翌日、休日だというのに春乃は伯母にたたき起こされた。
「行くわよ、準備しなさい」
と無理やり顔に水をかけられ、髪を乱暴に結ばれる。毛根が悲鳴を上げて何本か無常に抜けて行ったのが音でわかった。痛いと文句を垂れれば舌打ちと共に我慢しろと耳元で怒鳴られ、春乃はじっと痛みに耐え続けた。
「綺麗な服持ってないわね。ダサいのばっか。もう制服でいいかしら」
学校でもないのに無理やり制服を着せられ、姿見の前に立たされる。
「こう見ると本当にあの子そっくりで嫌になるわね」
あの子というのは春乃の母のことだろう。
伯母は憎々し気な顔で、春乃の顔を見た。その目は春乃というよりも春乃を通して母の面影を追っているようだ。
「花嫁の印があるからって優遇されてたのに、こんなものいらないって言ったのよ。あり得ない。本当に傲慢でむかつく」
「お母さんは傲慢なんかじゃ」
「口答えするな!」
つい反論した春乃に伯母は大きな声を出した。
「むかつく所が本当にそっくり。嫌になるわ……まぁ、金のなる木になっただけましか」
「え? それってどういう意味ですか?」
春乃の質問には答えず伯母は準備を済ませ、問答無用で春乃を引っ張り車に乗せた。抵抗して暴力を振るわれるのが怖かったので、そのまま大人しくしていたが行先も告げずに発進した車に恐怖が募る。
遠くまで行って帰って来られなくなったらどうすればいいのだろうか。
春乃は、咄嗟に那月の家を見たが、那月の姿は確認できない。家にいるのかも分からなかった。
ポケットに入れていたスマホを確認すると昨夜のうちに那月から連絡が来ていた。『昨日はごめん、ちゃんと帰れた?』といういつも通り春乃を心配するもので、昨日やって来た人に対しての話はない。
春乃は、那月に助けを求めようか悩んだが、大したことじゃなかった時に迷惑をかけてしまうので止めた。
春乃はやたら箪笥がある和室で、着替えを強制されていた。
何故こんなことになっているのだろうか、思い出してみてもよくわからない。伯母の車に乗せられ走行すること三十分後、車が止まったのは春乃の家の倍以上大きな屋敷の前だった。ここがどこか伯母に聞いても答えてくれず、ずかずかと無遠慮に家に入った伯母に連れられるままに入った部屋で用意されていた着物に着替えるように指示された。
一人では無理だと言うと小間使いだという女性達数名に囲まれ、着付けをされている。
「何でこんなことに……」
周りにいる女性達は春乃の言葉に答えてくれない。
「あの、ここってどこなんですか? 何で私は着替えているのでしょうか」
これも答えてくれないかもと思ったが、予想に反して一人が口を開いた。
「聞いていらっしゃらないのですか? お見合いの話を」
「お見合い、ですか。誰が」
「貴方が」
意味が分からず首を傾げる。
「私は、お見合いなんてしませんが」
「ここに来たということはするんですよ」
冗談言わないでと笑い飛ばしてしまいたかったが、女性は真顔で本気なのが伺える。その目は冷たく、軽蔑のような感情が見えて春乃は言葉を上擦らせた。
「私、お見合いなんてしませんよ!」
わっと声を上げて逃げようとすると着付けの最中に動くなと咎めるように背中をとんと叩かれ、反射的に謝罪が口をついて出た。
何故謝らないといけないのだろう。
無理やりここに連れて来られ、全く知らない相手とお見合いをさせられるなんて今の時代あっていいのだろうか。今すぐ逃げ出したいが、周りにいる人達の間を掻い潜るのは無理そうだ。
お見合いしてすぐに結婚とはならないだろうから、相手に直接絶対に拒否の意思を示そうと固く誓っている内に着付けが終わり解放された。
「こちらでお待ちください」
そう言って連れて来られたのは、二十畳くらいはある和室だ。広いわりに家具は少なく、中央にぽつんと背の低い長方形の机があるだけでがらんとしている。お待ちくださいと言われて馬鹿正直に待つのもどうかと思ったが、屋敷が広すぎてここまでの道のりを思い出せない。ひとりで屋敷を歩いても迷子にしかならない気がしたので、大人しくその場にとどまった。
座布団が用意されていたが、座らずに立ったままじっと相手を待つこと五分。唐突に扉が開いた。
「こんにちは、はじめまして」
そう言いながら顔を出したのは、背の高い男性だ。がっしりとした体躯に彫の深い整った顔立ちをしている。歳は春乃よりのかなり上で、伯母達と同じくらいだろうか。どこかで見た顔だが、よく思い出せない。
「こ、こんにちは」
明らかに年上の男性の登場に言葉が震え、足が勝手に後退した。
怯える春乃に気が付いた男性が鷹揚に笑い、手を軽く振る。
「そんなに怯えなくてもとって食ったりしないよ。座って話そうか、榎本春乃さん」
「いえ、すみませんが帰らせてください。お見合いの話もすみませんがお断りします」
きっぱりと断り、頭を下げる。
殴られそうになったら逃げる算段を脳内でシミュレーションしてみたが、あっさり捕まる想像しかできなかったので止めた。どうにでもなれという気持ちで男性を見つめ返した。
「どうして? あやかしとの結婚は人間側からしたら得しかないだろう」
「あやかし……」
この男性は人ではないのか。春乃は咄嗟に自身の花嫁の印を隠す様に手の甲を握った。
春乃は損得で結婚はしない。しかし、それを説明しても目の前にいる男性が納得するとは思えなかった。
どういえば伝わるだろうか、と逡巡している春乃に男性は追加で言葉をかけた。
「好きな男でもいるのか?」
その時、自然に春乃の頭に浮かんだのは那月だ。
「好きな男がいるんだな」
男性は今度は断定した。
「あ、えっと、その……」
こんなに真っすぐに問われたのは初めてで狼狽える春乃を男性が鼻で笑った。
「分かりやすいな」
春乃は自分の顔に熱が集まっているのに気が付いた。それを男性は呆れた様子でため息を吐き、徐に立ち上がると春乃の顔を覗き込んだ。
後退しようとしたら腕を強く掴まれ、動けなくなる。みしみしと骨が鳴りそうなほど強い力に春乃は顔を歪ませ、振りほどこうとしたがびくともしない。
「こんなものでも、まだ花嫁だと言い張れるんだな」
男性ははっと馬鹿にしたように言う。その視線の先には、春乃の傷が入った花嫁の印がある。
目の前にいる男性が春乃の運命ならば、この印に縛られているだけなのだろうか。傷が入っても印は有効だと初めて気が付いた。
「この、印がなければ、貴方は解放されますか?」
