幸せがふわりと漂っている。
「今日の朝ご飯はトーストだぁ」
幸せの匂いこと、焼きたてパンの匂いがベッドにまで届いていた。なんて素敵な朝だろうか。ふわふわの羽毛布団に包まれながら、手足を伸ばす。
私は夢見心地のまま羽毛布団を蹴って、ベッドから飛び起きた。
ベッドから出ると一気に寒さが押し寄せてくる。
こんな寒い朝にはお味噌汁が飲みたい。冬の美味しい味方、お味噌汁。パンとお味噌汁は少々食い合わせが悪い気もするけれど、そんな細かいことはどうでもいい。早くお味噌汁が飲みたい。
お味噌汁とパンを食べたら、制服に着替えて学校へ行かなくちゃいけない。家にいるというのに、既に帰りたい気持ちでいっぱいだ。
しかし真面目な私は仮病を使って学校を休むという選択はせず、ため息交じりにミルク色の扉を開けた。
扉を開けると、これまたミルクみたいに白くてゆったりとしたパジャマを着る、ふたりの青年が現れた。
「天使みたいだなぁ」
「そうだ。本物の天使だよ」
本物の天使が目の前にいる。翼はないし、人間と変わらない姿をしているけれど、とても美しい体と雪の結晶みたいな煌めきのベールに纏まれているから、目の前にいる青年は本物の天使なのだ。
「ふたりともキラキラしてるーすごーい」
「ねえ、まだ寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてないよー」
「噓だ。寝ぼけてなかったら、こんな能天気な顔してない」
「なんだとー。朝起きたばっかりなんだから、能天気な顔もするだろー」
「メイミィ、朝ご飯を食べたら目が覚める?」
「もちろん!」
私は元気よくそう返事をした。
「……どうしましょうか、この状況」
「本当に朝ご飯を食べたら目が覚めた」
「……私、朝から頭が回るほうなんですよ。起きた瞬間、あれ、おかしいなって思ったんですよ……でも、今回ばかりは、現実を受け入れたくなくて……」
「まぁ受け入れられないよね。気づいたら天使と一緒にタイムスリップして、知らない人の家に寝泊まりしているなんて」
おばあさまが作った朝食を食べ終わった私たちは、ダイニングテーブルにちょこんと座り途方に暮れていた。
朝起きた瞬間に、様々な違和感が頭の中をよぎった。焼きたてのパンは幸せの匂い、なんて浮かれていたけれど、町野家の朝は玄米派だから焼きたてパンの匂いなどしないし、幼稚園の頃から使っている毛羽立つ毛布に包まれて寝ているため、ふわふわ羽毛布団という高級品は家にはない。そもそも目が覚めたら、少々狭いけれど安心感のある自室ではなく、白いワンピースを着た亜麻色の髪の少女が暮らすような部屋にいたのだ。
知らない場所にいることに、焦ったり戸惑いもしたが、すぐにすべてがどうでもよくなった。天使に鍵を届けたらタイムスリップしていたなんておとぎ話のような現実を受け入れず、まだ夢の続きを見ていると思い込むほうが得策だと、脳がそう判断したのだろう。
「ま、まだ夢の続きを見ています……。うん、だって視界がぼやけています……」
「メイミィ、往生際が悪いよ、君は目覚めたんだ。もう夢なんて見てないよ」
「そ、そんなハッキリ言わなくてもいいじゃないですか……」
「いいや、ハッキリ言うよ。今見ているのは現実だ。現実から逃げるな!」
おかしい、天使が現実を受け入れろと言っている。存在自体が非現実的なのに。
「俺達も夢だと思いたいよ。メイミィの願いを叶えるために呪文を唱えたら、タイムスリップしていたなんて」
「気づいたら私たちは二○二五年から十八年前に遡って、平成十九年、二○○七年にタイムスリップしていた……」
「先に言うけど俺達はタイムスリップなんて超常現象は起こせないからね」
ヴェンデルがそう言うと、隣のイシアも頭を上下に振った。天使というものは存在そのものが超常現象だし、ヴェンデルが呪文を唱えていたら過去に飛ばされたので、タイムスリップの原因は天使にあるのかと思っていた。が、どうやら違うらしい。
「俺達も急にオルゴールの音が鳴りだしたから戸惑った。さらにおばあさまが現れたから度肝を抜かれたよ。お屋敷には俺とイシアしか住んでいないっていうのに」
「お、おばあさま側からすれば、私たちは突然お屋敷に不法侵入した不審者ですけどね」
「そうだね。それなのに僕たちに寝床を与えてくれたおばあさまには感謝しかない」
「朝食も私たちの分まで用意してくれて……」
「ありがとうおばあさま」
