あやかし花嫁の花切鋏

 藍子の一件が解決して一週間がたった。義春と伯母との間で行われた話し合いの末に伯母達一家は榎本へを出て行った。行く先がないのを憐れんだのか、はたまた手切れ金なのかは分からないが葉鳥からの支援があったらしく、学校の近くにあるアパートに居住を移して生活を始めるようだ。
 伯母は最後に春乃を恨みがましく睨み、家から出て行った。もう正直会いたくないが、藍子は未だに同じ学校に通っているので、顔を合わせる機会はあるかもしれない。それでももう暴力を振るわれたりはしないだろう。
 家を取り返したので、義春はホテルから引き揚げて自宅へ戻ったらしい。なので春乃も家に帰りたかったのだが、それは那月の父によって却下された。
「まだ駄目だな」と突っぱね、那月が何を言っても聞き入れてくれなかった。
 なので、とりあえず春乃は未だに佐倉家でお世話になっている。
「春乃さん、ご飯の用意が出来ましたよ」
 こんこん、と扉をノックされ、物思いに耽っていた春乃は慌てて立ち上がり、扉を開けた。
「おはようございます吉野さん。ごめんなさい、ぼうっとしてました」
 春乃を呼ぶに来たのは吉野という使用人だ。彼女は穢れを受けて寝込んでいたあの女性で、あれ以来交流がありすっかり打ち解けている。
「大丈夫ですよ。あら、寝ぐせが付いてます」
 ふふっと笑われ、咄嗟に頭を後頭部を押さえる。ちゃんと鏡を見て整えたつもりだったが、うまく直せていなかったらしい。
「ここです。中々直りませんね」
 言われた場所を手櫛で梳いてみたが駄目だったらしい。
「ポニーテールにして行くしかないかな」
「春乃さん、先日ポニーテール失敗してませんでした?」
「うっ」
 一昨日も寝ぐせが酷く、何をしても駄目だったので結ぼうと試みたが、結局上手くできなかった。世間一般の女性達はどうして皆器用なのだろうか。誰でも簡単に出来るヘアメイクという謳い文句のものもできた試しがないのは、春乃が超ド級の不器用だからなのか。
「吉野さん、お願いできますか?」
「私よりも適任者がいるじゃないですか」
 吉野が視線を廊下の奥へ向けた。丁度その時、着替えを済ませた那月がやって来た。
「確かに、那月にやってもらいますね」
 先日失敗した際も那月に髪を結んでもらったのだ。今回もお願いしようと駆け寄る。
「とりあえず先にご飯にしましょう」
 吉野に促され、春乃と那月は食事へ向かった。

 器用な那月に髪型を任せた結果、春乃のふわふわの髪はゆるい三つ編みのおさげになった。打ち解けつつある佐倉家の方々に可愛い可愛いと持て囃されながら支度を済ませて那月と共に家を出る。
 那月以外に可愛いなんて言われた経験がないので恥ずかしいが、その何倍も嬉しい。
「春乃はぼさぼさでも可愛い」と那月は言うが、那月は春乃が世界で一番可愛く見える魔法が掛かっているので当てにならない。
 運転手を務めてくれるのはいつもの如く健真である。
「おはようございます。では出発いたします」
 今日は機嫌がいいのか、いつもなら飛んでくる小言がない。
「どうしたのかな健真さん、上機嫌だ」
「競馬で当たったんじゃないか」
「健真さんって競馬してるの?」
 隣に座る那月とこそこそ話していると、ルームミラー越しにぎっと睨まれた。
「私は賭け事などしておりません。機嫌がいいのは、娘からプレゼントをもらったからです」
 誇らしげな様子で言われた内容に驚く。
「娘さんいるんですね」
「はい。とんでもなく可愛い天使のような子です。小鬼界の天使というのはあの子のことでしょう」
 鬼なのか天使なのか種族が入り乱れているが、良いのだろうか。
「この子だよ」
 そう言って那月が自身のスマホで写真を見せてくれた。
「わっ、可愛い」
 両手でピースをする三歳くらいの女の子が映っている。健真に似て目が大きくて可愛らしい。
「そうでしょうそうでしょう。その子がお父さんはいつも頑張っているからと絵をくれたんです」
 信号が赤になったタイミングで健真が鞄からクリアファイルを取り出して中に入っている絵を見せてくれた。クレヨンで描かれた子供らしい家族の絵だ。大きいのが健真で中くらいのが母親、その間に書かれている小さなピンク色が子供だろう。
「これがどんなに嫌なことでも乗り越えて見せますよ」
「なんか、フラグっぽいな……」
 嫌なことなど起きずに、今後もずっと上機嫌に過ごしてほしいと願った。