「なに?」
男性の眉間にしわが寄る。
「これを焼いて全部解決するのなら、焼いてもいいです。焼きます」
傷が増えたら那月が悲しむだろうが、それでも印を焼くだけで全部が丸く収まるのなら火傷くらい何でもない。母だってそうしたのだ。春乃だって出来る。
「何か、焼く物はありますか?」
「……冗談かな?」
「冗談に聞こえましたか?」
春乃は本気だ。
目に力を入れて男性を見返すと彼は口の端を引きつらせてたじろいだ。
「お前――」
男性が口をした言葉を遮るように、ばんっと音を立てて部屋の扉が開いた。
「春乃! 無事か」
勢いよく入って来たのは、恋しくて仕方がなかった那月だ。彼は、額に滲んだ汗を乱暴に拭うと春乃の前に立つ男性の肩を強引に掴んで春乃から遠ざけると言った。
「これは一体どういうつもりだ、親父」
冷たい声に部屋の温度が下がった気がしたが、それよりも気になったのは。
「え、まさか、那月のお父さんなの?」
そんなまさか、と目を見開く春乃に男性、那月の父親は悪戯が成功した子供のような無邪気な顔で笑った。
「いやあ、ごめんごめん。まさかこんなに綺麗に引っかかるとは思ってなくてね」
そう言ってからから笑う那月の父親――佐倉俊陽は先ほどの威圧感はまるでない。
「いじめるのは止めてくれ。もう帰るからな」
春乃の隣で腰を下ろす那月が不機嫌そうに吐き捨て、立ち上がろうとするのを「まぁ待て」と俊陽が止める。
「意地悪したのは悪かったが、お前が何年も帰って来ないのが悪いんだろう」
「それは前に説明しただろうが」
春乃を置き去りにしてどんどん話が進んでいくのを聞きながら、春乃は今度どうなるのか不安に襲われた。もしかしたら那月はこの家に帰るのかもしれない。ここがどこか知らないが、もし転校になったら気軽に会えなくなってしまう。
一緒にいて欲しいが、家族仲を引き裂く様な真似ができない。
「春乃に変なことしてないだろうな」
「してないよ。結婚の話をしていただけだ」
「はぁ? 結婚って何の話だ」
那月が訝し気に聞いた。
「何って、次期当主になるんだからいつまでもふらふらしていられないだろう。早い内に決めておかないと」
「それにしても早すぎるだろ。まだ結婚できる歳じゃない」
「少なくとも婚約者は作っておかないと、公の場でお前の財産を狙う虫どもに集られるぞ」
虫、とは酷い揶揄だが、そういう例えをしたいぐらい女性が那月の元へ群がるのだろう。容易く想像できのたで、春乃は苦笑した。
確かにそれならば婚約者を近くに置いておいたほうがいいだろうが、それは春乃で良いのだろうか。
ふと、とある違和感を覚えた。
何か忘れているような気がするが、思い出せない。もやつきに眉を寄せると那月と目があった。
「ん、どうした?」
心配げな瞳に春乃はすぐに何でもないと首を振った。
何か言わなければいけないが、言葉が続かない。そんな春乃を見かねてか、俊陽が口を挟む。
「春乃さんが婚約者になってくれないかなって声をかけたんだけどな、無理かな」
「……え?」
「さっきもきっぱり断られちゃったしな」
俊陽はわざとらしく肩を落とした。
「ちょっと待ってください、私のお見合い相手って」
「那月だよ。あ、もしかして俺だと思った? あはは、そんなわけがない」
おもしろいね、なんて笑っているが、春乃はちっとも面白くない。
那月のあずかり知らぬ所で結婚の話を進めるなんてありえない、そう言おうとした春乃の前に那月が口を開いた。
「婚約者の話は少し待ってくれ」
那月は、俊陽をじっと見つめながら言葉を重ねる。
「少しだけ時間をくれ」
やっぱり、那月は春乃とは結婚したくないよね、と落胆が顔を出して顔が歪みそうになるのを力を込めて耐える。口を開くと声が震えてしまいそうで、春乃は何も言えなかった。
「……じゃあ、そろそろ帰るからな。春乃帰ろう」
「うん」と頷き、立ち上がる春乃達に俊陽は片眉を器用に下げて訝し気な視線を向けた。
「帰る場所なんてないだろう。お前は売られたんだから」
そう真っすぐな目で言われ、春乃は呆然とした。その隣で那月が目を吊り上げる。
「どういうことだ」
「どういうことって、榎本春乃は家に売られたんだ。確か伯母とか言っていたな。用済みの印持ちならいくらでも差し上げますとかなんとか言っていたな」
今朝の伯母の様子が目に浮かぶ。彼女は、彼女達は春乃の家に住み着くだけではなく、春乃自身も勝手に売り飛ばしたらしい。
「そんなの不履行だ」
「金を払って、商品が届いた。クーリングオフはなしだ。それに帰った所で居場所がないのならここにいた方がいいだろう」
俊陽は憐れみを込めた目を向けてきたが、どこか薄っぺらく嘲笑に似たニュアンスがある。
売る、商品、クーリングオフ。全部物に対して使う言葉だ。俊陽は春乃を対等な生き物とみなしていないのだ。那月の父と言うのなら俊陽があやかしというのは冗談だろう。そのはずなのにどうして違和感が拭えないのだろう。
「春乃は俺の家に住むから、ここには住まない」
「いい加減にしろ。那月、お前もそろそろ帰って来て仕事をしないと当主としての資格を無くすぞ。用済みなんて言われたくないだろう」
那月はぐっと唇を噛みしめる。
結局、春乃と那月は、佐倉家の本家で暫くの間生活することが決まった。
春乃の部屋だと用意された八畳の和室には家具の類が全くなく、部屋の隅に布団が畳んで置いてあった。部屋を見渡した那月がポツリと溢す。
「独房みたいだ」
そう言われるとそれにしか見えないが、春乃は文句を言える立場ではない。
「もっと豪華な部屋を用意させる」
「ううん、十分すぎるよ。いつまでいるのかもわからないんだし」
「そうだけど……まあ最悪俺の部屋で寝起きすればいいだけか」
部屋については納得した様子だが、那月はいつもよりもずっと不機嫌だ。
「そういえば、どうして私がこの家にいるって知ったの?」
「健真から聞いた」
那月曰く、健真は佐倉家に使えている執事のような存在らしい。彼は明らかに春乃を嫌っていたが、どうして助けるようなまねをしたのだろうか――いや、違う。
春乃は那月を誘き出すための餌だ。春乃が売られたと知れば優しい那月は助けに行くに決まっている。
「ごめんね、迷惑かけて」
「迷惑をかけたのは俺だろ」
那月はかがんで春乃と目を合わせた。
「どこも怪我していないか?」
「大丈夫だよ」
「悪い。普段佐倉家以外の女性と接点ないから扱いがわからないんだよ」
