これは呪いよ、と母は春乃の手の甲にある痣を撫でた。
 幼かった春乃は呪いの意味も、母の手がどうして震えていたのかも、両親が春乃に隠れて泣いていた理由も何もわかっていなかった。
 痣が何なのか分かったのは、それから数年たって母が病で倒れてからだった。真っ白な病室で瘦せこけた母は、春乃の痣がある手を強く握って言った。
「これは、あやかしの花嫁の印なの。きっとこの先あやかしが運命だと嘯いてあなたを狙いにやってくるでしょう。私が守ってあげたかったけれど、出来そうもないから、どうか、強くなって見極めて。悪いあやかしばかりではないけれど、いいあやかしだけではないから。あなたに相応しい相手か見極めるの。そして誰かと共に生きて。どうか、幸せになって」
 母は涙を流しながら春乃に強く訴えかけた。
 切実だったのは、母もあやかしの花嫁の印を持っている人だったからだ。それでも人間の父と結婚できたのは相当な覚悟と勇気が必要だったろう。それは彼女の印があったであろう手の甲にある酷い火傷痕が物語っていた。
 幼いながらに春乃は必ず幸せになると誓い、母親の手を握り続けた。
 あれから数年たったが、春乃の元へ運命のあやかしは来ていない。

 春乃の母がこの世を去ったのは、春乃が小学校三年生の時だ。それから一年後に父も交通事故で亡くなってしまった。残された春乃は母の姉である伯母一家に引き取られた。
「面倒ね、あんたも一緒に行けばよかったのに」と伯母は小さな春乃に吐き捨てた。彼女の家で暮らしていた日々は思い出すだけでも吐き気を催すくらいの地獄だった。
 ご飯をまともに食べていたのかも分からない。ただただずっと頭が痛かった。伯母は春乃の母に似ているピングのがかった髪を酷く嫌って、何か怒りが溜まると掴んで振り回していた。いつも頭にはたんこぶがあり、体のどこかには痣が出来ていた。
「伯母さん、あの」
「伯母さんって呼ぶなって言ってるだろ!」
 どん、とすぐに伯母は暴力を振るってきた。伯父はただ傍観していたのだが、一度だけ頭を蹴られた。春乃が体調不良のすえにリビングで吐いた時だった。汚いとごみのように蹴飛ばされ、あの時は死を覚悟した。
 そんな日々が一年ほど続いた。春乃は当時の記憶が断片的にしか覚えていない。どうやら人間は今日容量を超えた苦痛にあうと覚えていられないらしいのだ。だから正確なことは覚えていないが、ある雪の日に春乃は家から追い出され近くの公園で震えていた。
 傷だらけの体で震える中、膝を抱える春乃の頭を誰かが撫でた。母か父が迎えに来たのだと思い、思い頭を持ち上げる。目が痛くて開けられなかったので誰なのかは分からないがその人は優しい声で言った。
「もう大丈夫だから」
 その後、春乃は伯母の家から助け出され、現在は父方の親戚にお世話になっている。

 「行ってきます」
 身支度を整えた春乃は仏壇に飾ってある両親の写真に挨拶をしてから家を出た。風に吹かれ、榎本春乃の特徴的なピンクがかった茶髪がふわりと揺れる。
 思っていたよりも風が強い。ポニーテールに結んでくれば良かった。
「そろそろ切った方がいいかな」
 春乃の髪は腰辺りまである上にふわふわとしたくせっけなので扱いにくい。肩くらいまで切った方がいいかもしれないと思った時だ。
「切るの? 髪」
 聞こえてきた声に反射的に気分が浮き上がった。
「那月、おはよう」
 家の前に立って春乃に声を掛けてきたのは幼馴染の佐倉那月だ。
「おはよう、春乃。それで、髪切る予定なの?」
「うーん、どうしようかな。切ってもいいかもとは思ってる」
「ふうん、もったいないな。綺麗なのに」
