車に乗せられただけでしょ? 何もされてないじゃん。それなのに何で私はこんなに責められなきゃいけないの? ねぇ、俊陽おかしいよね、助けてよ」
美莉花の主張に那月は先ほどよりもずっと落ち着いた声で言った。
「もし、酷い目にあっていたらどうするつもりだったんだ」
「知らないよそんなの。次の彼女見つけたらいいじゃん」
彼女は一体どんな思考をしているのだろうか。
春乃だけでなく、周りにいる佐倉家全員が絶句した。
恐らく彼女に何を言っても無駄だ。彼女世界には自分しかいないのだ。
「春乃さん」
不意に俊陽が春乃の手を持ち上げ、手に何か固いものを握らせる。
「裏切られても尚、ふんぎりがつかなかったが、もう終わりにしたい。終わりにすべきだ」
俊陽が手を離す。春乃の手には花切鋏があった。彼がこれを春乃に託す意味はひとつしかない。美莉花との縁を切るのだ。
「俊陽、嘘でしょ? 待って」
佐倉家で花嫁として暮らしていた美莉花も花切鋏が何を意味するものなのか知っていたらしく顔色を変えた。
「私がいなくなって困るのは俊陽の方でしょ? 花嫁を失ったらどうなるか……」
「もう一度失ってる。君がいなくなって俺は身が裂かれる思いだったよ。あの時に君の俊陽は死んだんだ」
俊陽は、美莉花を見ずに春乃に微笑んだ。
ひび割れている。近くで見た俊陽は既に悲しみぬき壊れてしまった後だった。
「頼む」
掠れた声に押され、春乃は那月を探す。春乃だけでは花切鋏は扱えないのだ。
那月はすぐに隣に来てそっと手を握った。脳裏に藍子から言われた『罪』という単語が過ったが、首を振って消し去った。
体温と共に流れてくる霊力を感じながら、春乃は鋏を入れる。
「いやーーーー!」
ちょきん、と何かが切れる音と美莉花の叫び声が重なり、すぐに泣き声に変わった。
「……美莉花、昨日言った通り家も生活できるくらいの金も用意する。代わりに二度と佐倉家の敷居は跨がせない」
俊陽の声は、今まで美莉花へ向けていたものと比べ物にならないぐらい冷たかった。
本当に縁が切れたのだと誰でもわかる変化だ。
美莉花も例外ではなく、俊陽がその場からいなくなっても、泣きじゃくりながら顔を押さえて踞っていた。
「ごめんね」
美莉花が家を出て行った翌日、春乃は那月と共に俊陽の自室に呼び出されていた。
俊陽の部屋は、六畳程度の和室で。俊陽は胡座をかいて座っている。
何を言われるのかわからず、落ち着かない春乃に開口一番、俊陽は困った顔で謝罪を口にした。
そして、種明かしをするように全てを打ち明け始める。
「君をここに呼んだのはね、美莉花が男に捨てられてもしここに戻ってきたら縁を切ってもらおうと考えたからなんだよ」
「このタイミングだったのは、偶々ですか?」
駆け落ちした美莉花が帰ってきたタイミングと春乃が佐倉家に来たタイミングがぴったりすぎる。偶然とは思えなかった。
案の定、俊陽は首を振る。
「いいや。美莉花が家を出てからずっと監視を着けていたから、どこで何をしていたのか全部把握していた」
自らを裏切った人間を追わずにずっと遠くから監視を続けていた、とはあまりにも狂気的だ。
「何故、追わなかったんですか?」
「俺が鬼の当主だからだよ」
真剣な顔をしていたのにすぐに破顔した。
「これは建前で、本当は拒絶されるのが怖かったんだよ。運命の子を前にしたらあやかしなんてそんなもんだ。那月はわかるだろ?」
那月は春乃と目を合わせる。
大切な者に置いていかれた人の心は、あやかしも人も変わらないだろうと思っていたが、あやかしの心はもしかしたら人には考えられないくらい真っ直ぐなのかもしれない。
那月の焦がれるような視線を向けられなから、愛情の深さを感じ取った。
「痛いくらいに」
そんな運命と決別した葉鳥と俊陽の覚悟を春乃は背負わなければいけない。
あやかしと人の縁を切った罪を春乃は抱えて行くのだ。
「連れ去られたと聞いた時、呼吸の仕方を忘れた」
那月は言う。
「もう二度と離れたくない」
