日曜日は結局那月は忙しくて殆ど家にいなかった。朝の十時に家を出て、帰って来たのは土曜日と同じ夜の七時だ。何をしていたのかは教えてくれなかったが、彼から漂う焦燥感がただ事ではないと告げていた。
日曜日は、部屋でだらだらと過ごし、ただ時間がたつのを待つのみだった。
「はあ」
「辛気臭いのでため息をは吐かないでください」
「ごめんなさい……」
月曜日になり、春乃は車での送り迎えが義務付けられた。那月の実家から学校が遠いのが原因だが、なんだか座りが悪い。その理由の一端は運転手が健真だからだ。
今朝、顔を合わせた時から健真の春乃への態度は冷たい。那月の実家の殆どに人間はそうなのでもう一々ショックは受けないが、車内で二人きりは気まずい。隣に那月がいたら違ったのだろうが、彼は今日も用事があると言って学校を休んでいるのでいない。
「学校を休むような用事って何ですかね」
答えは期待していなかったのに健真から返答があった。
「那月様は本来お忙しい方なのです。あなたのような庶民と一緒にいられる方ではないのですよ」
「今までが特別だったってだけですか?」
「そうです」
健真から聞く那月は、春乃が知る那月とは別の世界の人かと錯覚するぐらい違う。
「那月様は昔から優秀で誰からの人望も厚い方です。上に立つべき方なので、足枷があると困るんですよ」
「足枷……」
那月にとって春乃がそれなのだろう。
佐倉家の使用人が春乃に言った邪魔という言葉の重みが増していく。
帰りたい、と思ったが、すぐに帰る場所がない事実に気が重くなった。義春が寝泊まりしているというホテルに泊めてもらった方が安心して生活できる気がするが、義春が気疲れしてしまうだろう。
行く当てがない。
学校に行くまでの間、春乃は解決策を思案し続けてたが、結局何もいい案は浮かばなかった。
ひとりきりで高校へ来たのは初めてだ。自席に着くと前の席に大きな背中がないことへの違和感がすごい。思い返してみれば那月が病気をしているところを見たことがない。中学生の時に一度休んだが、それは春乃が風邪を拗らせたのを看病している時だ。
あれで那月の皆勤賞はなくなってしまった、と春乃の方が落ち込んだのを覚えている。
足枷と言われても否定ができないな、とため息が漏れ駆けたが、辛気臭いと咎められたのを思い出して飲み込んだ。
「春乃さん、おひとりなの珍しいですね」
ひとりで席に着く春乃に美織が声をかけてきた。
「うん、那月ちょっと用事があるんだって」
「そうなんですね。佐倉君が春乃さんをおひとりにするなんて今日は槍でも降りそうですね」
「槍って、そんな大げさな」
那月が誰からみても過保護だと言っても一人で出かけた経験だってある。近くのコンビ二程度だが。
「いえいえ、大げさなものですか。佐倉君の春乃さんへの執着は正直引く……いえ、驚くほどですからね。片時も恋人と離れたくないと言うのが表に出すぎていますからね」
「恋人?」
春乃は首を傾げた。
「誰と誰が」
「佐倉君と春乃さんが」
美織が当然だとばかりに言う。それに春乃は勢いよく否定した。
「違うよ。付き合ってない。ただの幼馴染だよ」
「またまた。そんなご冗談を。もしかして喧嘩かなにかしてますか? だからそんな嘘を?」
「嘘じゃないよ。本当にただの幼馴染」
言葉を重ねると春乃の表情に嘘がないのを察した美織が目を見開く。
「え、ほ、本当に? あの距離感でお付き合いしていないのですか?」
「私達って距離感おかしかった?」
「少なくとも私は幼馴染にあんな彼氏のような態度を取られたら怒りますね」
彼氏のような態度と言われてもいまいちピンとこない。
「確かに過保護だったけどさ、彼氏ってほどじゃなかったと思うよ」
「いいえ、あれは確実に彼氏面をしていましたよ。春乃さんがそうじゃなくても向こうは確実に意識していました」
「ええ……そうかな」
首を傾げた所で、教室の扉が開いた。無意識に視線を送ると軽やかな足取りで藍子が入って来た。彼女は春乃と目が合うとすうっと目を細め、迷いない足取りで向かって来た。
「おはよう、春乃ちゃん。学校来られたんだね。あやかしって花嫁を家から出したくないって考えの方もいるみたいだから心配していたよ」
藍子の言葉に教室がざわめく。
クラスメイトに聞かせるためにわざと大きな声で話しているのだろう。
視界の端で、春乃を馬鹿にしてきた女子生徒ふたり組が楽しそうに手を取るのが見えて、思わず顔を顰めてしまった。それを藍子はあやかしと結婚させられたせいだと勘違いしたらしく、愉悦の表情を浮かべた。
「酷い運命にあたって可哀想……でも、傷だらけの印持ちを貰ってくれる方がいて良かったと思うべきかもね」
藍子は楽しそうに笑い、言葉を続ける。
「良かったね、用済みじゃなくて」
どうしてこうも人の心を抉る様な言葉が吐けるのだろう。
いつのもなら隣にいる那月が返答をするのだが、今日はいないので春乃が言い返さなければいけないが、喧嘩をする気力はない。早くどこかへ行ってくれないだろうか、とつい教室の時計を確認するがホームルームまであと数分ある。
無言でいる春乃に藍子が言う。
「言い返さないの? いつも那月に何でもしてもらってるから言い返し方が分からないんだよね。これからは、ひとりでやらなきゃいけないんだから、頑張らないと」
言い返せないのはその通りなので、「はあ」とため息に似た相槌が漏れた。
落ち込んでいる春乃が面白くて仕方がないのか、藍子は笑みを深めて春乃に顔を近づける。
「ごめんね、那月とっちゃって」
「え?」
別にとられたわけじゃないと言い返そうとしたが、藍子は春乃に興味を失った様子で自席に向かう。その浮かれた様子が何だか不穏に見えて、言い知れぬ不安感が押し寄せて胸元をぎゅっと握りしめた。
学校が終わり、迎えの車に乗り込んだ春乃は朝よりもげっそりしていた。藍子からの嫌味に加え、何故か面識のない女子生徒から「那月と別れたって聞いたけど本当か」と何度も質問を投げかけられた。どうやら美織の言う通り那月と付き合っていると誤解している人が多かったようだ。
懇切丁寧にそもそも付き合っていないと説明したのに何故か聞き入れてもらえず、どうして嘘を吐くんだと怒りを露にする人もいて一日でかなり疲弊してしまった。
「……どうかしましたか」
春乃が余程酷い顔をしていたからか、運転席の健真が気遣うように聞いて来た。
「いえ、特に何もないんですけどね」
「何か言われましたか。あの藍子とか言う女は相当性格が悪そうですもんね」
健真も藍子を知っているらしい。ルームラミー越しでも気分を害しているのが伝わって来て苦笑が零れた。
「運命がいながら那月様に擦り寄っているらしいじゃないですか。汚らわしい」
どうやら健真が厳しいのは春乃だけではないようだ。那月の周りにいる女性が嫌なのだろうか。
「健真さんは、那月が好きなんですね」
「はあ? そんなの当たり前ですよ。あの家で那月様が嫌いなものなどおりません。だからどこぞの馬の骨に傷つけられたくはないのです」
健真が睨むように春乃を見た。
春乃は那月を傷つけるわけがないと言っても無駄だろう。
今日どれだけ付き合っていないと言っても誰も信じてくれなかったのだ。春乃を知らない人間からしたら信用に値しないのだ。
「できれば、恋人はあやかしが良かったのに。どうしてこんな可愛くもない人間なんかを……」
ぼそりと吐き出された言葉に春乃は耳を疑った。
「もしかして、私を那月の恋人だと思ってますか?」
「は? 当たり前でしょう」
まさか健真にまで勘違いされているなんて思っていなかった。
「違います。ただの幼馴染です」
恋人じゃないと口にする度に春乃は自分が傷つくのを自覚する。
私だって恋人だと勘違いしていたかったが、現実はそうじゃない。
「そんな嘘は良いのです」
「本当です!」
今日何度も口にし、その度に否定された言葉だ。案の定健真も信じてはくれなかったが、那月の身内に誤解されたままなのは可哀想だと必死で弁解する。
「幼い頃からずっと一緒にいるけど恋人ではないですし、婚約の話が出た時だって有耶無耶になったので那月は私に対して恋愛感情なんてないんです。それに……私の花嫁の印は使い物にならないので、意味がないんです」
ぎゅっと手の甲を握りしめる。自分を否定すると胸が締め付けられ辛いが、言わないわけにはいかない。
「那月にはきっとこれからちゃんとした運命の人が現れるはずですから」
口が震える。自分で言っておきながらつんと鼻が痛んだ。
みっともなく泣くわけにいかないと外へ視線を向ける。信号が赤になったので、歩道を歩く人の顔が良く見えた。
「あれ」
以前、那月と共に入店した喫茶店の前に那月の姿があった。彼の容姿はかなり目立つので、間違うわけがない。
那月の隣には藍子がいた。ふたりは何やら会話しながら喫茶店に入って行く。
デートという単語が脳裏に過る。そして、藍子のあの勝ち誇った表情で言われた「ごめんね、那月とっちゃって」という言葉を思い出して愕然とした。
「どうしました?」
春乃の異変に気が付いた健真がつられるように視線を外に向け、げっと声を上げる。
「どうしてあの女が……」
衝撃から立ち直れない。健真が何か言っているが、うまく呑み込めない。
車が動き出したので那月の表情は見えなかったが、一緒に喫茶店に入るぐらいなので楽しんでいるのだろう。
笑い合うふたりを想像し、最低な気分になり――耐えていたものが崩壊した。
「うー……」
涙がぽろりと零れる。一粒落ちると後は壊れた蛇口のように止められない。涙と共に堪えていた感情も一緒に抑えられなくなった。
みっともなくてもいい。もう全部どうでもいい。
「え、ちょっと、泣かないでください」
健真の慌てる声が聞こえてきたが、もう気に変えている余裕なんてない。どうせ嫌われているのだから、泣いたところで評価が下げるわけでもない。
「無理です……何でこんなことになったんですかね。家は奪われるし、売られるし、那月と離れ離れになるし、みんなみんな冷たいし」
ぐすんと子供みたいな泣き声が漏れる。
「どうせ私は可愛くないですよ。何年も一緒にいるのに告白もできない意気地なしですし……那月の運命の相手じゃないし」
「い、いや、ちょっと落ち着いて」
健真が落ち着かせようとしてくるが、止まらない。
頭の奥には冷静な自分がいて、泣きわめいている自分を止めようとしているがそんな簡単に止まるのなら泣いていない。えんえんと泣き続ける自分自身に冷静な自分も匙を投げた。
「運命の相手って何なんですか?」
あやかしが迎えに来てくれなくたって良い。
「那月に好きになってほしかった」
ボロボロと本音が零れる。これを本人に言えばよかったのだろうが、後の祭りだ。関係が壊れてしまうのが嫌で言えなかった自分が全て悪いのだと分かっているが、吐き出さないと苦しくて死んでしまいそうだった。
春乃が泣くと健真は「そんなことはない」とか「那月様があんな女に靡くはずない」と声をかけてくれたので、家に着く頃には多少は落ち着いていた。
「迷惑をおかけして申し訳ありません]
健真が渡してくれたハンカチを受け取り、目元を拭う。もう涙は収まったが、泣きすぎて目が腫れてしまっている気がする。
「あまり気にせずに。その、年頃の方に可愛くないは言いすぎました。配慮が足りずすみません」
同情するな視線が恥ずかしい。
「年頃じゃなくて言わない方がいいと思います」
未だに自暴自棄な部分が露出しているので、ついそんなことを言ってしまった。
健真が小さく頭を下げて「確かに、すみません」と零す。
「あの、本当に那月様があんな女に靡くことはないので、大丈夫ですよ」
健真は真摯な視線を春乃に向ける。気遣うように大丈夫だと言われても、藍子と那月の姿が頭から離れなず、曖昧に微笑んで茶を濁すことしかできなかった。
「なんだ、漸く帰って来たのか」
玄関で靴を脱ぐ春乃に声が掛かった。顔を上げると夕燈が仁王立ちで待っていた。
「もう帰って来ないと思ったのに、意外と根性が……」
夕燈は春乃と目が合うとぎょっとして言葉を止めた。
「お、お前、なんだその顔」
泣き腫らしたのを顔を指さして夕燈が言う。
「酷い。目が腫れて不細工だ……」
デリカシーをどこへ置いて来たのだろうか。
「何でもないです」
「殴られたんじゃないなら、こっちに来い」
ぐいっと引っ張られ、靴のまま廊下に上がりそうになった。
「ちょっと待って、靴が」
大声で訴えても無視をされたので、慌てて靴を脱ぐ。散らかってしまったが土足で上がるよりもましだろう。
夕燈は無言で廊下を進み、春乃は引っ張られるままについて行く。すると次第に奥の方から声が聞こえ始めた。突き当りを左に曲がった先で、数人が廊下から心配そうに部屋の中を覗いている。
「何かあったの?」
ただならぬ雰囲気に足が止まりかける。しかし、夕燈がちっとも速度を緩めないので、そのまま騒ぎが起きている部屋の前まで進んだ。
「あ。夕燈様、と……」
夕燈と春乃に気が付いた数人が視線を向けてくる。昨日までは目が合うと途端に顔を顰めていたのに、今日は何故か縋る様な視線を向けられ戸惑う。
「どいてくれ、連れてきた」
夕燈の声に部屋の前にいた数人はすぐに道を開け、部屋の中へと誘導された。
室内には、布団が敷いてあり、そこに女性が寝ている。息が荒く、顔が真っ青だ。
「容体は?」
