ぐるぐると暗く澱んでいた思考を吐き出し、すっきりした春乃は午後からの授業は心穏やかに生活できていた。ただ一転、時々刺すような視線を藍子の方から感じたが、きっと気のせいだろう。
何事もなく授業を終え、那月と共に教室を出る。藍子が声をかけて来るかもしれないと思っていたが、杞憂に終わりふたりは無事帰路についた。
「ただいま」
そう声をかける春乃の背後から那月が「おじゃまします」と言いながら玄関を潜る。那月は高校生になったタイミングで隣の一軒家で一人暮らしをしている。なので大体春乃の家で時間を共にしている。春乃の叔父の義春も幼い頃から那月を知っているので一緒に部屋にいても咎められない。
その義春はまだ帰って来ていないようだ。
「今のうちに準備しとこ」
春乃はTシャツと短パンというラフな部屋着に着替え、その上からエプロンを着けて料理の準備に取り掛かる。その隣では那月が制服の上からエプロンを身に着けていた。家に一旦帰って着替えてくればいいのに那月は面倒だと首を振る。
汚れてもしらないぞ、と思いながら本日のメニューを宣言した。
「今日はカレーです」
「お、やったね」
那月が嬉しそうに頬を緩める。カレーは彼の好物なのだ。
昨日買いこんでおいた食材を手分けして切り、カレーはあっという間に出来上がった。
義春の帰宅は、早い時もあれが遅い時もある。七時台に帰って来るだろうと予想していたのに七時半を回っても一向に帰宅する様子がない。スマホで連絡を入れても既読にすらならない。
仕事でトラブルでもあったのだろうか。
「義春さんなんだって?」
連絡がないことを告げると那月の眉間にしわが寄った。
「帰ってくるまで一緒にいる」
「大丈夫だよ、子供じゃないんだから一人で留守番できるよ」
那月は心配性だ。
高校生にもなって春乃が留守番できないと思っているらしい。
「でも」と言い募る那月の背を押し、玄関へと向かわせる。
那月は一緒にいてくれると言ったが、依存したいわけではない。一人は寂しいから一緒にいてというのは子供っぽくて口に出したくなかった。
「そろそろ帰らないと。課題も出ているんだから……」
そう言った時だった。ざああっと激しいノイズのような音が外から聞こえてきた。
慌ててカーテンを開けると、さっきまでの天気が嘘のようにバケツをひっくり返したような雨が降り注いでいる。豪雨だ。傘を差していても濡れてしまうだろう。
「こんな雨の中、帰さないよな?」
那月が勝ち誇ったように笑う。
天候を操ったのかと疑うようなタイミングにため息を吐きながら、一応義春に那月が家に泊まる旨を連絡した。
那月が家に泊まるのは初めてではない。着替えも家に置いてあるので何も問題ない。年頃の男女がふたりっきりで寝泊まりするなど何も知らない人間が見たらありえないだろうが、義春も了承している。
一応別室で寝るのだが、那月は春乃が寝入るまで一緒にいてくれる。
今日も話をしている最中で春乃が寝てしまい、那月はその後に布団が敷いてある客室へと向かったらしい。それに気が付いたのは、夜中に目が覚めた時だ。時計を確認すると丁度日付を越えた所だ。
もう義春は帰って来ただろうか。確認しに行けるほど覚醒はしていない。ぼんやりと天井を見つめているとスマホが光っているのが、視界の端に映った。
何とか力を込めて手を伸ばし、スマホを手繰り寄せてぼやける視界で内容を確認する。連絡の送り主は義春だった。
内容は、今日は帰れそうにないというものだ。耳を澄ますと微かに雨の音が聞こえる。この雨だから交通機関が止まってしまったのかもしれない。
寂しいな、と思った。
雨の音の騒がしさに反して家の中が静かすぎるのだ。特にこの部屋は自分の呼吸音しか聞こえて来ない。
いつもなら平気なのに何故か今日は寂しさを覚えてしまった。雨と深夜といういつもなら起きていない時間のせいだろう。
那月を呼ぼうか、と一瞬浮かぶが、すぐに否定した。良識的に呼んでいい時間ではない。那月はいつも何かなくても呼んでいいと言ってくれるが、あまり甘えすぎてもいけない。
不意に那月を抱擁している所を見た藍子の顔を思い出した。彼女は春乃と那月が付き合っていると勘違いしていたが、実際はそんな関係でない。だったらなんだと問われれば、幼馴染だと返す。しかし、この距離は果たして幼馴染の正しい距離感なのだろうか。
深夜という時間は不思議だ。どんどん思考が深みにはまっていく。眠気は飛んで行った。
付き合っていると勘違いされる距離感なのだろうか、と改めて今までの自分たちを思い返す。
分からない。
これが春乃にとっては普通なのだ。だが、他の人と同じ距離感で接せるかと聞かれた時に間違いなく春乃は首を振る。他の人と抱き合うなんて無理だ。
幼い頃から一緒にいたから、はあるだろうが、それだけではない。
じゃあ何、と聞かれると困ってしまう。
那月に会いたい、と思った。今すぐここに来て欲しい。スマホを使って呼びはしなかった。代わりにぎゅっと手を握って念じる。
子供染みた行動に笑いが漏れた――その時。
こんこん、と音がした。
「えっ」
春乃は思わす大きな声と共に飛び起きた。
頭に幽霊の二文字が浮かぶが、すぐに消える。
「春乃、夜更かしするなよ」
そう言って扉を開けたのは、会いに来てくれと焦がれていた那月だ。
「ね、念が通じた? 神通力?」
「何言ってんだ?」
偶然にしては出来すぎている。春乃は運命だなんてときめける乙女志向をしていなかった。
「私、声に出てた? 会いたくなりすぎて無意識に連絡とか送ってないよね?」
「連絡? 来てないぞ」
那月がずかずかと部屋に入ってくると春乃のベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、何で来たの?」
「俺が会いたかったから」
何でもないように言われ、今さっきまで思考を埋め尽くしていたふたりの関係についての考察なんていう議題はどこかへ飛んで行った。関係に名前を付ける必要性などない。あるとするならば、春乃にとって那月は確実に特別の人だ。今はそれだけで十分だ。
「わた、私も会いたいって思ってた所」
偶然だ、と微笑み、二人で眠くなるまで話をした。今度は二人して寝落ちして同じベッドで目を覚ました。
義春は、まだ帰って来ていなかった。
学校の準備をするために那月は家に戻った。その数分後、玄関が開く音がしたので、義春だと思い出迎えに行く。
「義春さん、おかえり……」
玄関には義春が立っていた。俯き、表情は見えないが、なんだか様子がおかしい。
「どうしたの?」と声をかけた時だった。
「ほら、早く入っても。往生戯画悪いわね」
そう言って再び玄関の扉が開き、ずかずかと人が入って来た。先頭に立っている女性が義春を押しのけて玄関を見渡した後、春乃に目を向けすぐに顔を顰めた。
「あら、久しぶりに見たけど本当にあの子そっくりになったわね」
その人には見覚えがある。
春乃の記憶の底に大きな傷を作った人だ。
「お、伯母さん?」
春乃を散々いたぶった伯母だ。否応にも過去を思い起こし、頭が痛み出した。痛みに耐えるように目をきつく閉じると伯母が舌を打つ。
「また被害者面? 変わっていないわねあんた」
「ご、ごめんなさい」
咄嗟に謝罪が飛び出した。この人に詰め寄られると怖くて謝ることしかできなくなる。
何故、その人がここにいるのだろうか。春乃は思わず義春を窺ったが、それよりも気になる人が視界に映り目を見開く。
「え、何で」
義春の背後から顔を出したのは、つまらなそうな顔をしている藍子だった。
「藍子よ、私の娘なの。覚えてないの? 薄情な子ね」
そうだろうか。伯母の家にいた時の記憶は薄ぼんやりしてあまり思い出せないのだ。だから学校で藍子と対面しても全く分からなかった。しかし藍子は春乃を覚えていたらしい。
「昔から私のもの取って遊んでいたよね。変わってないね」と憎しみの籠った感情を向けてきた。昔のことはともなく、那月との一件を言っているらしいと気が付いた。