切々とした声に応えるために春乃は彼の手を強く握る。
「離れないよ、絶対に」
そう言うと漸く那月が表情を緩めた。もしかしたら春乃がいなくなってからずっと気を張っていたのかもしれない。
俊陽との話が終わり、部屋を出て自室へ戻った。美莉花がいない佐倉家は静かだが、どことなく落ち着きがない。
「皆振り回されたせいで穏やかな日常に戸惑っているんだよ。すぐに落ち着く」
美莉花が駆け落ちした時もそうだったのだろう。皆、戸惑い憤り、そしていつかいないのが日常となった。
「これで良かったのかな」
自身の印を見ながらぼそりと呟く。自分に出来ることがあったとは思えないが、どうしても考えてしまう。
「良かったんだよ。そう思うしかない」
那月はそう言うなり、春乃の体を抱きすくめた。急な出来事に春乃の口から反射的に悲鳴が漏れた。
「悲鳴は傷つくんだけど」
「びっくりしたんだもん」
ひょいっと抱き上げられ、膝の上に乗せられ驚く。今までも十分距離が近かったが、流石にこんなに至近距離だったのは初めてだ。
「終わったことを考えても仕方ないよ。父さんは納得してる。春乃をここへ呼び寄せた時点で覚悟を決めてた」
「うん、そうだよね」
春乃がいつまでも悩んでいても仕方がない。これは俊陽の問題なのだ。
「運命と縁を切った話はあやかし界にすぐに広まっている。運命に捨てられたと甘く見て穢れを巻かれる心配も格段に減るだろうな」
その那月の言葉を聞き、俊陽が『鬼の当主だから』と発言した真意に気が付いた。
守る立場にいる者だからだ。
皆のために、監視するほど愛していた美莉花を手放した。
「すごい覚悟だ……」
春乃が負った責任よりもずっと大きなものの上に立ち、背負っているものだからこその選択だったのだろう。
それを春乃が悩むのは、冒涜に思えた。
「この話は終わり。春乃はこれから不審な車には乗るなよ」
もう何度目かになる説教が始まるのを阻止するために春乃は目の前にある頭を抱きすくめた。
美莉花はあのまま出て行ったきり戻ってきていないらしく、佐倉家の皆で捜索が行われている。また別の男の元へ戻ったのではと言う者もいたが、俊陽はそれならばいいとんだがと言って捜索の手を止めなかった。
那月も捜索に加わっているので学校に来ていない。がらんと開いている前席を見ているとため息が漏れる。
那月は、美莉花をどう思っているのだろうか。
美莉花が酷い言葉を吐いている間、那月はじっと耐えるようにしていた。あの諦めた様子は初めてだとは思えない。これまで、どれだけ傷つけられたのだろうと考えるだけで嫌な気分になる。
美莉花が帰って来てからの那月はずっと春乃を気にかけているばかりで、自分の気持ちを吐露しなかった。ずっと何か我慢していたのに聞いてあげられていない。
「私、自分のことばっかりだ……」
もっとできたはずなのに、これまでずっと一緒にいたのに那月の変化に気が付けなかった。
美莉花が駆け落ちしたのは三年前だと言っていたが、その時の那月の様子は全く思い出せない。見えていないのだ、何も。
落ち込みそうになるのを頬を叩く。過去を引きずっていても仕方がない。今の那月と向き合わなくてはいけないと思い、気合を入れて立ち上がりスマホを片手に教室を出て屋上へ向かう。
屋上には人の姿がない。明るい日差しを浴びながらスマホで電話をかけた。
三回のコールで通話が繋がる。
『もしもし、春乃?』電話越しのいつもと違う那月の声にほっとする。
「もしもし、今大丈夫?」
『大丈夫だよ。どうした?」
優しい声に春乃は首を振る。
美莉花が見つかった時は連絡を入れると言ってくれていたので、まだ発見されていないのは分かっている。なのでその話題には触れず話題を探すが、なんと切り出せばいいのか分からない。
声が聞きたかっただけなのだが、恥ずかしくて言えない。
「何でもないんだけど、話がしたくて。えっと」
那月は春乃の言葉を待っていてくれる。