 そう言いながら那月は春乃の長い髪を救い上げた。小学校の時から那月と共に過ごしてきているというのに至近距離で独特の青い瞳に見つめられると見慣れていてもドキリとする。
 春乃も地毛にしては派手だが、那月の髪、というか外見はそれよりもずっと目を引く。
 青みの強い白髪に青い瞳。それに顔がこの世の中で一番と言っていいほど整っている。少なくとも春乃が知る中で那月は一番かっこいい。これは馴染みだからなのか那月は距離感が近くこういう風に無遠慮に触れてくることも多い。
 こっちの気持ちも考えても欲しいものだ、と春乃は内心文句を言う。
 春乃はこの幼馴染に出会った時からずっと恋をしているのだ。
「そうかな。じゃあ切るのやめようかな……でも私アレンジ苦手なんだよね」
「確かに春乃は不器用だもんな。まぁ、アレンジは俺が覚えるからいいだろ」
 ぶっきらぼうに言いながら那月は春乃の鞄を持った。
 那月は過剰ともいえるぐらい過保護で、春乃に重いものを待たせないし、絶対に車道側を歩かせない。恋人のようだと勘違いできたのならいいが、妹扱いされているとしか思えない。少しは意識をしてくれればいいが、那月は出会った当時からこの調子だ。
 彼と出会ったのは、春乃が今お世話になっている父の叔父にあたる榎本義春に拾われ、現在の自宅に引っ越した時。小学校で初めて顔を合わせた。那月も春乃と同じ日に転校してきたらしく友達がいない同士で仲良くなった。那月はその煌びやかな見た目ですぐに皆の人気者になったが、春乃の傍を離れなかった。
 春乃といるのが好きなんだよ、が彼の口癖だ。
 春乃が揶揄われたり、馬鹿にされたらすぐに反論し、春乃のために怒った。揶揄われる原因はいつも大体一緒で、春乃の手の甲にある。ちらりと自身の手の甲を見る。母に呪いだと言われた手の甲に現れた花のような痣を切り裂くように古傷が残っている。
 癇癪を起した伯母に切りつけらえて出来た傷だ。
 彼は、この傷を見る度に痛まし気な顔をする。と言っても一瞬なので春乃の勘違いかもしれないが。
「あら、お二人さん。おはよう」
 昇降口で靴を履き替えている最中かけられた声に春乃は恐る恐る振り返った。
 肩口で切りそろえられた綺麗な黒髪の少女と背の高い茶髪の青年が立っていた。
「おはよう。坂崎さんと井塚くん」
 勝気な雰囲気を纏った坂崎朱音は春乃と那月を交互に見て、ふんっと鼻を鳴らした。
「今日も護衛と一緒みたいね」
 坂崎はわざとらしく隣に立つ井塚亮の腕に自分の手を絡ませた。その坂崎の手の甲に百合を模したような痣があるのが見える。
 春乃の視線に目ざとく気が付いた坂崎は口を大きく開けて笑う。
「あら、ごめんなさいね。もう用済みになってしまった人には私のあやかしの花嫁の印はきつかったかもね。配慮が足りなかったわ」
 坂崎も春乃同様に印がある人間だ。そして、彼女の隣に立っている井塚亮こそそのあやかしなのだ。あやかしは人間に紛れて暮らしているのだが、春乃には人間との区別がつかない。皆はあやかしの方が美しいだとか優れているだとか言うが、春乃から見れば一番かっこいいのは那月だ。
 そう主張しても坂崎や他のクラスメイトも笑い飛ばしてこう言った。
「佐倉君も確かにかっこいいけど、人間だからね」
 まるであやかしの方が人間よりも優れているかのような発言だ。
 坂崎はあやかしの印が傷ついてしまった春乃はもう運命のあやかしが迎えに来ないと見下してくる。春乃もそうかもしれないとは常々思っている。何故なら印持ちは基本的に十代の内に自身の運命と出会うらしいのだ。それなのに春乃には一向に運命のあやかしが現れない。