 少し用意に手間取って出る時間が遅れたが、学校へ到着したのはいつも通りの時間だ。車で通学し始めてすぐは注目を集めていたが、既に慣れたようで誰も春乃たちに興味を示さない。
 「では、また時間になったら迎えに来ますので」と言って健真が運転する車は佐倉家へと戻って行く。春乃達は車が視界から消えるまで見送った後、昇降口へ向かって歩き出した。
「那月は健真さんの子供さんに会ったことあるの?」
「何度かあるよ。生まれてすぐにも会ったし、この間も会ったな。前歯が抜けたのを恥ずかしそうにしてた」
 可愛いエピソードに頬を緩める。
 そうやって聞くとあやかしも人間も変わらないように見える。実際春乃は那月と共に過ごしてもあやかしだと気が付けなかったので、見た目の麗しさや秀でた才能など以外に違いはないのかもしれない。
 いや、確かあやかしには霊力というのがあると那月が言っていたっけと考えていた春乃の背後から声が迫って来た。
「ねえ、ちょっと! 榎本春乃、ちょっと待って」
 フルネームで呼ばれ、振り返ると坂崎と井塚が立っていた。
「どうしたの?」
 いつもの余裕しゃくしゃくと言った様子ではなく、何やら焦っている。
「あんた不審者に話しかけられなかった?」
「不審者? 知らないよ」
 春乃は想い当たる節がなく、首を振る。
「ストーカーの次は不審者か」と那月がため息を吐いた。
「さっき登校中に変な女に話しかけられたの。あんたあやかしの花嫁? って。そうですけどなんですかって聞いたら佐倉那月の恋人を知らないかって詰め寄られたの。なんか怖かったから走って逃げちゃった。ね」
 坂崎が隣に立つ井塚を窺う。その問いに井塚は頷く。
「派手な感じの女性だったよ。変な気配を纏ってたな……何をしてくるかわからないから気を付けて」
 春乃は那月を顔を合わせ、首を傾げた。
 誰の話をしているのか見当もつかない。一瞬伯母が過ったが、彼女は別に派手な見た目はしていないので違うだろう。
 一体誰が何のために那月の恋人を探っているのだろうか。

 教室に着くなり那月はスマホを出してた。
「一応健真に報告しておいた」と言ってメッセージ画面を春乃へ見せる。那月の『不審人物が俺のことを探っているという情報が入った』という文にすぐに健真から『承知しました』という返信があった。
「これで健真達が調査してくれるだろうから安心して」
 あんなに上機嫌だったのに不安にさせて申し訳ないが、春乃にはどうにもできないので頼るしかない。
「那月のことを知っているってことだよね?」
 含みを持たせた言葉に那月は頷く。
 不審者は坂崎にあやかしの恋人か、と聞いている。つまり那月があやかしであると知っている物の可能性が高い。あやかし関係ならば佐倉家に伝える必要がある。大きな問題でなければいいのだが。
「話は変わるんだけど」
「ん? なに」
 那月の手が春乃の髪の毛へ伸び、片方の三つ編みを持ち上げた。
「放課後に髪留め買いに行きたいんだけど、いい?」
「え、私の?」
「他に誰がいるの」
 那月はふっと笑あった後、真剣な表情で春乃の毛先を見つめる。三つ編みを止めてあるのは春乃の簡素なヘアゴムだ。那月はそれが気に食わないように眉間にしわを寄せる。
「リボンとかかわいいと思うんだよな」
「まぁ、可愛いとは思うけど。似合うかな?」
 リボンなどつけた経験がないので、自分に似合う気がしない。
「似合うよ。俺が保証する」
 那月は自信満々に頷く。
「それじゃあ、那月が選んでくれる?」
「もちろん。放課後にデートだな」
 さらりと告げられ、はっとする。デート、今彼はデートと言わなかったか。
 那月と出かけるのなんて初めてではないが、思えば付き合ってから二人きりで出かけるのは初めてだ。意識をした途端、かあっと顔が熱くなった。
 そんな春乃に気が付いている那月はふっと口元を緩めて笑う。
「照れてる」
「て、照れるでしょ。だってデートなんて初めてなんだもん」
 急に本当に恋人になったのだという実感がわき、授業中も全く集中できず、浮かれ切っていた。
 本日の授業を終え、校門の前に止まっている健真の車の乗り込む。春乃達が行く雑貨屋は学校から電車で一駅の場所にあり、徒歩でも行けるのだが佐倉家が受けた穢れの件や、今回の不審者を警戒して健真の送迎付きだ。
「店の前まで頼む」
「はい。店以外にはでませんようにお願いします」