「そうそう。最低な子よね春乃って」
伯母は可愛い愛娘を抱き寄せ、その腕を優しく持ち上げると綺麗な花嫁の印を見せつけてきた。
「本当に昨日ここに来る予定だったのよ? それなのあいつがごねるからホテルに泊まる羽目になっちゃったじゃない」
「ここには、なんの用で来たんですか?」
浮かんだ疑問を口にしただけなのに、伯母はぎょっと目を剥いた。
「来ちゃ悪かった? 私はあんたのお母さんの姉なのよ。あんたが顔を見せないから来てあげたんじゃない」
頼んでない、と反射で口にしそうになったが何とか耐える。
「昔世話をしてやったのに恩も忘れているみたいだし」
あれはお世話なんかじゃない。と言いたいのに何も言えない。どうせ行ったところで倍返しになるだけだ。
「ほら、早く学校の用意して出ないと。藍子は送ってあげるからね」
そう言って伯母は家に上がろうとするので、ちょっと待ってと声を上げた。
「私も学校ですし、義春さんも仕事なので上がられてもおもてなしできないので今日の所は帰ってください」
「大丈夫よ。私達、今日からここに住むから」
「はい?」
嘘だろ、と義春を見つめるが彼は苦虫を噛み潰したような顔で首を縦に振った。
「な、何で?」
「いいじゃない別に。それとも折角来た私達を追い返すって言うの? 藍子はあやかしの花嫁になる子なのにそんなぞんざいな扱いをしていいと思っているの?」
伯母はわっと声を上げた。その背後から今まで黙っていた伯母の旦那らしき男性が笑いながら言った。
「まぁ、いいじゃないか。家もそこそこ広いみたいだし、大目に見ようじゃないか」
何故春乃達が悪者みたいな扱いを受けているのだろうか。
話が通じない、と絶望し、義春もきっと同じ気持ちだったのだろうと納得した。
伯母家族達が家の中を踏み荒らしていくのを呆然と見送った後、春乃は何故彼らがここにやって来た経緯を義春から聞いて絶句した。
「元気ないな」
那月が言う通り春乃は明らかに疲れている。
伯母家族は、はっきり言って怪獣だった。文句しか言わない上にすぐに喚いて、何かと春乃の傷がある花嫁の印を馬鹿にする。
そんなに印に価値があるのか。売ってしまえそんなもの。
「どうした」
ささくれだった心を見透かすように覗き込まれ、春乃は思わず背後にある我が家を振り返った。
「義春さん、帰って来たのか?」
「帰っては来たんだけど……」
伯母家族は、どういうわけか義春にこちらで住まわせてくれと詰め寄って来たらしい。何度理由を聞いても教えてもらえなかったので、断り続けていたがその度に印持ちに嫉妬しているだとか言われ、聞き流していたのだが、ついに義春の目の前で藍子に泣かせたらしい。
帰る家がない、助けて、お願い、と泣き崩れる藍子を前に義春はどうしていいのか分からなくなってしまったようだ。断固として了承しなかった義春に隙が出来たとばかりに押し、藍子を転校させるという強硬手段に出たせいで義春は折れてしまった。
それでも、昨日はずっと粘っていたらしい。どうにかならないのか、ならないという押し問答の末、今朝家に怪獣がやって来た。
ため息を吐きそうになったのを飲み込み、那月を見上げた。
身内のことだが、誰かに吐き出してしまいたい。
「あのね」
そう口にした時、玄関の扉が開く音の後、ぽたぱたと駆けて来る足音がした。
「那月君っ」
その猫撫で声に春乃は思わず「げ」と声を出した。
「は? 何であいつが春乃の家にいるんだ」
藍子が春乃の家から出てきたことに那月は思い切り顔を顰め、すぐにふいっと顔を逸らす。
「春乃が元気がないのはあいつのせいだろ。事情は歩きながら聞く」
そう言うとさっさと歩きだしてしまった。
「待ってよ」と藍子が追ってくる。勢いよくかけてきた藍子は、トップスピードのまま那月に抱き着こうとした。
「あぶな」
と言いながら那月が避けたので、藍子がバランスを崩して転げそうになる。咄嗟に支えようとしたのだが、その手は虫でも追い払うかのように叩き落され、きっと強い瞳で睨まれた。すぐにとんがっていた瞳は潤み、小動物のような顔で那月に縋りつく。
変わり身が早すぎる。
「那月君、助けて」
藍子は泣きながら那月に訴えかけた。
「私、あやかしにストーカーされてるの」
道端では落ち着いて話せないからと学校へ向かった。藍子の泣きはらした目を見たクラスメイトはぎょっとして、那月に冷たくされたのかと見当違いな心配をしていたので、クラスメイト全員を巻き込んで藍子は話をした。
「私、前に住んでいた所で運命だって行って来るあやかしと出会ったんだけど、そのあやかしは最初は普通に好意を伝えてきたんだ。けど段々エスカレートしていって……耐えられなくて引っ越してきたの、逃げられたと思いたいけど、私、怖くて……」
クラスメイトがすすり泣く藍子の背を撫でた。クラス中が同情と心配に包まれ、寄り添うような空気感が充満している。
運命のあやかしに好意的な人ばかりではないのは分かる。春乃の母がそうだったのだ。彼女が自分の運命を名乗るあやかしと出会ったのかは知らないが、印を呪いだと断じ、焼かなければいけないほど嫌悪していたのだろう。
しかし、伯母夫婦は印を誇っていたのは何故なのだろう。藍子だってまんざらではなかった。
なんだかちぐはぐだ。
「春乃」
不意に那月に名前を呼ばれた。
「何であいつが春乃の家から出てきたんだ。どうなってる」
春乃は辺りを見渡し、誰も聞いていないのを確認してから那月に顔を寄せた。
「いとこらしいんだよね。朝伯母さん達と一緒に家に来たの」
「伯母?」
那月の声が数段低くなる。那月には春乃の幼少期に伯母にいじめられていた過去を話してあるのだ。
「何しに来たんだ。あいつら」
「何でか分からないけど、うちに住むんだって」
ため息が零れた。
「追い返せないのか?」
「うーん、義春さんは優しいから……追い返せないかも」
那月も義春の優しさを知っているので、納得したように額を抑えた。
「というか、言い合いになったら勝てないと思う」
あの伯母に口で勝てる人間はいないだろう。
それにしても伯母達の懐事情は知らないが、アパートを借りれないぐらい困窮しているとは考えられない。それは藍子の持ち物からしてもそうだ。彼女が身に着けている物には春乃でも知っているブランドが含まれている。綺麗に着飾っている様子からしても生活に困っている様子はない。
那月は藍子に視線をやり、小首を傾げる。
「いとこって言っても似てないな」
「まぁ、いとこなんてそんなものだよ」
「髪の色も全然違うんだな」
徐に那月の手が伸びて、春乃に触れようとした。
「じゃあ、佐倉に頼むしかないか?」
手が止まる。
藍子を囲み、中央に集まっていたクラスメイトの一人がそんなことを言った。全員分の視線が那月と、その後ろの席に座っている春乃に集まる。
「何の話?」
訝し気な那月に代わり、春乃が聞いた。
「藍子ちゃんの護衛だよ。家も近いみたいだし」
「そうそう。あ、恋人のふりとかして追い払えばいいんじゃない?」
「いいじゃんそれ。佐倉が恋人ならあやかしも諦めるだろ」
クラスメイトが勝手に盛り上がり出す。那月の機嫌が急降下していくのが伝わって来るのに、クラスメイトの言葉は止まらない。
「でも佐倉君には榎本さんがいるじゃん」
「あー。でも、流石に藍子ちゃんに譲るでしょ」
「嫉妬するから駄目とか言ったら引いちゃうわ。ねぇ、榎本さん、良いよね?」
訊ねているというよりも強制的に聞こえる言葉に春乃は眉を顰める。
藍子の護衛を那月がする了承を何故春乃がするのかも分からない。そもそも那月の承諾を得てからではないのか。そう言おうとしたが、それよりも早く那月が口を開く。
「やらない」
空気を裂くように那月が冷え冷えとした声で言った。
「恋人の役? 誰がやるかよ、そんなもん」
ぎろりと睨まれ、クラスメイト達はびくつく。