 それでも、それを悲劇とはとらえていなかった。だって春乃の隣には那月がいる。
 那月が好きなので、あやかしなんて恋人はいらない。それに急にあなたの運命ですなどと言われも困ってしまう。
 無言を貫く春乃の態度に坂崎は舌を打った。
「用済み、ねえ」
 それに反応したのは那月だ。
 那月の低い声に坂崎はびくりと震える。
「あんたこそ用済みにならないように気をつけろよ」
「ど、どういう意味?」
 坂崎が怯えた様子で那月を見上げた。それに那月が片方の口角を上げる。
「あやかしが別に印に縛られているわけじゃない。あんたに愛想をつかす可能性だってあるんだよ」
 その言葉に坂崎ははっとして井塚を見上げた。彼は困った顔をして坂崎を見下ろしている。その表情を失望と取ったのか、坂崎は急に泣きそうな顔をして井塚の抱き着いた。
「やだ! 嫌いにならないで、お願い。大好きなの」
「嫌いにならないよ、大丈夫だよ」
 えーん、と泣き始めた坂崎の背を井塚が慰めるように撫でる。
 いつもの光景である。
 どうやら坂崎は那月のことが怖いらしいのだが、何故か毎日のように絡んでくる。その度に井塚に泣きついているので、春乃は毎回反論せずにただの傍観者になっている。
「行こう」
 那月に促され、春乃は二人を置いて教室へ向かった。
「あやかしは本能で運命の人が好きなんじゃないの?」
 那月の印に縛られていない、という発言は初耳だったので驚いた。
「運命に魅かれはするが、好きで居続けるかは別問題。性根が腐っている人間に妄信することはない、はず」
「はず?」
「……妄信する場合もある」
 那月が言い難そうに言った。
「へえ、詳しいね」
 そう言うと那月はぎょっとした後に付け加える。
「というのを昔聞いたことがある」
 何故かしどろもどろだったが、気にせず相槌を打つ。
「あの二人は仲いいよね」
 坂崎と井塚のことだ。二人は印に縛られた運命など関係なく仲が良く見える。坂崎にしたら貶めているように聞こえるかもしれないが普通の恋人同士のように見える。
 彼女が春乃を馬鹿にするのは、恋人ができて浮かれているだけだろう。坂崎は悪人ではない。善人でもないがきっと春乃が泣いたらおろおろしそうだ。小心者の凡人と彼女を称したのは那月だ。
「まぁ、別れはしないんじゃないか」
 那月は坂崎のことが好きではないようで、顔を歪めながら言った。
「趣味は悪いけどな」
 それは井塚に向けてか、それとも坂崎に向けてかは分からない。
 教室には既に生徒の殆どが揃っていた。後は昇降口で絡んで来た二人ぐらいだろう。
 春乃の席は窓側の前から二番目だ。自席に着くとその前席に那月が腰を下ろした。
「春野さん」と名前を呼びながら駆け寄って来た少女へ目を向ける。
「美織ちゃん、おはよう」
 クラスメイトの重本美織がさらさらの黒髪を揺らしながら優雅に寄って来た。涼やかな雰囲気を纏った美織は見た目も中身も喋り方もお嬢様らしく、空気すらもたおやかで、目を引く存在だ。
「おはようございます。今日は随分遅かったですね」
「うん、ちょっと昇降口で絡まれてしまって」
「ああ、なるほど」
 丁度のその時扉が開き、坂崎と井塚が教室に入って来た。坂崎は那月が怖いのか、ふんっとわざとらしく顔を逸らしたのを見て美織は納得したように頷く。
「何か酷いことを?」
「してないよ」
「されたんですか?」
 美織がずいっと顔を寄せてきた。あまりにも近い距離に春乃は戸惑いがちに距離をとる。
「だ、大丈夫。ちょっとお話しただけ。那月が」
「そうですか。それなら安心ですね」