女性と言われて浮かぶのは母親だ。この騒動で那月は母親が出てこないのは何故なのだろう、そう疑問が浮かんだが問いかけはしなかった。身内の話はどれだけ踏み込んでいいのか分からないからだ。
知りたい、と思うが不快にさせたいわけではない。春乃のように痛みを伴う過去な可能性だってあるのだ。
「そう言えば、義春さんに連絡は?」
「さっき連絡したよ。義春さんも丁度仕事が忙しいらしくて会社の近くのホテルに泊まるって」
電話越しで経緯を知った義春は、珍しく怒りを滲ませていたが、ストーカーの件もあるので伯母達を放り出すようなまねはしないようだ。
佐倉家でお世話になると言うと義春はどこか安堵していた。伯母達がいる家で過ごすよりもずっと快適だからだろう。
「ごめんな」と義春は何度も春乃に謝ったが、彼が悪いとは一度も思わなかった。きっと義春の優しさがなければ春乃は今頃親戚をたらい回しになった末に養護施設にいただろう。春乃が幸せに暮らせているのは義春の優しさのおかげだ。責める気になんてなれない。
「そうか。それなら良かった」
「早く全部解決するといいんだけど」
春乃たちは帰れるのだろうか。伯母達に乗っ取られたらどうすればいいのだろう。嫌な想像が浮かび、気が滅入った。
落ち込む春乃の肩に那月が触れ、慰めるように撫でる。
「大丈夫だ。俺が何とかする」
追い出そうと思えばすぐにでも追い出せる。何故ならあの家は榎本家のもので、伯母が居座る権利などないのだ。だが追い出せないのは、彼女が母の姉であるからだ。顔も雰囲気も似ていないのに無下にはできない。それは義春の優しさだろう。
那月も分かっているので、無理やり追い出そうとはしない。
全て丸く収まればいいと那月の肩に頭を預けようとした。ふたりの空気に廊下から踏みしめるような足音と共に大きな声が聞こえてきた。
「那月様、少しよろしいでしょうか。俊陽様がお呼びです」
健真の整然とした声に那月が小さく舌を打つ。
「舌打ちはおやめください」
殆ど聞こえないぐらいの音だったのに健真の耳には届いたらしい。
「悪い春乃。ちょっと行って来る」
「うん。行ってらっしゃい」
那月が部屋からいなくなると途端に静寂に包まれ、がらんとしている部屋が一層寂しさを増していく。
急に連れて来られたので、春乃は何も荷物を持っていない。かろうじてスマホは持ってきているが、普段連絡手段としてしか使っていないので、暇つぶしの方法がいまいちわからない。いつも那月が隣にいたので、暇だと感じた経験がなく、ただただ時間を持て余す。
部屋を出ていいのか分からず、途方に暮れていると丁度良く廊下を歩く音が聞こえてきたので、春乃は扉を開けようとした。
「那月様、とうとう連れ帰って来たらしいですね」
女性の声だ。那月の名前に伸ばした手が止まる。
「そうらしいわね。全く次のもどうせろくでもないに決まってますのに」
「そんな夢がないこと言わないでくださいよ。まだ分からないじゃないですか」
「わかるわ。佐倉のお金を持ち逃げして終わりでしょ」
若い女性と年上の落ち着いた女性のふたりで会話しているらしい。若い女性はどこか楽しそうだが、それに答える年上の女性の声には苦いものが広がっている。
「あの二の前にならないように私達がしっかりしないと。那月様には幸せになってほしいですからね」
ふたりの声が遠ざかって行く。
話の内容は断片しか分からなかったが、春乃が歓迎されていないのだけは分かった。この部屋に春乃がいると知っているのなら、相当邪険にされている。
「何でだろ」
どこの馬の骨とも分からない人間だからか、誰も答えてくれないと思いつつも疑問が口をついて出た。
「失礼します」
扉を隔てた正面から聞こえてきた声に春乃は驚いて飛び退く。
いつからいたのだろう。廊下を歩く音は聞こえて来なかった。
「失礼します。榎本様」
相手は平坦な声でもう一度春乃を呼んだ。
「は、はい」
「お食事を用意いたしました。入ってもよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
反射で答えると扉が開く。廊下にいたのは紅茶のような髪色の男の子だ。春乃よりも年下に見えるのにここで働いているのだろうか。彼は無遠慮に春乃を見てからぎゅっと眉を寄せた。わざとらしい嫌悪感に口の端が引きつる。
「お食事はここでいいですね」
冷たく言い、どんと廊下に食事を置くなり扉が閉まった。春乃が口を開く前に足音が去って行く。
「ええ……嫌われすぎてる……」
食事を置くにしても廊下ではなく、部屋の中に入れてくれればいいのに。部屋に踏み込みたくないぐらい嫌われる理由はなんだ。
心当たりがないから困る。
「やっていけるのかな」
那月の優しさが恋しくて、涙が出そうだった。
絶望なまでに嫌われているのは一時間もいればわかったが、それだけではないのが空気のおかしさから感じられた。
なんだか怖がられているのだ。
廊下に置かれていた食事はきちんとしているどころか、恐らく高級品ばかりだった。名前も分からない和食を平らげ、食器をそのままにしておけずに意を決して廊下へと出た。
部屋から出てすぐに質素な着物を身にまとったお手伝いさんらしき女性と遭遇したのだが、彼女は春乃に気が付くと顔を引きつらせて唇を震わせた。恐怖と嫌悪が混ざり合った複雑な表情。皿を引き受けては受けたが、目はずっと春乃から目を離さない。
監視されている。
「あの、すみません、那月がどこにいるのか分かりますか?」
「……那月様はお仕事で出かけられました。お戻りが何時になるかはわかりません」
「仕事?」
那月はまだ高校生だ。バイトをしているなんて話も聞かない。
「佐倉家次期当主としての大切な仕事です。邪魔はなさらないでください」
「邪魔をする気はないんですが」
「では、部屋に戻ってください。貴方は」
女性はそこで言葉を切ってから、春乃を睨みつけて言った。
「目に入るだけで邪魔です」
あまりにも強い否定の言葉に春乃はすごすごと部屋に戻るしかなかった。
意気消沈しながら来た道を引き返す。
まさかあんなに直接的に邪魔だと言われるとは思っていなかったので、ショックが大きい。大きなため息が漏れた。
「うぐっ」
角を曲がった直後、前から向かってくる人ぶつかり呻き声が漏れる。
「おっと、ごめんなさい、大丈夫?」
「い、いえこちらこそすみません」
