「あ、もう十五時だ」
 ハンバーグを食べ終わり体力も回復し、気合を入れて掃除の続きをしていた私たちに、広間にある大きな時計から出てきたハトが、くるっぽー、と、十五時になったことを知らせする。
 「それじゃあ、お花畑でおやつ休憩にしましょう」
 食堂にいるおばあさまが掃除をしている私達に声をかける。
 一生懸命に雑巾がけをしていたイシアは、おやつが食べられると聞いて瞳をいつも以上に輝かせた。
 「お花畑でおやつ食べれるの嬉しいです……ってあれ? お花畑ってここにありましたっけ? お屋敷の周りにお花畑は無いですよね。森を抜けて公園に行くんですか?」
 「あらぁ芽深ちゃん。お花畑はすぐそばにあるのよ」
 「そうなんですか?」
 「外は寒いわ。イシアちゃんと芽深ちゃんは半袖だから上着を羽織りなさい。孫が置いていったカーディガンを貸すわ」
 おばあさまは私とイシアにグレーのカーディガンを着せた後、カンカン帽をかぶりバスケットを持って、私たちを花畑に案内した。案内したといっても、玄関扉を開けて外に出ただけだ。お花畑はすぐ目の前に広がっていたのである。
 「……え、あ、き、綺麗です……」
 扉を開けると、色とりどりの花々が爽やかな風に揺られていた。
 美しく咲き誇る花々を見て呆気にとられる。横にいるイシアとヴェンデルも同じような反応をしていた。一面に広がる花畑を見て、その盛大な美しさに、驚き、ぼんやりとしている。
 「ヴェンデル……」
 「……あ、なに、メイミィ。ごめん、反応遅れた」
 「全然大丈夫。あのさ、このお花畑、現代にはなかったよね?」
 「……うん。なかったよ」
 壮大な花畑に呆気に取られていたヴェンデルは、私と会話をしているうちに、すぐにハリのある顔つきになった。
 そう、現代にはなかったのだ、この一面のお花畑は。
 私がイシアに鍵を届けに訪れたき、お屋敷は草と木に囲まれているだけだった。花は一本も咲いていなかったのである。
 日の落ちた時間にお屋敷を訪れたため、もしかしたら見落としていたのかと思い、ヴェンデルに確認したけれど、やっぱり私が思った通り、花畑は現代にはないようだった。
 「たぶん、おばあさまがいなくなってお花は枯れちゃったんだろうね。手入れする人がいなくなったから」
 ヴェンデルは悲しそうに呟く。
 そっか、おばあさまがいなくなったから、枯れちゃったのか……。
 「みんな、こっちへおいで」
 いつの間にか花畑の中へ移動していたおばあさまが、私たちを呼んでいる。
 「おやつが食べれるよ。早く行こう!」
 先ほどの悲痛な面持ちから打って変わって、ヴェンデルは元気な声を出した。
 「メイミィ、おばあさまが現代にいないことをおばあさま自身に悟らせちゃダメだ。暗い顔をしていたらバレてしまう」
 「う、うん。そうだね……。おばあさまー! 今行きますー!」
 私達は無理やり元気な声を出して、お花畑へ駆け出した。

 「色とりどりの花々に囲まれながら食べるお菓子は最高よ。さぁみんな、レジャーシートを広げましょう」
 お花畑に移動した私達におばあさまはそう言って、パステルカラーのレジャーシートの上にバケットから取り出したお菓子を並べた。
 「マカロンにチーズケーキにドーナツ!」
 バケットの中から出てきたのは、色とりどりのマカロンにベイクドチーズケーキに、そしてチョコレートやシュガーのかかったドーナツ。
 「お菓子がいっぱいでメルヘンでかわいいです!」
 沢山のお菓子が並んでいるのを見て興奮している私に、おばあさまが優しく話しかける。
 「甘いものばかりだと舌が疲れちゃうわね。ほろ苦いコーヒーを飲んで甘さと苦さをミックスさせましょう」
 「ぶ、ブラックコーヒー……!」
 コップに注がれるブラックコーヒーが飲めるか不安だったけれど、おばあさまが作った上品な甘さのお菓子と一緒ならほろ苦くても飲むことができて、ほっと一安心した。
 カラフルなマカロンは、生地がサクサクほろほろで、中に挟まれているいちごジャムの酸味が効いている。なによりクリームがたっぷりふわふわで、食べた瞬間幸福感でいっぱいになった。