 美織はにっこりと笑い、那月の方を見て会釈した。
「佐倉さんもおはようございます。そうだ、お二人は転校生の話を聞きましたか?」
「転校生?」
 那月と顔を合わせて首を傾げる。
「今日から来るらしいのです。私も朝聞いて驚きました」
 急だ、と思ったが、転校生が来ること自体初めてなので、もしかしたらこれが普通なのかもしれない。
 よく見るとクラスメイトの数人はそわそわと落ち着きがない。美織もクラス全体を見渡した後、神妙な面持ちで言った。
「しかもどうやら転校生には、あやかしの印があるらしいのです」

 時計の針は、昼休憩まであと五分を切っている。いつもは楽しみな休憩時間が今は憂鬱だった。その理由は噂の転校生にある。
 美織の言う通りホームルームで転校生がやって来た。颯爽と、まるで女優の様な綺麗な女性だ。かなり大人びており、はっきりとした顔立ちにくるくると巻かれた茶髪がよく似合っている。綺麗な子だな、というのは第一印象。そして同時に「あれ?」と違和感を覚える。
 どこかで見た記憶がある。しかし思い出せない。
 中村藍子と紹介されたその人は、鈴の音のような綺麗な声で挨拶をしてから教室中を見回り、那月で止まった。大きな目が見開かれ、その目に色が宿るのを見た。
「は、初めまして」
 藍子は頬を染めながら那月に向かって挨拶をした。クラスメイトにではない。那月に向かってだ。
 それから教室中の戸惑いなど無視して、藍子は那月に話始めた。教室中がぽかんとする中、段々と正気を取り戻した面々が顔を見合わせ、二人のやりとりと伺う。
「あの、私を迎えに来てくれたんですか? 会えてうれしいです」
 藍子はそっと手を上げた。手の甲にスズランを象った様な痣がある。噂通りのあやかしの花嫁の文様だ。
 教室のどよめきなど無視して、藍子は那月に熱心に語り掛け、その手を握ろうとした。教室中が二人の動向に注目する。ごくり、誰かが生唾を飲み込む音が響く。
「触るな」
 ぴしゃりと冷たい声が幼気な少女の好意を跳ねのけた。
「盛り上がっている所悪いが、俺はあんたの運命なんかじゃない。他を当たれ」
「え」
 何か言い募ろうとしている藍子に対し、那月は既に興味を削がれた様子で窓の方を見た。お前の話は聞かないと言った姿勢に藍子があからさまにショックを受けた表情をする。
 可哀そうなその表情にクラスの誰かが言った。
「佐倉君はあやかしじゃないよ」
 その言葉に藍子は「嘘よ」と大きな声を上げたが、教室にいる全員の答えは変わらなかった。那月はあやかしじゃない。だから運命ではない。優秀すぎる那月をあやかしだと誤解する人は多いが、その度に那月は首を振っている。
 ひとしきり混乱していた藍子だったが、切り替わりが早いようで涙を拭うと那月に一歩近づき、媚びるような視線を投げかけた。
「私、貴方があやかしじゃなくてもいいわ。私の恋人になって」
 教室中の全員が息を呑んだ。
 そんなこんなで混乱していた教室も授業が始まれば強制的に落ち着く。しかし授業が終わる度に藍子が那月の元へ来るので、後ろの席の春乃は肩身が狭かった。
 肩身が狭い、というのは少し違う。居心地が悪く、もっと言えば不快だった。
 藍子の好意的な甘い声も那月に触れようとする手も、那月が藍子をぞんざいに扱うたびに安心してしまう自分も。なんて心が狭いんだろうと思う。那月は自身の恋人でも何でもない、恋人になりたいだけの、ただの幼馴染だというのに一丁前に嫉妬をしているらしい。
 嫌だな、と思う自分がとんでもなく不快だった。
 昼休憩になれば絶対に藍子は那月の元へやってくる。それが分かっているから、憂鬱だ。