夕燈の声に女性の周りにいた数人がはっとした様子で顔を上げ、その中のひとりが静かな声で言う。
「……夕燈様、熱が下がりません。穢れがどんどん体を犯しているようです。私達では何もできません」
押し殺したような声に夕燈が拳を握る。
春乃だけはこの状況についていけていなかった。何を話しているのかすら分からないのに、何故ここに連れて来られたのだろうか。
突然、夕燈がくるりと振り返り、寝ている女性を指さす。
「彼女を治してほしい」
「え? そんなことできないよ。病院に連れていくしか」
「病院なんかで治らない。これは穢れなんだぞ」
夕燈の悲痛な声に春乃の困惑は大きくなった。
「その穢れって何?」
「穢れを知らないのか?」
愕然としたように夕燈が呟いた後、部屋の奥から落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「穢れって言うのは、あやかし特有のもので、人間的に言うと呪いかな。この子はね呪われたんだ。病院じゃ呪いは解けないでしょ? だから君に頼っているんだよ」
一昨日廊下で会った、夕燈の家庭教師だという班目だ。
「なんで私に? 私は何もできませんよ」
「君が花嫁だからだよ。花嫁はね、穢れを祓う力があるんだ。その清らかな力で浄化してくれ」
お願い、と班目が頭を下げる。
生まれて来てからそんな神秘的な力を感じた経験はない。無理だ、と反射的に首を振った。その瞬間、目の前にいた夕燈がぐっと顔を近づけてきた。
「お願いだ。あんたにしか頼れない」
よく見たら夕燈の目も腫れている。
穢れがどういったものか分からないが、もしかしたら最悪の場合死ぬのかもしれない。
「無理だよ……そんな」
「母さんは出来たのに」
蚊の鳴く様な声で夕燈が呟き、すぐにはっとした様子で口を塞ぎ、周りを見渡す。声が小さかったので誰にも聞こえていなかったらしい。夕燈がほっと安堵したのが分かった。
「兎に角、あの子を救えるのはあんたしかいないんだ。頼む。お願いします」
夕燈が懇願するように頭を下げると部屋にいた者達が皆床に額を付けた。
断れる空気ではない。しかし、春乃には本当に力などないのだ。花嫁にそんな力があったとしても、春乃の印は既に使いものにならない可能性が高い。そう説明したいのに声にならない。
あんなに嫌っていた春乃に縋るしかないくらい深刻な事態なのだ。
出来るか分からないが、やるしかない。
春乃はぎゅっと拳を握り、寝ている女性の横に膝をついた。近くで顔を見て、一昨日邪魔だと言って来た女性だと気が付く。酷いことを言われたが、憐れみしか浮かんでこなかった。
どうにか治してあげたい、と布団の上に置かれている手を握る。顔が青白いのに体温が以上に高い。
「穢れを消すイメージをして」と背後にいる男性が呟く。
そう言われても穢れが消える想像は全くできなかった。消そうとしても残ってしまう気がする。これではきっと治らないと本能的に察した。
消せないのならば、どうするか。
とあるイメージが頭に浮かぶ。消すのではなく、穢れを移してしまえばいい。浄化の力がある花嫁というのはつまり穢れにとっては天敵に違いない。
呼吸を深くし、女性の体内にある穢れを自身に取り込んでいく。ただの想像に過ぎないのに体の中に淀みが侵入してくるような気分の悪さを覚える。吐き気を堪えること数分。急に女性の呼吸が落ち着いた。
ああ、治ったのだと察した。周りも感じ取ったらしき、わっと女性に駆け寄る。
「大丈夫? まだ眠い? 疲れたでしょう、寝ていなさい」
誰かが女性かける声を聞きながら、春乃はふらりと立ち上がりその場から立ち去った。
きーん、と小さく耳鳴りがする。眩暈も酷いし、吐き気が止まらない。体中が痛くてたまらない。これが穢れなのか。まるでインフルエンザにかかっている時のようだ。平衡感覚がおかしく、何度も転びかける。
「何をしているんですか」
前から大きな足音と共に誰かが叫ぶ声がした。
健真の声に似ているが、よく聞こえない。耳鳴りがうるさい。目が見えない。それに頭が痛すぎる。
春乃の体は耐えきれずに、その場に崩れ落ちた。
ひんやりしたものが額に乗せられ、目が覚めた。
ゆっくりと辺りを見渡すと、隣に那月が座っているのに気が付く。
「起きたか?」
那月、と声を出そうとしたが、うまく舌が回らない。寝起きだからだろうか。寝た記憶はないので首を捻る。
「覚えているか? 穢れを取り込んで倒れたんだ」
「あ」
思い出した。帰宅して早々夕燈に懇願され、女性の穢れを治したのだ。いや、結局治せなかったので自分の体に移したのだが、間違いだったらしい。酷い痛みは消えているが、倦怠感が酷すぎて体が動かない。金縛りにあっているみたいだ。
「あの、おんなの、ひとは」
上手く動かない舌を動かして問う。すると那月の眉間にぎゅっとしわが寄った。
「人の心配している場合か。死にかけたんだぞ」
「ごめん、なさ、い」
つたない謝罪をすると那月はぐっと唇を噛みしめ、力なく首を振る。
「春乃が悪いわけじゃないのに責めてごめん。俺が傍にいなかったのが悪い」
未だに全身が痛む春乃よりもずっと辛そうに言葉を吐き出す那月にそっと手を伸ばす。腕すらも重すぎて持ち上がらないので、もぞもぞと布団の中で蠢く手に気が付いた那月が握ってくれた。
「なつきの、せいじゃない、うまく、できなかった」
「当たり前だ。浄化なんてすぐに出来るものじゃないんだ。家の奴らに何も説明してなかった俺が悪い。本当にごめんな」
那月が春乃の手をぎゅっと握りしめ、祈るように額に当てた。ひんやりしていて気持ちがいい。かなり体温が高いのだろう。
「あのさ」
弱っているくせに気持ちだけは大きくなっていた。疲弊しているせいで投げやりになっているだけかもしれないが、今ならわだかまっている感情を吐き出しても問題ない気がした。
「なんで、あやかしだって、隠してたの?」
ぴくっと那月の手が震える。
「わたしに、知られたく、なかった?」
「……いつかは言わないといないと思ってた。けど、知られて距離を置かれるのが怖かった」
那月は俯いていて表情はよくわからないけど、泣いているのかもしれないと思った。
「なかないで」
手を握り返すと那月が顔を上げる。泣いてはいなかったけど、迷子の子供のような顔をしている。
「嫌いになんてならないよ。ずっと、大好きだもん」
安心してほしくて手を握り返す。今度こそ那月は泣きそうに顔を歪めて。
「俺も、大好きだよ」
守れなくてごめんね、と那月が言い、そっと額に口づけを落とした。
春乃が起き上がれるようになったのは、それから数時間後だった。日付の感覚がまるでなくなっていたが、春乃が女性から穢れを受け取った後、廊下で倒れたのが午後五時過ぎ。那月が帰宅したのがその三十分後で、春乃が一時的に目を覚まして覚束ない会話をしたのが深夜の一時。まともに喋れるようになったのは午前十時頃だった。体を起こせるようになったのは、それから更に時間を要した。
「それでもいい方だ。普通なら死んでいる」と言ったのは那月だ。
あれから付きっきりで一緒にいてくれるが、学校に行かなくてもいいのだろうか。
「那月、学校は」
「春乃が心配だから休み」
そう言って頭を撫でて来た。
こういう言動が勘違いを生むのだろうなとひとり頷く。
「なに?」
「いや、学校で那月と付き合っているって誤解されてたの思い出しただけ」
そう言うと那月の表情が固まった。那月も知らなかったのか、と思ったがそっと視線を逸らされて、疑惑が湧く。
「知ってたの?」
「知っていたというか、そういう風に仕向けていたというか」
「え?」
那月は居心地悪そうにしていたが、意を決した様子で春乃に向き直った。
「誰にもとられたくなかったから周りを牽制していた」
予想外な言葉に目を見開く。
「私なんてとられないよ」
那月は深刻な顔で首を振る。
「俺がいなかったら今頃百人ぐらいに告白されている」
「私を絶世の美女かなんかだと思ってる?」
自分で言うのも何だか、春乃は髪色が少しだけ変わっている以外は平凡だ。告白された経験もない。
「春乃は世界で一番可愛いだろ」
真顔で言い返され、黙った。ここで全力で否定しても堂々巡りだ。
「仮にそうだとしても、那月以外に心奪われたりなんてしないよ」
「それはそうかもしれないけど、何があるかわからないから念には念を入れて置こうと思って。まぁ、噂が広まったのはただ距離が近かったのもあるだろうが」
なんだか、那月の言葉は春乃に都合のいいように聞こえる。
過度に期待をするべきではない。そう思うのに勝手に胸が高鳴った。
「なんか、私のこと好きみたいだね」
そう言うと那月は目を瞬かせて首を捻った。
まずい、反応を間違えただろうかと背筋が冷えた、直後那月が不思議そうに言う。
「好きだよ。夜に通じ合ったと思っていたのに忘れたのか?」
直接的な言葉に春乃はかっと顔が熱くなるのを感じた。
「今更照れるか?」
「だって」
そっと頭を撫でられ、夜に互いの想いを告げたのを思い出し頭を抱えて唸る。
「恋愛的な意味じゃないと思ってた!」
「もちろん、恋愛だけじゃない。人としてもクラスメイトとしても幼馴染としても好きだよ」
ふふっとからかうように笑われ、春乃は恥ずかしさで叫び出しそうになった。
しかし、すぐに冷静さを取り戻す。恋愛に浮かれて目を逸らしてはいけない問題がある。
「ちょっと待って、あのさ今日藍子さんと一緒に喫茶店にいたよね。あれってなに?」
今聞かなければ二度と聞けない気がしたので、思い切って問う。詰め寄る様な口調になったが那月は全く気にした様子はない。
「ああ、見てたのか? 通学路だもんな。あの説明もしないとな。えっと」
那月の言葉を遮る様に扉のノック音が聞こえてきた。
「あの、すみません」
続いて聞こえてきたのは、か細い女性の声だ。
「食事を用意しました。入ってもよろしいでしょうか」
そう言えば倒れてから今まで全く食事をしていない。意識すると途端に腹が減って来た。
那月を見ると頷いたので、春乃が声をかける。
「ど、どうぞ」
慣れない言葉に唇が震えて不格好になった。
恐る恐るといった風に扉が開き、顔を出したのは倒れていた女性だ。すっかり回復したらしく、布団の中で見たよりもずっと顔色が良い。
「体調はどうですか? もう出歩いても大丈夫なんですか?」
そう聞くと女性は目を見開いて驚いた顔をした。変な質問をしただろうかと困惑する。
「体調は大丈夫です。あなたのほうこそ」
そこまで言って女性はその場に手をついた。
「ごめんなさい。酷い言葉を投げかけたのに、助けてくださってありがとうございます。本当にすみませんでした」
悲痛な叫びに似た謝罪に春乃はぽかんと呆然とした。
「そんな、頭を上げてください。私、結局穢れを消すなんてできませんでしたし」
「それでも、私は助けていただきました。本当に、ごめんなさい」
自分を責める言葉が痛い。春乃が寝ている間、彼女は苦しんだのだろう。吐き出した言葉は戻って来ない。きっと後悔したに違いない。彼女の苦しみを救えるのは春乃だけだ。
春乃は布団から出ると這うようにして彼女に近づく。那月がそっと持ち上げようとしたが、首を振って断った。
「いいんです。確かに傷ついたけど、もう大丈夫です。そんなに責めないでください」
「そんなわけには」
「事情があったんじゃないですか?」
流石に初対面であんな扱いを受けるほど悪評を広めた覚えはないので、佐倉家側に何かしたらの理由があったと考えた方が自然だ。じっと女性を見つめていると背後に立っている那月が言った。
「それは、俺から説明する」
驚いて振り返る。
「那月は知っていたの?」
「春乃への風当たりが強いのは知らなかったが、想像は出来た。対処が遅れたのは俺の落ち度だ」
那月が女性からおかゆを受け取る。女性は最後に深く頭を下げると部屋を出て行った。
行儀は悪いが、移動して食べられるほど回復はしていないので布団に座った状態で食事をする。弱い力でスプーンを握り、何とか口に含む。卵の優しい味わいが口に広がりほっとした。
「皆の態度について、俺から謝罪する」
「それは良いんだけどさ、どうしてあんなに冷たかったの? 私、というよりあれは――」
不意に脳裏に夕燈の顔が浮かんだ。彼は「母さんは出来た」と言っていなかっただろうか。そして、その後慌てて口を押えて周りの反応を窺っていた。まるで禁句を言ってしまったかのようだった。母親の話を口にしただけなのにだ。
「もしかして、お母さんが関係してる?」
那月が驚いた顔をした。
「そうだけど、どうして」
「なんとなく。もしかして那月のお母さんは人間だったりした?」
春乃と同じあやかしの花嫁の印がある人間。
那月は頷いて話を聞かせてくれた。
「俺の母親は奔放な人だった。お世辞にも性格が良いとは言えない。母としても立派だとは言えないような人だ。ただ浄化がとてもうまかった。父ともそれなりによくやっていたと思っていたんだけど、ある日雇っていた庭師と駆け落ちした」
「えっ」
衝撃的な一言にぎょっとする。
「い、いつ」
「三年くらい前だな」
何でもないことのように那月が言う。
「知らなかった……」
ずっと傍にいたのに春乃は何も気づかなかった。
「言ってなかったからな」
と那月は流して話を続ける。