「私、那月の見ていたつもりだったのに何も知らなかったね。あやかしなのもだけど、美莉花さんが家を出た時の事も。那月は私のこと守ってくれているのに私は那月に何もできてなくて不甲斐ないです……」
話せば話すほど何故那月が自分を好きなのか分からなくなってきた。
自分が辛い時に能天気に笑っているような人間嫌になってもおかしくはないはずだ。
懺悔し始めた春乃にふっと、那月が電話越しで笑った。
『三年前に母親が出て行った時、俺は別に驚かなかった。元々酷い人間だったし母親としては最悪だったからな。それに愛されていないのも分かっていたから悲しくもなかったた。怒ってはいたかもしれないけど、春乃と会ったら全部消えた。春乃が俺の異変に気が付かないのは当たり前なんだよ。だって俺は春乃と会っている時は春乃のことしか考えてないんだから。幸せで、嫌な出来事を全部忘れてる』
ゆっくり聞かせるように那月が言う。
『春乃がいなかったらもっとぐれてたかもな』
「もうぐれてるのに、これ以上?」
『ぐれてないだろ。俺は優等生で通ってるよ。春乃よりも成績良いし』
那月の明るい声に春乃は自然と笑顔になっていた。那月のことが好きだと心の底から思う。
「那月、ありがとう。本当は声が聞きたくて電話したの」
憎まれ口を叩いていた那月の言葉が止まる。電話の向こうで照れているのが分かり、くすっと笑みが零れた。笑い声が聞こえたらしく、那月が悔しそうに唸る。
『お前な……』
「あはは。話せて元気出た。午後の授業も頑張るから、那月も頑張って」
『わかったよ。じゃあね。大好きだよ』
ちゅ、とわざとらしいリップ音を残し、通話が切れた。
今まで一回もしたことがないくせに春乃が笑った仕返しだろうが、那月の方が照れていそうだ。向こうは果たしてひとりきりの部屋で電話をしているのだろうか。
人に揶揄われている姿を想像して、笑いが止まらなくなった。
那月からお墨付きを得たので春乃は下を向くのはやめた。「よし」と声に出して立ち上がり、屋上を出た。
午後の授業を終え、ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴る。起立の号令に立ち上がるついでに窓を外を確認すると既に校門の前に車が止まっていた。礼をして鞄を持って教室を出る。
美莉花が見つかったと連絡があったのは一時間前だ。見つかったというよりは、行き先がなくて帰ってきたようで泣きながら俊陽に抱き着いたらしい。見つかって良かったが、この先一体どうなるのか不安だ。昨日のように取り乱さなければいいのだが。
靴を履き替え、昇降口を出た所でスーツ姿の男性が目の前に立った。
「春乃さんですね? 本日は健真さんの代わりにお迎えに上がりました」
美莉花の騒動で家は混乱しているから、健真もそちらに駆り出されているのだろう。そう思いながら男性の横を歩く。
しかし、車が見えていた時にふと違和感に気が付く。
車が少し汚れているのだ。健真の車はいつもぴかぴかに磨かれていたし、ちらりと見えた佐倉家が所有している他の車も曇りすらなかった。これは、本当に佐倉家の車だろうか。
不信感に足が止まりかけた時、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して確認すると那月の名前が表示されている。
慌てて通話ボタンを押そうとした。
「おい。早く乗せろ!」
突然後部座席の扉が開き、腕が伸びて来て、抵抗する間もなく車の中に引きずり込まれる。
「いやっ」
「暴れるな、殺すぞ」
がん、と頭頂部が車の天井にあたり、痛みに呻く。凄みのある声が鼓膜を震わせ、春乃は何が何だか分からないまま後部座席の収まった。両隣に黒いスーツ姿の男性が座っているので身動きが取れない。
一体、どういうことだ。
「出せ」と助手席に座っている男性が運転主の男性に指示を出す。車は音もなく発進した。
「あ、あの、誰なんですか? 何で私を」
「春乃ちゃんだろ。あやかしの花嫁っていい値段で売れるって知ってるか?」