「ありがとうございます、おばあさま」
「いいの、いいの。なにか事情があったのかは知らないけど、困っている人を助けるのは当然でしょう。困りごとが解決するまで、ずっとここにいていいのよ」
天使と人間の会話を菩薩のような微笑みで聞いていたおばあさまへ、寝床と朝食を与えてくれたことの感謝を伝える。突然現れた不審者三人組を、寛大な心で受け入てくれたおばあさまには感謝してもしきれない。
「おばあさま、ずっといていいなんて言われたら、現代に帰れるまで本当にこのお屋敷にいるよ。本当にいいの?」
「いいのよ。かわいい天使とお嬢さんが、この広くて淋しいお屋敷に住んでくれるなんてばあちゃんとっても嬉しいわ」
「おばあさま……」
ヴェンデルは優しいおばあの言葉に感動している様子だ。私もおばあさまの優しさに胸を打たれ、つい目元が潤む。
しかし目線を横に向けると、こんな素敵な言葉を聞いてもまだおばあさまに怯えるイシアの顔が視界に入ってきたので、苛立ちですぐに目元は乾いてしまった。
イシアは自分を認識できる人間――おばあさまと私に恐怖心を抱いているのだ。見えないはずの自分を透視することができる存在がいたら、怖いのは当たり前である。しかし何もしていない私たちを恐ろしいものを見るような目で見つめるのは。流石に傷つくからやめてほしい。
なんだか、無性にイシアに意地悪したくなる。
「ヴェ、ヴェンデル……あなたは翼の失った天使は、人間には見えないと言ったはず……ですよね?」
「そうだ。だからおばあさまに逢ったとき、イシアと一緒に膝から崩れ落ちた。俺達のことが見える人間がまた現れたことに驚いた」
「あ……ヴェンデルは、私とおばあさまのことが、怖いですか?」
「なんで? 全然怖くないよ」
「じゃ、じゃあ……イシアは、私とおばあさまが怖い……ですか?」
急に話しかけられて驚いたのか、イシアはビクっと肩を思いきり震わせた。その姿を見て、意地悪な質問をしたことをすぐに後悔した。
イシアは唇を紫色に染めあげ、手をガクガクと揺らしながら私とおばあさまを交互に見つめる。
ぶるぶると怯えた猫のように震えるイシアはとても可愛くて、なぜか私は歯ぎしりをしてしまった。イシアを見ていると、自分でもよくわからない感情が生まれて戸惑ってしまう。
「大丈夫だよ」
ぶるぶると震えるイシアに、ヴェンデルが声をかけた。とても穏やかな声色で、この人たちは優しい人だから大丈夫、怖がらなくていい、と怯えるイシアを宥めている。
ヴェンデルの言葉を聞いて、だんだんとイシアの震えが収まり始めた頃、おばあさまも声をかけた。
「私のことが怖いのに、さっきふたりがばあちゃんに向かって、ありがとうございます、と言ったとき、一緒にお辞儀をしていたわねぇ。いい子、いい子」
優しいおばあさまの言葉に、イシアはまたぺこりとお辞儀をした。
「あ、イシア……意地悪な質問しました。本当にごめんなさい」
私がそう謝ると、イシアは唇をぱくぱくと動かした。「大丈夫、こちらこそごめんなさい」と言っていることを、ヴェンデルが教えてくれる。
声が出なくても一生懸命唇を動かすイシアの様子を見て、おばあさまが、
「あれまぁ、イシアちゃん。声が出ないなら文字盤があるわよ。五十音表を薄い板に貼り付けたものがあったはずだわ! どこの部屋に置いたかしらねぇ」
このお屋敷のどこかに文字盤があるらしい。文字盤があればイシアはコミュニケーションを取りやすくなるはずだ。しかしどこに置いたのかおばあさまは見当もつかないようで困っている。
困っているおばあさまの姿を見て、私はふと思いついた。
「お、おばあさま……! 私が文字盤を探します! 探すついでにこのお屋敷の掃除もします! この美しいお屋敷の構造を覚えるためにも、玄関から裏口まで、地下から屋根裏部屋まで掃除させてください!」
「おばあさま、メイミィだけじゃなく俺達も文字盤を探がして掃除します.。なぁイシア」
ヴェンデルはイシアの方へと振り返り、優しい顔でアイコンタクトをとる。
イシアはこくこくと頷いた。
「有り難いことをいってくれるわねぇ。それじゃあお言葉に甘えてお掃除をお願いしてもいいかしら。あ、汚れてもいいように作業服を支給するわ。特に芽深ちゃんは制服を着ているしね。汚れたら困るでしょう」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます」