 朝よりもずっと落ち着き払った健真の声に春乃は浮かれていた気持ちが凪いだ。不審者がどういった人物か分からないので警戒しているのだ。デートに行っている場合ではないのでは、と疑問が浮かんだ。不意にルームミラー越しに健真と目が合う。
 ぎょろりとした目で春乃を検分し、健真が眉間にしわを寄せる。
「髪は那月様がやったものだから問題なし。制服なのは致し方ない。次のデートまでに私服を買いそろえるべきだな。服に頓着しなさすぎて家の者から苦情が来る」
「ちょっと、苦情なんて来てませんよね」
「来る、と言っているんですよ。那月様の隣を歩くのに安くてダサい服なんて着させませんよ。今日良ければ服も見てくださいよ」
 酷い言われように絶句した。確かに春乃はセンスがいいとは言えないが苦情なんて来ない、はずだ。
 隣の那月を窺うと彼は穏やかな目で春乃と健真のやり取りを見守っていた。
「健真の好意に甘えて服も見ようか」
 その言葉にはっとした。これは健真なりの優しさなのだ。
 春乃が負担をかけている罪悪感でデートをとりやめてしまわないように言ってくれているのだろう。
「好意ではありません。忠告です」
 本音も混ざっていそうだが、それでも嬉しかった。
 健真は春乃が車で泣いた一件以来優しい。あまり言い過ぎると喚いて面倒くさいと思われている気がしなくもないが、冷たく接されないので理由はどうでもいい。
 有難く甘えさせてもらおうと罪悪感を振り切って、隣に座る那月の手をそっと握った。
 目当ての店は、学生らしい女性が数人いた。女性二人組が那月を見てぽかんとした後、顔を見合わせる。かっこいいと囁く声が聞こえてきた。
「あれってあやかしかな。絶対そうだよね」
 女子高生の声に他の客も那月に視線を向けて、こそこそと話し出す。春乃はとんでもなく居心地が悪かったが、那月は全く気にした様子もなく店内の商品を物色している。
「隣の子が運命かな? いいなぁ」
「ね、勝ち組じゃん」
 囁かれる言葉は不快ではないが、この印があるだけで人生が豊かになっていると勘違いされるのは何だか嫌だ。しかし、那月と恋人になれた事実だけを見れば春乃は確かに恵まれている。
 女子高生たちの言葉に勝手に気まずくなり、聞こえないふりをして那月の手元を覗き込む。
 すると目を離している間に大量に手に持っていたのに気が付いて、慌てて止めた。
「待って、一個だけ買うんだよね?」
「一個じゃない。最低二個は欲しいだろ」
 二つ結びにした時のためにふたつは必要だが、那月の手にはそれどころではない量がある。
「何個かは商品棚に戻すんだよね?」
「いや買う。似合うものは全部買う」
「似合わない者も買ってるでしょ」
 那月は手に持っている物を見下ろした後、店内を見渡した。
「春乃に似合わないものなんてない」
 至極真面目に言う那月の言葉が聞こえたのか、さっきから店内の視線が那月に集まる。件の女子生徒達はきゃあと黄色い悲鳴を上げた。
 恋は盲目どころではない。この様子だと店内にある全ての商品を買いそうだ。
「似合わないものもあるから……大富豪みたいな買い方止めなよ。一個で良いよ。とびきり似合うのを選んで」
 那月が手を止めた。
「じゃあ――」
 その時、店の外がにぎやかになった。何か騒ぎがあった時のざわめきに春乃は咄嗟に那月を見上げる。彼は持っていた商品を置き、春乃の手を握った。店内にいた客も騒ぎに気が付き、不審げに外へ視線をやる。異変に気が付いた店員が状況を確認するために恐る恐る扉を開けた。
「だーかーらー、顔を見るだけって言ってるじゃん。なんで駄目なのよ。あんたに止める権利ないでしょ」
「店の外で騒ぐのはお止め下さい。通行人にも店の方にも迷惑が掛かります」
「うるさいわね」
 ふたりの男女が言い争っている声が聞こえて来た。
 男性の方には覚えがある。健真だ。しかし大声で騒いでいる女性の声には聞き覚えがない。
「どうしたんだろ……那月?」
 那月は顔に力を入れて、じっと扉の向こうを見ていた。
「どうかしたの?」
「ああ、春乃とんでもないことになった」
 那月が思い切り顔を歪めたのと同時に健真が押しとどめていた女性が店に入っていた。かつん、と高いヒールの音が店に響く。姿を現したのは紅茶色の髪をした派手な女性だ。
 女性の目が那月で止まり、猫のように細める。
「那月、ただいま」
 そう言うなり那月に抱き着いた。