助手席の男性が振り返り、にかりと歯を見せて笑う。前歯が一本かけている上に頬に何かで切られたような傷があり、一般人の風貌ではない。攫われているのだ、と遅れて理解する。
「いやあ、本当についてるぜ。まさかこんなに簡単に連れて来られるなんてな」
「今日は彼氏がママに夢中でいないんよな。那月くんだっけ?」
どうして、それを。春乃の感情はもろに表情に出たようで、男達は心底楽しそうな顔をした。
「酷いママだよね。息子の嫁売るなんて」
その言葉で、全てを察した。
美莉花だ。彼女がこの男達に春乃を連れ去るように指示したのだ。一時間前に家に帰ったのは行く当てがなかったからではなく、健真に送迎させないためだろう。時間を遅らせて連絡も取れないように佐倉家で暴れているのかもしれない。
手に握りしめたままのスマホがもう一度震えた。
「お、彼氏かな? 出てあげなよ。身代金でも要求する?」
予想通り電話をかけてきたのは那月だ。
春乃を手を取り、男性が通話ボタンを押した。途端、通話越しでもわかるぐらい焦った声が聞こえてくる。
『春乃、どうした? 何かあったのか?』
那月の取り乱した様子を男達は声も出さずに嗤う。春乃は怯えて震える唇で何とか言おうと試みたが、それよりも先に那月の心配そうな声が響く。
『健真が家を出るのを少し遅れたんだが、春乃がいないと連絡があった。何かあったなら』
不意に那月の声が不自然に止まった。
『――そこにいるのは誰だ』
淡々とした声にざわりと背筋が凍る。
『四人か? 全員男だな。誰の差し金だ?』
男達は少しも声を出していないのにバレている。驚きで、全員が顔を引きつらせた。
『まぁいい、覚悟をしておけ。春乃、少しだけ待っていて、すぐに行くから』
「う、うん」
何とかそれだけ言うことが出来たが、すぐに左隣にいた男がスマホを強引に奪って通話を切ってしまった。
「なんだよ、気味悪いな」
そう言いながら春乃のスマホを自分の鞄へ入れてしまった。返して欲しいが、何をされるか分からないので大人しく黙ってじっとしておく。その間にも男たちは会話を続けていく。春乃の右隣にいた男が怯えたような声を出す。
「だ、大丈夫っすよね。俺あやかしを相手にすんの初めてなんすけど、大丈夫っすよね」
体が微かに震えているのがわかる。余程さっきの電話が怖かったのだろう。
「大丈夫だよ。人間と変わらねぇって。びびんなくてもいい。どうせはったりだ」
本当にただのはったりだろうか。全員が顔を強張らせる中、今度は助手席に座っていた男のスマホが鳴った。大きな音に皆がびくりと体を跳ねさせる。
「な、なんだよ、誰だ、こんな時に」
男はスマホの画面を見て顔色を変えた。
「ボスからだ」と嬉しそうな声を上げる。頼りになる者からの連絡に車内に安堵の空気が満ちる。
この人がボスかと思っていたが、違ったらしい。
助手席の男はこほんと咳ばらいをしてから通話ボタンを押した。
「ボス、お疲れ様です」
『お前ら今何してる? 何で事務所にいないんだ』
音量が最大してあるのか、スピーカー並みに爆音が車内に響くので内容が駄々洩れだ。
「実は大きな仕事を得たんですよ。驚かないでくださいね、あやかしの花嫁を売って金にするんです。しかも鬼の花嫁らしくて高く売れるのは間違いなしですよ」
『待て、今、なんて言った? 花嫁?』
「はい、鬼の花嫁を売るんです」
一瞬の沈黙の後、ひび割れたような怒声が轟いた。
『馬鹿が! 何を考えているんだ、お前は! 花嫁を売る? ふざけるなよ!』
叫ぶような声に全員が目を見開く。
「馬鹿ってそんな酷いですよ。俺達はちゃんと考えて……」
助手席の男は必死で平常心を保とうとしているらしく、微かに笑いながら言った。それに電話越しの男はため息を吐く。
『何もわかっていないな。あやかしがどうして恐れられているのか分からないのか? お前らはあやかしを見くびりすぎてる。あれは化け物だ。人間とは全く違うんだよ。花嫁が攫われたとなったら飛んでくるぞ』