「それきり、父は威厳を失った。人間に逃げられたあやかしは笑いものだよ。そして、佐倉家の使用人は花嫁に対して懐疑的になった。踏み荒らして、消えた俺の母への怒りがそのまま花嫁に向いていたんだ」
佐倉家のあやかし達が春乃へ向ける視線に畏怖が混じっている理由が分かった。彼女たちは怖かったのだ。もう一度家をめちゃくちゃにされるのだ。だから家から排除したかったのだろう。
暴言は酷いが、責めたいとも思えなかった。
春乃だって同じような立場だ。勝手に踏み込んで来た伯母達。もし、彼女たちが家から出ていった後に別の親戚の人たちが泊めてくれと言っても簡単には家に入れない。
「ごめん。俺がもっときちんと説明しておけばよかった」
「ううん。理由がわかってよかったよ。だから夕燈君も先生と喋っただけで騒いでたのね……誤解が解けるといいな」
いつまでも冷たく接されるのは辛い。
「解けているよ。それに春乃が自分の身を犠牲して浄化したのも知っている」
それなら良かった、と安堵する。
「あのさ、どうしてあの女性は穢れを受けたの?」
班目曰く、穢れは呪いのようなものらしい。つまりあの女性は誰かに呪われたのだ。一体何故。
「佐倉家を狙う輩は多いんだ。下克上をしてのし上がりたいんだろうな。父が女に逃げられたと知って弱っている今に内に壊してしまおうと企んでいるんだよ」
不意に思い出したのは、井塚の話だ。
あやかしは結婚の時に種族を気にする。あやかしの中で一番強いものと結婚したいと願う者がいるならば、鬼を蹴落として一番になろうとするあやかしもいるのだろう。
「その穢れを前はお母さんが浄化していたの?」
「そう。その母親がいなくなったから、今の佐倉家には穢れを治療できないと思われているんだ。いつもだったら、近くに住む別のあやかしの花嫁に頼って浄化してもらうんだけど」
家に花嫁がいるならば、と春乃に役目が回って来たのだ。
「花嫁は浄化できるって言われたけど、私には無理だったよ。全然想像できなかった」
穢れを清める想像を浮かべようとすると思考が真っ黒く乗り潰されたのを思い出す。無理だったから浄化ではなく、移すことに切り替えたのだ。
「すぐに出来るものじゃないんだよ。移すなんて真似も本当だったらできないはずだったんだけど……」
那月は苦虫を噛み潰したような顔をした。
この顔をしている時は、那月にも落ち度がある時だ。
「なに?」
「いや……その……」
「隠し事しないでよ」
責めるようにしたから見つめると那月がうっと小さく唸り声を上げた。そしてきまり悪そうにそっと視線を逸らす。
「春乃が少しだけど能力を使えたのに訳があって、俺が必要以上に接触していたからなんだ」
「え、どういうこと?」
意味が分からず首を傾げる。
「春乃は知らないだろうけど、あやかしっていうのは霊力っていうものが流れていて、それを使って力を使うんだ」
「力って、火の玉をだしたり?」
「そんな感じ。花嫁もあやかしと契ると霊力が流れるようになって力を使えるようになるんだけど、ずっと俺が無意識の内に霊力を春乃に分け与えていたみたいで……」
那月は珍しく気まずそうにした。
「ええっと、つまり……那月が私に霊力をあげていたから能力を使えたの?」
「正確に言うと能力を使ったわけじゃない。春乃の体に入りやすくなっていたんだ」
その言葉で漸く納得した。
春乃は那月と契っていないので能力は使えない。しかし、那月が霊力を流していたせいで、恐らく穢れを取り込むための道が出来てしまっていたらしい。
「悪い……」
「いや大丈夫。むしろ良かった」
那月に睨まれたので、慌てて訂正する。
「良くはなかったね。何事もなかったから不幸中の幸いって感じだね」
今朝がたまで体が動かなかった苦痛を思うと確かに「良かった」などとは言えないが、それでもあの女性が苦しみ続けるよりかは春乃が身に受けて浄化したほうがましだろう。その考えが顔に出たようで、那月が苦い顔をした。
「春乃は無茶をするから心配だ」
そうして、頭を春乃の肩へ乗っけてくる。ずしりとした重みに体が後ろに傾く。
慌てて持っていた空の茶碗を傍に置くと待ってましたと言わんばかりに体重をかけてきた。
「うわあ」
ぽす、と布団に那月ごと倒れる。
「重いよ」
「我慢して」
ぎゅっと力強く抱きしめられ、春乃もその背に手を回す。
「心配かけてごめんね」
「俺も、色々隠しててごめん。もっと早く打ち明けていれば良かった」
那月はいつも自信満々なので、しゅんとしているのは珍しい。
「謝ってばっかりだね」
大きな背中を撫でる。すると動物みたいに擦り寄って来てくすぐったい。思わず口から笑みが漏れた。
「言い訳になるけど」
そう前置きしてから那月が話し出す。
内緒話をするような小さな声だが、くっついているので問題ない。
「最初に親父から俺と春乃の婚約の話が出た時、正直舞い上がって了承しかけた。でもあやかしって打ち明けてもいない上に諸々の問題もあったから後回しにした。全部を片づけてから告白するつもりだった。気が急いて何も見えてなかった」
ごめん、と謝る様子が何だか子供みたいで愛おしくて堪らなくなった。
「いいよ。全部許す」
背に回した手に力を入れた――その時だった。
「に、兄さん、入ってもよろしいでしょうか」
そう訊ねて来たのにも関わらず、こちらが返答する前に扉が開いた。
「体調の方は……」
扉を開けたまま夕燈が固まる。そして、その背後に立っていた健真がわなわなと体を震わせて叫んだ。
「破廉恥だーーー! 離れろ!」
どう考えても勝手に開けた健真たちが悪いだろうと思ったが、大人しく離れる。
「那月様、どういうことですか。こっちが花嫁ならば喫茶店にいた女とは一体どういった関係なんですか!」
健真のヒステリックな声で喫茶店で那月が藍子と一緒にいた光景を思い出す。そう言えば、その話を聞いていなかった。
那月を見上げると分かっているとばかりに頷いた。
「その話をしよう。春乃にも協力してほしいんだ」
翌日の午後五時。春乃と那月は並んで件の喫茶店で並んで座っていた。目の前には真剣なまなざしの男性が腰を下ろしている。彼の名前は堂山葉鳥。藍子の運命であるあやかしだ。
「来ますかね」と彼は時計をちらりと見た。
神経質な質なのか、それとも落ち着かないだけなのかしきりに時間を気にしている。
今日はここに藍子を呼び出しているのだ。約束の時刻は五時半。あと三十分もある。
「ここに来るまでに最終確認です。本当に良いんですね?」
那月がじっと葉鳥を見つめる。その強い眼差しに葉鳥は気圧されたようだったが、困ったように眉を下げて頷いた。
「もう心は決まっています。彼女と、藍子さんと別れます」
那月達がやって来たのは、彼らの別れを見届けるためだ。
葉鳥の話によれば、そもそも彼は藍子のストーカーなどではなかった。藍子の話していた通り、出会った当初は仲良くやっていたらしいのだが、付き合って三か月で藍子の浮気が発覚した。というか、葉鳥と付き合う前から同じクラスに彼氏がいたらしい。
藍子は泣いて謝ったのだという。彼氏と別れようと思っていたが、中々別れてくれなかったと言われその時は葉鳥も許して関係を続けた。しかしその一か月後に再び浮気が発覚する。今度は同じ学校の先輩だった。しかし、葉鳥はそれも咎めなかった。
運命というのはあやかしを盲目にする。葉鳥は何度も浮気され、その度に許した。可愛かったのだ、運命の花嫁が可愛くて仕方がない。多少の浮気は仕方がない。
しかし藍子は金遣いも荒く、葉鳥にいろいろなものを強請った。ついには藍子達一家の生活費も出させ始めた。
葉鳥は何も疑問を抱かず払っていたのだが、その話を聞いた人間の同僚が眉を顰める。「別れた方がいい」と親切で優しき友人は必死に葉鳥を説得したのだと言う。
友人の言葉に藍子への不信感が募り、ある日藍子に言われた言葉が決定打となって別れを決めて話し合いを設けようとした。しかし、藍子が逃げたらしい。
「それで、伯母さん共々うちに来たんですね」
なんて酷い人なのだろうか。よくそんなに不義理を重ねられるものだ。
「別れを決めたきっかけになった言葉って何だったんですか?」
「結婚式はハワイでしたね、です」
「え?」
葉鳥は遠い目をして思いため息を吐き出す。
「結婚式を友人がお祝いしてくれない想像が浮かんだんです。俺は結婚には反対だと言っていた彼を無視して結婚して幸せになれるのか疑問でした。彼女と結婚してまた浮気されて苦しめられるに決まっていると思った時、我に返ったんです」
現実に気が付いて、目が覚めたのだろう。
結婚という区切りの前に別れを決められたのは良かったが、問題は藍子が別れを認めなかったことだ。
「お金を払ってもらえなくなるからだろうな」
那月が呆れた口調で言う。
「最初から私を好きだったわけじゃなかったんでしょうね」と葉鳥は切なげに言葉を吐いた。
「それで、どうやって別れさせるんですか? 別れましょうって口頭だけで済むのなら藍子さんは逃げたりしませんよね」
自然消滅になって困るのは藍子の方だ。つまり、葉鳥側は自然消滅にできない理由がある。
「人間側には運命の強制力はないが、あやかし側はそうじゃない。ずっと運命を意識して生きていかなければいけない。それはかなり苦痛だ。だから縁を切るんだ」
那月はそう言って鞄から手のひらくらい大きさの木箱を取り出した。古めかしい箱を開ける。中には握る部分が大きく丸っこい刃が小さい鋏が入っている。
「花切狭だ。これでふたりの縁を切る」
那月と春乃を見た。
「これは花嫁にしか扱えないものだ。だから、俺が霊力を渡すから春乃に切ってほしい」
それが春乃の役割だった。
別れさせるのに協力してほしいとは聞いていたが、まさか鋏で縁を切るとは思っていなかったので驚く。
「私に出来るのかな」
「出来る。俺がついているから」
自信満々に頷く那月に笑みが零れた。緊張していたのがふっと軽くなる。
何でもできてしまいそうだが、気ばかりで大きくなるのはよろしくない。頭を振ってじっと鋏を見る。
「やり方は簡単だ。二人の間をその鋏でちょきんと切ればいい」
「切った後ってあやかし側に影響はないの?」
「悪い影響はない。最初は空虚を抱える者もいるらしいが、その内埋まる。あんたにはその友人が付いているんならすぐに忘れられるさ」
後半は葉鳥に向かって言った。恋人と別れて落ち込むのは人間も一緒だ。それを埋める物があるのなら大丈夫だ。
那月の言葉を受けて、葉鳥は力強く頷いた。彼の目にもう迷いはない。
その直後、からんと来店を知らせるベルが鳴った。反射的に振り返ると待ち人である藍子がやって来た。
彼女は、那月を見て顔を緩め、すぐに春乃に気が付いて歪め、葉鳥を見てはっとして逃げようとした。しかし、それは次の来店した健真によって阻止された。
「ちょっと、どきなさいよ」
「あなたがさっさと話を終えたなら退きましょう」
健真が扉を抑えて開かないようにする。どうにも逃げられないのを悟ったようで藍子が渋々こちらに向かって歩いてくる。
他のお客さんが来ないかひやひやしていると那月が「貸切っているから安心して」と耳打ちした。流石、用意周到な男である。
「何であんたがいるのよ」
藍子がまず睨んだのは春乃である。
「座れ」
それを無視して那月が葉鳥の隣を顎で指す。冷たい言い方に藍子がむっとした。
「どうしてそんなこと言い方するの? ていうか何で葉鳥さんが……」
そこで藍子はなにやらはっとした。次に口角をにやりと上げ、葉鳥の隣に腰かけた。
「わかった。葉鳥さんと別れて欲しいって話でしょ? 別れたら那月が付き合ってくれるんだよね? それならいいよ」
藍子にとって恋人とは何なのだろうか。
葉鳥から逃げたのは別れ話をしたくなかったのもあるだろうが、那月のような彼氏を探すためだったのかもしれない。次の彼氏候補である那月が完全に自分のものになるまで葉鳥を手放さないつもりだったのだ。
藍子はずっと那月を見つめて葉鳥を見ていないので、気が付かない。彼の目に藍子を恋しがる熱はもうない。
「藍子さん」
葉鳥が名前を呼んだ。平坦な冷たい声だ。
「別れてください」
藍子はその言葉を鬱陶しそうに跳ねのけた。
「だから分かったって。那月と話してるんだから黙ってよ。ねえ、那月私と付き合ってくれるんだよね? この女とは別れたんでしょ? あ、そもそも付き合ってなかったんだっけ」
その言葉に葉鳥は、藍子へ向けていた視線を春乃へやった。
悲しそうな目だ。運命に拒否された男の悲痛な視線を真っすぐに受けながら次の言葉を待つ。
「お願いします。切ってください」
静かな声に春乃が頷く。鋏は想っていたよりもずっと軽く片手でも余裕で持てる。鋏を持っていない方の手を那月が握るとじんわりと熱くなった。これが霊力なのだろう。いつも那月は暖かいと思っていた正体に気が付き、ふっと息が漏れた。
緊張も忘れ、藍子と葉鳥の間に鋏を入れる。
ちょきん。それは簡単に切れた。
藍子の方には何も変化が見られないが、葉鳥は目を大きく見開いた後目を伏せた。運命との縁が切れたのだ。それを噛みしめ、葉鳥は藍子に向き合う。
「藍子さん、これでお別れです。今までありがとうございました。貴方とはここから他人です」
「は? 何言って……」
そこで漸く藍子が葉鳥を見た。そして気が付く。
「は、葉鳥さん? どうしたの?」
もう葉鳥が自分を愛していない事実に。
「貴方との縁が切れました。さようならです」