「で、でも藍子ちゃんがストーカーに襲われちゃったらどうするの?」
「警察行けよ」
那月の態度はどこまでも冷たい。関りたくないのだ。春乃も正直関わってほしくなどない。話が通じる相手ならばいいが、そんなあやかしはストーカーなどしないだろう。相手が逆上して那月が危ない目にあったらどうするつもりなのだろうか。
「あやかし相手に警察が動いてくれる? 権力者だったら相談も受け付けてくれないかもしれないじゃん」
実際あやかし相手では人間は強く出られない。殺人事件などは別だが、ストーカーなどは人間同士でも何か明確な被害が出ないと警察は動いてくれないのだ。警察に行った所でと後ろ向きになるのはしょうがない。
それでも那月はつんとそっぽを向いた。
その態度に教室にいた女子生徒達から非難が浴びせられる。混沌とし始めた教室内に春乃はとんでもなく居心地の悪さを感じ、どうするべきかと視線を巡らした所で美織と目が合った。
「皆さんで護衛をすればいいのでは? もしもそのストーカーさんが狂暴でしたら恋人の役の佐倉君が無事とは限らないですし。皆で藍子さんをお守りしましょう」
美織の言葉に確かにと皆が同意した。
皆で護衛すればいい、と言ったのに藍子は那月にべったりだ。
「皆で帰ろう」
流石にクラス全員で一緒は無理だ。部活がある人や帰り道が反対方向の人と共に帰宅する。帰り道が同じ春乃と那月に加えて、坂崎と井塚の他にも三名、計八名の大所帯だ。
「那月君、何かあったら頼ってもいいかな?」
藍子が那月を上目で伺う。
藍子がずっとこの調子なので、那月は反論するのも疲れた様子でため息を吐いた。
その二人を春乃は後ろから見守りながらついて行く。
「とられちゃったわね」
ふん、と鼻を鳴らすのは坂崎だ。藍子が来てから彼女の威勢は落ち着いたのか、どこか居心地が悪そうにしている。
それでも春乃への嫌味という攻撃は弱めない。
「人間同士でぴったりだったのに。あの子も災難よね、運命のあやかしが厄介なストーカーなんて」
「そういうことって結構あるの?」
「あるんじゃない? でも大体の人はあやかしから望まれたら嬉しいでしょ」
「そうかな」
春乃が首を傾げると坂崎はむっとした。
「あんたには分からないかもしれないけど、嬉しいのよ。皆、あやかしに望まれたいって夢見てるの」
「じゃあ、坂崎さんは井塚君があやかしじゃなかったら付き合ってなかった?」
「え?」
坂崎は井塚を仰ぎ見た。春乃も彼を見る。井塚は困ったように笑うだけで何も言わない。
「そ、それは……」
「坂崎さんと井塚君、すごくお似合いだと思うよ。人だとかあやかしだとか、あんまり関係なく見える」
「えっ、そう?」
坂崎は少しだけ頬を緩ませたが、すぐに顔を引き締めた。
「そんなこと言っても絆されないわよ。あんた悔しくないの。あんな女に取られて」
悔しいに決まっている。
なんなら今すぐ離れてくださいね、と言って割り込みたいが、そんなの我儘が過ぎると引かれるに決まっている。
那月にではない。他の生徒達である。
「私も一応世間体は気にするので……」
不意に那月が振り返った。どうしたのかと思ったら、口パクで「大丈夫か」と聞かれ手を振ってこたえる。すると藍子にはきつく睨まれ、護衛の案を出した女子生徒二人組の視線もかなり苛烈に突き刺さって痛い。一体春乃が何をしたというのだ。
「恨まれる覚えないんだけどな……」
「あんたそれ本気で言ってんの?」
隣に立つ坂崎が呆れた様子で言う。
「佐倉那月があんたにべったりなのが許せないんでしょ。藍子は確実にプライド高いから佐倉に振られたのも、その理由があんたなのも認められないし、他の二人は前に佐倉に告白してこっぴどく振られてるから、かなり恨まれてるよ」
「えっ」
思わず口を押えた。
「それって、私関係ないのでは……」
つい本音が飛び出す。
「理屈じゃないの。あの見た目の佐倉那月を独り占めしているってだけで駄目。それに別クラスでは、あんたの花嫁の印の傷を知らない人は『あやかしの繋ぎで那月と付き合っている』と噂してるし、傷を知っている人は『あやかしに捨てられたから那月に泣いて縋っている』とか陰口叩いてるんだから」
「えっ」
そんな話は初耳だった。
美織やクラスメイトの大半は春乃に好意的なので、別クラスに悪く言われているなんて知らない。意識もしなかった。
「あやかしに選ばれるくせに、人間の佐倉君もとるなんて酷いって思われてるんでしょ。それかあやかしに選ばれなくても佐倉君がいるからいいじゃん、かな」
「それって那月の何に惹かれているんだろう」
別クラスになると那月との関りは深くはないだろう。それでも那月を切望するのは顔がかっこいいからだろうか。あやかしもそうだ。スペックだけに惹かれているとしか思えない。
「実際スペックは大事よ。生活能力がない人間とは一緒にいられないでしょ」
「た、確かに?」
生活能力がない人間が周りにいないのでいまいちピンとこない、と思ったが、一瞬伯父の記憶が蘇り、息が詰まった。彼は家事を一切しない人間だった。何をするにしても伯母を呼んで助けてもらう。あの人とは二度と暮らしたくないので、坂崎の言う通りスペックも大事なのかもしれない。
「あやかしもスペックって気にするの?」
井塚に質問を投げかけると坂崎がぎょっとした。花嫁本人の前でする質問ではなかったと思ったが、井塚は気にした様子もなく答える。
「あやかしにもよるだろうな。花嫁に対してスペックを求めるあやかしは少ないけど、あやかし同士で結婚ってなるとスペックというか、何のあやかしなのかは重視されるよ」
「へえ、このあやかしが良いとかがあるの?」
「あやかしの中には強さの階級みたいなものがあるからね」
階級制度の中で生きているのなら重視してもおかしくはないだろう。
「ちなみに何のあやかしが一番偉いの?」
好奇心からか坂崎が聞いた。井塚は悩むことなく答えた。
「鬼だよ。あやかしの中で一番強い」
「鬼……」
「あやかしの中には気性が荒いものもいるけど、鬼を前にしたら誰も何も言えなくなる。この世のあやかしを統治しているのが鬼なんだ」
そんなにすごいあやかしがいるのか、と素直に驚く。
印に傷があるので、春乃には関係ない話したが、あやかしの世界も人間とは違った苦労がありそうだ。
「初めて聞いた」
「こういうのって結婚してから話すのが大半だからね」
あやかしとの婚姻が成立すれば、花嫁もそちら側へ足を踏み入れるのだ。結婚する前に聞いていた方がいい気がしたが、もしかしたら人間との違いに怖気づくものもいるのかもしれない。坂崎の表情が少しだけ強張ったが、すぐにきゅっと口角を持ち上げた。
「そういう話、結婚する前に聞いといた方がいいわね。たくさん勉強しないといざって時に失礼になっちゃう」
坂崎はもう覚悟が決まっているのだろう。そして井塚もそれが分かっているから話したのだ。
「いい関係だな」
春乃がぼそりつ呟いたのと同時に藍子が声を上げた。
「あ! あれ」
全員が足を止め、藍子の視線を追って路肩に停車している車に目を向けた。黒塗りで知識がない春乃ですらも知っているような高級車だ。
藍子の声に反応するように車の扉が開き、スーツ姿の男性が出てきた。シュッとした高身長の男性は藍子だけを見つめ、険しい表情で近寄って来た。藍子の体が明らかに強張る。
「藍子さん、どういうつもりですか」
男性の低い声に護衛を名乗り出ていたクラスの男子生徒が藍子の前に立ち、声を上げた。
「あんたがストーカーか。藍子ちゃん嫌がっているんだからやめろよ」
男性はその男子生徒を一瞥してからため息を吐き、首を振る。
「こんなおふざけは止めてください。話し合いましょう」
「いや、止めて」
藍子は悲鳴に近い、高い声を上げて那月に抱き着いた。
「私この人と付き合ってるから、貴方とは行かない! 私の運命の人は貴方じゃない!」
ざわりと身の内側から不快感が沸き上がる。