そんな馬鹿な、と春乃の左隣にいる男が言う。声は怯えが隠せないぐらい震えている。
「飛んで来るなんて、そんなわけ……」
突然、ぷつんと通話が切れた。
「えっ」
再度電話をかけても『お掛けになった電話番号は――』と全く通じなくなってしまい、男は苛立ったようにスマホを鞄にしまった。
「くそっ」と助手席の男が悪態をつく。
「スマホにGPSが付いているかもしれない。捨てとけ」
「そんなのついてないですよ」
捨てられるのは困ると慌てて言うが、無視されてスマホを窓から捨てられそうになった。しかし、窓が開かない。
どれだけボタンを押してもうんともすんとも言わない。こんな時に故障か、と怒りを滲ませる男たちに追い打ちをかけるように運転手が声を震わせる。
「あ、あの、さっきからおかしいんです」
「はあ? 今度はなんだよ」
「さっきから誰も通らないんです。この時間の大通りなのに」
そう言われて春乃も初めて異変に気が付いた。本来ならば学校帰りの学生や退勤している会社員がたくさん行きかっているのに、人の姿がない。しかも赤信号が延々と点滅を繰り返している。それも全部の信号が。
「何だよ、これ」
そう助手席の男が泣き言を零す。最初から怯えてきた春乃の右隣の男は頭を抱えて外を見ないようにしている。
明らかにおかしい。まるで異世界に迷い込んでしまったみたいだ。
「あ」
急に赤信号が一個だけ点滅を止めた。その途端、歩道の信号が青になり、無音だった外界に錆びついた機械音のとおりゃんせが不気味に鳴り響く。
そして、そこに一人の男性が現れた。佐倉那月が、花嫁をより戻したに来た。
「こ、こわい」
助けるにしても演出がホラー映画すぎる。春乃はすっかり世界観に怯えていた。
「どうする。轢くか?」
「駄目です!」と春乃が声を上げる。
「そうですよ。罪を重ねてこれ以上祟られたらどうするんですか!」と後部座席から抗議の声が上がる。
左隣にいた男がいつの間にか黒い数珠を手でこすり合わせていた。後部座席に座るふたりにもう敵意はない。今すぐ春乃を返すべきだと訴えている。
「もう無理です、ごめんなさい。許してください」
運転席の男は泣きべそまで搔いている。もう限界だ。
どん、と車が揺れた。いつの間にか那月が運転席の隣に立っていた。ぎゃあっと運転手から悲鳴が上がる。
「今すぐ、春乃を返せ」
那月の言葉に後部座席にいたふたりに同時に扉を開けて、車から飛び出した。助手席の男が咎めるように声を上げるが、もう誰も聞いていない。
「春乃」
名前を呼ばれ、春乃は車の外へ出て那月に縋りついた。
攫われていた時間はほんの数十分だが、あんな耳元で怒声を浴びる機会がこれまでの人生でなかったのですっかり委縮してしまっていた。
「怪我は? なんともないか?」
「大丈夫だよ。那月は、早かったね」
「いてもたってもいられなくて。最短で来たんだぞ」
那月は何でもないことのように言う。
きっとあの現象はあやかしにとっては何でもないことなのだろう。電話越しのボスの言葉を思い出す。彼はあやかしを化け物だと言い、人と違うものだと認識していた。春乃はこれまで人間とあやかしの差を感じていなかったが、今ようやく違う生き物だと気が付いた。自覚させられた。
だが、それでも那月を化け物だなんて思わなかった。
「ホラー映画みたいだった。めちゃくちゃ怖かった」
「俺が怖くなった?」
困ったように聞いてくる那月に笑顔で首を振る。
「ううん、全力で来てくれて嬉しかったよ」
那月がにっこりと笑い、春乃を抱きしめた後、車内とその周りにいる男性陣に目を向けた。
「さて、無事に帰りたかったら全部話してもらおうか」
信号が全て赤に変わる。車は那月の許可なく進めない。それに恐らくエンジンも使い物にならない気がする。
「……あ、あの女が悪いんだ、あの派手な女に唆されたんだ」
助手席に座っている男が顔面蒼白なまま言う。派手な女が美莉花を差していると那月もすぐに気がついたようだ。スマホを取り出して美莉花の写真を見せて確認させる。