春乃がぶつかってしまったのは、見上げるような長身の爽やかな男性だ。茶色い髪はかっちり撫でつけ、着ている着物も余所行きらしき黒を基調にした上品なものだ。
「ああ、鼻が赤くなってしまっているね。鼻血は出ていないかい?」
「大丈夫です。頑丈なので」
怪我を回数は多いが、鼻血を出した経験はない。すんと鼻を鳴らすが血の臭いはしない。
「自分じゃ分からないからね。可愛い顔に傷が出来ていたら大変だ。よく見せて」
顔に触れられそうになり、咄嗟に距離をとった。初対面の人に触られるのに抵抗がある。
「大丈夫です。心配していただいてありがとうございます」
そう言って頭を下げようとした春乃の背後から大声が聞こえてきたので、振り返る。
「あーーー! 何をしているんだ、女!」
どんどんと廊下を踏み鳴らし、大声を上げてこちらに向かってくるのは先ほど昼食を部屋まで運んできた男の子だ。その鬼気迫った表情に春乃は驚いて咄嗟に両手を上げた。
「やっぱりとんでもない女だ! 少し目を離した隙にこれだ! 兄さんだけに飽き足らず、俺の先生にまで手を出すなんて最低だ」
「兄さんって、もしかして那月の弟?」
よく見れば似ている。それに髪の色は違うが、目の色は同じだ。
那月に弟がいたなんて聞いたことがなかった。新事実に目を瞬かせていると那月の弟がぎっと目を吊り上げた。
「兄さんを呼び捨てにするなこの阿婆擦れ!」
「あば……」
中学生くらいの男の子の口から出たとんでもない言葉に春乃は言葉を失った。
しかもどうやら勘違いをしているらしい。
「待って、誤解だよ。この人とは何も」
「弁解など聞きたくないね。お前ら人間は僕らあやかしを利用するだけ利用して捨てる最低な生き物だ」
「そんな……ん?」
聞き捨てならない言葉に春乃は首を傾げた。
「あやかし? 弟君は、あやかしなの?」
「当たり前だろ。兄さんと同じ鬼のあやかしだ」
その瞬間、頭を殴られた衝撃が走り、口を押えて後ずさる。
「おっと……大丈夫?」
背後にいた男性にぶつかってしまったが、咄嗟に謝罪もできないぐらい困惑していた。
「おい、先生から離れろ」と弟が騒いでいるが、反応もできない。
「那月は、あやかしなの……?」
「はあ? 当たり前だと何度言えば……まさか知らなかったのか?」
春乃の驚愕に染まった表情を見た弟が漸く事態を察知した。
弟の言葉に力なく頷く。
どうして、那月は言ってくれなかったのだろうか。
弟が何かを言おうとしたのを背後に立つ男性が止めたのが空気感で伝わって来た。春乃は、最低限のお辞儀をすると部屋に戻り、扉を閉めるなり崩れ落ちた。
「なんで」
人間のふりなどして傍にいたのだろうか。言ってくれれば――とそこまで考えて首を振る。
春乃の母親とあやかし間でトラブルがあった話は那月も知っているので言い難かっただろう。それに、と春乃は自身の花嫁の印を見た。真っ白い傷が入った印はもう使い物にならないと言われている。
こんなものを持っている春乃には言えなかっただろう。
だから、仕方がないのだ、そう自分を納得させて目を閉じた。
「春乃?」
いつの間にか寝ていたらしい。聞こえてきた声にはっとして、勢いよく体を起こすと着物姿の那月が隣で胡坐をかいていた。急に起きた春乃に驚いたように目を見開いていたが、すぐに目を細めて春乃の頭に手を伸ばす。
「寝ぐせついてる。結構寝てた?」
「えっと、今何時?」
「夜の七時」
何時に寝たのか正確な時間は分からないが、まだ日は高かった。確実に二時間以上は寝ている。
いくら暇だからといってもお世話になる家で寝こけるのが常識に欠けるのは、明らかだ。また、これだから人間はと言われてしまうかもしれない。
「どうかしたか?」
春乃の寝ぐせを撫でていた那月が心配そうに聞いてくるのに頭を振る。
「ううん。寝たのを懺悔してただけ」
「別にいいだろ。悪いって言うのなら春乃を放置した俺が悪いな」
那月はふっと息を吐くように柔らかい笑みを浮かべた。那月は優しい。愛おしむような眼差しが嘘だとは思えない。
言ってもらえなかったからと拗ねたような気持になったのが何だか恥ずかしかった。
「那月は、どこ行っていたの?」
「色々、片づけなければいけない話があってな」
そっと視線が逸らされる。
これは隠したい話だな、と気が付き、深入りはせずに話題を変える。
「そう言えば弟君に会ったよ」
「げ……何か言われなかったか? 失礼なこととか」
頭に那月の弟の原動が浮かぶ。敬意がないどころか、酷い侮蔑の態度だったが告げ口するのは悪いと思い笑顔を作った。しかし、長年の付き合いでお互いの癖は知り尽くしているので、すぐにばれた。
「何か言われたな」
「弟君、可愛いよね。中学生?」
「こら、話を逸らすね」
そう詰め寄って来るが、話す気にはなれないのでそのまま突き進む。
「目の色が一緒だった。あ、あと先生って呼ばれている男の人とも会ったよ」
春乃が話す気がないのがわかると那月はため息一つで春乃が逃げるのを許してくれた。
「先生って、夕燈の弟の家庭教師かな。茶髪でチャラい感じの。班目先生」
「そう」
確かに初対面なのにも関わらず春乃の顔を可愛いと言ったり、言動がかなりチャラかった。しかし那月の弟、夕燈からは班目に対する尊敬が滲んでいたので、きっといい先生なのだろう。
「……チャラいって思うようなこと言われた?」
那月の声がワントーン下がった気がした。なんだか起こっているように見えたので首を振る。
「雰囲気の話だよ」
春乃が関りがある男性と言えば、那月と義春だけだ。二人は落ち着いているし、。クラスメイトたちもチャラついていると感じた経験はないので、班目は新鮮に映った。
ふと、彼はあやかしなのか疑問が浮かぶ。
答えが欲しいが、那月に質問をする勇気はない。何故ならその質問をすれば、必然的に那月があやかしだと聞いてしまったとバレてしまうからだ。
彼が秘密にしているのをわざわざ暴く必要はないんじゃないか、と思い始めた。
「那月はさ」
だから口が勝手に言葉を紡ごうとした時は驚いた。
何を聞こうとしているのか、自分でも分からない。あやかしなの、と聞くべきだろうか。
「なに?」
那月が小首を傾げる。
「明日は、一緒にいられる?」
その質問に那月は困った顔をした。
「明日も無理かもしれない。けど、なるべく帰って来るから少しの間待っててほしい」
手を握られ、その体温にほっとした。