 それを那月は無理やり振りほどくと腕を引っ張って無理やり店から出す。
「いたーい、引っ張らないでよ」
「うるさい。何でこんな所にいるんだ」
 冷たく言い放ち、那月は女性を健真に預ける。健真も戸惑いを隠せていないのか、動揺しながら女性の方に触れようとしたが、すぐに女性によって振り払われた。
「何でそんな冷たい態度取るの? お母さんに向かって」
「え」
 衝撃的な一言に今まで全く事態についていけていなかった春乃は目を剥いた。
 この人が、那月の母親。運命のあやかしである佐俊陽を捨てて駆け落ちした人。
「どの面下げて戻って来たんだ……」
 熱りなりかけていた那月だが、周りのざわめきに冷静さを取り戻し、大きくため息を吐いて怒りを抑えた。
「話はまた今度どこかで。親父も交えて話そう」
「えー、家で話せばいいじゃん。私行くところないから帰ろうと思っていたとこだもん」
 その場にいた全員が目を見開いて驚いた。事情を少ししか知らない春乃ですら女性の厚顔無恥っぷりに目が回りそうなのだから、那月と健真の衝撃はそれ以上だろう。
 話が通じる気がしない。那月は頭を抱える。
 見放すわけにもいかず、那月の父親俊陽に了承を取って自宅へ連れていくこととなった。
 嵐が起きようとしている。浮かれ気分はすっかりなくなっていた。

 那月の母親、美莉花が帰って来た報告は春乃達が帰宅した時には俊陽から既に全員に知れ渡っていたようで、佐倉家の重鎮ともいえる数人が門の前に待機していた。
「佐倉家に入るな」
 腰の折れた老齢の女性が母親に向かって厳しい言葉を投げかける。彼女は俊陽の面倒も見ていた佐倉家の一番の古株で、美莉花が出て行った際に一番怒りを露にいていたらしい。普段は穏やかな老婆だが、今はこれでもかと顔を歪めて美莉花に対峙している。
 しかし、車を降りた母親はどこ吹く風だ。
「ひどーい。何で皆そんなに怖い顔をしてるの?」
 飄々とした態度に空気がひりつく。
「お前は俊陽様を裏切ったんだぞ、もう佐倉家に入れるわけが」
 その言葉を無視して美莉花が無視して家の中へ視線を向け「あ」と気色ばんだ声を上げた。
「夕燈!」
 玄関で佇んでいた夕燈が美莉花に名前を呼ばれ、びくりと震える。彼の目に浮かぶ戸惑いに気付かず、美莉花はずかずかと佐倉家へと進んでいく。周りのあやかし達が止めようと美莉花の前に立つと彼女はむっとした。
「ねえ、何で邪魔するの? あんたも、そこのあんたも穢れた時に助けてあげたじゃん。恩を仇で返すんだね」
「それは……」
 それを言われると弱いのか、行く手を妨げる手が止まった。
 穢れを浄化してもらった恩義があるから皆どうするべきか戸惑っているようだ。その間に美莉花は夕燈の前に辿りついていた。
「夕燈、ごめんね。お母さんがいなくて寂しかったよね。もうこれからは一緒にいるからね」
 美莉花が夕燈の頭を撫でる。その時、夕燈の肩が大げさなまでに跳ねた。まるで怯えるような態度に違和感を覚える。それにあの気が強い夕燈が黙ってもじもじしているのもなんだかおかしい。
「ところでお父さんはどこにいるの? 俊陽は?」
「俊陽様は仕事で出かけております。今日は帰られません」
「はあ? 運命の花嫁が帰って来たのにいないなんてありえない」
 自分が捨てて行ったはずなのに美莉花の態度には全く罪の意識がない。夕燈に謝罪したのも上っ面だけで全く誠意が籠っていなかった。
 美莉花が佐倉家に入って行くのを見送り、春乃は那月を見上げた。健真の車でここに送ってもらう際にずっと美莉花の相手をしていたせいで、疲れ切っている。
「すごい人だね」
「頭がおかしいんだよ。自分は愛されて当然と思ってる。全部自分が一番で世界の中心は自分だと本気で信じているんだ」
 那月は春乃を心配そうに見下ろす。
「やっぱり春乃は自宅へ帰った方がいい。どんな扱いを受けるか分からない」
「うーん」
 それは春乃も感じていた。何故なら美莉花は少しも春乃へ話しかけないのだ。それどころか春乃が声をかけても無視し、存在自体ないものかのような態度を崩さない。
 那月の恋人が許せないのかもしれない。
「でも那月のお父さんは駄目って言っているんでしょ?」
 さっき俊陽へ連絡した時も春乃を家に帰すのは駄目だと言われた。理由を聞いても教えてもらえず、勝手に帰るわけにもいかない。
「大丈夫だよ、多分。普段は私達学校だし問題ないよ」