「派手な女とはこの女か?」
「そうだよ!」と肯定され、那月は苛立ちを抑えもせずに舌を打った。
「早くこんな所から帰せよ」
男が喚く。
「まずは謝罪だろ」
那月が冷たく言うと男は癪に障ったのか、顔を歪ませて声を荒げようとした。それを周りで見ていた男性陣が止めに入る。
「謝りましょう。すみませんでした」
「もうしません。申し訳ありませんでした」
「本当に、すみません。ごめんなさい。許してください」
男達に頭を押さえられ、漸く助手席の男も頭を下げた。
「すみませんでした」と男が言った途端、ぱっと世界が晴れた。春乃達はいつの間にか学校の校門の前に戻ってきていた。人も車も通っている。
「か、帰って来たんだ」
全員がほっと安堵の息を吐いたが、厄介なのはこの後に待っている。
学校で待機していた健真の車に乗り換え、佐倉家に帰宅した。春乃が連れ去られたのは佐倉家に既に知れ渡っているらしく、玄関には心配そうに数人が待機している。
到着するなり那月が車を降り、待っていた佐倉家の皆をかき分けて玄関の前に立っている美莉花に一直線に向かっていく。
「那月、ちょっと待って」
春乃は車から転がるように降りながら那月に制止をかける。那月の手が美莉花に伸びるが、それを遮るように俊陽が美莉花の前に立った。
「落ち着け」
「落ち着け? その女のせいで春乃が売られかけたんだぞ」
那月の呼気が興奮で乱れている。こんなに怒っている那月を見るのは初めてだった。
「私知らないよ、そんなの。私じゃない」
「犯人はお前の姿を見てる。調べればすぐにわかるんだよ、嘘つくな」
那月の強い言葉に焦ったのか、美莉花は子供みたいに首を振る。
「だ、だって、その女が邪魔だったから……いいじゃん別に、大したことなかったんでしょ? 売られずに済んで良かったねで済ませてよ」
「何言ってんだお前」
「だってそうじゃん。ただ車に乗せられただけでしょ? 何もされてないじゃん。それなのに何で私はこんなに責められなきゃいけないの? ねぇ、俊陽おかしいよね、助けてよ」
美莉花の主張に那月は先ほどよりもずっと落ち着いた声で言った。
「もし、酷い目にあっていたらどうするつもりだったんだ」
「知らないよそんなの。次の彼女見つけたらいいじゃん」
彼女は一体どんな思考をしているのだろうか。
春乃だけでなく、周りにいる佐倉家全員が絶句した。
恐らく彼女に何を言っても無駄だ。彼女世界には自分しかいないのだ。
「春乃さん」
不意に俊陽が春乃の手を持ち上げ、手に何か固いものを握らせる。
「裏切られても尚、ふんぎりがつかなかったが、もう終わりにしたい。終わりにすべきだ」
俊陽が手を離す。春乃の手には花切鋏があった。彼がこれを春乃に託す意味はひとつしかない。美莉花との縁を切るのだ。
「俊陽、嘘でしょ? 待って」
佐倉家で花嫁として暮らしていた美莉花も花切鋏が何を意味するものなのか知っていたらしく顔色を変えた。
「私がいなくなって困るのは俊陽の方でしょ? 花嫁を失ったらどうなるか……」
「もう一度失ってる。君がいなくなって俺は身が裂かれる思いだったよ。あの時に君の俊陽は死んだんだ」
俊陽は、美莉花を見ずに春乃に微笑んだ。
ひび割れている。近くで見た俊陽は既に悲しみぬき壊れてしまった後だった。
「頼む」
掠れた声に押され、春乃は那月を探す。春乃だけでは花切鋏は扱えないのだ。
那月はすぐに隣に来てそっと手を握った。脳裏に藍子から言われた『罪』という単語が過ったが、首を振って消し去った。
体温と共に流れてくる霊力を感じながら、春乃は鋏を入れる。
「いやーーーー!」
ちょきん、と何かが切れる音と美莉花の叫び声が重なり、すぐに泣き声に変わった。
「……美莉花、昨日言った通り家も生活できるくらいの金も用意する。代わりに二度と佐倉家の敷居は跨がせない」
俊陽の声は、今まで美莉花へ向けていたものと比べ物にならないぐらい冷たかった。