葉鳥が椅子を引いて立ち上がる。その表情には藍子への未練が微塵も感じられない。
さっきまで確かにあったはずの深い愛情があっさり無くなってしまった事実に春乃はぞっとした。
「ちょっと待って、葉鳥さん」
出て行こうとする葉鳥に縋りつこうとした藍子の手を葉鳥は無言で振り払った。
「待って、待ってよ、葉鳥さん。お願い、お金どうすればいいの。お金は」
泣きそうな藍子の声に葉鳥が漸く止まり、振り返る。途端、藍子の顔に希望の色が宿った。
葉鳥が愛おしむように言う。
「藍子さん、あなたのことが好きでした。運命など関係なく、出会った時は確かにあなたに恋をしていましたよ」
それはあやかしとしてではなく、ただ一心に恋をしていた堂山葉鳥としての言葉だった。
「お元気で」
彼は微笑みを携えながらそう言うと店を出て行った。藍子が呼び止めても振り返らない。
縁が、完全に切れたのだ。
「俺達の仕事は終わったから帰るか」
那月がコップの水を飲み干しながら言う。その言葉に藍子が慌てて那月の方へ手を伸ばす。
「待って、那月は私と付き合うんだよね?」
「そんなわけないだろ。誰がお前なんかと付き合うんだよ、馬鹿か」
ここ数日、ストレスが溜まっているからか那月の言葉には容赦がない。鋭い視線と言葉を藍子に浴びせる。
「葉鳥さんに捨てられたのも金がないのも全部自分のせいだろ。自業自得」
「わ、私と付き合ってくれるんじゃないの?」
「そんなこと一言も言ってない。俺が昨日呼び出したのは葉鳥さんとさっさと別れさせて榎本へから追い出したかったからだよ。あやかしの面倒を見るのも鬼である佐倉家の役目だからな」
鬼、という単語に藍子は目を瞬かせた。
「や、やっぱりあやかしなの? 鬼って、あの鬼? あやかしの中で一番偉いんだよね。ねえ、那月、お願い助けて。私運命の花嫁なんだよ、なんでもできることするから」
藍子の甘い声を那月は鼻で笑った。
「お前はもう花嫁でもなんでもないよ。手の甲を見てみろよ」
「え?」
藍子が自身の手の甲を見る。そこにあった綺麗なスズランの花は萎れてしまっている。
「な、なにこれ」
「じきに消えるから安心しろ」
運命との縁が切れたら花嫁の印も消えてしまうらしい。
藍子は現実が受け止められないようで、泣きながら手の甲をなんでも摩る。しかし、スズランは咲かない。もう二度と。
「自業自得だな」
自分を心の底から愛していてくれたあやかしを裏切ってしまったのだ。泣いてももう許してはくれない。
「あんたのせいだ!」
突然、藍子が顔をあげて春乃へ怒りを向けた。血走った眼で春乃を睨みつけ、きんと耳が痛むような甲高い声を上げる。
「あんたがいなければ私はこんな目に合わなかった! あんたのせいよ、あんたさえいなければっ!」
そして葉鳥の前に置いてあった水の入ったコップを持ち上げ、春乃にかけようとした。
「おい」
ざわりと空気が揺れる。那月の怒りの声に藍子がひっと短く悲鳴を上げて後ずさる。コップが藍子の手から滑り落ちた。まずい、割れてしまうと危惧したが、かつんとプラスチック染みた音がした。
「春乃に危害を加えたらお前を殺す」
那月の怒りを浴びた藍子はぶるぶると体を震わせながら何度も頷いた。
「わかったら出ていけ」
その声を聞いた瞬間、藍子は脱兎の如く逃げ出した。ちゃりんと軽快なベルが鳴る。
呆気なく、全てが終わった。春乃は脱力して大きく息を吐く。
「疲れた……」
「お疲れ、頑張ったな」
那月に頭を撫でられ、さっきの修羅場が嘘のように穏やかな気持ちになった。
「あ、そう言えば、コップ割れてない?」
藍子が落としたコップが気になり、下を覗いて確認しようとした春乃を止めたのは店主だ。黒いエプロンを着けた大きな男性が割れていないコップを拾い上げ、机に軽く打ち付ける。
かつん、とやはりプラスチックの音がした。
「痴話喧嘩対策ですよ」と店主がウインクする。こちらも用意周到だと春乃も笑みを零した。
「それじゃあ、このまま行くか」
そう言いながら那月が立ち上がる。
「行くってどこへ?」
「春乃の家を取り戻しに」
榎本家に到着したのは午後七時頃だった。藍子はもう帰宅しているだろうから、先程の話は既に伯母に伝わっているだろう。彼女と対峙している場面を想像し勝手に体が震え、気分が悪くなる。
「春乃は待ってても良いよ。俺の家で終わるまで時間を潰してていいから」
顔色の悪い春乃を気遣って那月が背を撫でて来るが、首を振って断る。いくら恋人でも全てを任せるわけにはいかない。
「大丈夫。行こう」
インターホンを鳴らした数秒後に乱暴に扉が開き、般若のように怒り狂った藍子の父親が出てきた。
「春乃! どういうつもりだ」
ずんずんと大股で近寄って来る伯父の気迫に昔の記憶が蘇る。どうしてそんなに悪い子なんだ、よくしてやっているのに、ここで吐いていいなんて言ったか。汚いな、そう怒鳴られ頭を蹴られた記憶の断片が蘇り、春乃は反射的に後ずさり頭を押さえた。
「止まれ」
怯える春乃の視界を大きな背中が塞ぐ。
「な、なんだ、お前」
那月の凄みのある声に伯父が困惑した様子を見せたが、すぐにあっと声を上げた。
「お前だろう。うちの藍子を酷い目に合わせたのは。藍子を騙して葉鳥さんと別れさせた挙句に捨てたって聞いたぞ!」
むちゃくちゃな言い分だ。那月が呆れ果てた様子で首を振る。
「そんなアホみたいな作り話を信じたのか? どう考えてもあんたの娘が悪いだろ」
ついでに大きなため息を吐いた那月に伯父の怒りが燃え上がる。
「藍子が一体何をしたって言うんだ!」
「浮気を繰り返したくせに別れたくないって泣きついて、最終的に金の援助を切られるのを怖がって別れ話を拒否。花嫁っていう立ち位置に胡坐をかいた結果だな。自業自得。何か反論でもあんの?」
伯父は怒りで頭に血が上っているのか、顔を真っ赤にさせた。唇がぶるぶると震え、いつ殴りかかって来てもおかしくない憤りを感じて春乃は那月の服をぎゅっと握る。
「何よ、それ」
背後から聞こえて来た声に伯父がはっとした様子で振り返る。
いつからいたのか、伯父の陰から藍子が顔を出した。その目は泣き腫らした様子で真赤に充血している。未だに頬には涙の跡が残り、漂う悲壮感に伯父は悲し気な声で寄り添う。
「ああ、なんて可哀想な藍子」
「自業自得って何、何であんたにそんなこと言われなきゃいけないの。何様のつもりなのよ」
藍子は伯父の言葉が聞こえていない様子で那月を見詰めながら言う。その目には恋い慕う気持ちはなくなり、怒りに歪んでいる。
「自分が招いた結果、そうなったんだろ」
那月が藍子の袖に隠れている手を視線で指す。
藍子は花嫁の印が枯れてしまった手の甲を隠す様に後ろ手に隠した。
「あやかしの気持ちを軽んじたせいだ。自業自得以外のなんだっていうんだ?」
藍子に罪の意識があるかは分からないが、那月の言葉に反論は出来ないらしい。反論した所で葉鳥が帰ってくるわけではない。花嫁の印が枯れたことで既に藍子は運命がなくなってしまった事実を実感しているだろう。
ただの八つ当たりだ。
自分に向けるべき怒りを那月に向けているだけに過ぎない。
那月はすぐに興味を失ったような顔をして家の中へ視線を向けた。
「あんたの母親はどこだ?」
「え?」
「家の中か?」
そう言うなり、返答を聞かずに那月は春乃の手を引いて中へ向かう。
「ちょっと待て、勝手に入るなんて不法侵入だ」
「ここはあんたの家じゃないだろ。義春さんには許可を取っている」
そう言われれば、ここの所有者でもない伯父が言えることはない。黙った伯父の横を通り過ぎて家の中に入った。
「ねぇ、那月。伯母さんになんの話があるの?」
「話はない。言いたいことが山ほどあるだけだ」
その那月の声は今までにないぐらい怒りが滲んでいる。
廊下を進み、見慣れたリビングに入ると伯母が悠長にテレビを見ていた。扉が開いた音で振り返り、那月と春乃の姿を目視するなり不快気に顔を歪める。
「勝手に入って来て、何の用?」
ぱき、と伯母が手に持っていたクッキーを齧りながら言う。
呑気な様子に春乃は首を傾げた。藍子が花嫁じゃなくなったというのに危機感は少しもない。てっきり伯母はあやかしの花嫁という立場に大きな価値を見出していると感じていたが、違うのだろうか。
「邪魔だから出て行ってよ、ここは私の家なんだから」
ここはずっと榎本家のもので、伯母の物ではない。そう反論しようとした。
ぎし、と床が軋む音に肌が粟立つ。那月が一歩踏み出し、床を踏みしめただけの音なのにやけに耳につく。伯母も異変を感じ取ったようでクッキーを手に持った中途半端な格好のまま固まった。
「ここは義春さんと春乃の家だよ。あんたのものじゃない」
那月はゆっくり言い聞かせるように言う。
「俺はね、ずっとあんたに言いたいことがあったんだ。小さな春乃に暴力を振るって殺しかけたんだろ」
「ち、ちが」
「喋らなくていい。全部知ってる」
那月が一歩近づく。伯母がぶるぶると体を震わせ、持っていたクッキーが机に落ちた。
「俺は、春乃に残った傷を見る度にあんたに殺意を覚えていた」
那月の手が伯母の首へ伸びる。
「ひっ」
伯母が怯えた様子で飛び上がり、椅子から転げ落ちた。その様子を見下ろしながら那月ははっと嗤笑した。
「俺はあんたとは違う。暴力は振るわない」
「な、なによ。馬鹿にして!」
伯母は勢いよく立ち上がり、那月と春乃を睨みつけて唾を吐きながら喚き締めた。
「今に見てなさいよ、藍子に新しい運命が現れたらあんたらを地獄に落としてやる!」
その言葉に春乃と那月を呆気にとられた。
一瞬何を言っているのか理解できず、顔を見合わせる。
「あたらしい運命?」
疑問に伯母が大きな声で答える。
「葉鳥は運命じゃなかっただけよ。花嫁の印があれば新しいあやかしがすぐに現れるわ!」
伯母の言葉に背後で息を呑む音がした。振り返ると顔面を蒼白にした藍子と事態を把握できていない伯父が立っている。
藍子は伯母に何も説明していないのだ。
那月が藍子を指さしながら言った。
「あの女はもうあやかしの印はない」
「は? そんなわけないでしょ。葉鳥と関係が終わっただけで」
「葉鳥さんが運命の相手だったんだ。縁が切れたのなら二度目はない。嘘だと思うのなら手の甲を見てみればいい」
那月の言葉に伯母は走り出し、藍子の腕を掴み上げた。そして印のなくなった手の甲を見て絶叫した。
「何よこれ! 嘘よ! 嘘!」
「お、お母さん……」
藍子が真っ青になりながら伯母を呼ぶが、彼女には届いていない。伯父も今知ったようで呆然としている。
こんなに取り乱している伯母を見るのは初めてだ。それだけあやかしの印に執着していたのだろう。それがなくなり、伯母の一家に絶望が襲っている。
そして那月が追い打ちをかける。
「義春さんには全て話してある。時期に帰って来て出て行くように言われるだろう。出て行かない場合は警察の世話になるんだな」
それだけ言い、那月は春乃の手を引いた。
今すぐに追い出すのは骨が折れるので、一旦家に帰ろうと言うのだ。春乃もここに居続けるのは気まずいので足早に玄関を目指す。
ふたりの背中に「ちょっと待って」と藍子が叫んだ。
那月は無視しようとしたが、春乃は足を止め、振り返る。藍子はぐるぐると憎しみが渦巻く瞳で春乃を睨んでいた。
「あんた、私の人生狂わせたって自覚ある? 私と葉鳥の縁を無理やり切った罪を自覚しているのかって聞いてんの」
「春乃、聞かなくていい」
那月が手を引くが、春乃は動かず藍子の話を聞いた。
「あんたみたいな傲慢な人間は地獄に落ちるよ」
藍子はわざとらしく春乃を憐れみ、笑う。
藍子の言う通り、縁を切るのは責任が伴う。その重みを自覚しなければいけない。切られた本人に吐かれたからこそ春乃は身が引き締まった。
「地獄には落ちないよ、残念だけど」
春乃だって怒りがある。言われっぱなしで泣いているような人間ではない。
「三人は、今まで自分達がしてきた罪を自覚したほうがいいよ」
そう言い残し、那月と共に家を出る。背後から呼び止められてももう立ち止まらなかった。
家の前に止めてあった健真の車に乗り込んだ途端、ふたりは脱力して大きな息を吐いた。精神的にな疲労感がすごい。
「お疲れ様です。終わりましたか?」
「まぁ、一応……でも春乃に謝らせらえなかったな」
那月は苦々しい顔をした。
「土下座させてやるつもりだったのに」
「いいよ、そんなの」
本当にもういいのだ。それにきっと伯母は例え地球が滅びようと土下座などしないだろう。
「ありがとね、那月」
「俺は自分の不満をぶつけただけで何もしてないよ」
「そんなことないよ。那月がいなかったらきっと伯母さんと向き合えもしなかった」
彼女と会うと体が震えて何も言えなくなるのにさっきは不思議と震えが起きなかった。それは那月が隣にいてくれたからだ。
「本当にありがとう。大好き」
目を見て言うと那月の体が固まった。大好きなんて散々言ってたきたというのに那月は照れた様子で目を逸らした。
「微笑ましいですね」
健真が生暖かい目を向けてきたので、那月が睨む。そしてはっとした様子で春乃を見た。
「さっきあの女が言った話は気にしなくていい。縁を切った件に関しては春乃が責任を負う必要はない」
春乃を気遣っていってくれているのだろうが、春乃は首を振る。
「ううん。責任はあるよ。というか、なきゃいけないと思う。人の縁を切るって人生を変える出来事には違いないから」