それなのに、胸にある不安感は消えてくれなかった。
「行くわよ、準備しなさい」
と無理やり顔に水をかけられ、髪を乱暴に結ばれる。毛根が悲鳴を上げて何本か無常に抜けて行ったのが音でわかった。痛いと文句を垂れれば舌打ちと共に我慢しろと耳元で怒鳴られ、春乃はじっと痛みに耐え続けた。
「綺麗な服持ってないわね。ダサいのばっか。もう制服でいいかしら」
学校でもないのに無理やり制服を着せられ、姿見の前に立たされる。
「こう見ると本当にあの子そっくりで嫌になるわね」
あの子というのは春乃の母のことだろう。
伯母は憎々し気な顔で、春乃の顔を見た。その目は春乃というよりも春乃を通して母の面影を追っているようだ。
「花嫁の印があるからって優遇されてたのに、こんなものいらないって言ったのよ。あり得ない。本当に傲慢でむかつく」
「お母さんは傲慢なんかじゃ」
「口答えするな!」
つい反論した春乃に伯母は大きな声を出した。
「むかつく所が本当にそっくり。嫌になるわ……まぁ、金のなる木になっただけましか」
「え? それってどういう意味ですか?」
春乃の質問には答えず伯母は準備を済ませ、問答無用で春乃を引っ張り車に乗せた。抵抗して暴力を振るわれるのが怖かったので、そのまま大人しくしていたが行先も告げずに発進した車に恐怖が募る。
遠くまで行って帰って来られなくなったらどうすればいいのだろうか。
春乃は、咄嗟に那月の家を見たが、那月の姿は確認できない。家にいるのかも分からなかった。
ポケットに入れていたスマホを確認すると昨夜のうちに那月から連絡が来ていた。『昨日はごめん、ちゃんと帰れた?』といういつも通り春乃を心配するもので、昨日やって来た人に対しての話はない。
春乃は、那月に助けを求めようか悩んだが、大したことじゃなかった時に迷惑をかけてしまうので止めた。
春乃はやたら箪笥がある和室で、着替えを強制されていた。
何故こんなことになっているのだろうか、思い出してみてもよくわからない。伯母の車に乗せられ走行すること三十分後、車が止まったのは春乃の家の倍以上大きな屋敷の前だった。ここがどこか伯母に聞いても答えてくれず、ずかずかと無遠慮に家に入った伯母に連れられるままに入った部屋で用意されていた着物に着替えるように指示された。
一人では無理だと言うと小間使いだという女性達数名に囲まれ、着付けをされている。
「何でこんなことに……」
周りにいる女性達は春乃の言葉に答えてくれない。
「あの、ここってどこなんですか? 何で私は着替えているのでしょうか」
これも答えてくれないかもと思ったが、予想に反して一人が口を開いた。
「聞いていらっしゃらないのですか? お見合いの話を」
「お見合い、ですか。誰が」
「貴方が」
意味が分からず首を傾げる。
「私は、お見合いなんてしませんが」
「ここに来たということはするんですよ」
冗談言わないでと笑い飛ばしてしまいたかったが、女性は真顔で本気なのが伺える。その目は冷たく、軽蔑のような感情が見えて春乃は言葉を上擦らせた。
「私、お見合いなんてしませんよ!」
わっと声を上げて逃げようとすると着付けの最中に動くなと咎めるように背中をとんと叩かれ、反射的に謝罪が口をついて出た。
何故謝らないといけないのだろう。
無理やりここに連れて来られ、全く知らない相手とお見合いをさせられるなんて今の時代あっていいのだろうか。今すぐ逃げ出したいが、周りにいる人達の間を掻い潜るのは無理そうだ。
お見合いしてすぐに結婚とはならないだろうから、相手に直接絶対に拒否の意思を示そうと固く誓っている内に着付けが終わり解放された。
「こちらでお待ちください」
そう言って連れて来られたのは、二十畳くらいはある和室だ。広いわりに家具は少なく、中央にぽつんと背の低い長方形の机があるだけでがらんとしている。お待ちくださいと言われて馬鹿正直に待つのもどうかと思ったが、屋敷が広すぎてここまでの道のりを思い出せない。ひとりで屋敷を歩いても迷子にしかならない気がしたので、大人しくその場にとどまった。
座布団が用意されていたが、座らずに立ったままじっと相手を待つこと五分。唐突に扉が開いた。
「こんにちは、はじめまして」
そう言いながら顔を出したのは、背の高い男性だ。がっしりとした体躯に彫の深い整った顔立ちをしている。歳は春乃よりのかなり上で、伯母達と同じくらいだろうか。どこかで見た顔だが、よく思い出せない。
「こ、こんにちは」
明らかに年上の男性の登場に言葉が震え、足が勝手に後退した。
怯える春乃に気が付いた男性が鷹揚に笑い、手を軽く振る。
「そんなに怯えなくてもとって食ったりしないよ。座って話そうか、榎本春乃さん」
「いえ、すみませんが帰らせてください。お見合いの話もすみませんがお断りします」
きっぱりと断り、頭を下げる。
殴られそうになったら逃げる算段を脳内でシミュレーションしてみたが、あっさり捕まる想像しかできなかったので止めた。どうにでもなれという気持ちで男性を見つめ返した。
「どうして? あやかしとの結婚は人間側からしたら得しかないだろう」
「あやかし……」
この男性は人ではないのか。春乃は咄嗟に自身の花嫁の印を隠す様に手の甲を握った。
春乃は損得で結婚はしない。しかし、それを説明しても目の前にいる男性が納得するとは思えなかった。
どういえば伝わるだろうか、と逡巡している春乃に男性は追加で言葉をかけた。
「好きな男でもいるのか?」
その時、自然に春乃の頭に浮かんだのは那月だ。
「好きな男がいるんだな」
男性は今度は断定した。
「あ、えっと、その……」
こんなに真っすぐに問われたのは初めてで狼狽える春乃を男性が鼻で笑った。
「分かりやすいな」
春乃は自分の顔に熱が集まっているのに気が付いた。それを男性は呆れた様子でため息を吐き、徐に立ち上がると春乃の顔を覗き込んだ。
後退しようとしたら腕を強く掴まれ、動けなくなる。みしみしと骨が鳴りそうなほど強い力に春乃は顔を歪ませ、振りほどこうとしたがびくともしない。
「こんなものでも、まだ花嫁だと言い張れるんだな」
男性ははっと馬鹿にしたように言う。その視線の先には、春乃の傷が入った花嫁の印がある。
目の前にいる男性が春乃の運命ならば、この印に縛られているだけなのだろうか。傷が入っても印は有効だと初めて気が付いた。
「この、印がなければ、貴方は解放されますか?」
「なに?」