「昨日芽深ちゃんが寝た部屋のクローゼットに、作業服が三着しまってあるわ。部屋に行って着替えてきなさい」
「了解しました!」
おばあさまにそう言われた私たちは、作業服に着替えるため寝室に行った。
「す、すごいですよ、これ……」
私たちはクローゼットを開け、困惑していた。
作業服があると言われたので、てっきりシンプルなつなぎやジャージをイメージしていたのだけれど、目の前にあるものは、あまりにもシンプルとはかけ離れていて。
「え、これメイド服だよね?」
「そうですね、メイド服です……。カフェの店員さんみたいな服もありますよ……」
クローゼットにしまわれた作業服とは、男性用のウェイターユニフォームにクラシカルな英国風メイド服、そしてアメリカンダイナーガール風のワンピースの三着だった。
輝く白シャツに映える黒ネクタイとベストにソムリエエプロンといった、オシャレなカフェのウェイターさんが着用する服に、ふりふりのエプロンがかわいいロング丈の黒の半袖メイド服。そしてギンガムチェックと小さなエプロンが可愛いミニ丈のピンク色のアメリカンダイナー風のワンピースは、見ているだけで心が躍ってしまうほどキュートだった。
「ねえメイミィ。引き出しを開けたら、メイド服用のヘッドドレスまで出てきたよ」
「小物までちゃんと揃っていますね……」
おばあさまのお孫さんは、どうしてこんなクオリティの高い衣装を持っているのだろう。かなりのコスプレ好きの人だったのかな。
「え、これ着なきゃダメ?」
「う、うーんと、おばあさまはご厚意で、私たちに作業服を着なさいと言いましたから、着た方がいいと思います……」
「でもこれ、随分難易度が高い服だね」
「そ、そうですね」
「いやぁ、恩人のおばあさまが作業服を貸すって言ったから着たいけどさぁ……。メイド服にアメリカンダイナーガール風ね……」
「い、いやヴェンデルは似合うと思いますよ」
「ほんと? 似合うかな……。いや、やっぱいいよ大丈夫だよ」
「な、なんでそんなこと言いますか……。もっと自信をもってください!」
「いくら似合うと言われても、メイド服もダイナー風の服も俺じゃサイズ的に厳しいよ」
「あ、確かに……」
ヴェンデルの身長は見たところ、一八○センチの前後くらいで、筋骨隆々とまではいかないが鍛えられた体をしている。
「……ふふっ」
「ちょっとメイミィ、なに笑っているの」
ヴェンデルがメイド服を着た瞬間、服が破裂する姿を脳内再生し、少し笑い声をこぼしてしまったところ、ジトっとした目で睨まれてしまった。
「あ、じゃあイシアが着ますか……?」
その言葉を聞いた瞬間、ヴェンデルの顔がパッと輝いた。
「確かに、イシアだってメイド服似合うだろ。メイドになったイシア見てみたいな」
「わ、私も見たいです!」
イシアはヴェンデルとまったく同じ身長だし、筋肉だってあるけれど。骨格のせいなのか体は薄く腰がとても細かった。メイド服を着ても生地が破けることはないだろう。なによりフリルが似合う華やかな顔をしている。
ヴェンデルと私に期待の眼差しで見つめられたイシアは、冷や汗をかきながら唇をぱくぱくと動かす。イシアの言っていることを瞬時に理解したヴェンデルは舞い上がった。
「恥ずかしいけど、ふたりが喜んでくれるなら着るよって言ってくれた。お前は優しいな」
恥ずかしそうな顔をして承諾してくれたことに感謝の気持ちを持って、ヴェンデルはイシアの頭を撫でた。
「あ、じゃあ私はこれを着るのか……」
盛り上がる天使たちをよそに、ギンガムチェックとエプロンがキュートなピンクのミニ丈飴ダイナー風ワンピースを手にした私は、そっとため息をこぼした。
こんなに可愛い服、着てみたいけど着ちゃいけないよ。
可愛いものは大好きだし、レトロなものも好き。今私が手にしているのは可愛いとレトロが合わさった最強のコスチュームであり、見ているだけで胸がときめく代物だ。この服を着れたら、キュートなティーン向け映画に出てくるキラキラの女の子になれるだろう。
でも、私には勇気がない。可愛い服を着る勇気がない。誰だって好きな服を着る自由があるはずだけれど、小学生のとき、お気に入りのミニスカートを履いて学校へ行ったら、似合ってないとクラスメイトに言われたことがあったのだ。それ以来、また似合っていないと言われるのが怖くて、小学校を卒業するまでジャージを着て登校した。ちなみにお気に入りのミニスカートは今でも押し入れにそっと閉まってある。