 ベイクドチーズケーキもドーナツも、くどすぎない繊細な甘さと軽い食感の味わいが美味しい。
 「おい、マカロン食べ過ぎて喉に詰まってるじゃん」
 イシアはマカロンを一気に口に入れたせいで、喉を詰まらせたようだ。ヴェンデルに背中を叩かれ、コーヒーをがぶがぶと飲ませてもらっている。
 「お菓子が美味しいのはわかるけどさ。お前は本当に危なっかしいなあ」
 マカロンを喉に詰まらせて苦しんでいたというのに、今度は元気にドーナツを食べているイシアをヴェンデルが心配している。どうやらイシアは食べることが大好きな純粋な少年の一面を持っているらしい。あ、また喉に詰まらせて怒られている。
 幻想的なお花畑の中で天使が戯れ、気品のあるおばあさまがそれを見つめて笑っていて、パステルカラーのレジャーシートの上には、美味しくて色とりどりのお菓子が並んでいる。これまでの人生で一番美しい光景を、今、私は見ているのではないかと思った。
 「おばあさま、お花畑にあるお花の名前を教えてくれませんか」
 「スイセンにクリスマスローズにマーガレットよ」
 「そうなんですね。可愛らしい名前です」
 沢山の種類の花が、寒さに負けずお日様に向かって育っている。名前も見た目も可愛らしいというのに、たくましく生きる花々に敬意を込めて、ペコリ、とお辞儀をした。私もこんな風に、可愛く立派に育ちたい。
 「……今すぐに、可愛くて立派な大人の女性になれたらなぁ」
 「どうした? 何か言った?」
 「ううん。なんでもないよヴェンデル!」
 今すぐに可愛くて立派な大人の女性になれたら、公園のベンチに淋しく座るあの人を元気づけに行くのになぁ、なんて思ってしんみりとした気持ちになってしまった。
 可愛くなくても立派じゃなくても、せめて私が成人女性ならあの人の隣りに座って、彼にありったけの愛を伝えて、元気づけられたのに。
 ……いや、私なんかに愛を伝えられたところで彼は元気にならないな。むしろ気分が悪くなるだろう。
 私はため息をついた。

 「いやー美味しかったぁ。ごちそうさまでした」
 おばあさまのおやつも食べ終わり、みんなでごちそうさまの挨拶をする。なんだかおやつを食べ終わると、急激に眠くなってきた。
 「お菓子、とても美味しかったです。朝ご飯といいお昼ご飯といい、十五時のおやつといい、こんなに美味しものを沢山食べると太ってしまいそうです」
 「芽深ちゃんはもっと食べたほうがいいわよ。でも確かにご飯を食べ過ぎたから少し運動しましょうか。ウォーキングしましょう」
 「ウォーキング! どこへ行きますか?」
 「湖よ。この森の奥をさらに奥へ進むと湖があるの」
 「え! 湖があるのですか!」
 森の奥にある真っ白なお屋敷の周辺には、お花畑に湖があるなんて。とても幻想的だ。
 「湖かぁ……。昔、天上界の湖でお前とよく遊んでたね」
 ヴェンデルは、イシアと天上界の湖で遊んでいた遠い昔の思い出を懐かしんでいるようだった。
 「私は生まれて初めて見ます、湖」
 「湖はね、とっても神秘的で自然への畏敬を感じさせる場所よ。それじゃあ行きましょうか」
 私たちは、パステルカラーのレジャーシートを畳み、すでに森の奥にいるというのに、さらに奥へと足を踏み入れた。

 『――続いては、ラジオネーム、こんにゃく主任さんからのお便りです。皆さんこんにちは。突然ですが、ラズベリーケーキのように華やかな見た目の青年にご注意ください。もしも彼と出会ってしまったら、目を合わせないですぐに逃げましょう。純粋無垢なあなたの心を守るためです。えーと、こんにゃく主任さんは交際していた男がいわゆるヒモだったらしく――』
 「え、なんでヴェンデルはラジカセ持ってんの?」
 「俺は結構ラジオ好きなんだよね。さっき掃除していた部屋にラジカセが置いてあったからこっそり持ち出した」