密着している様子は本当に恋人同士に見えるからか、男性は眉間にしわを寄せて那月の体を検分するようにつま先から頭まで視線を巡らせ、首を振った。
「そんなことありえない」
「ありえなくない。那月と付き合ってるの。運命だって言われたんだから。だから貴方は帰ってよ!」
藍子の叫ぶような声に男性はこれ以上話し合いが成り立たないと踏んだようで、逡巡した後にため息を吐いて車に乗った。
「藍子さん」と窓を開けて男性が声を名前を呼んだが、それ以上は何も言わなかった。苦し気に歪められた顔からは言いたいことなど山ほどあるのだろうな、というのが伺えた。
車が遠ざかって行く。曲がり角を曲がって姿が消えたのと同時に那月が手を振り払って距離をとった。
「え、どうして離れるの? 了承してくれたのかと思ったのに」
「もういいだろ。帰る」
甘えてくる藍子を振り払って、那月がすたすたと春乃の元へ来た。
「春乃帰ろ」
「うん……」
手を差し伸べられたが、藍子や他の生徒たちの手前躊躇ってしまった。その手を走り寄って来た藍子がとって引き寄せると本物の恋人のようにその腕に抱き着いた。文句を言おうと口を開いた那月を遮って藍子は、春乃へ言った。
「まだあの人がいるかもしれないから、ひとりじゃ帰れないよ。恋人を送り届けないなんておかしいでしょ。ね、那月借りてもいいよね? 春乃ちゃん」
帰る場所一緒でしょ、とは言えない雰囲気に困惑する。
「二人で帰るのが自然でしょ。二人っきりにしてよ」
「そうだね、それがいいんじゃない?」
藍子の言葉に他の生徒がにやにやしながら乗っかる。面白がっているのだ。
何も面白くないと文句を言ってやりたいが、軽蔑されるのは怖い。
「那月、もらっていくね」
藍子がそう言って那月の腕に抱き着くと周りからヒューと冷やかすような声がかかる。
それを那月はものとも出ずに春乃と目を合わせて、言った。
「春乃、先に帰ってるから。後でおいで」
那月の真っすぐな目に春乃は自然と頷いていた。藍子はむっとしたが、那月と並んで帰れるという事実に嬉しそうに口角を上げて歩き出した。
その背を視線で追う春乃に、護衛の役目を終えた生徒たちが言った。
「あやかしだけじゃなくて、彼氏にも捨てられてんじゃん」
殴られたような衝撃的な発言に春乃は言葉を失った。
家に帰りたくない、と思ったのは初めてだった。隣に那月がいないのももしかしたら初めてかもしれない。
もしこの扉の向こうで那月と藍子がいちゃついていたら、吐いてしまうかもしれない。そんなことありえないと思うのに、想像力だけはやたら豊かな脳みそが勝手にラブラブなふたりを作り出して、泣きそうになった。
「ちょっと、時間潰してから帰ろうかな」
そう思い、ふと隣の家に目を向けた。
電気がついている。那月はあの家に既に帰っているらしい。そう言えば那月は去り際に「先に帰っているから」と言っていた。あれは春乃の家にではなく、那月の家の話だったようだ。
踵を返して那月の家へ向かう。インターホンを押すとすぐに那月が顔を出した。
「なつき、うわっ」
がしっと手を掴まれ、そのまま人目を憚す様に家の中に引きずり込まれる。体が完全に家の中に納まるや否や、がちゃんと背後で扉の締まる音がした。
「はあ」と那月が吐き出したため息で隣家、榎本家にいる藍子達にバレないようにするための行動だと気づき、突然のことで強張った体から力を抜いた。春乃の肩にとんと那月が額を押し当てる。
「疲れた……」
「今日一日で色々あったもんね」
朝一から伯母の家族に押しかけられ、ストーカー騒動にも巻き込まれたので春乃も精神的に疲れ切っていた。今すぐに休みたいが自宅へ帰れば伯母達が待っている。あの人たちの相手をしなければいけないと思うと鬱々とした気持ちになる。
「所で、何であの女が春乃の家にいるんだ? いとこだからって理由にならないだろ」
「藍子さんの話的にストーカーから逃げるための一時避難かな……私も詳細を聞いたわけじゃないから詳しくは分からないけど」
「ふうん。いつまでいるか分からないのか」
那月は頭を抱えた。
「うん、落ち着かないから早く出て行って欲しいんだけどね」
「だったら家に泊まればいい。あいつらが帰るまで住んでも良い。義春さんなら了承してくれるだろ」
名案だとばかりに那月が目を輝かせる。
一緒に寝起きして、一緒に登校するなんてまるで同棲しているみたいだ、と頭に浮かび慌てて打ち消す。那月は別にその気があるわけではないのだから桃色になる思考を振り払う。
まるで意識されていないような気がするが、今は考えないようにしておこう。
「それは――」
春乃の声を遮る様にインターホンが鳴り響き、春乃は飛び上がった。
「び、くっりした」
外にいる何者かに聞こえないように小声で喋る。那月は春乃を抱え、警戒するようにじっと扉を見つめて来訪者を見定めているようだ。
藍子だったらどうしようか。居留守を使えばいい。義春さんかもしれない。だったら電話が来るはずだ、と話している最中にもう一度インターホンが鳴り、次いでがちゃりと鍵が回った。
「えっ」
さっき閉めたはずの鍵があっさりと解除され、扉が開く。
「那月様ー、お返事がありませんがご在宅でしょ、うか……」
そう言いながら顔を覗かせた人と目が合う。ぎょろりと大きな目が特徴の小柄な男性だ。歳は義春と同じくらいだろうか。
その人が、何故か那月を様付で呼んだ。
那月の知り合いにくっついている所を見られるのはよくないかもしれないと配慮してそっと那月から距離を取ろうとしたが、それよりも早く男性がただでさえ大きな目を更に開き、声が上げた。
「誰ですか、この女は! 那月様に触るなんて不埒な! 早く離れなさい!」
ぱんと弾けるような大きな声とただ事ではない剣幕に春乃はすぐさま那月と離れ、身を縮める。そんな春乃には目もくれず男性は那月に向かってわあわあ声を上げる。
「那月様、この家に女を連れ込むとは一体どういう了見でしょうか。貴方様は佐倉家の」
「健真、ちょっと黙ってくれ」
那月が頭痛を堪えるように額を抑え、落ち着けと零した。
「何でそんなにうるさいんだお前は。というか何しに来た」
「何しにって、貴方が心配でやって来たのですよ。それなのに、それなのに貴方と来たら」
わなわなと震えだした健真と呼ばれた男性に那月はしれっと言う。
「別にやましいことはしていない」
「どの口がおっしゃいますか。連絡もまともに返されていないようですし、お父様心配しておられますよ。貴方の様子を見にしたのも本当ですが、大切な話をしに来たのです」
そう言うと健真は春乃へ目を向けた。冷たい目つきだ。会ったばかりだというのにもう嫌われているらしい。
汚いものを見るような目で見られ、ため息まで吐かれた。
「出て行ってもらえますか?」
「おい、何を勝手に」
「申し訳ありませんが、邪魔なのですよ」
那月が健真に向けて怒りを露にするが、健真は慣れているのか全く気にしていないようで、春乃へ冷え冷えとした言葉を投げかけ続ける。
さっきまで居心地が良かったはずなのに春乃は自分が異物のように感じた。この家にいてはいけないと察し、那月を見上げる。
「私帰るね」
「春乃、帰るのはこいつの方だ。春乃は居ていい。話だってすぐに終わる」
止めようとしてくる那月に春乃は首を振った。
「駄目だよ。二人が大切な話をしている間そわそわしちゃうから。それに義春さんが心配だし、家に帰るよ。荒らされてても困るから」
そう言うと健真に頭を下げて那月の家を出た。
外は涼しく、清らかな風に髪が靡く。那月の家の敷地内を出て漸くふっと呼吸が楽になるのを感じた。
誰が悪いわけじゃないのに息が苦しかった。
あの人が誰で、何故那月を敬称をつけて呼ぶのかも春乃は知らない。もしかしたら那月のことを全く知らないのかもしれないと思い知ってしまった。自分が一番彼を知っているなんて自惚れも甚だしい。
「なんだか、疲れたな……」