本当に縁が切れたのだと誰でもわかる変化だ。
美莉花も例外ではなく、俊陽がその場からいなくなっても、泣きじゃくりながら顔を押さえて踞っていた。
「ごめんね」
美莉花が家を出て行った翌日、春乃は那月と共に俊陽の自室に呼び出されていた。
俊陽の部屋は、六畳程度の和室で。俊陽は胡座をかいて座っている。
何を言われるのかわからず、落ち着かない春乃に開口一番、俊陽は困った顔で謝罪を口にした。
そして、種明かしをするように全てを打ち明け始める。
「君をここに呼んだのはね、美莉花が男に捨てられてもしここに戻ってきたら縁を切ってもらおうと考えたからなんだよ」
「このタイミングだったのは、偶々ですか?」
駆け落ちした美莉花が帰ってきたタイミングと春乃が佐倉家に来たタイミングがぴったりすぎる。偶然とは思えなかった。
案の定、俊陽は首を振る。
「いいや。美莉花が家を出てからずっと監視を着けていたから、どこで何をしていたのか全部把握していた」
自らを裏切った人間を追わずにずっと遠くから監視を続けていた、とはあまりにも狂気的だ。
「何故、追わなかったんですか?」
「俺が鬼の当主だからだよ」
真剣な顔をしていたのにすぐに破顔した。
「これは建前で、本当は拒絶されるのが怖かったんだよ。運命の子を前にしたらあやかしなんてそんなもんだ。那月はわかるだろ?」
那月は春乃と目を合わせる。
大切な者に置いていかれた人の心は、あやかしも人も変わらないだろうと思っていたが、あやかしの心はもしかしたら人には考えられないくらい真っ直ぐなのかもしれない。
那月の焦がれるような視線を向けられなから、愛情の深さを感じ取った。
「痛いくらいに」
そんな運命と決別した葉鳥と俊陽の覚悟を春乃は背負わなければいけない。
あやかしと人の縁を切った罪を春乃は抱えて行くのだ。
「連れ去られたと聞いた時、呼吸の仕方を忘れた」
那月は言う。
「もう二度と離れたくない」
切々とした声に応えるために春乃は彼の手を強く握る。
「離れないよ、絶対に」
そう言うと漸く那月が表情を緩めた。もしかしたら春乃がいなくなってからずっと気を張っていたのかもしれない。
俊陽との話が終わり、部屋を出て自室へ戻った。美莉花がいない佐倉家は静かだが、どことなく落ち着きがない。
「皆振り回されたせいで穏やかな日常に戸惑っているんだよ。すぐに落ち着く」
美莉花が駆け落ちした時もそうだったのだろう。皆、戸惑い憤り、そしていつかいないのが日常となった。
「これで良かったのかな」
自身の印を見ながらぼそりと呟く。自分に出来ることがあったとは思えないが、どうしても考えてしまう。
「良かったんだよ。そう思うしかない」
那月はそう言うなり、春乃の体を抱きすくめた。急な出来事に春乃の口から反射的に悲鳴が漏れた。
「悲鳴は傷つくんだけど」
「びっくりしたんだもん」
ひょいっと抱き上げられ、膝の上に乗せられ驚く。今までも十分距離が近かったが、流石にこんなに至近距離だったのは初めてだ。
「終わったことを考えても仕方ないよ。父さんは納得してる。春乃をここへ呼び寄せた時点で覚悟を決めてた」
「うん、そうだよね」
春乃がいつまでも悩んでいても仕方がない。これは俊陽の問題なのだ。
「運命と縁を切った話はあやかし界にすぐに広まっている。運命に捨てられたと甘く見て穢れを巻かれる心配も格段に減るだろうな」
その那月の言葉を聞き、俊陽が『鬼の当主だから』と発言した真意に気が付いた。
守る立場にいる者だからだ。
皆のために、監視するほど愛していた美莉花を手放した。
「すごい覚悟だ……」
春乃が負った責任よりもずっと大きなものの上に立ち、背負っているものだからこその選択だったのだろう。
それを春乃が悩むのは、冒涜に思えた。
「この話は終わり。春乃はこれから不審な車には乗るなよ」
もう何度目かになる説教が始まるのを阻止するために春乃は目の前にある頭を抱きすくめた。