男性の眉間にしわが寄る。
「これを焼いて全部解決するのなら、焼いてもいいです。焼きます」
傷が増えたら那月が悲しむだろうが、それでも印を焼くだけで全部が丸く収まるのなら火傷くらい何でもない。母だってそうしたのだ。春乃だって出来る。
「何か、焼く物はありますか?」
「……冗談かな?」
「冗談に聞こえましたか?」
春乃は本気だ。
目に力を入れて男性を見返すと彼は口の端を引きつらせてたじろいだ。
「お前――」
男性が口をした言葉を遮るように、ばんっと音を立てて部屋の扉が開いた。
「春乃! 無事か」
勢いよく入って来たのは、恋しくて仕方がなかった那月だ。彼は、額に滲んだ汗を乱暴に拭うと春乃の前に立つ男性の肩を強引に掴んで春乃から遠ざけると言った。
「これは一体どういうつもりだ、親父」
冷たい声に部屋の温度が下がった気がしたが、それよりも気になったのは。
「え、まさか、那月のお父さんなの?」
そんなまさか、と目を見開く春乃に男性、那月の父親は悪戯が成功した子供のような無邪気な顔で笑った。
「いやあ、ごめんごめん。まさかこんなに綺麗に引っかかるとは思ってなくてね」
そう言ってからから笑う那月の父親――佐倉俊陽は先ほどの威圧感はまるでない。
「いじめるのは止めてくれ。もう帰るからな」
春乃の隣で腰を下ろす那月が不機嫌そうに吐き捨て、立ち上がろうとするのを「まぁ待て」と俊陽が止める。
「意地悪したのは悪かったが、お前が何年も帰って来ないのが悪いんだろう」
「それは前に説明しただろうが」
春乃を置き去りにしてどんどん話が進んでいくのを聞きながら、春乃は今度どうなるのか不安に襲われた。もしかしたら那月はこの家に帰るのかもしれない。ここがどこか知らないが、もし転校になったら気軽に会えなくなってしまう。
一緒にいて欲しいが、家族仲を引き裂く様な真似ができない。
「春乃に変なことしてないだろうな」
「してないよ。結婚の話をしていただけだ」
「はぁ? 結婚って何の話だ」
那月が訝し気に聞いた。
「何って、次期当主になるんだからいつまでもふらふらしていられないだろう。早い内に決めておかないと」
「それにしても早すぎるだろ。まだ結婚できる歳じゃない」
「少なくとも婚約者は作っておかないと、公の場でお前の財産を狙う虫どもに集られるぞ」
虫、とは酷い揶揄だが、そういう例えをしたいぐらい女性が那月の元へ群がるのだろう。容易く想像できのたで、春乃は苦笑した。
確かにそれならば婚約者を近くに置いておいたほうがいいだろうが、それは春乃で良いのだろうか。
ふと、とある違和感を覚えた。
何か忘れているような気がするが、思い出せない。もやつきに眉を寄せると那月と目があった。
「ん、どうした?」
心配げな瞳に春乃はすぐに何でもないと首を振った。
何か言わなければいけないが、言葉が続かない。そんな春乃を見かねてか、俊陽が口を挟む。
「春乃さんが婚約者になってくれないかなって声をかけたんだけどな、無理かな」
「……え?」
「さっきもきっぱり断られちゃったしな」
俊陽はわざとらしく肩を落とした。
「ちょっと待ってください、私のお見合い相手って」
「那月だよ。あ、もしかして俺だと思った? あはは、そんなわけがない」
おもしろいね、なんて笑っているが、春乃はちっとも面白くない。
那月のあずかり知らぬ所で結婚の話を進めるなんてありえない、そう言おうとした春乃の前に那月が口を開いた。
「婚約者の話は少し待ってくれ」
那月は、俊陽をじっと見つめながら言葉を重ねる。
「少しだけ時間をくれ」
やっぱり、那月は春乃とは結婚したくないよね、と落胆が顔を出して顔が歪みそうになるのを力を込めて耐える。口を開くと声が震えてしまいそうで、春乃は何も言えなかった。
「……じゃあ、そろそろ帰るからな。春乃帰ろう」
「うん」と頷き、立ち上がる春乃達に俊陽は片眉を器用に下げて訝し気な視線を向けた。
「帰る場所なんてないだろう。お前は売られたんだから」
そう真っすぐな目で言われ、春乃は呆然とした。その隣で那月が目を吊り上げる。
「どういうことだ」
「どういうことって、榎本春乃は家に売られたんだ。確か伯母とか言っていたな。用済みの印持ちならいくらでも差し上げますとかなんとか言っていたな」
今朝の伯母の様子が目に浮かぶ。彼女は、彼女達は春乃の家に住み着くだけではなく、春乃自身も勝手に売り飛ばしたらしい。
「そんなの不履行だ」
「金を払って、商品が届いた。クーリングオフはなしだ。それに帰った所で居場所がないのならここにいた方がいいだろう」
俊陽は憐れみを込めた目を向けてきたが、どこか薄っぺらく嘲笑に似たニュアンスがある。
売る、商品、クーリングオフ。全部物に対して使う言葉だ。俊陽は春乃を対等な生き物とみなしていないのだ。那月の父と言うのなら俊陽があやかしというのは冗談だろう。そのはずなのにどうして違和感が拭えないのだろう。
「春乃は俺の家に住むから、ここには住まない」
「いい加減にしろ。那月、お前もそろそろ帰って来て仕事をしないと当主としての資格を無くすぞ。用済みなんて言われたくないだろう」
那月はぐっと唇を噛みしめる。
結局、春乃と那月は、佐倉家の本家で暫くの間生活することが決まった。
春乃の部屋だと用意された八畳の和室には家具の類が全くなく、部屋の隅に布団が畳んで置いてあった。部屋を見渡した那月がポツリと溢す。
「独房みたいだ」
そう言われるとそれにしか見えないが、春乃は文句を言える立場ではない。
「もっと豪華な部屋を用意させる」
「ううん、十分すぎるよ。いつまでいるのかもわからないんだし」
「そうだけど……まあ最悪俺の部屋で寝起きすればいいだけか」
部屋については納得した様子だが、那月はいつもよりもずっと不機嫌だ。
「そういえば、どうして私がこの家にいるって知ったの?」
「健真から聞いた」
那月曰く、健真は佐倉家に使えている執事のような存在らしい。彼は明らかに春乃を嫌っていたが、どうして助けるようなまねをしたのだろうか――いや、違う。
春乃は那月を誘き出すための餌だ。春乃が売られたと知れば優しい那月は助けに行くに決まっている。
「ごめんね、迷惑かけて」
「迷惑をかけたのは俺だろ」
那月はかがんで春乃と目を合わせた。
「どこも怪我していないか?」
「大丈夫だよ」
「悪い。普段佐倉家以外の女性と接点ないから扱いがわからないんだよ」