家に帰りたくない。しかし、春乃に居場所なんてない。
意を決して怪獣に進行されている自宅へと帰った。
何事もなく授業を終え、那月と共に教室を出る。藍子が声をかけて来るかもしれないと思っていたが、杞憂に終わりふたりは無事帰路についた。
「ただいま」
そう声をかける春乃の背後から那月が「おじゃまします」と言いながら玄関を潜る。那月は高校生になったタイミングで隣の一軒家で一人暮らしをしている。なので大体春乃の家で時間を共にしている。春乃の叔父の義春も幼い頃から那月を知っているので一緒に部屋にいても咎められない。
その義春はまだ帰って来ていないようだ。
「今のうちに準備しとこ」
春乃はTシャツと短パンというラフな部屋着に着替え、その上からエプロンを着けて料理の準備に取り掛かる。その隣では那月が制服の上からエプロンを身に着けていた。家に一旦帰って着替えてくればいいのに那月は面倒だと首を振る。
汚れてもしらないぞ、と思いながら本日のメニューを宣言した。
「今日はカレーです」
「お、やったね」
那月が嬉しそうに頬を緩める。カレーは彼の好物なのだ。
昨日買いこんでおいた食材を手分けして切り、カレーはあっという間に出来上がった。
義春の帰宅は、早い時もあれが遅い時もある。七時台に帰って来るだろうと予想していたのに七時半を回っても一向に帰宅する様子がない。スマホで連絡を入れても既読にすらならない。
仕事でトラブルでもあったのだろうか。
「義春さんなんだって?」
連絡がないことを告げると那月の眉間にしわが寄った。
「帰ってくるまで一緒にいる」
「大丈夫だよ、子供じゃないんだから一人で留守番できるよ」
那月は心配性だ。
高校生にもなって春乃が留守番できないと思っているらしい。
「でも」と言い募る那月の背を押し、玄関へと向かわせる。
那月は一緒にいてくれると言ったが、依存したいわけではない。一人は寂しいから一緒にいてというのは子供っぽくて口に出したくなかった。
「そろそろ帰らないと。課題も出ているんだから……」
そう言った時だった。ざああっと激しいノイズのような音が外から聞こえてきた。
慌ててカーテンを開けると、さっきまでの天気が嘘のようにバケツをひっくり返したような雨が降り注いでいる。豪雨だ。傘を差していても濡れてしまうだろう。
「こんな雨の中、帰さないよな?」
那月が勝ち誇ったように笑う。
天候を操ったのかと疑うようなタイミングにため息を吐きながら、一応義春に那月が家に泊まる旨を連絡した。
那月が家に泊まるのは初めてではない。着替えも家に置いてあるので何も問題ない。年頃の男女がふたりっきりで寝泊まりするなど何も知らない人間が見たらありえないだろうが、義春も了承している。
一応別室で寝るのだが、那月は春乃が寝入るまで一緒にいてくれる。
今日も話をしている最中で春乃が寝てしまい、那月はその後に布団が敷いてある客室へと向かったらしい。それに気が付いたのは、夜中に目が覚めた時だ。時計を確認すると丁度日付を越えた所だ。
もう義春は帰って来ただろうか。確認しに行けるほど覚醒はしていない。ぼんやりと天井を見つめているとスマホが光っているのが、視界の端に映った。
何とか力を込めて手を伸ばし、スマホを手繰り寄せてぼやける視界で内容を確認する。連絡の送り主は義春だった。
内容は、今日は帰れそうにないというものだ。耳を澄ますと微かに雨の音が聞こえる。この雨だから交通機関が止まってしまったのかもしれない。
寂しいな、と思った。
雨の音の騒がしさに反して家の中が静かすぎるのだ。特にこの部屋は自分の呼吸音しか聞こえて来ない。
いつもなら平気なのに何故か今日は寂しさを覚えてしまった。雨と深夜といういつもなら起きていない時間のせいだろう。
那月を呼ぼうか、と一瞬浮かぶが、すぐに否定した。良識的に呼んでいい時間ではない。那月はいつも何かなくても呼んでいいと言ってくれるが、あまり甘えすぎてもいけない。
不意に那月を抱擁している所を見た藍子の顔を思い出した。彼女は春乃と那月が付き合っていると勘違いしていたが、実際はそんな関係でない。だったらなんだと問われれば、幼馴染だと返す。しかし、この距離は果たして幼馴染の正しい距離感なのだろうか。
深夜という時間は不思議だ。どんどん思考が深みにはまっていく。眠気は飛んで行った。
付き合っていると勘違いされる距離感なのだろうか、と改めて今までの自分たちを思い返す。
分からない。
これが春乃にとっては普通なのだ。だが、他の人と同じ距離感で接せるかと聞かれた時に間違いなく春乃は首を振る。他の人と抱き合うなんて無理だ。
幼い頃から一緒にいたから、はあるだろうが、それだけではない。
じゃあ何、と聞かれると困ってしまう。
那月に会いたい、と思った。今すぐここに来て欲しい。スマホを使って呼びはしなかった。代わりにぎゅっと手を握って念じる。
子供染みた行動に笑いが漏れた――その時。
こんこん、と音がした。
「えっ」
春乃は思わす大きな声と共に飛び起きた。
頭に幽霊の二文字が浮かぶが、すぐに消える。
「春乃、夜更かしするなよ」
そう言って扉を開けたのは、会いに来てくれと焦がれていた那月だ。
「ね、念が通じた? 神通力?」
「何言ってんだ?」
偶然にしては出来すぎている。春乃は運命だなんてときめける乙女志向をしていなかった。
「私、声に出てた? 会いたくなりすぎて無意識に連絡とか送ってないよね?」
「連絡? 来てないぞ」
那月がずかずかと部屋に入ってくると春乃のベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、何で来たの?」
「俺が会いたかったから」
何でもないように言われ、今さっきまで思考を埋め尽くしていたふたりの関係についての考察なんていう議題はどこかへ飛んで行った。関係に名前を付ける必要性などない。あるとするならば、春乃にとって那月は確実に特別の人だ。今はそれだけで十分だ。
「わた、私も会いたいって思ってた所」
偶然だ、と微笑み、二人で眠くなるまで話をした。今度は二人して寝落ちして同じベッドで目を覚ました。
義春は、まだ帰って来ていなかった。
学校の準備をするために那月は家に戻った。その数分後、玄関が開く音がしたので、義春だと思い出迎えに行く。
「義春さん、おかえり……」
玄関には義春が立っていた。俯き、表情は見えないが、なんだか様子がおかしい。
「どうしたの?」と声をかけた時だった。
「ほら、早く入っても。往生戯画悪いわね」
そう言って再び玄関の扉が開き、ずかずかと人が入って来た。先頭に立っている女性が義春を押しのけて玄関を見渡した後、春乃に目を向けすぐに顔を顰めた。
「あら、久しぶりに見たけど本当にあの子そっくりになったわね」
その人には見覚えがある。
春乃の記憶の底に大きな傷を作った人だ。
「お、伯母さん?」
春乃を散々いたぶった伯母だ。否応にも過去を思い起こし、頭が痛み出した。痛みに耐えるように目をきつく閉じると伯母が舌を打つ。
「また被害者面? 変わっていないわねあんた」
「ご、ごめんなさい」
咄嗟に謝罪が飛び出した。この人に詰め寄られると怖くて謝ることしかできなくなる。
何故、その人がここにいるのだろうか。春乃は思わず義春を窺ったが、それよりも気になる人が視界に映り目を見開く。
「え、何で」
義春の背後から顔を出したのは、つまらなそうな顔をしている藍子だった。
「藍子よ、私の娘なの。覚えてないの? 薄情な子ね」
そうだろうか。伯母の家にいた時の記憶は薄ぼんやりしてあまり思い出せないのだ。だから学校で藍子と対面しても全く分からなかった。しかし藍子は春乃を覚えていたらしい。
「昔から私のもの取って遊んでいたよね。変わってないね」と憎しみの籠った感情を向けてきた。昔のことはともなく、那月との一件を言っているらしいと気が付いた。
「そうそう。最低な子よね春乃って」