罪として背負うのではない。責任を背負うのだ。
「きっと花嫁ってそれぐらい大きな責務なんだよ」
日曜日は、部屋でだらだらと過ごし、ただ時間がたつのを待つのみだった。
「はあ」
「辛気臭いのでため息をは吐かないでください」
「ごめんなさい……」
月曜日になり、春乃は車での送り迎えが義務付けられた。那月の実家から学校が遠いのが原因だが、なんだか座りが悪い。その理由の一端は運転手が健真だからだ。
今朝、顔を合わせた時から健真の春乃への態度は冷たい。那月の実家の殆どに人間はそうなのでもう一々ショックは受けないが、車内で二人きりは気まずい。隣に那月がいたら違ったのだろうが、彼は今日も用事があると言って学校を休んでいるのでいない。
「学校を休むような用事って何ですかね」
答えは期待していなかったのに健真から返答があった。
「那月様は本来お忙しい方なのです。あなたのような庶民と一緒にいられる方ではないのですよ」
「今までが特別だったってだけですか?」
「そうです」
健真から聞く那月は、春乃が知る那月とは別の世界の人かと錯覚するぐらい違う。
「那月様は昔から優秀で誰からの人望も厚い方です。上に立つべき方なので、足枷があると困るんですよ」
「足枷……」
那月にとって春乃がそれなのだろう。
佐倉家の使用人が春乃に言った邪魔という言葉の重みが増していく。
帰りたい、と思ったが、すぐに帰る場所がない事実に気が重くなった。義春が寝泊まりしているというホテルに泊めてもらった方が安心して生活できる気がするが、義春が気疲れしてしまうだろう。
行く当てがない。
学校に行くまでの間、春乃は解決策を思案し続けてたが、結局何もいい案は浮かばなかった。
ひとりきりで高校へ来たのは初めてだ。自席に着くと前の席に大きな背中がないことへの違和感がすごい。思い返してみれば那月が病気をしているところを見たことがない。中学生の時に一度休んだが、それは春乃が風邪を拗らせたのを看病している時だ。
あれで那月の皆勤賞はなくなってしまった、と春乃の方が落ち込んだのを覚えている。
足枷と言われても否定ができないな、とため息が漏れ駆けたが、辛気臭いと咎められたのを思い出して飲み込んだ。
「春乃さん、おひとりなの珍しいですね」
ひとりで席に着く春乃に美織が声をかけてきた。
「うん、那月ちょっと用事があるんだって」
「そうなんですね。佐倉君が春乃さんをおひとりにするなんて今日は槍でも降りそうですね」
「槍って、そんな大げさな」
那月が誰からみても過保護だと言っても一人で出かけた経験だってある。近くのコンビ二程度だが。
「いえいえ、大げさなものですか。佐倉君の春乃さんへの執着は正直引く……いえ、驚くほどですからね。片時も恋人と離れたくないと言うのが表に出すぎていますからね」
「恋人?」
春乃は首を傾げた。
「誰と誰が」
「佐倉君と春乃さんが」
美織が当然だとばかりに言う。それに春乃は勢いよく否定した。
「違うよ。付き合ってない。ただの幼馴染だよ」
「またまた。そんなご冗談を。もしかして喧嘩かなにかしてますか? だからそんな嘘を?」
「嘘じゃないよ。本当にただの幼馴染」
言葉を重ねると春乃の表情に嘘がないのを察した美織が目を見開く。
「え、ほ、本当に? あの距離感でお付き合いしていないのですか?」
「私達って距離感おかしかった?」
「少なくとも私は幼馴染にあんな彼氏のような態度を取られたら怒りますね」
彼氏のような態度と言われてもいまいちピンとこない。
「確かに過保護だったけどさ、彼氏ってほどじゃなかったと思うよ」
「いいえ、あれは確実に彼氏面をしていましたよ。春乃さんがそうじゃなくても向こうは確実に意識していました」
「ええ……そうかな」
首を傾げた所で、教室の扉が開いた。無意識に視線を送ると軽やかな足取りで藍子が入って来た。彼女は春乃と目が合うとすうっと目を細め、迷いない足取りで向かって来た。
「おはよう、春乃ちゃん。学校来られたんだね。あやかしって花嫁を家から出したくないって考えの方もいるみたいだから心配していたよ」
藍子の言葉に教室がざわめく。
クラスメイトに聞かせるためにわざと大きな声で話しているのだろう。
視界の端で、春乃を馬鹿にしてきた女子生徒ふたり組が楽しそうに手を取るのが見えて、思わず顔を顰めてしまった。それを藍子はあやかしと結婚させられたせいだと勘違いしたらしく、愉悦の表情を浮かべた。
「酷い運命にあたって可哀想……でも、傷だらけの印持ちを貰ってくれる方がいて良かったと思うべきかもね」
藍子は楽しそうに笑い、言葉を続ける。
「良かったね、用済みじゃなくて」
どうしてこうも人の心を抉る様な言葉が吐けるのだろう。
いつのもなら隣にいる那月が返答をするのだが、今日はいないので春乃が言い返さなければいけないが、喧嘩をする気力はない。早くどこかへ行ってくれないだろうか、とつい教室の時計を確認するがホームルームまであと数分ある。
無言でいる春乃に藍子が言う。
「言い返さないの? いつも那月に何でもしてもらってるから言い返し方が分からないんだよね。これからは、ひとりでやらなきゃいけないんだから、頑張らないと」
言い返せないのはその通りなので、「はあ」とため息に似た相槌が漏れた。
落ち込んでいる春乃が面白くて仕方がないのか、藍子は笑みを深めて春乃に顔を近づける。
「ごめんね、那月とっちゃって」
「え?」
別にとられたわけじゃないと言い返そうとしたが、藍子は春乃に興味を失った様子で自席に向かう。その浮かれた様子が何だか不穏に見えて、言い知れぬ不安感が押し寄せて胸元をぎゅっと握りしめた。
学校が終わり、迎えの車に乗り込んだ春乃は朝よりもげっそりしていた。藍子からの嫌味に加え、何故か面識のない女子生徒から「那月と別れたって聞いたけど本当か」と何度も質問を投げかけられた。どうやら美織の言う通り那月と付き合っていると誤解している人が多かったようだ。
懇切丁寧にそもそも付き合っていないと説明したのに何故か聞き入れてもらえず、どうして嘘を吐くんだと怒りを露にする人もいて一日でかなり疲弊してしまった。
「……どうかしましたか」
春乃が余程酷い顔をしていたからか、運転席の健真が気遣うように聞いて来た。
「いえ、特に何もないんですけどね」
「何か言われましたか。あの藍子とか言う女は相当性格が悪そうですもんね」
健真も藍子を知っているらしい。ルームラミー越しでも気分を害しているのが伝わって来て苦笑が零れた。
「運命がいながら那月様に擦り寄っているらしいじゃないですか。汚らわしい」
どうやら健真が厳しいのは春乃だけではないようだ。那月の周りにいる女性が嫌なのだろうか。
「健真さんは、那月が好きなんですね」
「はあ? そんなの当たり前ですよ。あの家で那月様が嫌いなものなどおりません。だからどこぞの馬の骨に傷つけられたくはないのです」
健真が睨むように春乃を見た。
春乃は那月を傷つけるわけがないと言っても無駄だろう。
今日どれだけ付き合っていないと言っても誰も信じてくれなかったのだ。春乃を知らない人間からしたら信用に値しないのだ。
「できれば、恋人はあやかしが良かったのに。どうしてこんな可愛くもない人間なんかを……」
ぼそりと吐き出された言葉に春乃は耳を疑った。
「もしかして、私を那月の恋人だと思ってますか?」
「は? 当たり前でしょう」
まさか健真にまで勘違いされているなんて思っていなかった。
「違います。ただの幼馴染です」
恋人じゃないと口にする度に春乃は自分が傷つくのを自覚する。
私だって恋人だと勘違いしていたかったが、現実はそうじゃない。
「そんな嘘は良いのです」
「本当です!」
今日何度も口にし、その度に否定された言葉だ。案の定健真も信じてはくれなかったが、那月の身内に誤解されたままなのは可哀想だと必死で弁解する。
「幼い頃からずっと一緒にいるけど恋人ではないですし、婚約の話が出た時だって有耶無耶になったので那月は私に対して恋愛感情なんてないんです。それに……私の花嫁の印は使い物にならないので、意味がないんです」
ぎゅっと手の甲を握りしめる。自分を否定すると胸が締め付けられ辛いが、言わないわけにはいかない。
「那月にはきっとこれからちゃんとした運命の人が現れるはずですから」
口が震える。自分で言っておきながらつんと鼻が痛んだ。
みっともなく泣くわけにいかないと外へ視線を向ける。信号が赤になったので、歩道を歩く人の顔が良く見えた。
「あれ」
以前、那月と共に入店した喫茶店の前に那月の姿があった。彼の容姿はかなり目立つので、間違うわけがない。
那月の隣には藍子がいた。ふたりは何やら会話しながら喫茶店に入って行く。
デートという単語が脳裏に過る。そして、藍子のあの勝ち誇った表情で言われた「ごめんね、那月とっちゃって」という言葉を思い出して愕然とした。
「どうしました?」
春乃の異変に気が付いた健真がつられるように視線を外に向け、げっと声を上げる。
「どうしてあの女が……」
衝撃から立ち直れない。健真が何か言っているが、うまく呑み込めない。
車が動き出したので那月の表情は見えなかったが、一緒に喫茶店に入るぐらいなので楽しんでいるのだろう。
笑い合うふたりを想像し、最低な気分になり――耐えていたものが崩壊した。
「うー……」
涙がぽろりと零れる。一粒落ちると後は壊れた蛇口のように止められない。涙と共に堪えていた感情も一緒に抑えられなくなった。
みっともなくてもいい。もう全部どうでもいい。
「え、ちょっと、泣かないでください」
健真の慌てる声が聞こえてきたが、もう気に変えている余裕なんてない。どうせ嫌われているのだから、泣いたところで評価が下げるわけでもない。
「無理です……何でこんなことになったんですかね。家は奪われるし、売られるし、那月と離れ離れになるし、みんなみんな冷たいし」
ぐすんと子供みたいな泣き声が漏れる。
「どうせ私は可愛くないですよ。何年も一緒にいるのに告白もできない意気地なしですし……那月の運命の相手じゃないし」
「い、いや、ちょっと落ち着いて」
健真が落ち着かせようとしてくるが、止まらない。
頭の奥には冷静な自分がいて、泣きわめいている自分を止めようとしているがそんな簡単に止まるのなら泣いていない。えんえんと泣き続ける自分自身に冷静な自分も匙を投げた。
「運命の相手って何なんですか?」
あやかしが迎えに来てくれなくたって良い。
「那月に好きになってほしかった」
ボロボロと本音が零れる。これを本人に言えばよかったのだろうが、後の祭りだ。関係が壊れてしまうのが嫌で言えなかった自分が全て悪いのだと分かっているが、吐き出さないと苦しくて死んでしまいそうだった。
春乃が泣くと健真は「そんなことはない」とか「那月様があんな女に靡くはずない」と声をかけてくれたので、家に着く頃には多少は落ち着いていた。
「迷惑をおかけして申し訳ありません]
健真が渡してくれたハンカチを受け取り、目元を拭う。もう涙は収まったが、泣きすぎて目が腫れてしまっている気がする。
「あまり気にせずに。その、年頃の方に可愛くないは言いすぎました。配慮が足りずすみません」
同情するな視線が恥ずかしい。
「年頃じゃなくて言わない方がいいと思います」
未だに自暴自棄な部分が露出しているので、ついそんなことを言ってしまった。
健真が小さく頭を下げて「確かに、すみません」と零す。
「あの、本当に那月様があんな女に靡くことはないので、大丈夫ですよ」
健真は真摯な視線を春乃に向ける。気遣うように大丈夫だと言われても、藍子と那月の姿が頭から離れなず、曖昧に微笑んで茶を濁すことしかできなかった。
「なんだ、漸く帰って来たのか」
玄関で靴を脱ぐ春乃に声が掛かった。顔を上げると夕燈が仁王立ちで待っていた。
「もう帰って来ないと思ったのに、意外と根性が……」
夕燈は春乃と目が合うとぎょっとして言葉を止めた。
「お、お前、なんだその顔」
泣き腫らしたのを顔を指さして夕燈が言う。
「酷い。目が腫れて不細工だ……」
デリカシーをどこへ置いて来たのだろうか。
「何でもないです」
「殴られたんじゃないなら、こっちに来い」
ぐいっと引っ張られ、靴のまま廊下に上がりそうになった。
「ちょっと待って、靴が」
大声で訴えても無視をされたので、慌てて靴を脱ぐ。散らかってしまったが土足で上がるよりもましだろう。
夕燈は無言で廊下を進み、春乃は引っ張られるままについて行く。すると次第に奥の方から声が聞こえ始めた。突き当りを左に曲がった先で、数人が廊下から心配そうに部屋の中を覗いている。
「何かあったの?」
ただならぬ雰囲気に足が止まりかける。しかし、夕燈がちっとも速度を緩めないので、そのまま騒ぎが起きている部屋の前まで進んだ。
「あ。夕燈様、と……」
夕燈と春乃に気が付いた数人が視線を向けてくる。昨日までは目が合うと途端に顔を顰めていたのに、今日は何故か縋る様な視線を向けられ戸惑う。
「どいてくれ、連れてきた」
夕燈の声に部屋の前にいた数人はすぐに道を開け、部屋の中へと誘導された。
室内には、布団が敷いてあり、そこに女性が寝ている。息が荒く、顔が真っ青だ。
「容体は?」
夕燈の声に女性の周りにいた数人がはっとした様子で顔を上げ、その中のひとりが静かな声で言う。