女性と言われて浮かぶのは母親だ。この騒動で那月は母親が出てこないのは何故なのだろう、そう疑問が浮かんだが問いかけはしなかった。身内の話はどれだけ踏み込んでいいのか分からないからだ。
知りたい、と思うが不快にさせたいわけではない。春乃のように痛みを伴う過去な可能性だってあるのだ。
「そう言えば、義春さんに連絡は?」
「さっき連絡したよ。義春さんも丁度仕事が忙しいらしくて会社の近くのホテルに泊まるって」
電話越しで経緯を知った義春は、珍しく怒りを滲ませていたが、ストーカーの件もあるので伯母達を放り出すようなまねはしないようだ。
佐倉家でお世話になると言うと義春はどこか安堵していた。伯母達がいる家で過ごすよりもずっと快適だからだろう。
「ごめんな」と義春は何度も春乃に謝ったが、彼が悪いとは一度も思わなかった。きっと義春の優しさがなければ春乃は今頃親戚をたらい回しになった末に養護施設にいただろう。春乃が幸せに暮らせているのは義春の優しさのおかげだ。責める気になんてなれない。
「そうか。それなら良かった」
「早く全部解決するといいんだけど」
春乃たちは帰れるのだろうか。伯母達に乗っ取られたらどうすればいいのだろう。嫌な想像が浮かび、気が滅入った。
落ち込む春乃の肩に那月が触れ、慰めるように撫でる。
「大丈夫だ。俺が何とかする」
追い出そうと思えばすぐにでも追い出せる。何故ならあの家は榎本家のもので、伯母が居座る権利などないのだ。だが追い出せないのは、彼女が母の姉であるからだ。顔も雰囲気も似ていないのに無下にはできない。それは義春の優しさだろう。
那月も分かっているので、無理やり追い出そうとはしない。
全て丸く収まればいいと那月の肩に頭を預けようとした。ふたりの空気に廊下から踏みしめるような足音と共に大きな声が聞こえてきた。
「那月様、少しよろしいでしょうか。俊陽様がお呼びです」
健真の整然とした声に那月が小さく舌を打つ。
「舌打ちはおやめください」
殆ど聞こえないぐらいの音だったのに健真の耳には届いたらしい。
「悪い春乃。ちょっと行って来る」
「うん。行ってらっしゃい」
那月が部屋からいなくなると途端に静寂に包まれ、がらんとしている部屋が一層寂しさを増していく。
急に連れて来られたので、春乃は何も荷物を持っていない。かろうじてスマホは持ってきているが、普段連絡手段としてしか使っていないので、暇つぶしの方法がいまいちわからない。いつも那月が隣にいたので、暇だと感じた経験がなく、ただただ時間を持て余す。
部屋を出ていいのか分からず、途方に暮れていると丁度良く廊下を歩く音が聞こえてきたので、春乃は扉を開けようとした。
「那月様、とうとう連れ帰って来たらしいですね」
女性の声だ。那月の名前に伸ばした手が止まる。
「そうらしいわね。全く次のもどうせろくでもないに決まってますのに」
「そんな夢がないこと言わないでくださいよ。まだ分からないじゃないですか」
「わかるわ。佐倉のお金を持ち逃げして終わりでしょ」
若い女性と年上の落ち着いた女性のふたりで会話しているらしい。若い女性はどこか楽しそうだが、それに答える年上の女性の声には苦いものが広がっている。
「あの二の前にならないように私達がしっかりしないと。那月様には幸せになってほしいですからね」
ふたりの声が遠ざかって行く。
話の内容は断片しか分からなかったが、春乃が歓迎されていないのだけは分かった。この部屋に春乃がいると知っているのなら、相当邪険にされている。
「何でだろ」
どこの馬の骨とも分からない人間だからか、誰も答えてくれないと思いつつも疑問が口をついて出た。
「失礼します」
扉を隔てた正面から聞こえてきた声に春乃は驚いて飛び退く。
いつからいたのだろう。廊下を歩く音は聞こえて来なかった。
「失礼します。榎本様」
相手は平坦な声でもう一度春乃を呼んだ。
「は、はい」
「お食事を用意いたしました。入ってもよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
反射で答えると扉が開く。廊下にいたのは紅茶のような髪色の男の子だ。春乃よりも年下に見えるのにここで働いているのだろうか。彼は無遠慮に春乃を見てからぎゅっと眉を寄せた。わざとらしい嫌悪感に口の端が引きつる。
「お食事はここでいいですね」
冷たく言い、どんと廊下に食事を置くなり扉が閉まった。春乃が口を開く前に足音が去って行く。
「ええ……嫌われすぎてる……」
食事を置くにしても廊下ではなく、部屋の中に入れてくれればいいのに。部屋に踏み込みたくないぐらい嫌われる理由はなんだ。
心当たりがないから困る。
「やっていけるのかな」
那月の優しさが恋しくて、涙が出そうだった。
絶望なまでに嫌われているのは一時間もいればわかったが、それだけではないのが空気のおかしさから感じられた。
なんだか怖がられているのだ。
廊下に置かれていた食事はきちんとしているどころか、恐らく高級品ばかりだった。名前も分からない和食を平らげ、食器をそのままにしておけずに意を決して廊下へと出た。
部屋から出てすぐに質素な着物を身にまとったお手伝いさんらしき女性と遭遇したのだが、彼女は春乃に気が付くと顔を引きつらせて唇を震わせた。恐怖と嫌悪が混ざり合った複雑な表情。皿を引き受けては受けたが、目はずっと春乃から目を離さない。
監視されている。
「あの、すみません、那月がどこにいるのか分かりますか?」
「……那月様はお仕事で出かけられました。お戻りが何時になるかはわかりません」
「仕事?」
那月はまだ高校生だ。バイトをしているなんて話も聞かない。
「佐倉家次期当主としての大切な仕事です。邪魔はなさらないでください」
「邪魔をする気はないんですが」
「では、部屋に戻ってください。貴方は」
女性はそこで言葉を切ってから、春乃を睨みつけて言った。
「目に入るだけで邪魔です」
あまりにも強い否定の言葉に春乃はすごすごと部屋に戻るしかなかった。
意気消沈しながら来た道を引き返す。
まさかあんなに直接的に邪魔だと言われるとは思っていなかったので、ショックが大きい。大きなため息が漏れた。
「うぐっ」
角を曲がった直後、前から向かってくる人ぶつかり呻き声が漏れる。
「おっと、ごめんなさい、大丈夫?」
「い、いえこちらこそすみません」