伯母は可愛い愛娘を抱き寄せ、その腕を優しく持ち上げると綺麗な花嫁の印を見せつけてきた。
「本当に昨日ここに来る予定だったのよ? それなのあいつがごねるからホテルに泊まる羽目になっちゃったじゃない」
「ここには、なんの用で来たんですか?」
浮かんだ疑問を口にしただけなのに、伯母はぎょっと目を剥いた。
「来ちゃ悪かった? 私はあんたのお母さんの姉なのよ。あんたが顔を見せないから来てあげたんじゃない」
頼んでない、と反射で口にしそうになったが何とか耐える。
「昔世話をしてやったのに恩も忘れているみたいだし」
あれはお世話なんかじゃない。と言いたいのに何も言えない。どうせ行ったところで倍返しになるだけだ。
「ほら、早く学校の用意して出ないと。藍子は送ってあげるからね」
そう言って伯母は家に上がろうとするので、ちょっと待ってと声を上げた。
「私も学校ですし、義春さんも仕事なので上がられてもおもてなしできないので今日の所は帰ってください」
「大丈夫よ。私達、今日からここに住むから」
「はい?」
嘘だろ、と義春を見つめるが彼は苦虫を噛み潰したような顔で首を縦に振った。
「な、何で?」
「いいじゃない別に。それとも折角来た私達を追い返すって言うの? 藍子はあやかしの花嫁になる子なのにそんなぞんざいな扱いをしていいと思っているの?」
伯母はわっと声を上げた。その背後から今まで黙っていた伯母の旦那らしき男性が笑いながら言った。
「まぁ、いいじゃないか。家もそこそこ広いみたいだし、大目に見ようじゃないか」
何故春乃達が悪者みたいな扱いを受けているのだろうか。
話が通じない、と絶望し、義春もきっと同じ気持ちだったのだろうと納得した。
伯母家族達が家の中を踏み荒らしていくのを呆然と見送った後、春乃は何故彼らがここにやって来た経緯を義春から聞いて絶句した。
「元気ないな」
那月が言う通り春乃は明らかに疲れている。
伯母家族は、はっきり言って怪獣だった。文句しか言わない上にすぐに喚いて、何かと春乃の傷がある花嫁の印を馬鹿にする。
そんなに印に価値があるのか。売ってしまえそんなもの。
「どうした」
ささくれだった心を見透かすように覗き込まれ、春乃は思わず背後にある我が家を振り返った。
「義春さん、帰って来たのか?」
「帰っては来たんだけど……」
伯母家族は、どういうわけか義春にこちらで住まわせてくれと詰め寄って来たらしい。何度理由を聞いても教えてもらえなかったので、断り続けていたがその度に印持ちに嫉妬しているだとか言われ、聞き流していたのだが、ついに義春の目の前で藍子に泣かせたらしい。
帰る家がない、助けて、お願い、と泣き崩れる藍子を前に義春はどうしていいのか分からなくなってしまったようだ。断固として了承しなかった義春に隙が出来たとばかりに押し、藍子を転校させるという強硬手段に出たせいで義春は折れてしまった。
それでも、昨日はずっと粘っていたらしい。どうにかならないのか、ならないという押し問答の末、今朝家に怪獣がやって来た。
ため息を吐きそうになったのを飲み込み、那月を見上げた。
身内のことだが、誰かに吐き出してしまいたい。
「あのね」
そう口にした時、玄関の扉が開く音の後、ぽたぱたと駆けて来る足音がした。
「那月君っ」
その猫撫で声に春乃は思わず「げ」と声を出した。
「は? 何であいつが春乃の家にいるんだ」
藍子が春乃の家から出てきたことに那月は思い切り顔を顰め、すぐにふいっと顔を逸らす。
「春乃が元気がないのはあいつのせいだろ。事情は歩きながら聞く」
そう言うとさっさと歩きだしてしまった。
「待ってよ」と藍子が追ってくる。勢いよくかけてきた藍子は、トップスピードのまま那月に抱き着こうとした。
「あぶな」
と言いながら那月が避けたので、藍子がバランスを崩して転げそうになる。咄嗟に支えようとしたのだが、その手は虫でも追い払うかのように叩き落され、きっと強い瞳で睨まれた。すぐにとんがっていた瞳は潤み、小動物のような顔で那月に縋りつく。
変わり身が早すぎる。
「那月君、助けて」
藍子は泣きながら那月に訴えかけた。
「私、あやかしにストーカーされてるの」
道端では落ち着いて話せないからと学校へ向かった。藍子の泣きはらした目を見たクラスメイトはぎょっとして、那月に冷たくされたのかと見当違いな心配をしていたので、クラスメイト全員を巻き込んで藍子は話をした。
「私、前に住んでいた所で運命だって行って来るあやかしと出会ったんだけど、そのあやかしは最初は普通に好意を伝えてきたんだ。けど段々エスカレートしていって……耐えられなくて引っ越してきたの、逃げられたと思いたいけど、私、怖くて……」
クラスメイトがすすり泣く藍子の背を撫でた。クラス中が同情と心配に包まれ、寄り添うような空気感が充満している。
運命のあやかしに好意的な人ばかりではないのは分かる。春乃の母がそうだったのだ。彼女が自分の運命を名乗るあやかしと出会ったのかは知らないが、印を呪いだと断じ、焼かなければいけないほど嫌悪していたのだろう。
しかし、伯母夫婦は印を誇っていたのは何故なのだろう。藍子だってまんざらではなかった。
なんだかちぐはぐだ。
「春乃」
不意に那月に名前を呼ばれた。
「何であいつが春乃の家から出てきたんだ。どうなってる」
春乃は辺りを見渡し、誰も聞いていないのを確認してから那月に顔を寄せた。
「いとこらしいんだよね。朝伯母さん達と一緒に家に来たの」
「伯母?」
那月の声が数段低くなる。那月には春乃の幼少期に伯母にいじめられていた過去を話してあるのだ。
「何しに来たんだ。あいつら」
「何でか分からないけど、うちに住むんだって」
ため息が零れた。
「追い返せないのか?」
「うーん、義春さんは優しいから……追い返せないかも」
那月も義春の優しさを知っているので、納得したように額を抑えた。
「というか、言い合いになったら勝てないと思う」
あの伯母に口で勝てる人間はいないだろう。
それにしても伯母達の懐事情は知らないが、アパートを借りれないぐらい困窮しているとは考えられない。それは藍子の持ち物からしてもそうだ。彼女が身に着けている物には春乃でも知っているブランドが含まれている。綺麗に着飾っている様子からしても生活に困っている様子はない。
那月は藍子に視線をやり、小首を傾げる。
「いとこって言っても似てないな」
「まぁ、いとこなんてそんなものだよ」
「髪の色も全然違うんだな」
徐に那月の手が伸びて、春乃に触れようとした。
「じゃあ、佐倉に頼むしかないか?」
手が止まる。
藍子を囲み、中央に集まっていたクラスメイトの一人がそんなことを言った。全員分の視線が那月と、その後ろの席に座っている春乃に集まる。
「何の話?」
訝し気な那月に代わり、春乃が聞いた。
「藍子ちゃんの護衛だよ。家も近いみたいだし」
「そうそう。あ、恋人のふりとかして追い払えばいいんじゃない?」
「いいじゃんそれ。佐倉が恋人ならあやかしも諦めるだろ」
クラスメイトが勝手に盛り上がり出す。那月の機嫌が急降下していくのが伝わって来るのに、クラスメイトの言葉は止まらない。
「でも佐倉君には榎本さんがいるじゃん」
「あー。でも、流石に藍子ちゃんに譲るでしょ」
「嫉妬するから駄目とか言ったら引いちゃうわ。ねぇ、榎本さん、良いよね?」
訊ねているというよりも強制的に聞こえる言葉に春乃は眉を顰める。
藍子の護衛を那月がする了承を何故春乃がするのかも分からない。そもそも那月の承諾を得てからではないのか。そう言おうとしたが、それよりも早く那月が口を開く。
「やらない」
空気を裂くように那月が冷え冷えとした声で言った。
「恋人の役? 誰がやるかよ、そんなもん」
ぎろりと睨まれ、クラスメイト達はびくつく。
「で、でも藍子ちゃんがストーカーに襲われちゃったらどうするの?」
「警察行けよ」