「……夕燈様、熱が下がりません。穢れがどんどん体を犯しているようです。私達では何もできません」
押し殺したような声に夕燈が拳を握る。
春乃だけはこの状況についていけていなかった。何を話しているのかすら分からないのに、何故ここに連れて来られたのだろうか。
突然、夕燈がくるりと振り返り、寝ている女性を指さす。
「彼女を治してほしい」
「え? そんなことできないよ。病院に連れていくしか」
「病院なんかで治らない。これは穢れなんだぞ」
夕燈の悲痛な声に春乃の困惑は大きくなった。
「その穢れって何?」
「穢れを知らないのか?」
愕然としたように夕燈が呟いた後、部屋の奥から落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「穢れって言うのは、あやかし特有のもので、人間的に言うと呪いかな。この子はね呪われたんだ。病院じゃ呪いは解けないでしょ? だから君に頼っているんだよ」
一昨日廊下で会った、夕燈の家庭教師だという班目だ。
「なんで私に? 私は何もできませんよ」
「君が花嫁だからだよ。花嫁はね、穢れを祓う力があるんだ。その清らかな力で浄化してくれ」
お願い、と班目が頭を下げる。
生まれて来てからそんな神秘的な力を感じた経験はない。無理だ、と反射的に首を振った。その瞬間、目の前にいた夕燈がぐっと顔を近づけてきた。
「お願いだ。あんたにしか頼れない」
よく見たら夕燈の目も腫れている。
穢れがどういったものか分からないが、もしかしたら最悪の場合死ぬのかもしれない。
「無理だよ……そんな」
「母さんは出来たのに」
蚊の鳴く様な声で夕燈が呟き、すぐにはっとした様子で口を塞ぎ、周りを見渡す。声が小さかったので誰にも聞こえていなかったらしい。夕燈がほっと安堵したのが分かった。
「兎に角、あの子を救えるのはあんたしかいないんだ。頼む。お願いします」
夕燈が懇願するように頭を下げると部屋にいた者達が皆床に額を付けた。
断れる空気ではない。しかし、春乃には本当に力などないのだ。花嫁にそんな力があったとしても、春乃の印は既に使いものにならない可能性が高い。そう説明したいのに声にならない。
あんなに嫌っていた春乃に縋るしかないくらい深刻な事態なのだ。
出来るか分からないが、やるしかない。
春乃はぎゅっと拳を握り、寝ている女性の横に膝をついた。近くで顔を見て、一昨日邪魔だと言って来た女性だと気が付く。酷いことを言われたが、憐れみしか浮かんでこなかった。
どうにか治してあげたい、と布団の上に置かれている手を握る。顔が青白いのに体温が以上に高い。
「穢れを消すイメージをして」と背後にいる男性が呟く。
そう言われても穢れが消える想像は全くできなかった。消そうとしても残ってしまう気がする。これではきっと治らないと本能的に察した。
消せないのならば、どうするか。
とあるイメージが頭に浮かぶ。消すのではなく、穢れを移してしまえばいい。浄化の力がある花嫁というのはつまり穢れにとっては天敵に違いない。
呼吸を深くし、女性の体内にある穢れを自身に取り込んでいく。ただの想像に過ぎないのに体の中に淀みが侵入してくるような気分の悪さを覚える。吐き気を堪えること数分。急に女性の呼吸が落ち着いた。
ああ、治ったのだと察した。周りも感じ取ったらしき、わっと女性に駆け寄る。
「大丈夫? まだ眠い? 疲れたでしょう、寝ていなさい」
誰かが女性かける声を聞きながら、春乃はふらりと立ち上がりその場から立ち去った。
きーん、と小さく耳鳴りがする。眩暈も酷いし、吐き気が止まらない。体中が痛くてたまらない。これが穢れなのか。まるでインフルエンザにかかっている時のようだ。平衡感覚がおかしく、何度も転びかける。
「何をしているんですか」
前から大きな足音と共に誰かが叫ぶ声がした。
健真の声に似ているが、よく聞こえない。耳鳴りがうるさい。目が見えない。それに頭が痛すぎる。
春乃の体は耐えきれずに、その場に崩れ落ちた。
ひんやりしたものが額に乗せられ、目が覚めた。
ゆっくりと辺りを見渡すと、隣に那月が座っているのに気が付く。
「起きたか?」
那月、と声を出そうとしたが、うまく舌が回らない。寝起きだからだろうか。寝た記憶はないので首を捻る。
「覚えているか? 穢れを取り込んで倒れたんだ」
「あ」
思い出した。帰宅して早々夕燈に懇願され、女性の穢れを治したのだ。いや、結局治せなかったので自分の体に移したのだが、間違いだったらしい。酷い痛みは消えているが、倦怠感が酷すぎて体が動かない。金縛りにあっているみたいだ。
「あの、おんなの、ひとは」
上手く動かない舌を動かして問う。すると那月の眉間にぎゅっとしわが寄った。
「人の心配している場合か。死にかけたんだぞ」
「ごめん、なさ、い」
つたない謝罪をすると那月はぐっと唇を噛みしめ、力なく首を振る。
「春乃が悪いわけじゃないのに責めてごめん。俺が傍にいなかったのが悪い」
未だに全身が痛む春乃よりもずっと辛そうに言葉を吐き出す那月にそっと手を伸ばす。腕すらも重すぎて持ち上がらないので、もぞもぞと布団の中で蠢く手に気が付いた那月が握ってくれた。
「なつきの、せいじゃない、うまく、できなかった」
「当たり前だ。浄化なんてすぐに出来るものじゃないんだ。家の奴らに何も説明してなかった俺が悪い。本当にごめんな」
那月が春乃の手をぎゅっと握りしめ、祈るように額に当てた。ひんやりしていて気持ちがいい。かなり体温が高いのだろう。
「あのさ」
弱っているくせに気持ちだけは大きくなっていた。疲弊しているせいで投げやりになっているだけかもしれないが、今ならわだかまっている感情を吐き出しても問題ない気がした。
「なんで、あやかしだって、隠してたの?」
ぴくっと那月の手が震える。
「わたしに、知られたく、なかった?」
「……いつかは言わないといないと思ってた。けど、知られて距離を置かれるのが怖かった」
那月は俯いていて表情はよくわからないけど、泣いているのかもしれないと思った。
「なかないで」
手を握り返すと那月が顔を上げる。泣いてはいなかったけど、迷子の子供のような顔をしている。
「嫌いになんてならないよ。ずっと、大好きだもん」
安心してほしくて手を握り返す。今度こそ那月は泣きそうに顔を歪めて。
「俺も、大好きだよ」
守れなくてごめんね、と那月が言い、そっと額に口づけを落とした。
春乃が起き上がれるようになったのは、それから数時間後だった。日付の感覚がまるでなくなっていたが、春乃が女性から穢れを受け取った後、廊下で倒れたのが午後五時過ぎ。那月が帰宅したのがその三十分後で、春乃が一時的に目を覚まして覚束ない会話をしたのが深夜の一時。まともに喋れるようになったのは午前十時頃だった。体を起こせるようになったのは、それから更に時間を要した。
「それでもいい方だ。普通なら死んでいる」と言ったのは那月だ。
あれから付きっきりで一緒にいてくれるが、学校に行かなくてもいいのだろうか。
「那月、学校は」
「春乃が心配だから休み」
そう言って頭を撫でて来た。
こういう言動が勘違いを生むのだろうなとひとり頷く。
「なに?」
「いや、学校で那月と付き合っているって誤解されてたの思い出しただけ」
そう言うと那月の表情が固まった。那月も知らなかったのか、と思ったがそっと視線を逸らされて、疑惑が湧く。
「知ってたの?」
「知っていたというか、そういう風に仕向けていたというか」
「え?」
那月は居心地悪そうにしていたが、意を決した様子で春乃に向き直った。
「誰にもとられたくなかったから周りを牽制していた」
予想外な言葉に目を見開く。
「私なんてとられないよ」
那月は深刻な顔で首を振る。
「俺がいなかったら今頃百人ぐらいに告白されている」
「私を絶世の美女かなんかだと思ってる?」
自分で言うのも何だか、春乃は髪色が少しだけ変わっている以外は平凡だ。告白された経験もない。
「春乃は世界で一番可愛いだろ」
真顔で言い返され、黙った。ここで全力で否定しても堂々巡りだ。
「仮にそうだとしても、那月以外に心奪われたりなんてしないよ」
「それはそうかもしれないけど、何があるかわからないから念には念を入れて置こうと思って。まぁ、噂が広まったのはただ距離が近かったのもあるだろうが」
なんだか、那月の言葉は春乃に都合のいいように聞こえる。
過度に期待をするべきではない。そう思うのに勝手に胸が高鳴った。
「なんか、私のこと好きみたいだね」
そう言うと那月は目を瞬かせて首を捻った。
まずい、反応を間違えただろうかと背筋が冷えた、直後那月が不思議そうに言う。
「好きだよ。夜に通じ合ったと思っていたのに忘れたのか?」
直接的な言葉に春乃はかっと顔が熱くなるのを感じた。
「今更照れるか?」
「だって」
そっと頭を撫でられ、夜に互いの想いを告げたのを思い出し頭を抱えて唸る。
「恋愛的な意味じゃないと思ってた!」
「もちろん、恋愛だけじゃない。人としてもクラスメイトとしても幼馴染としても好きだよ」
ふふっとからかうように笑われ、春乃は恥ずかしさで叫び出しそうになった。
しかし、すぐに冷静さを取り戻す。恋愛に浮かれて目を逸らしてはいけない問題がある。
「ちょっと待って、あのさ今日藍子さんと一緒に喫茶店にいたよね。あれってなに?」
今聞かなければ二度と聞けない気がしたので、思い切って問う。詰め寄る様な口調になったが那月は全く気にした様子はない。
「ああ、見てたのか? 通学路だもんな。あの説明もしないとな。えっと」
那月の言葉を遮る様に扉のノック音が聞こえてきた。
「あの、すみません」
続いて聞こえてきたのは、か細い女性の声だ。
「食事を用意しました。入ってもよろしいでしょうか」
そう言えば倒れてから今まで全く食事をしていない。意識すると途端に腹が減って来た。
那月を見ると頷いたので、春乃が声をかける。
「ど、どうぞ」
慣れない言葉に唇が震えて不格好になった。
恐る恐るといった風に扉が開き、顔を出したのは倒れていた女性だ。すっかり回復したらしく、布団の中で見たよりもずっと顔色が良い。
「体調はどうですか? もう出歩いても大丈夫なんですか?」
そう聞くと女性は目を見開いて驚いた顔をした。変な質問をしただろうかと困惑する。
「体調は大丈夫です。あなたのほうこそ」
そこまで言って女性はその場に手をついた。
「ごめんなさい。酷い言葉を投げかけたのに、助けてくださってありがとうございます。本当にすみませんでした」
悲痛な叫びに似た謝罪に春乃はぽかんと呆然とした。
「そんな、頭を上げてください。私、結局穢れを消すなんてできませんでしたし」
「それでも、私は助けていただきました。本当に、ごめんなさい」
自分を責める言葉が痛い。春乃が寝ている間、彼女は苦しんだのだろう。吐き出した言葉は戻って来ない。きっと後悔したに違いない。彼女の苦しみを救えるのは春乃だけだ。
春乃は布団から出ると這うようにして彼女に近づく。那月がそっと持ち上げようとしたが、首を振って断った。
「いいんです。確かに傷ついたけど、もう大丈夫です。そんなに責めないでください」
「そんなわけには」
「事情があったんじゃないですか?」
流石に初対面であんな扱いを受けるほど悪評を広めた覚えはないので、佐倉家側に何かしたらの理由があったと考えた方が自然だ。じっと女性を見つめていると背後に立っている那月が言った。
「それは、俺から説明する」
驚いて振り返る。
「那月は知っていたの?」
「春乃への風当たりが強いのは知らなかったが、想像は出来た。対処が遅れたのは俺の落ち度だ」
那月が女性からおかゆを受け取る。女性は最後に深く頭を下げると部屋を出て行った。
行儀は悪いが、移動して食べられるほど回復はしていないので布団に座った状態で食事をする。弱い力でスプーンを握り、何とか口に含む。卵の優しい味わいが口に広がりほっとした。
「皆の態度について、俺から謝罪する」
「それは良いんだけどさ、どうしてあんなに冷たかったの? 私、というよりあれは――」
不意に脳裏に夕燈の顔が浮かんだ。彼は「母さんは出来た」と言っていなかっただろうか。そして、その後慌てて口を押えて周りの反応を窺っていた。まるで禁句を言ってしまったかのようだった。母親の話を口にしただけなのにだ。
「もしかして、お母さんが関係してる?」
那月が驚いた顔をした。
「そうだけど、どうして」
「なんとなく。もしかして那月のお母さんは人間だったりした?」
春乃と同じあやかしの花嫁の印がある人間。
那月は頷いて話を聞かせてくれた。
「俺の母親は奔放な人だった。お世辞にも性格が良いとは言えない。母としても立派だとは言えないような人だ。ただ浄化がとてもうまかった。父ともそれなりによくやっていたと思っていたんだけど、ある日雇っていた庭師と駆け落ちした」
「えっ」
衝撃的な一言にぎょっとする。
「い、いつ」
「三年くらい前だな」
何でもないことのように那月が言う。
「知らなかった……」
ずっと傍にいたのに春乃は何も気づかなかった。
「言ってなかったからな」
と那月は流して話を続ける。
「それきり、父は威厳を失った。人間に逃げられたあやかしは笑いものだよ。そして、佐倉家の使用人は花嫁に対して懐疑的になった。踏み荒らして、消えた俺の母への怒りがそのまま花嫁に向いていたんだ」