 実際、問題はなかった。佐倉へでの美莉花は大声で騒いだり、那月へちょっかいかけたりするのだが春乃は徹底的に無視し続けている。夕食の際に那月と春乃が並び、那月の前に美莉花が座り、その横に夕燈が座ったのだが、美莉花がずっと那月に話しかけ続け春乃を全く見ない。それどころか夕燈の方にも視線をやらない。
 彼女は明らかに那月と夕燈とで扱いに差がある。夕燈はそれに気が付いているので、早々に食事を終えて部屋を出て行った。
「あんた何でそんな態度で居られるんだ。駆け落ちした身分で」
「そう、酷いんだよ。あの男私のことが好きとか言ってたのに別の女と浮気したの。私、騙されたのよ」
 ずっとこの調子で美莉花は自分が男の騙された被害者だと言うのだ。
 全く話が通じず、那月が本日何度目かのため息を吐く。
「ねぇ、那月は私が帰って来て嬉しくないの? お母さんだよ? それに花嫁がいないと穢れを浄化できないでしょ。私が帰って来て嬉しいよね?」
「あのな……」
 那月が呆れた様子で言葉を投げかけようとした。
「あなたがいなくても問題ありません」
 那月の言葉を遮り声を上げたのは、吉野だ。たまたま部屋の前を通ったのだろう、開け放たれた扉の向こうで別のあやかしが心配そうに部屋を覗いている。
「あれ、吉野さんじゃん。何でそんなこと言うの?」
「私は事実を言っているだけです。俊陽様を裏切ったあなたは佐倉家に必要ありません」
 吉野のはっきりとした拒絶に美莉花は悲しそうな顔をした。
「酷いよ、あんなに仲良かったのに」
 顔を抑えてぐすんと泣いたと思ったら、すぐに顔をあげる。
 「ねぇ、もしかしてあなた俊陽のことが好きなの? だから私が帰って来ちゃ駄目だったんだ。ごめんね。俊陽は私のだから吉野さんは失恋確定になっちゃったね」
 その言葉に吉野の堪忍袋の緒が切れた。
「侮辱しないでください。あなたがいなくなって俊陽様がどれだけ傷ついたか考えないんですか? あなたがいなくても春乃さんがいてくれるから、あんたなんかもういらないんですよ!」
「春乃?」
 吉野の怒号に似た声に美莉花は首を傾げ、視線をふわふわとさせた後、漸く春乃を見た。
「ずっとなんかいるなとは思ってたんだよね」
 存在は認識していたらしい。その上で無視を貫いていたのは那月の恋人だからだろうと思っていた。
 春乃の手の甲にある印を見て、目を細める。
「ほんとだ。新しい花嫁? へえ」
 初めて目が合う。
 美莉花は那月の恋人だから春乃を無視したわけではなく、美莉花の世界を脅かす存在だから排除していたのだと気が付いた。彼女の目には明らかに敵意が浮かんでいる。

 翌日、春乃は那月の部屋で目が覚めた。普段は自室で寝ているのだが、美莉花の存在を気にした那月によって連れ込まれたのだ。
 佐倉家で彼女が何かしでかすとは思えなかったが、那月はずっと警戒を解かなかった。母親に対する態度ではない。
 時計を確認するとまだ起きる時間よりも一時間も早い。普段なら二度寝をするところだが、寝転がっても一向に眠気はやって来ない。することもないので、那月の綺麗な顔をじっと眺める。
「起きてるでしょ」
 ぽつりと指摘すると那月の瞼が動き、目を開けた。
 その目に眠気はない。
「ちゃんと眠れた?」
「寝てたよ。大丈夫」
 嘘だな、と気が付くが指摘はせずに少しでも安心できるように那月の頭を抱える。
「何が不安なの?」
「……何をしでかすか分からないんだよ。春乃に危害を加えるかも」
「そんな、流石にありえないよ」
 あれだけ傍若無人でも暴力を振るう人間には見えなかった。それは那月だって分かっているはずなのに。那月は美莉花が目の前に現れてからずっと混乱し、怒りを抑えているように見える。
「ありえないことをしでかすんだよ、あの人は」
 浮気をして家族を置いて出ていく、というのは確かにありえない。春乃の思考の中に彼女は居ないのだ。だから那月もずっと警戒しているのだと気が付いた。
 こんなに不安そうにしている那月を見るのは初めてだ。どうにか元気づけたくてそっと額に口付けた。
 すると那月ががばりと顔を上げる。
「き、キスした」
「元気になってほしかったから……元気になった?」
 自分で言っておきながら段々恥ずかしくなる。額にキスしただけで元気になるわけないかもしれない。
「なった。いや、まだなってない」
 那月は首を縦に振った後、すぐに否定した。