那月の態度はどこまでも冷たい。関りたくないのだ。春乃も正直関わってほしくなどない。話が通じる相手ならばいいが、そんなあやかしはストーカーなどしないだろう。相手が逆上して那月が危ない目にあったらどうするつもりなのだろうか。
「あやかし相手に警察が動いてくれる? 権力者だったら相談も受け付けてくれないかもしれないじゃん」
実際あやかし相手では人間は強く出られない。殺人事件などは別だが、ストーカーなどは人間同士でも何か明確な被害が出ないと警察は動いてくれないのだ。警察に行った所でと後ろ向きになるのはしょうがない。
それでも那月はつんとそっぽを向いた。
その態度に教室にいた女子生徒達から非難が浴びせられる。混沌とし始めた教室内に春乃はとんでもなく居心地の悪さを感じ、どうするべきかと視線を巡らした所で美織と目が合った。
「皆さんで護衛をすればいいのでは? もしもそのストーカーさんが狂暴でしたら恋人の役の佐倉君が無事とは限らないですし。皆で藍子さんをお守りしましょう」
美織の言葉に確かにと皆が同意した。
皆で護衛すればいい、と言ったのに藍子は那月にべったりだ。
「皆で帰ろう」
流石にクラス全員で一緒は無理だ。部活がある人や帰り道が反対方向の人と共に帰宅する。帰り道が同じ春乃と那月に加えて、坂崎と井塚の他にも三名、計八名の大所帯だ。
「那月君、何かあったら頼ってもいいかな?」
藍子が那月を上目で伺う。
藍子がずっとこの調子なので、那月は反論するのも疲れた様子でため息を吐いた。
その二人を春乃は後ろから見守りながらついて行く。
「とられちゃったわね」
ふん、と鼻を鳴らすのは坂崎だ。藍子が来てから彼女の威勢は落ち着いたのか、どこか居心地が悪そうにしている。
それでも春乃への嫌味という攻撃は弱めない。
「人間同士でぴったりだったのに。あの子も災難よね、運命のあやかしが厄介なストーカーなんて」
「そういうことって結構あるの?」
「あるんじゃない? でも大体の人はあやかしから望まれたら嬉しいでしょ」
「そうかな」
春乃が首を傾げると坂崎はむっとした。
「あんたには分からないかもしれないけど、嬉しいのよ。皆、あやかしに望まれたいって夢見てるの」
「じゃあ、坂崎さんは井塚君があやかしじゃなかったら付き合ってなかった?」
「え?」
坂崎は井塚を仰ぎ見た。春乃も彼を見る。井塚は困ったように笑うだけで何も言わない。
「そ、それは……」
「坂崎さんと井塚君、すごくお似合いだと思うよ。人だとかあやかしだとか、あんまり関係なく見える」
「えっ、そう?」
坂崎は少しだけ頬を緩ませたが、すぐに顔を引き締めた。
「そんなこと言っても絆されないわよ。あんた悔しくないの。あんな女に取られて」
悔しいに決まっている。
なんなら今すぐ離れてくださいね、と言って割り込みたいが、そんなの我儘が過ぎると引かれるに決まっている。
那月にではない。他の生徒達である。
「私も一応世間体は気にするので……」
不意に那月が振り返った。どうしたのかと思ったら、口パクで「大丈夫か」と聞かれ手を振ってこたえる。すると藍子にはきつく睨まれ、護衛の案を出した女子生徒二人組の視線もかなり苛烈に突き刺さって痛い。一体春乃が何をしたというのだ。
「恨まれる覚えないんだけどな……」
「あんたそれ本気で言ってんの?」
隣に立つ坂崎が呆れた様子で言う。
「佐倉那月があんたにべったりなのが許せないんでしょ。藍子は確実にプライド高いから佐倉に振られたのも、その理由があんたなのも認められないし、他の二人は前に佐倉に告白してこっぴどく振られてるから、かなり恨まれてるよ」
「えっ」
思わず口を押えた。
「それって、私関係ないのでは……」
つい本音が飛び出す。
「理屈じゃないの。あの見た目の佐倉那月を独り占めしているってだけで駄目。それに別クラスでは、あんたの花嫁の印の傷を知らない人は『あやかしの繋ぎで那月と付き合っている』と噂してるし、傷を知っている人は『あやかしに捨てられたから那月に泣いて縋っている』とか陰口叩いてるんだから」
「えっ」
そんな話は初耳だった。
美織やクラスメイトの大半は春乃に好意的なので、別クラスに悪く言われているなんて知らない。意識もしなかった。
「あやかしに選ばれるくせに、人間の佐倉君もとるなんて酷いって思われてるんでしょ。それかあやかしに選ばれなくても佐倉君がいるからいいじゃん、かな」
「それって那月の何に惹かれているんだろう」
別クラスになると那月との関りは深くはないだろう。それでも那月を切望するのは顔がかっこいいからだろうか。あやかしもそうだ。スペックだけに惹かれているとしか思えない。
「実際スペックは大事よ。生活能力がない人間とは一緒にいられないでしょ」
「た、確かに?」
生活能力がない人間が周りにいないのでいまいちピンとこない、と思ったが、一瞬伯父の記憶が蘇り、息が詰まった。彼は家事を一切しない人間だった。何をするにしても伯母を呼んで助けてもらう。あの人とは二度と暮らしたくないので、坂崎の言う通りスペックも大事なのかもしれない。
「あやかしもスペックって気にするの?」
井塚に質問を投げかけると坂崎がぎょっとした。花嫁本人の前でする質問ではなかったと思ったが、井塚は気にした様子もなく答える。
「あやかしにもよるだろうな。花嫁に対してスペックを求めるあやかしは少ないけど、あやかし同士で結婚ってなるとスペックというか、何のあやかしなのかは重視されるよ」
「へえ、このあやかしが良いとかがあるの?」
「あやかしの中には強さの階級みたいなものがあるからね」
階級制度の中で生きているのなら重視してもおかしくはないだろう。
「ちなみに何のあやかしが一番偉いの?」
好奇心からか坂崎が聞いた。井塚は悩むことなく答えた。
「鬼だよ。あやかしの中で一番強い」
「鬼……」
「あやかしの中には気性が荒いものもいるけど、鬼を前にしたら誰も何も言えなくなる。この世のあやかしを統治しているのが鬼なんだ」
そんなにすごいあやかしがいるのか、と素直に驚く。
印に傷があるので、春乃には関係ない話したが、あやかしの世界も人間とは違った苦労がありそうだ。
「初めて聞いた」
「こういうのって結婚してから話すのが大半だからね」
あやかしとの婚姻が成立すれば、花嫁もそちら側へ足を踏み入れるのだ。結婚する前に聞いていた方がいい気がしたが、もしかしたら人間との違いに怖気づくものもいるのかもしれない。坂崎の表情が少しだけ強張ったが、すぐにきゅっと口角を持ち上げた。
「そういう話、結婚する前に聞いといた方がいいわね。たくさん勉強しないといざって時に失礼になっちゃう」
坂崎はもう覚悟が決まっているのだろう。そして井塚もそれが分かっているから話したのだ。
「いい関係だな」
春乃がぼそりつ呟いたのと同時に藍子が声を上げた。
「あ! あれ」
全員が足を止め、藍子の視線を追って路肩に停車している車に目を向けた。黒塗りで知識がない春乃ですらも知っているような高級車だ。
藍子の声に反応するように車の扉が開き、スーツ姿の男性が出てきた。シュッとした高身長の男性は藍子だけを見つめ、険しい表情で近寄って来た。藍子の体が明らかに強張る。
「藍子さん、どういうつもりですか」
男性の低い声に護衛を名乗り出ていたクラスの男子生徒が藍子の前に立ち、声を上げた。
「あんたがストーカーか。藍子ちゃん嫌がっているんだからやめろよ」
男性はその男子生徒を一瞥してからため息を吐き、首を振る。
「こんなおふざけは止めてください。話し合いましょう」
「いや、止めて」
藍子は悲鳴に近い、高い声を上げて那月に抱き着いた。
「私この人と付き合ってるから、貴方とは行かない! 私の運命の人は貴方じゃない!」
ざわりと身の内側から不快感が沸き上がる。
密着している様子は本当に恋人同士に見えるからか、男性は眉間にしわを寄せて那月の体を検分するようにつま先から頭まで視線を巡らせ、首を振った。