佐倉家のあやかし達が春乃へ向ける視線に畏怖が混じっている理由が分かった。彼女たちは怖かったのだ。もう一度家をめちゃくちゃにされるのだ。だから家から排除したかったのだろう。
暴言は酷いが、責めたいとも思えなかった。
春乃だって同じような立場だ。勝手に踏み込んで来た伯母達。もし、彼女たちが家から出ていった後に別の親戚の人たちが泊めてくれと言っても簡単には家に入れない。
「ごめん。俺がもっときちんと説明しておけばよかった」
「ううん。理由がわかってよかったよ。だから夕燈君も先生と喋っただけで騒いでたのね……誤解が解けるといいな」
いつまでも冷たく接されるのは辛い。
「解けているよ。それに春乃が自分の身を犠牲して浄化したのも知っている」
それなら良かった、と安堵する。
「あのさ、どうしてあの女性は穢れを受けたの?」
班目曰く、穢れは呪いのようなものらしい。つまりあの女性は誰かに呪われたのだ。一体何故。
「佐倉家を狙う輩は多いんだ。下克上をしてのし上がりたいんだろうな。父が女に逃げられたと知って弱っている今に内に壊してしまおうと企んでいるんだよ」
不意に思い出したのは、井塚の話だ。
あやかしは結婚の時に種族を気にする。あやかしの中で一番強いものと結婚したいと願う者がいるならば、鬼を蹴落として一番になろうとするあやかしもいるのだろう。
「その穢れを前はお母さんが浄化していたの?」
「そう。その母親がいなくなったから、今の佐倉家には穢れを治療できないと思われているんだ。いつもだったら、近くに住む別のあやかしの花嫁に頼って浄化してもらうんだけど」
家に花嫁がいるならば、と春乃に役目が回って来たのだ。
「花嫁は浄化できるって言われたけど、私には無理だったよ。全然想像できなかった」
穢れを清める想像を浮かべようとすると思考が真っ黒く乗り潰されたのを思い出す。無理だったから浄化ではなく、移すことに切り替えたのだ。
「すぐに出来るものじゃないんだよ。移すなんて真似も本当だったらできないはずだったんだけど……」
那月は苦虫を噛み潰したような顔をした。
この顔をしている時は、那月にも落ち度がある時だ。
「なに?」
「いや……その……」
「隠し事しないでよ」
責めるようにしたから見つめると那月がうっと小さく唸り声を上げた。そしてきまり悪そうにそっと視線を逸らす。
「春乃が少しだけど能力を使えたのに訳があって、俺が必要以上に接触していたからなんだ」
「え、どういうこと?」
意味が分からず首を傾げる。
「春乃は知らないだろうけど、あやかしっていうのは霊力っていうものが流れていて、それを使って力を使うんだ」
「力って、火の玉をだしたり?」
「そんな感じ。花嫁もあやかしと契ると霊力が流れるようになって力を使えるようになるんだけど、ずっと俺が無意識の内に霊力を春乃に分け与えていたみたいで……」
那月は珍しく気まずそうにした。
「ええっと、つまり……那月が私に霊力をあげていたから能力を使えたの?」
「正確に言うと能力を使ったわけじゃない。春乃の体に入りやすくなっていたんだ」
その言葉で漸く納得した。
春乃は那月と契っていないので能力は使えない。しかし、那月が霊力を流していたせいで、恐らく穢れを取り込むための道が出来てしまっていたらしい。
「悪い……」
「いや大丈夫。むしろ良かった」
那月に睨まれたので、慌てて訂正する。
「良くはなかったね。何事もなかったから不幸中の幸いって感じだね」
今朝がたまで体が動かなかった苦痛を思うと確かに「良かった」などとは言えないが、それでもあの女性が苦しみ続けるよりかは春乃が身に受けて浄化したほうがましだろう。その考えが顔に出たようで、那月が苦い顔をした。
「春乃は無茶をするから心配だ」
そうして、頭を春乃の肩へ乗っけてくる。ずしりとした重みに体が後ろに傾く。
慌てて持っていた空の茶碗を傍に置くと待ってましたと言わんばかりに体重をかけてきた。
「うわあ」
ぽす、と布団に那月ごと倒れる。
「重いよ」
「我慢して」
ぎゅっと力強く抱きしめられ、春乃もその背に手を回す。
「心配かけてごめんね」
「俺も、色々隠しててごめん。もっと早く打ち明けていれば良かった」
那月はいつも自信満々なので、しゅんとしているのは珍しい。
「謝ってばっかりだね」
大きな背中を撫でる。すると動物みたいに擦り寄って来てくすぐったい。思わず口から笑みが漏れた。
「言い訳になるけど」
そう前置きしてから那月が話し出す。
内緒話をするような小さな声だが、くっついているので問題ない。
「最初に親父から俺と春乃の婚約の話が出た時、正直舞い上がって了承しかけた。でもあやかしって打ち明けてもいない上に諸々の問題もあったから後回しにした。全部を片づけてから告白するつもりだった。気が急いて何も見えてなかった」
ごめん、と謝る様子が何だか子供みたいで愛おしくて堪らなくなった。
「いいよ。全部許す」
背に回した手に力を入れた――その時だった。
「に、兄さん、入ってもよろしいでしょうか」
そう訊ねて来たのにも関わらず、こちらが返答する前に扉が開いた。
「体調の方は……」
扉を開けたまま夕燈が固まる。そして、その背後に立っていた健真がわなわなと体を震わせて叫んだ。
「破廉恥だーーー! 離れろ!」
どう考えても勝手に開けた健真たちが悪いだろうと思ったが、大人しく離れる。
「那月様、どういうことですか。こっちが花嫁ならば喫茶店にいた女とは一体どういった関係なんですか!」
健真のヒステリックな声で喫茶店で那月が藍子と一緒にいた光景を思い出す。そう言えば、その話を聞いていなかった。
那月を見上げると分かっているとばかりに頷いた。
「その話をしよう。春乃にも協力してほしいんだ」
翌日の午後五時。春乃と那月は並んで件の喫茶店で並んで座っていた。目の前には真剣なまなざしの男性が腰を下ろしている。彼の名前は堂山葉鳥。藍子の運命であるあやかしだ。
「来ますかね」と彼は時計をちらりと見た。
神経質な質なのか、それとも落ち着かないだけなのかしきりに時間を気にしている。
今日はここに藍子を呼び出しているのだ。約束の時刻は五時半。あと三十分もある。
「ここに来るまでに最終確認です。本当に良いんですね?」
那月がじっと葉鳥を見つめる。その強い眼差しに葉鳥は気圧されたようだったが、困ったように眉を下げて頷いた。
「もう心は決まっています。彼女と、藍子さんと別れます」
那月達がやって来たのは、彼らの別れを見届けるためだ。
葉鳥の話によれば、そもそも彼は藍子のストーカーなどではなかった。藍子の話していた通り、出会った当初は仲良くやっていたらしいのだが、付き合って三か月で藍子の浮気が発覚した。というか、葉鳥と付き合う前から同じクラスに彼氏がいたらしい。
藍子は泣いて謝ったのだという。彼氏と別れようと思っていたが、中々別れてくれなかったと言われその時は葉鳥も許して関係を続けた。しかしその一か月後に再び浮気が発覚する。今度は同じ学校の先輩だった。しかし、葉鳥はそれも咎めなかった。
運命というのはあやかしを盲目にする。葉鳥は何度も浮気され、その度に許した。可愛かったのだ、運命の花嫁が可愛くて仕方がない。多少の浮気は仕方がない。
しかし藍子は金遣いも荒く、葉鳥にいろいろなものを強請った。ついには藍子達一家の生活費も出させ始めた。
葉鳥は何も疑問を抱かず払っていたのだが、その話を聞いた人間の同僚が眉を顰める。「別れた方がいい」と親切で優しき友人は必死に葉鳥を説得したのだと言う。
友人の言葉に藍子への不信感が募り、ある日藍子に言われた言葉が決定打となって別れを決めて話し合いを設けようとした。しかし、藍子が逃げたらしい。
「それで、伯母さん共々うちに来たんですね」
なんて酷い人なのだろうか。よくそんなに不義理を重ねられるものだ。
「別れを決めたきっかけになった言葉って何だったんですか?」
「結婚式はハワイでしたね、です」
「え?」
葉鳥は遠い目をして思いため息を吐き出す。
「結婚式を友人がお祝いしてくれない想像が浮かんだんです。俺は結婚には反対だと言っていた彼を無視して結婚して幸せになれるのか疑問でした。彼女と結婚してまた浮気されて苦しめられるに決まっていると思った時、我に返ったんです」
現実に気が付いて、目が覚めたのだろう。
結婚という区切りの前に別れを決められたのは良かったが、問題は藍子が別れを認めなかったことだ。
「お金を払ってもらえなくなるからだろうな」
那月が呆れた口調で言う。
「最初から私を好きだったわけじゃなかったんでしょうね」と葉鳥は切なげに言葉を吐いた。
「それで、どうやって別れさせるんですか? 別れましょうって口頭だけで済むのなら藍子さんは逃げたりしませんよね」
自然消滅になって困るのは藍子の方だ。つまり、葉鳥側は自然消滅にできない理由がある。
「人間側には運命の強制力はないが、あやかし側はそうじゃない。ずっと運命を意識して生きていかなければいけない。それはかなり苦痛だ。だから縁を切るんだ」
那月はそう言って鞄から手のひらくらい大きさの木箱を取り出した。古めかしい箱を開ける。中には握る部分が大きく丸っこい刃が小さい鋏が入っている。
「花切狭だ。これでふたりの縁を切る」
那月と春乃を見た。
「これは花嫁にしか扱えないものだ。だから、俺が霊力を渡すから春乃に切ってほしい」
それが春乃の役割だった。
別れさせるのに協力してほしいとは聞いていたが、まさか鋏で縁を切るとは思っていなかったので驚く。
「私に出来るのかな」
「出来る。俺がついているから」
自信満々に頷く那月に笑みが零れた。緊張していたのがふっと軽くなる。
何でもできてしまいそうだが、気ばかりで大きくなるのはよろしくない。頭を振ってじっと鋏を見る。
「やり方は簡単だ。二人の間をその鋏でちょきんと切ればいい」
「切った後ってあやかし側に影響はないの?」
「悪い影響はない。最初は空虚を抱える者もいるらしいが、その内埋まる。あんたにはその友人が付いているんならすぐに忘れられるさ」
後半は葉鳥に向かって言った。恋人と別れて落ち込むのは人間も一緒だ。それを埋める物があるのなら大丈夫だ。
那月の言葉を受けて、葉鳥は力強く頷いた。彼の目にもう迷いはない。
その直後、からんと来店を知らせるベルが鳴った。反射的に振り返ると待ち人である藍子がやって来た。
彼女は、那月を見て顔を緩め、すぐに春乃に気が付いて歪め、葉鳥を見てはっとして逃げようとした。しかし、それは次の来店した健真によって阻止された。
「ちょっと、どきなさいよ」
「あなたがさっさと話を終えたなら退きましょう」
健真が扉を抑えて開かないようにする。どうにも逃げられないのを悟ったようで藍子が渋々こちらに向かって歩いてくる。
他のお客さんが来ないかひやひやしていると那月が「貸切っているから安心して」と耳打ちした。流石、用意周到な男である。
「何であんたがいるのよ」
藍子がまず睨んだのは春乃である。
「座れ」
それを無視して那月が葉鳥の隣を顎で指す。冷たい言い方に藍子がむっとした。
「どうしてそんなこと言い方するの? ていうか何で葉鳥さんが……」
そこで藍子はなにやらはっとした。次に口角をにやりと上げ、葉鳥の隣に腰かけた。
「わかった。葉鳥さんと別れて欲しいって話でしょ? 別れたら那月が付き合ってくれるんだよね? それならいいよ」
藍子にとって恋人とは何なのだろうか。
葉鳥から逃げたのは別れ話をしたくなかったのもあるだろうが、那月のような彼氏を探すためだったのかもしれない。次の彼氏候補である那月が完全に自分のものになるまで葉鳥を手放さないつもりだったのだ。
藍子はずっと那月を見つめて葉鳥を見ていないので、気が付かない。彼の目に藍子を恋しがる熱はもうない。
「藍子さん」
葉鳥が名前を呼んだ。平坦な冷たい声だ。
「別れてください」
藍子はその言葉を鬱陶しそうに跳ねのけた。
「だから分かったって。那月と話してるんだから黙ってよ。ねえ、那月私と付き合ってくれるんだよね? この女とは別れたんでしょ? あ、そもそも付き合ってなかったんだっけ」
その言葉に葉鳥は、藍子へ向けていた視線を春乃へやった。
悲しそうな目だ。運命に拒否された男の悲痛な視線を真っすぐに受けながら次の言葉を待つ。
「お願いします。切ってください」
静かな声に春乃が頷く。鋏は想っていたよりもずっと軽く片手でも余裕で持てる。鋏を持っていない方の手を那月が握るとじんわりと熱くなった。これが霊力なのだろう。いつも那月は暖かいと思っていた正体に気が付き、ふっと息が漏れた。
緊張も忘れ、藍子と葉鳥の間に鋏を入れる。
ちょきん。それは簡単に切れた。
藍子の方には何も変化が見られないが、葉鳥は目を大きく見開いた後目を伏せた。運命との縁が切れたのだ。それを噛みしめ、葉鳥は藍子に向き合う。
「藍子さん、これでお別れです。今までありがとうございました。貴方とはここから他人です」
「は? 何言って……」
そこで漸く藍子が葉鳥を見た。そして気が付く。
「は、葉鳥さん? どうしたの?」
もう葉鳥が自分を愛していない事実に。
「貴方との縁が切れました。さようならです」
葉鳥が椅子を引いて立ち上がる。その表情には藍子への未練が微塵も感じられない。
さっきまで確かにあったはずの深い愛情があっさり無くなってしまった事実に春乃はぞっとした。