「はあ」とため息と吐いた時、不意に那月が振り返った。ぼうっとしていて気が付かなかったが、先生が課題を配っていたらしい。それを受け取るのと一緒に何やら小さなメモ紙を手渡された。
 紙を後ろに回し、渡されたメモを見ると「昼は屋上で」と書かれていた。
 一緒に食べてくれるらしい。ほっとしてしまった。
 那月が藍子を遠ざける度に安堵してしまう自分にまた嫌気が差した。

 チャイムが鳴った直後に教室を飛び出していった那月の後を追う。幸い藍子は那月を追う様子はなく、他のクラスメイトと喋っていたので安心して屋上へ向かった。
 屋上には那月しかいないようだ。
「お疲れ様」
 振り返った那月の顔があまりにも疲弊していたので、反射的にそう声を掛けてしまった。
 授業が終わるたびに声を掛けられていたのだから疲れもするだろう。
「厄介なのが来たな」
 那月は大きくため息を吐いた後、ちょいちょいと春乃を手招きした。素直に従って近寄ると焦れたように手を引かれ、そのまま抱き寄せられた。背中に大きな手が回ると見知った温度に安堵する。
 どうやら春乃が思っているよりもずっとしんどいらしい。よしよし、とあやす様に背中を撫でると甘えるように頭を寄せてくる。
 可愛いな、と反射的に思い、彼の背に回す腕の力を強めた。
「ご飯食べないと」
「もうちょっと」
 帰ってくる言葉も少し幼くて、春乃はふふっと声を漏らした。
 その時、がたん、と扉の方で音がした。はっとして振り返ると開いた扉の前に呆然とした様子の藍子が立っていた。
 那月と春乃は付き合っているわけではない。ただの幼馴染だ。しかし、現状を見られてその言い訳が藍子に通じる気がしない。
「あ、あの、これは、えっと」
 しどろもどろになる春乃に藍子は静かな声で言った。
「お付き合いしている方がいるのならそう言ってくれればいいのに」
 付き合ってはいないが、口を挟めない圧がある。
「私よりもその人が良いの? 何で? どこが」
 ぎゅっと藍子の眉間にしわが寄る。彼女の怒りが那月へ向いていたのは一瞬のことで、すぐにその矛先は春乃へ向かった。
「私のこと馬鹿にしてたの?」
「してないよ。あの、話を」
「もういい。最悪」
 そう言うと藍子は屋上を出て行った。
 最悪なのは残されたこっちである。全て勘違いだ。しかし、話を聞いてくれる気がしない。浮気を咎めらた時はこういう気持ちになるのだろうか。冤罪だ、と声高に騒ぎたいが、無駄に終わるだろう。
「まぁ、別にいいだろ。ご飯食べよ」
 那月は春乃を離すとその場に座り、弁当を広げだした。なんともマイペースな男だ。こっちはそれどころじゃないというのに。
「そんな呑気な……」
「焦る様なことじゃないだろ。あいつには関係ない。食べないと時間無くなるぞ」
 那月が自分が持って来たタオルを床に敷き、春乃にその上に座る様に言った。自分は地べたで座り込んでいるくせに春乃が地べた座ろうものなら石があって傷が出来たらどうする、と心配するのだ。
 タオルの上に座り、憂鬱な気持ちを落ち着かせるためにも弁当に手を付ける。
「それにしても、あやかしの花嫁の印を持つ人って結構いるんだね」
「そうだな」
 那月の返答はそっけない。
「スズランの印って綺麗だったね」
「興味ない」
 本当に藍子に関心がないらしい。いつも澄ました表情が少しだけ歪んでいる。
 那月は基本誰に対しても冷めた態度で接している節がある。特に那月自身に好意を寄せてくる女性に対しての好感度が低い印象を受ける。
「じゃあ、何に興味があるの?」