「もう一回」
 甘えるように抱き着いて来た那月の思わず笑みが零れる。どうやら元気になったようで良かったと今度は頬に口づけた。
 二人で戯れている間にあっという間に一時間が立ち、学校へ行く準備を済ませる。美莉花はまだ寝ているようで佐倉家はとても静かだ。美莉花が寝ている隙に出るために今日は髪を結ぶのは止めてすぐに健真の車に乗る。
「結局、昨日は何も買えなかったな」
「そう言えばそうだね。それどころじゃなくなったから」
 まさか初デートが即刻中止になるなんて誰にも予想できなかった。
 あれは果たして初デートとカウントして良いのだろうか。
「あれは下見ということにしたらいかがですか。本番はまだですよ」と健真が気を利かせてくれたので、その言葉に乗る。
「そうだな。今日リベンジしてもいいし」
 そう言っていたのだが、結局デートの予定は中止となった。何故なら今日中に俊陽が帰宅すると那月のスマホに連絡が入ったからだ。
 日中はそわろわと落ち着かない自分で過ごし、あっという間に放課後になった。ホームルームが終了するチャイムが鳴った時には既に校門の前に健真が運転する車が止めてある。
 学校を出て那月と共に車に乗り込む。健真は酷く疲れ切っていた。
「本当に大変ですよ。美莉花さんの傍若無人っぷりは。あれがほしいこれがほしいだの騒いで」
「お疲れ様です」
 労うように言うと健真は頷く。
「花嫁にも色々ありますけど、美莉花さんと春乃さんは対照的ですね」
 確かに春乃にあの派手さはない。
「話し合いで解決してくれればいいんですが。どうでしょうね」
「離婚は、無理だろうな」
 那月の言葉には諦念感が籠っている。
「そっか駆け落ちだから離婚はまだなのか。どうして無理だって思うの?」
「親父は心底母に惚れてる。一回に逃げられたくらいじゃ諦められないだろうな。あやかしっていうのもは執念深くて、一途なんだよ」
 葉鳥も藍子に何度浮気されてもその度に許したと話していたから、あやかしは本当に一途なのだろう。あやかし側からしたら浮気という概念すらないのかもしれない。それならば浮気なんて異常行動をする人間に不信感を持つのは仕方がない。俊陽が美莉花を許した時、佐倉家の皆も許せるのだろうか。
「皆は許さないだろうな」
 それは、那月も含めてだろう。
 美莉花と会った時から那月の目にはずっと怒りの炎がちりちりと燃えている。
 穏便に話し合いが終わり、皆が納得する結末になればいいが、美莉花の態度を考えると望みは薄いだろう、思わずため息を吐きかけて幸せが逃げると思い直して堪えた。

 佐倉家の玄関の前に美莉花の姿を見つけ那月は嫌そうな顔をした。
「春乃、俺は母さんに付き合わされるから、ひとりで部屋に戻っていてほしい」
「わかった」
 美莉花を刺激して春乃へ怒りの矛先が向くのを危惧した那月は大人しく美莉花に連れていかれるようだ。
「それと、できれば夕燈を見ていてやって欲しい」
「夕燈君?」
「頼んだ」
 そう言って那月は車を降りて、美莉花の元へ歩いて行く。春乃も後から降りて後ろをついて行っていると靴を脱いだ美莉花が声を上げた。
「あ、そうだ」
 不意に美莉花が立ち止まり、春乃を振り返る。
「話聞いたよ。穢れを浄化したんじゃなくてただ自分の体に移しただけなんだってね。それで花嫁の能力使えるって威張らないでほしいよ。全然ダメじゃん」
 言い終わるなり、あははと笑いながら美莉花は去って行った。
 どうやら昨日吉野に言われた言葉を気にしていたらしい。
 春乃は威張ったつもりはないが、反論しても無駄だろう。もっと絡まれても困るので春乃はひとりで自室へと戻った所、部屋の中央に小さな背中があって声を上げかけた。
「えっ、夕燈君? 何しているの」
 夕燈が体育座りのまま振り返る。しょげた表情は迷子の子供そのものだ。
「どうしたの?」
 夕燈の正面に腰かけて目線を合わせる。よく見ると目に涙の膜が張っているのがわかる。
「皆、ぴりぴりしてて怖いから避難してきた。兄さんは?」
「那月は美莉花さんに連れていかれたよ」
「そっか」
 元気がない返答に調子が狂ってしまう。気の利いた言葉を投げかければいいのだが、何も思いつかない。何か話題をと部屋中を見渡し、昨日から班目を見ていないことに気が付く。
 班目は夕燈の家庭教師兼お世話係らしく、住み込みで働いていると聞いているが、美莉花が帰って来た時も姿を現さなかった。