「ちょっと待って、葉鳥さん」
出て行こうとする葉鳥に縋りつこうとした藍子の手を葉鳥は無言で振り払った。
「待って、待ってよ、葉鳥さん。お願い、お金どうすればいいの。お金は」
泣きそうな藍子の声に葉鳥が漸く止まり、振り返る。途端、藍子の顔に希望の色が宿った。
葉鳥が愛おしむように言う。
「藍子さん、あなたのことが好きでした。運命など関係なく、出会った時は確かにあなたに恋をしていましたよ」
それはあやかしとしてではなく、ただ一心に恋をしていた堂山葉鳥としての言葉だった。
「お元気で」
彼は微笑みを携えながらそう言うと店を出て行った。藍子が呼び止めても振り返らない。
縁が、完全に切れたのだ。
「俺達の仕事は終わったから帰るか」
那月がコップの水を飲み干しながら言う。その言葉に藍子が慌てて那月の方へ手を伸ばす。
「待って、那月は私と付き合うんだよね?」
「そんなわけないだろ。誰がお前なんかと付き合うんだよ、馬鹿か」
ここ数日、ストレスが溜まっているからか那月の言葉には容赦がない。鋭い視線と言葉を藍子に浴びせる。
「葉鳥さんに捨てられたのも金がないのも全部自分のせいだろ。自業自得」
「わ、私と付き合ってくれるんじゃないの?」
「そんなこと一言も言ってない。俺が昨日呼び出したのは葉鳥さんとさっさと別れさせて榎本へから追い出したかったからだよ。あやかしの面倒を見るのも鬼である佐倉家の役目だからな」
鬼、という単語に藍子は目を瞬かせた。
「や、やっぱりあやかしなの? 鬼って、あの鬼? あやかしの中で一番偉いんだよね。ねえ、那月、お願い助けて。私運命の花嫁なんだよ、なんでもできることするから」
藍子の甘い声を那月は鼻で笑った。
「お前はもう花嫁でもなんでもないよ。手の甲を見てみろよ」
「え?」
藍子が自身の手の甲を見る。そこにあった綺麗なスズランの花は萎れてしまっている。
「な、なにこれ」
「じきに消えるから安心しろ」
運命との縁が切れたら花嫁の印も消えてしまうらしい。
藍子は現実が受け止められないようで、泣きながら手の甲をなんでも摩る。しかし、スズランは咲かない。もう二度と。
「自業自得だな」
自分を心の底から愛していてくれたあやかしを裏切ってしまったのだ。泣いてももう許してはくれない。
「あんたのせいだ!」
突然、藍子が顔をあげて春乃へ怒りを向けた。血走った眼で春乃を睨みつけ、きんと耳が痛むような甲高い声を上げる。
「あんたがいなければ私はこんな目に合わなかった! あんたのせいよ、あんたさえいなければっ!」
そして葉鳥の前に置いてあった水の入ったコップを持ち上げ、春乃にかけようとした。
「おい」
ざわりと空気が揺れる。那月の怒りの声に藍子がひっと短く悲鳴を上げて後ずさる。コップが藍子の手から滑り落ちた。まずい、割れてしまうと危惧したが、かつんとプラスチック染みた音がした。
「春乃に危害を加えたらお前を殺す」
那月の怒りを浴びた藍子はぶるぶると体を震わせながら何度も頷いた。
「わかったら出ていけ」
その声を聞いた瞬間、藍子は脱兎の如く逃げ出した。ちゃりんと軽快なベルが鳴る。
呆気なく、全てが終わった。春乃は脱力して大きく息を吐く。
「疲れた……」
「お疲れ、頑張ったな」
那月に頭を撫でられ、さっきの修羅場が嘘のように穏やかな気持ちになった。
「あ、そう言えば、コップ割れてない?」
藍子が落としたコップが気になり、下を覗いて確認しようとした春乃を止めたのは店主だ。黒いエプロンを着けた大きな男性が割れていないコップを拾い上げ、机に軽く打ち付ける。
かつん、とやはりプラスチックの音がした。
「痴話喧嘩対策ですよ」と店主がウインクする。こちらも用意周到だと春乃も笑みを零した。
「それじゃあ、このまま行くか」
そう言いながら那月が立ち上がる。
「行くってどこへ?」
「春乃の家を取り戻しに」
榎本家に到着したのは午後七時頃だった。藍子はもう帰宅しているだろうから、先程の話は既に伯母に伝わっているだろう。彼女と対峙している場面を想像し勝手に体が震え、気分が悪くなる。
「春乃は待ってても良いよ。俺の家で終わるまで時間を潰してていいから」
顔色の悪い春乃を気遣って那月が背を撫でて来るが、首を振って断る。いくら恋人でも全てを任せるわけにはいかない。
「大丈夫。行こう」
インターホンを鳴らした数秒後に乱暴に扉が開き、般若のように怒り狂った藍子の父親が出てきた。
「春乃! どういうつもりだ」
ずんずんと大股で近寄って来る伯父の気迫に昔の記憶が蘇る。どうしてそんなに悪い子なんだ、よくしてやっているのに、ここで吐いていいなんて言ったか。汚いな、そう怒鳴られ頭を蹴られた記憶の断片が蘇り、春乃は反射的に後ずさり頭を押さえた。
「止まれ」
怯える春乃の視界を大きな背中が塞ぐ。
「な、なんだ、お前」
那月の凄みのある声に伯父が困惑した様子を見せたが、すぐにあっと声を上げた。
「お前だろう。うちの藍子を酷い目に合わせたのは。藍子を騙して葉鳥さんと別れさせた挙句に捨てたって聞いたぞ!」
むちゃくちゃな言い分だ。那月が呆れ果てた様子で首を振る。
「そんなアホみたいな作り話を信じたのか? どう考えてもあんたの娘が悪いだろ」
ついでに大きなため息を吐いた那月に伯父の怒りが燃え上がる。
「藍子が一体何をしたって言うんだ!」
「浮気を繰り返したくせに別れたくないって泣きついて、最終的に金の援助を切られるのを怖がって別れ話を拒否。花嫁っていう立ち位置に胡坐をかいた結果だな。自業自得。何か反論でもあんの?」
伯父は怒りで頭に血が上っているのか、顔を真っ赤にさせた。唇がぶるぶると震え、いつ殴りかかって来てもおかしくない憤りを感じて春乃は那月の服をぎゅっと握る。
「何よ、それ」
背後から聞こえて来た声に伯父がはっとした様子で振り返る。
いつからいたのか、伯父の陰から藍子が顔を出した。その目は泣き腫らした様子で真赤に充血している。未だに頬には涙の跡が残り、漂う悲壮感に伯父は悲し気な声で寄り添う。
「ああ、なんて可哀想な藍子」
「自業自得って何、何であんたにそんなこと言われなきゃいけないの。何様のつもりなのよ」
藍子は伯父の言葉が聞こえていない様子で那月を見詰めながら言う。その目には恋い慕う気持ちはなくなり、怒りに歪んでいる。
「自分が招いた結果、そうなったんだろ」
那月が藍子の袖に隠れている手を視線で指す。
藍子は花嫁の印が枯れてしまった手の甲を隠す様に後ろ手に隠した。
「あやかしの気持ちを軽んじたせいだ。自業自得以外のなんだっていうんだ?」
藍子に罪の意識があるかは分からないが、那月の言葉に反論は出来ないらしい。反論した所で葉鳥が帰ってくるわけではない。花嫁の印が枯れたことで既に藍子は運命がなくなってしまった事実を実感しているだろう。
ただの八つ当たりだ。
自分に向けるべき怒りを那月に向けているだけに過ぎない。
那月はすぐに興味を失ったような顔をして家の中へ視線を向けた。
「あんたの母親はどこだ?」
「え?」
「家の中か?」
そう言うなり、返答を聞かずに那月は春乃の手を引いて中へ向かう。
「ちょっと待て、勝手に入るなんて不法侵入だ」
「ここはあんたの家じゃないだろ。義春さんには許可を取っている」
そう言われれば、ここの所有者でもない伯父が言えることはない。黙った伯父の横を通り過ぎて家の中に入った。
「ねぇ、那月。伯母さんになんの話があるの?」
「話はない。言いたいことが山ほどあるだけだ」
その那月の声は今までにないぐらい怒りが滲んでいる。
廊下を進み、見慣れたリビングに入ると伯母が悠長にテレビを見ていた。扉が開いた音で振り返り、那月と春乃の姿を目視するなり不快気に顔を歪める。
「勝手に入って来て、何の用?」
ぱき、と伯母が手に持っていたクッキーを齧りながら言う。
呑気な様子に春乃は首を傾げた。藍子が花嫁じゃなくなったというのに危機感は少しもない。てっきり伯母はあやかしの花嫁という立場に大きな価値を見出していると感じていたが、違うのだろうか。
「邪魔だから出て行ってよ、ここは私の家なんだから」
ここはずっと榎本家のもので、伯母の物ではない。そう反論しようとした。
ぎし、と床が軋む音に肌が粟立つ。那月が一歩踏み出し、床を踏みしめただけの音なのにやけに耳につく。伯母も異変を感じ取ったようでクッキーを手に持った中途半端な格好のまま固まった。
「ここは義春さんと春乃の家だよ。あんたのものじゃない」
那月はゆっくり言い聞かせるように言う。
「俺はね、ずっとあんたに言いたいことがあったんだ。小さな春乃に暴力を振るって殺しかけたんだろ」
「ち、ちが」
「喋らなくていい。全部知ってる」
那月が一歩近づく。伯母がぶるぶると体を震わせ、持っていたクッキーが机に落ちた。
「俺は、春乃に残った傷を見る度にあんたに殺意を覚えていた」
那月の手が伯母の首へ伸びる。
「ひっ」
伯母が怯えた様子で飛び上がり、椅子から転げ落ちた。その様子を見下ろしながら那月ははっと嗤笑した。
「俺はあんたとは違う。暴力は振るわない」
「な、なによ。馬鹿にして!」
伯母は勢いよく立ち上がり、那月と春乃を睨みつけて唾を吐きながら喚き締めた。
「今に見てなさいよ、藍子に新しい運命が現れたらあんたらを地獄に落としてやる!」
その言葉に春乃と那月を呆気にとられた。
一瞬何を言っているのか理解できず、顔を見合わせる。
「あたらしい運命?」
疑問に伯母が大きな声で答える。
「葉鳥は運命じゃなかっただけよ。花嫁の印があれば新しいあやかしがすぐに現れるわ!」
伯母の言葉に背後で息を呑む音がした。振り返ると顔面を蒼白にした藍子と事態を把握できていない伯父が立っている。
藍子は伯母に何も説明していないのだ。
那月が藍子を指さしながら言った。
「あの女はもうあやかしの印はない」
「は? そんなわけないでしょ。葉鳥と関係が終わっただけで」
「葉鳥さんが運命の相手だったんだ。縁が切れたのなら二度目はない。嘘だと思うのなら手の甲を見てみればいい」
那月の言葉に伯母は走り出し、藍子の腕を掴み上げた。そして印のなくなった手の甲を見て絶叫した。
「何よこれ! 嘘よ! 嘘!」
「お、お母さん……」
藍子が真っ青になりながら伯母を呼ぶが、彼女には届いていない。伯父も今知ったようで呆然としている。
こんなに取り乱している伯母を見るのは初めてだ。それだけあやかしの印に執着していたのだろう。それがなくなり、伯母の一家に絶望が襲っている。
そして那月が追い打ちをかける。
「義春さんには全て話してある。時期に帰って来て出て行くように言われるだろう。出て行かない場合は警察の世話になるんだな」
それだけ言い、那月は春乃の手を引いた。
今すぐに追い出すのは骨が折れるので、一旦家に帰ろうと言うのだ。春乃もここに居続けるのは気まずいので足早に玄関を目指す。
ふたりの背中に「ちょっと待って」と藍子が叫んだ。
那月は無視しようとしたが、春乃は足を止め、振り返る。藍子はぐるぐると憎しみが渦巻く瞳で春乃を睨んでいた。
「あんた、私の人生狂わせたって自覚ある? 私と葉鳥の縁を無理やり切った罪を自覚しているのかって聞いてんの」
「春乃、聞かなくていい」
那月が手を引くが、春乃は動かず藍子の話を聞いた。
「あんたみたいな傲慢な人間は地獄に落ちるよ」
藍子はわざとらしく春乃を憐れみ、笑う。
藍子の言う通り、縁を切るのは責任が伴う。その重みを自覚しなければいけない。切られた本人に吐かれたからこそ春乃は身が引き締まった。
「地獄には落ちないよ、残念だけど」
春乃だって怒りがある。言われっぱなしで泣いているような人間ではない。
「三人は、今まで自分達がしてきた罪を自覚したほうがいいよ」
そう言い残し、那月と共に家を出る。背後から呼び止められてももう立ち止まらなかった。
家の前に止めてあった健真の車に乗り込んだ途端、ふたりは脱力して大きな息を吐いた。精神的にな疲労感がすごい。
「お疲れ様です。終わりましたか?」
「まぁ、一応……でも春乃に謝らせらえなかったな」
那月は苦々しい顔をした。
「土下座させてやるつもりだったのに」
「いいよ、そんなの」
本当にもういいのだ。それにきっと伯母は例え地球が滅びようと土下座などしないだろう。
「ありがとね、那月」
「俺は自分の不満をぶつけただけで何もしてないよ」
「そんなことないよ。那月がいなかったらきっと伯母さんと向き合えもしなかった」
彼女と会うと体が震えて何も言えなくなるのにさっきは不思議と震えが起きなかった。それは那月が隣にいてくれたからだ。
「本当にありがとう。大好き」
目を見て言うと那月の体が固まった。大好きなんて散々言ってたきたというのに那月は照れた様子で目を逸らした。
「微笑ましいですね」
健真が生暖かい目を向けてきたので、那月が睨む。そしてはっとした様子で春乃を見た。
「さっきあの女が言った話は気にしなくていい。縁を切った件に関しては春乃が責任を負う必要はない」
春乃を気遣っていってくれているのだろうが、春乃は首を振る。
「ううん。責任はあるよ。というか、なきゃいけないと思う。人の縁を切るって人生を変える出来事には違いないから」
罪として背負うのではない。責任を背負うのだ。
「きっと花嫁ってそれぐらい大きな責務なんだよ」