 そう聞いた途端、那月は箸を持つ手を止め、ずいっと顔を寄せてきた。綺麗な瞳が眼前に迫り、ドキリとする。
「春乃」と至近距離で名前を呼ばれた。
「俺の興味は、数学のテストの範囲を教えてくれって春乃が泣きついてくるかどうか」
「え、テストあるの?」
 初耳だ。
「春乃が俺の背中を熱心に見ている間に言われてたよ」
「ね、熱心に見てないよ、別に」
 嘘である。藍子が来てからの授業は殆ど気もそぞろで、残っている記憶は那月の背中の記憶ばかりだ。
「そう? 熱烈な視線を感じてたぞ。穴が開くかと思った」
「だって、那月が」
 つい、内心で渦巻く黒い感情を吐き出しそうになり、慌てて飲み込む。
 危ない。こんなこと口に出して良いはずがない。
 黙り込み、見逃してくれと言わんばかりに俯く春乃に那月は容赦してくれなかった。
「だって、なに?」
「何でもない」
「春乃、教えて。笑ったりしない」
 笑われるなどとは思っていない。春乃は首を振る。
「嫌いになるかも」
 那月は鼻で笑い「ありえない」と言い切った。その言葉に背を押され、春乃はここ数時間で抱いた感情を吐き出した。感情はぐちゃぐちゃで上手く説明できている気はしない。それでも那月は根気強く耳を傾けてくれた。
「藍子さんが無視される度に優越感に浸っているようで嫌だった」
 腹の中に隠している黒い部分を吐き出す瞬間は、緊張して顔が歪んだ。口にして改めて自分の醜さを自覚して嫌気が差す。
 こんな感情初めてだった。嫌だな、と思う。
 なくしちゃいたい、と零した春乃に那月は目をまん丸にした。
「もったいない」
「ん? もったいない?」
「それって独占欲だろ? 無くすなんてありえない」
 那月は噛みしめるように「独占欲だよな」ともう一度呟いた。
「でも、独占欲ってあんまりよくないでしょ? 横暴な感じする」
「春乃が横暴なわけあるかよ。それに春乃が独占したいのは俺だろ? 俺が良いって言ってるんだから良いんだよ」
 ふんぞり返った那月が言った。これこそがきっと横暴だ。暴論だろう、と思う一方で確かにと納得する自分もいる。那月が了承しているのだから別にいいのではないか。他の誰かに許してほしいわけではない。
「じゃあ、いっか」
 ぐるぐると渦巻いていた自分に対する嫌悪感が薄れた気がする。
「春乃は考えすぎ。思慮深いのはいいけどぐるぐる一人で悩むのは駄目。優越感だって嫌悪感だって独占欲だって、誰でも持つものだからあんまり気にしない」
「那月も持つ?」
 純粋な疑問に那月は一瞬固まり、何やら思案するように視線を逸らした後に神妙な顔で頷いた。
「俺はいつも春乃を独占したいよ」
 言葉に躊躇いと試すようなニュアンスがあった。これを言って春乃がどう思うのか、推し量っているようだと長年一緒にいる経験から察した。
 考えるよりも先に言葉が零れ落ちる。
「もう独占しているでしょ」
 春乃の人生の大半は佐倉那月で出来ていると言っても過言ではない。なんなら心までずっと那月でいっぱいだと言うのにまだ足りないのだろうか。
「言ってくれたら全部あげるよ」
 那月にあげて困るものなどない、と素直に口にした所那月は固まり、手に持っている箸が零れ落ちそうになっている。
「ちょっと、那月危ないよ」
「あ、うん」
 はっと正気に戻ったらしい那月が慌てて箸を握り直し、そのまま食事が再開した。
 食事が終わり、弁当を片づけたタイミングで耐えきれないと言った様子で那月がわっと声を上げる。
「そんな簡単にあげるとか言っちゃ駄目だろうが」
 それから何故か説教が始まってしまい、困惑したまま春乃は謝罪を口にする羽目になった。