春乃がぶつかってしまったのは、見上げるような長身の爽やかな男性だ。茶色い髪はかっちり撫でつけ、着ている着物も余所行きらしき黒を基調にした上品なものだ。
「ああ、鼻が赤くなってしまっているね。鼻血は出ていないかい?」
「大丈夫です。頑丈なので」
怪我を回数は多いが、鼻血を出した経験はない。すんと鼻を鳴らすが血の臭いはしない。
「自分じゃ分からないからね。可愛い顔に傷が出来ていたら大変だ。よく見せて」
顔に触れられそうになり、咄嗟に距離をとった。初対面の人に触られるのに抵抗がある。
「大丈夫です。心配していただいてありがとうございます」
そう言って頭を下げようとした春乃の背後から大声が聞こえてきたので、振り返る。
「あーーー! 何をしているんだ、女!」
どんどんと廊下を踏み鳴らし、大声を上げてこちらに向かってくるのは先ほど昼食を部屋まで運んできた男の子だ。その鬼気迫った表情に春乃は驚いて咄嗟に両手を上げた。
「やっぱりとんでもない女だ! 少し目を離した隙にこれだ! 兄さんだけに飽き足らず、俺の先生にまで手を出すなんて最低だ」
「兄さんって、もしかして那月の弟?」
よく見れば似ている。それに髪の色は違うが、目の色は同じだ。
那月に弟がいたなんて聞いたことがなかった。新事実に目を瞬かせていると那月の弟がぎっと目を吊り上げた。
「兄さんを呼び捨てにするなこの阿婆擦れ!」
「あば……」
中学生くらいの男の子の口から出たとんでもない言葉に春乃は言葉を失った。
しかもどうやら勘違いをしているらしい。
「待って、誤解だよ。この人とは何も」
「弁解など聞きたくないね。お前ら人間は僕らあやかしを利用するだけ利用して捨てる最低な生き物だ」
「そんな……ん?」
聞き捨てならない言葉に春乃は首を傾げた。
「あやかし? 弟君は、あやかしなの?」
「当たり前だろ。兄さんと同じ鬼のあやかしだ」
その瞬間、頭を殴られた衝撃が走り、口を押えて後ずさる。
「おっと……大丈夫?」
背後にいた男性にぶつかってしまったが、咄嗟に謝罪もできないぐらい困惑していた。
「おい、先生から離れろ」と弟が騒いでいるが、反応もできない。
「那月は、あやかしなの……?」
「はあ? 当たり前だと何度言えば……まさか知らなかったのか?」
春乃の驚愕に染まった表情を見た弟が漸く事態を察知した。
弟の言葉に力なく頷く。
どうして、那月は言ってくれなかったのだろうか。
弟が何かを言おうとしたのを背後に立つ男性が止めたのが空気感で伝わって来た。春乃は、最低限のお辞儀をすると部屋に戻り、扉を閉めるなり崩れ落ちた。
「なんで」
人間のふりなどして傍にいたのだろうか。言ってくれれば――とそこまで考えて首を振る。
春乃の母親とあやかし間でトラブルがあった話は那月も知っているので言い難かっただろう。それに、と春乃は自身の花嫁の印を見た。真っ白い傷が入った印はもう使い物にならないと言われている。
こんなものを持っている春乃には言えなかっただろう。
だから、仕方がないのだ、そう自分を納得させて目を閉じた。
「春乃?」
いつの間にか寝ていたらしい。聞こえてきた声にはっとして、勢いよく体を起こすと着物姿の那月が隣で胡坐をかいていた。急に起きた春乃に驚いたように目を見開いていたが、すぐに目を細めて春乃の頭に手を伸ばす。
「寝ぐせついてる。結構寝てた?」
「えっと、今何時?」
「夜の七時」
何時に寝たのか正確な時間は分からないが、まだ日は高かった。確実に二時間以上は寝ている。
いくら暇だからといってもお世話になる家で寝こけるのが常識に欠けるのは、明らかだ。また、これだから人間はと言われてしまうかもしれない。
「どうかしたか?」
春乃の寝ぐせを撫でていた那月が心配そうに聞いてくるのに頭を振る。
「ううん。寝たのを懺悔してただけ」
「別にいいだろ。悪いって言うのなら春乃を放置した俺が悪いな」
那月はふっと息を吐くように柔らかい笑みを浮かべた。那月は優しい。愛おしむような眼差しが嘘だとは思えない。
言ってもらえなかったからと拗ねたような気持になったのが何だか恥ずかしかった。
「那月は、どこ行っていたの?」
「色々、片づけなければいけない話があってな」
そっと視線が逸らされる。
これは隠したい話だな、と気が付き、深入りはせずに話題を変える。
「そう言えば弟君に会ったよ」
「げ……何か言われなかったか? 失礼なこととか」
頭に那月の弟の原動が浮かぶ。敬意がないどころか、酷い侮蔑の態度だったが告げ口するのは悪いと思い笑顔を作った。しかし、長年の付き合いでお互いの癖は知り尽くしているので、すぐにばれた。
「何か言われたな」
「弟君、可愛いよね。中学生?」
「こら、話を逸らすね」
そう詰め寄って来るが、話す気にはなれないのでそのまま突き進む。
「目の色が一緒だった。あ、あと先生って呼ばれている男の人とも会ったよ」
春乃が話す気がないのがわかると那月はため息一つで春乃が逃げるのを許してくれた。
「先生って、夕燈の弟の家庭教師かな。茶髪でチャラい感じの。班目先生」
「そう」
確かに初対面なのにも関わらず春乃の顔を可愛いと言ったり、言動がかなりチャラかった。しかし那月の弟、夕燈からは班目に対する尊敬が滲んでいたので、きっといい先生なのだろう。
「……チャラいって思うようなこと言われた?」
那月の声がワントーン下がった気がした。なんだか起こっているように見えたので首を振る。
「雰囲気の話だよ」
春乃が関りがある男性と言えば、那月と義春だけだ。二人は落ち着いているし、。クラスメイトたちもチャラついていると感じた経験はないので、班目は新鮮に映った。
ふと、彼はあやかしなのか疑問が浮かぶ。
答えが欲しいが、那月に質問をする勇気はない。何故ならその質問をすれば、必然的に那月があやかしだと聞いてしまったとバレてしまうからだ。
彼が秘密にしているのをわざわざ暴く必要はないんじゃないか、と思い始めた。
「那月はさ」
だから口が勝手に言葉を紡ごうとした時は驚いた。
何を聞こうとしているのか、自分でも分からない。あやかしなの、と聞くべきだろうか。
「なに?」
那月が小首を傾げる。
「明日は、一緒にいられる?」
その質問に那月は困った顔をした。
「明日も無理かもしれない。けど、なるべく帰って来るから少しの間待っててほしい」
手を握られ、その体温にほっとした。
それなのに、胸にある不安感は消えてくれなかった。