「班目先生は?」
「母さんが班目先生に色仕掛けしたら困るから、別宅に移って貰ってる」
 更に沈んだ声に話題を間違えたのだと察した。
 それにしても酷い言い草だが、実際前科があるので何も言えない。
「えっと……」
 何か明るい話はないかと必死に頭を回す春乃を夕燈が咎めるように上目で見る。
「気が利かない」
「うっ、ごめんって。今話題かんがえているからちょっと待って」
「嘘だよ、冗談。押しかけてごめん」
 夕燈は体制を崩し、床にごろりと転がるとぼんやりと天井を見ながら話し始めた。
「皆、母さんのこと嫌いなんだって。浮気して男と一緒に逃げたから」
「うん」
「母さんが出て行った時、皆怒っていたし僕もすごくむかついたんだ。何で裏切ったんだーって帰ってきたら絶対に文句を言ってやる気だったのにさ、いざ帰って来たら嬉しかったんだ、帰って来てくれたんだって。馬鹿だよね」
 春乃は首を振ったが、夕燈は大人びた表情を浮かべて笑った。
「馬鹿なんだよ。僕さ、母さんに愛されてないの。春乃も見たでしょ、母さんずっと兄さんのことしか見てないんだよね。何でかわかる? 兄さんは父さんに似てるから。髪色も顔も、雰囲気も。僕は似てないから好かれてない。分かってるのに愛されたいって思っちゃうんだよね。これってさ、あやかし特有の感情?」
 夕燈はじいっと天井を見ている。悲痛な言葉に春乃は言葉を失う。
 夕燈に対する美莉花の態度は他人の春乃さえわかるほど冷たいのだから、本人は嫌というほど実感しているだろう。
 どう声をかけていいのか分からないが、何かを言わなければいけない。春乃は言葉を探した。
「愛されたいって思うのは、皆そうだよ。嫌われるのも冷たくされるのも怖い。あやかしかどうかは関係ないんじゃないかな。美莉花さんは正直同じ人間としてもよくわからない人だから私の物差しじゃなんとも言えないな」
「春乃のお母さんはどんな人? 春乃を愛してた?」
 春乃は自分の母を思い浮かべた。春乃が怪我をするたびに心配し、その度に抱き上げて泣かなかった時は褒めてくれた。死に瀕した時も春乃を手を握り、未来を案じてくれた母。春乃の記憶の中にある母はずっと春乃を一心に愛している。
「優しい人だったよ。愛されていたと思う」
「そっか……」
 夕燈は膝を抱えて丸くなり、春乃に背を向けた。小さな芋虫のようになった少年の背中にぽんっと手を置く。
「夕燈は、お母さんが好き?」
「……分かんない。けど、今は家から出て行ってほしい。皆ぴりぴりしているの嫌だし、班目先生がいないのも寂しいから」
 夕燈は佐倉家の皆よりもずっと混乱し、美莉花を罪人のように断じて嫌いになれないのだろう。人への感情はゼロか百かではないのだから迷うのは当たり前だ。
「いいじゃないかな。悩んでも。色々な意見を聞いて自分の意見をまとめればいいよ」
 春乃の言葉に夕陽が顔を向けた。
「優柔不断だって思われないかな?」
「そんなことを行って来る輩には、慎重なのって言い返せばいいんだから問題なし」
 夕燈は、ははっと笑って体を起こした。ここで最初に見たような悩んでいる様子はない。
 皆の空気に呑まれて、どうしていいのか分からなくなっていたのだろう。すっきりした様子に安堵する。
 ふと、那月はどうだろうかと疑問が浮かぶ。彼はずっと怒りを抑えているのは分かるのだが、はっきりとした感情は分からない。那月は美莉花をどう思っているのだろうか。
 その時、急に廊下の方が騒がしくなり、どんどんと打ち鳴らすような足音が近づいてくる。何事かと顔を上げたタイミングで了承もなく扉が開いた。
「ちょっと、何してるのよ」
 ばん、と大きな音を立てて人の部屋の扉を開け放ったのは、美莉花だ。
「うちの息子を誑かして何してんの? 私を追い出そうって魂胆でしょ、本当に最低」
 一体何の話をしているのだろうか。美莉花の背後で呆れた表情で立っている那月に視線で尋ねるが、那月も分からないようで首を振る。
「行こう、夕燈。こんな子と一緒にいちゃ駄目よ。私の邪魔をするんだから」
「あの、どういう意味ですか?」
「花嫁は家にひとりでいいってこと。優秀な私が残るのは当然なのに、私に嫉妬したあんたが息子たちを懐柔しようとしているんでしょ? あんたの考えなんかわかるんだから」
 美莉花の理論は意味不明だった。