 湖へ向かう途中、ヴェンデルがポケットから小型のラジカセを取り出し、ラジオを聞き始めた。話の内容的にリスナーから募集した恋愛エピソードを読み上げているらしい。しかし、すぐにイシアがラジカセの電源を落とす。
 「おい、イシアなにするんだよ。え……下世話な話なんか聞きたくないって?」
 「そうだよ。せっかく湖へ行くのに、よくわかんない男女の話なんて私も聞きたくない! クラッシックを流している番組に変えて!」
 「了解。……お、これとかどうだろう」
 ヴェンデルはすぐにクラッシックを流す番組に変えたので、ラジカセからは素敵なピアノの音が鳴れる。
 「綺麗で落ち着いた曲だね。だれか曲名わかる人いる?」
 「これはドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』だよ」
 「よくヴェンデルわかるね。物知りなんだ。あれ、なんでイシアがドヤ顔してるの? 君に物知りって言ったわけじゃないよ!」
 「イシアは俺が褒められて自分も嬉しくなってるんだよ」
 私達の他愛のない会話を、やはりおばあさまは観音菩薩のように美しい微笑みで聞いていた。

 「……すごい、これが湖」
 初めて見る湖の前で、私はおばあさまが言ったように、自然への感動と畏敬の念を同時に感じていた。
 森の奥へ辿り着いた先にあった湖は、湖というより池と言ったほうがいいようなサイズ感ではあったけれど、それでもとても神秘的で不気味だった。
 そこまで大きくないし、水深だって深くない。しかし、私のような人間がここに来てはいけないと思わせるくらい、水面は綺麗な水色に染まっていて、今から何かが起こるのではないかという怖さを感じさせる。不安な気持ちが膨らんでいき、早くここから立ち去りたくなった……。
 「この湖はねぇ、こことは別のもっともっと大きな湖の地下水によってできたのよ。川に繋がらない閉鎖的な環境によって、透明で鏡のような水面になっているの」
 「そうなんですね……。森があるからろ過もされるし、湖からの地下水だから人間が生み出す生活排水とも混ざらない……。そりゃあここまで綺麗になりますね――」
 「水がひんやりしていて気持ちいいね」
 ……自然への感動と畏敬の念を感じている人間をよそに、いつの間にか天使達は湖に入ってた。胸下まで水に浸かっているというのに、服を脱いでいない。せっかくの作業服がびしょ濡れだ。
 「おい、イシアー!」
 ばしゃーん!
 ヴェンデルは水を勢いよくイシアにかけた。普段は文学青年なのに突然思春期男子みたいな行動をとったヴェンデルを、イシアはニコニコ笑って受け入れていた。水をかけられ、さっきまではイシアがお菓子を喉に詰まらせて子どもみたいだったはずなのに、立場が逆転している。
 「メイミィ、この湖は天上界にある湖に勝るとも劣らないくらい綺麗だよ」
 「そうなんだ。それはすごい」
 「天上界の湖は生き物が生息できないくらい塩分濃度が高い。湖を創った女神さまが言うには、女神さまと天使の体じゃないと、湖に入ったら浸透圧で体液が溢れるらしいよ。だから水の底まで青く透き通っているんだ」
 「体液が漏れるの? 怖いなぁ」
 「見て、この湖には倒木した木々の上にカエルが乗っていて、メダカも泳いでいる。生き物が生きているよ。メダカって冷たい水でも生きることができるんだ」
 「たしかメダカは冷たい水からぬるま湯まで生息できるはず。強い生き物だよね」
 「へぇ。よく知っているね」
 「昔メダカを育てていたの」
 「そうなんだね。それじゃあ湖の中に入ろうか」
 「いいって! 入らなくていい!」
 「そんなつれないこと言わないで。さあ! 水を浴びよう!」
 ざぶーん!
 ヴェンデルに思いっきり、水をかけられた。
 おかげで作業服も丁寧にヘアピンで留めたねじり前髪も、びちょびちょである。
 「ちょっと! 全身びしょ濡れになっちゃったよ!」
 「楽しいからいいでしょ」
 「良くないわ!」
 結局、私も湖に入って、天使達に水をパシャパシャとかけた。全身びしょ濡れにされたお返しだ!