「そんなことありえない」
「ありえなくない。那月と付き合ってるの。運命だって言われたんだから。だから貴方は帰ってよ!」
藍子の叫ぶような声に男性はこれ以上話し合いが成り立たないと踏んだようで、逡巡した後にため息を吐いて車に乗った。
「藍子さん」と窓を開けて男性が声を名前を呼んだが、それ以上は何も言わなかった。苦し気に歪められた顔からは言いたいことなど山ほどあるのだろうな、というのが伺えた。
車が遠ざかって行く。曲がり角を曲がって姿が消えたのと同時に那月が手を振り払って距離をとった。
「え、どうして離れるの? 了承してくれたのかと思ったのに」
「もういいだろ。帰る」
甘えてくる藍子を振り払って、那月がすたすたと春乃の元へ来た。
「春乃帰ろ」
「うん……」
手を差し伸べられたが、藍子や他の生徒たちの手前躊躇ってしまった。その手を走り寄って来た藍子がとって引き寄せると本物の恋人のようにその腕に抱き着いた。文句を言おうと口を開いた那月を遮って藍子は、春乃へ言った。
「まだあの人がいるかもしれないから、ひとりじゃ帰れないよ。恋人を送り届けないなんておかしいでしょ。ね、那月借りてもいいよね? 春乃ちゃん」
帰る場所一緒でしょ、とは言えない雰囲気に困惑する。
「二人で帰るのが自然でしょ。二人っきりにしてよ」
「そうだね、それがいいんじゃない?」
藍子の言葉に他の生徒がにやにやしながら乗っかる。面白がっているのだ。
何も面白くないと文句を言ってやりたいが、軽蔑されるのは怖い。
「那月、もらっていくね」
藍子がそう言って那月の腕に抱き着くと周りからヒューと冷やかすような声がかかる。
それを那月はものとも出ずに春乃と目を合わせて、言った。
「春乃、先に帰ってるから。後でおいで」
那月の真っすぐな目に春乃は自然と頷いていた。藍子はむっとしたが、那月と並んで帰れるという事実に嬉しそうに口角を上げて歩き出した。
その背を視線で追う春乃に、護衛の役目を終えた生徒たちが言った。
「あやかしだけじゃなくて、彼氏にも捨てられてんじゃん」
殴られたような衝撃的な発言に春乃は言葉を失った。
家に帰りたくない、と思ったのは初めてだった。隣に那月がいないのももしかしたら初めてかもしれない。
もしこの扉の向こうで那月と藍子がいちゃついていたら、吐いてしまうかもしれない。そんなことありえないと思うのに、想像力だけはやたら豊かな脳みそが勝手にラブラブなふたりを作り出して、泣きそうになった。
「ちょっと、時間潰してから帰ろうかな」
そう思い、ふと隣の家に目を向けた。
電気がついている。那月はあの家に既に帰っているらしい。そう言えば那月は去り際に「先に帰っているから」と言っていた。あれは春乃の家にではなく、那月の家の話だったようだ。
踵を返して那月の家へ向かう。インターホンを押すとすぐに那月が顔を出した。
「なつき、うわっ」
がしっと手を掴まれ、そのまま人目を憚す様に家の中に引きずり込まれる。体が完全に家の中に納まるや否や、がちゃんと背後で扉の締まる音がした。
「はあ」と那月が吐き出したため息で隣家、榎本家にいる藍子達にバレないようにするための行動だと気づき、突然のことで強張った体から力を抜いた。春乃の肩にとんと那月が額を押し当てる。
「疲れた……」
「今日一日で色々あったもんね」
朝一から伯母の家族に押しかけられ、ストーカー騒動にも巻き込まれたので春乃も精神的に疲れ切っていた。今すぐに休みたいが自宅へ帰れば伯母達が待っている。あの人たちの相手をしなければいけないと思うと鬱々とした気持ちになる。
「所で、何であの女が春乃の家にいるんだ? いとこだからって理由にならないだろ」
「藍子さんの話的にストーカーから逃げるための一時避難かな……私も詳細を聞いたわけじゃないから詳しくは分からないけど」
「ふうん。いつまでいるか分からないのか」
那月は頭を抱えた。
「うん、落ち着かないから早く出て行って欲しいんだけどね」
「だったら家に泊まればいい。あいつらが帰るまで住んでも良い。義春さんなら了承してくれるだろ」
名案だとばかりに那月が目を輝かせる。
一緒に寝起きして、一緒に登校するなんてまるで同棲しているみたいだ、と頭に浮かび慌てて打ち消す。那月は別にその気があるわけではないのだから桃色になる思考を振り払う。
まるで意識されていないような気がするが、今は考えないようにしておこう。
「それは――」
春乃の声を遮る様にインターホンが鳴り響き、春乃は飛び上がった。
「び、くっりした」
外にいる何者かに聞こえないように小声で喋る。那月は春乃を抱え、警戒するようにじっと扉を見つめて来訪者を見定めているようだ。
藍子だったらどうしようか。居留守を使えばいい。義春さんかもしれない。だったら電話が来るはずだ、と話している最中にもう一度インターホンが鳴り、次いでがちゃりと鍵が回った。
「えっ」
さっき閉めたはずの鍵があっさりと解除され、扉が開く。
「那月様ー、お返事がありませんがご在宅でしょ、うか……」
そう言いながら顔を覗かせた人と目が合う。ぎょろりと大きな目が特徴の小柄な男性だ。歳は義春と同じくらいだろうか。
その人が、何故か那月を様付で呼んだ。
那月の知り合いにくっついている所を見られるのはよくないかもしれないと配慮してそっと那月から距離を取ろうとしたが、それよりも早く男性がただでさえ大きな目を更に開き、声が上げた。
「誰ですか、この女は! 那月様に触るなんて不埒な! 早く離れなさい!」
ぱんと弾けるような大きな声とただ事ではない剣幕に春乃はすぐさま那月と離れ、身を縮める。そんな春乃には目もくれず男性は那月に向かってわあわあ声を上げる。
「那月様、この家に女を連れ込むとは一体どういう了見でしょうか。貴方様は佐倉家の」
「健真、ちょっと黙ってくれ」
那月が頭痛を堪えるように額を抑え、落ち着けと零した。
「何でそんなにうるさいんだお前は。というか何しに来た」
「何しにって、貴方が心配でやって来たのですよ。それなのに、それなのに貴方と来たら」
わなわなと震えだした健真と呼ばれた男性に那月はしれっと言う。
「別にやましいことはしていない」
「どの口がおっしゃいますか。連絡もまともに返されていないようですし、お父様心配しておられますよ。貴方の様子を見にしたのも本当ですが、大切な話をしに来たのです」
そう言うと健真は春乃へ目を向けた。冷たい目つきだ。会ったばかりだというのにもう嫌われているらしい。
汚いものを見るような目で見られ、ため息まで吐かれた。
「出て行ってもらえますか?」
「おい、何を勝手に」
「申し訳ありませんが、邪魔なのですよ」
那月が健真に向けて怒りを露にするが、健真は慣れているのか全く気にしていないようで、春乃へ冷え冷えとした言葉を投げかけ続ける。
さっきまで居心地が良かったはずなのに春乃は自分が異物のように感じた。この家にいてはいけないと察し、那月を見上げる。
「私帰るね」
「春乃、帰るのはこいつの方だ。春乃は居ていい。話だってすぐに終わる」
止めようとしてくる那月に春乃は首を振った。
「駄目だよ。二人が大切な話をしている間そわそわしちゃうから。それに義春さんが心配だし、家に帰るよ。荒らされてても困るから」
そう言うと健真に頭を下げて那月の家を出た。
外は涼しく、清らかな風に髪が靡く。那月の家の敷地内を出て漸くふっと呼吸が楽になるのを感じた。
誰が悪いわけじゃないのに息が苦しかった。
あの人が誰で、何故那月を敬称をつけて呼ぶのかも春乃は知らない。もしかしたら那月のことを全く知らないのかもしれないと思い知ってしまった。自分が一番彼を知っているなんて自惚れも甚だしい。
「なんだか、疲れたな……」
家に帰りたくない。しかし、春乃に居場所なんてない。
意を決して怪獣に進行されている自宅へと帰った。