「えっと、花嫁って一家にひとりとかいう決まりがあるんですか?」
「そんな決まりはない」
 那月が言うが、美莉花に常識は通ずない。
「決まりとかじゃなくて、いらないって話をしてるのよ。吉野が私を邪魔者扱いしたのだってあんたが全部悪いんだから」
「ちょっと黙ってくれ」
 那月が美莉花を引っ張って連れ出そうとするが、美莉花は両手を振って抵抗した。そしてきっと春乃を睨みつけながら叫ぶ。
「私がいない間にあんたがいたせいで皆が私をいらないって言うの。あんたさえいなければ良かったのに」
「おい」
 あんまりな物言いに那月の声色に明らかに怒気が混じる。那月は美莉花の腕を強く掴んで自分の方へ向かせる。
「あんたと親父の関係については口出すつもりはないが、春乃へ危害を加えるなら話は別だ」
 ぎり、と那月の手に力が籠ったのが分かった。美莉花が「痛い」と悲鳴を上げた。
 その悲鳴を聞きつけたのか、廊下の奥から大きな気配が近づいてくるのを感じる。はっとしてそちらの方に視線をやると那月の父、俊陽が立っていた。ぎしりと廊下が軋む。
「何をしているのかな」
 怒りを孕んだ気配とは裏腹に声色は優しく、全く真意が読めない。
 怖い、と思ったのは春乃だけではないようで、夕燈が怯えたように春乃の手を掴む。那月は緊張した面持ちでじっと俊陽を見つめている。
 俊陽の目には那月が美莉花に掴みかかっているように見えているだろう。もし、俊陽が美莉花を心の底から愛しているのなら、那月が叱責されるかもしれない。彼は何も悪くないのに。
「俊陽!」
 美莉花がぱっと顔を明るくさせ、那月を突き飛ばす様に離れると俊陽の胸に飛び込んだ。
「ただいま。ねえ、酷いの。皆酷いんだよ。私を悪者にするの」
「そうか」
 俊陽は、ふうと呼吸をしてから美莉花の肩を掴み、そっと離した。
「美莉花、何か俺に言うことはないか?」
 真剣な声だ。それに美莉花はぽかんとして首を傾げる。
「え? おかえりなさいかな」
 にこっと場違いな笑みを浮かべる美莉花に俊陽は悲し気に目を細め、体を離した。
「美莉花、用意が出来るまで待ってあげるから――出て行きなさい」
 誰しもが俊陽の言葉に驚き、目を見開く。美莉花も何を言われたのか分からず口の端を引くつかせている。
「な、何言ってるの? 何で? 嘘だよね」
「俺はこんな冗談は言わないよ。家でもなんでも用意してあげる。けど家からは出て行ってもらう」
「嫌よ! 何で、私何も悪いことしてないのに。この子でしょ、もう花嫁がいるから邪魔になったの? 俊陽まで絆されたの?」
 ヒステリックになっていく美莉花を落ち着かるべく俊陽が彼女の肩を優しく掴むが、それを美莉花は振り払った。
 泣き喚くように美莉花が言う。
「やめて! 私がどれだけ頑張ったかわかる? こいつらの世話も頑張ったじゃない! 私は子供なんて」
 その後に続く言葉が春乃には分かった。背後にいる夕燈の手に力が入る。那月は、じっと耐えるように目を伏せ、何もかも諦めたような顔をした。
 その顔を見た瞬間、春乃は叫んでいた。
「あの!」
 全員の視線が春乃に集まる。
「ちょっと落ち着いて話しませんか? 急展開で美莉花さんだって困るでしょうし」
 きっとこの選択は間違いだったのだと春乃は美莉花の顔を見た時に察した。彼女は春乃を睨んでいた。話の腰を折られたからか、それとも皆の注目が美莉花から春乃へ移ったのが気に食わなかったのかは分からない。
「もういい! 皆大っ嫌いよ!」
 美莉花はそう言うと俊陽を押しのけて玄関の方へ向かって走り出した。
「待て、美莉花!」
「ついて来ないで!」
 美莉花を追って俊陽も走り去っていった。残された三人は互いに顔を合わせ詰めていた息を吐き出す。
「大丈夫か、春乃」
「うん、ふたりは」
「なんともない」
 物理的なものでなくとも、美莉花のあの言葉は言葉の暴力だ。
 子供に聞かせる話ではない。
「夕燈、大丈夫か?」
 那月が夕燈と目線を合わせる。夕燈は怯えと戸惑いたが混じった顔をしていたが、兄に頭を撫でられて漸く安心したようで強く頷いた。そして、春乃に向き合い、頭を下げた。
「春乃ありがとう。それと、ごめん。ずっと謝ってなかった。酷い態度とってごめんなさい」
 春乃が佐倉家に来た当初の態度について言っているのだろう。春乃ももう少しも気にしていない。
「大丈夫だよ、もう」
 これ以上何事もなければいい、とだけ春乃は願った。