 「ふーあったかい」
 散々湖で遊んだ後、おばあさまに、日も暮れてきたからお屋敷に帰りましょう、と呼びかけられ、私たちはお屋敷にある暖炉の前で毛布をかぶりあったまっていた。
 水遊びしているときは特に気にならなかったけれど、遊ぶのをやめた瞬間に寒気を感じるから不思議だ。急いでお屋敷に戻り、タオルで全身を拭き制服に着替え、寒さに震える体を暖炉で温めた。薪がパチパチと燃えている。
 暖炉の前で毛布に包まってしばらくすると、おばあさまが不思議なことを言い出した。
 「そろそろお客様がくる時間だから、ばあちゃんは食堂で準備しているわね」
 「え、お客様?」
 「そうよ。お客様と一緒に今から楽しいことを始めるわ。みんなも参加する?」
 この森の奥にあるお屋敷にお客様が来ることなんてあるのか。わざわざセールスがここまで来ることはないだろうし、おばあさまのお友達が来るのかな? というか楽しいことを始めるってなんだろう? 
 「イシア、人間が来るって、部屋に戻ろうか」
 毛布に包まっているヴェンデルが、同じく毛布に包まっているイシアに声をかける。
 「おばあさま、メイミィすみません。俺達は昨日寝た部屋に戻ります。お客様が二人みたいに優しい人間かわからないので……」
 「わかったわ。でも、今から来るお客様はみんな優しい子よ。ヴェンデルちゃんもイシアちゃんも身構える必要ないわ」
 「ありがとうおばあさま。でも遠慮しておきます。イシアは人間が怖いから……。だから今日はもう部屋でゆっくりしています。あ、もう二人のことは怖がってないですよ」
 気が向いたら参加する、と言い、ヴェンデルとイシアは昨日おばあさまに与えられた部屋に戻っていった。
 人間が怖いという理由で、天使たちは不参加の表明をしたけれど、実を言うと私も人間が怖い。同じ人間だけれど人間が怖い。できれば私も寝室に戻ってぐっすりと寝ていたい。
 「おばあさま、お客様ってどんな人ですか。本当に優しい人ですか? そもそも楽しいことってなんですか――」
 「ばあちゃんーー来たよーー!」
 知らない人が来る焦りから、おばあさまに矢継ぎ早に質問していたところ、突然声変わり前の元気な男の子の声が玄関から聞こえてきた。
 「芽実ちゃん。鍵を開けてくれる?」
 「わ、わかりましたー」
 お客様とはこの男の子のことなのかな、と思いながら玄関の鍵を解錠する。ガチャリと音をたて、扉をそっと開けると、私の口は思わずあんぐりと開いてしまった。
 「あれ、ばあちゃんじゃない、お姉さんがいる! ブレザーの制服を着ているから高校生ですか? 俺は中学生だから学ランなんですー」
 「……あれ、お姉さん大丈夫ですか? ずっと口を開けてて……。俺の声が大きいから驚いているんですか? それとも俺の顔になんかついてる?」
 「な、なんで……あ、あの人が……」
 「あの人? お姉さん誰かと勘違いしていませんか? 俺は久遠(くどお)悠(ゆう)です! 初めましてお姉さん!」
 初めましてじゃないよ。だって私はあなたと未来で出会っているから。
 あの日、ブランコに座っていたら、淋しそうなあなたが私にコーラのキャンディをくれた。
 あの日から、私は淋しそうなあなたに恋をして、四六時中あなたのことを考えるようになったの。
 久遠悠さん。
 あの人は久遠悠さんという名前だった。とても素敵な名前だ……。
 「ねえお姉さん大丈夫、甘いもの食べる?」
 突如現れた少年は、あの人と同じように白目が綺麗な三白眼で、唇が薄くて、茶色がかった髪が風に吹かれていて、そしてあの人と同じようにコーラのキャンディを私にプレゼントして、笑顔を浮かべた。全部、あの人と同じだ。あの人の面影がある。けれど、笑顔だけが違う。淋しさを感じさせる笑い方じゃなくて、むしろ夏の太陽のように世界の全てを輝かせるパワーをもっている笑顔だった。
 いったいこの十七年の間になにが起きたら、あんなに淋しく笑う大人になるの……。
 「す、すみません……。ちょっと疲れていて……。申し訳ありません。どうぞお入りください」
 「ばあちゃんー! このお姉さんはばあちゃんの親戚? どうせ朝からばあちゃんがこき使ったから、お姉さんはこんなに疲れてんだろー」
 そう言いながら脱いだ靴をちゃんと揃えて、悠さんはお屋敷に入り食堂へと一直線に向かった。明日から十二月が始まるというのに、悠さんからは真夏の匂いがする。