「ああ、メイミィが暗い顔をしている」
「い、いや、ぜんぜん元気ですよ……」
「ふーん。どうせこの服が似合わないとか思っているんだろう」
図星です。なんでヴェンデルは私の考えていることがわかるのかな。
「今度は『なんで私の考えていることがわかったの』って顔をしているね。自分では気づいてなさそうだけれど、メイミィは感情がすぐに顔に出るんだよ」
「え、そうなんですか……恥ずかしい」
思わず両手で顔を覆ってしまう。
そんな私にヴェンデルは呆れた声を出した。
「メイミィはとても可愛いらしい子だと俺は思うよ。メイド服もダイナー風の服もきっと似合うし、それに可愛くなくてもこの服を着ていいんだよ。メイミィは可愛い服は可愛い人しか着ちゃいけないっていう考えの持ち主なの?」
「そ、そういうわけでは、ないです……。誰にだって好きな服を着る自由があります」
「そのとおり。着たい服を好きなように着ればいいだけなのに、ホント人間は自由を自分たちで制限するからいけないよ」
「た、確かに……。そうですね……」
「あといつまで顔を隠しているの」
「い、いや……、さっき、感情がすぐに顔に出るって言われて、恥ずかしくて顔を隠したんですけど……」
「手をはずしてよ。友達に顔を隠す必要ないでしょ。俺達は色んな表情のメイミィが見たい」
「ダ、ダメです……」
「なんで」
「だってヴェンデルが、可愛いって言ってくれたから……嬉しくて泣いちゃいそうなんです……涙目になっているの、見られたくない……」
「可愛いって言われたら泣いちゃうの? 人間って本当よくわからないな……」
「美形のヴェンデルにはわかりっこないです……」
「……俺にはメイミィの気持ちを理解することができないけどさ、これからは自分の好きな服を着て、人の目を気にせず自由におしゃれをする君に生まれ変わってほしいよ。その生まれ変わる第一歩が、今このときだ」
「……はい。これからは人の目を気にせず自分の着たい服を着ます……。あ、公序良俗はちゃんと守りますから安心してください……。都会を水着で出歩くなんてことはしないので」
「いやそんな心配はしてない」
「あと、ヴェンデルには私の気持ちはわからないなんて言って、ごめんなさい……。あ、あと、私のことを『友達』と言ってくれてありがとう……。このままずっと友達ができないまま生きていくと思ってたから、こんな素敵な方と、友達になれて嬉しいです……」
「もう、そんなに落ち込まないで。とにかく俺達はあっちの部屋で着替えてくるから、メイミィも早く着替えな」
ヴェンデルはそう言ってイシアの手を掴み部屋を後にした。ふたりが歩いている姿を手の隙間から眺めていたら、ヴェンデルについて行くイシアが、後ろを振り向き、こっそり私にグーサインをしてくれて、その優しさに涙が零れてしまった。
「う、うわあ……!」
私は部屋に置いてあった姿見を見つめて、感嘆の声を漏らした。
「すごい、スカートがひらひらしている……」
横に広がったピンクのスカートがとても可愛くて思わず一回転すると、回転に合わせてひらひらと揺れてさらにときめいてしまった。
「あ、すごい、手足を綺麗に見せてくれるのに……、ポッコリしたお腹は隠されてる」
パフスリーブと横に広がったスカートが、私の手足をすっきりと見せてくれて、内蔵を支える腹筋がないため瘦せているのにポッコリと出ているお腹は、腰にキュッと巻かれたエプロンのおかげで目立たないようになっていて。そしてギンガムチェックのオープンカラーが首元をキュートに彩っている。
姿見に映っているダイナーガールになった私は、あまりのコスチュームのかわいさに、先ほどの落ち込みとは打って変わって浮かれていた。本当に、古き良き映画に出てくるキラキラの女の子になったみたいだ。
「メイミィ。そろそろ部屋に入っていい?」
「あ、えっと大丈夫です! あ、やっぱりちょっと待って!」
ドアの向こうから聞こえるヴェンデルの声に冷静になった私は、急いで脱ぎ散らかした制服をたたむ。
「もういいかーい」
「大丈夫です! 今開けますねー!」
私は急いでドアノブに手をかけたが、似合っていないと言われたらどうしよう、と一瞬そんなことを考えてしまって、思わず手を離してしまった。
……いや、ヴェンデルとイシアは着たい服を着る勇気もない私を励ましてくれた。あんなに優しいふたりを信じることのできない意気地なしにはなりたくない。
意気地なしではだめだ。可愛いらしい大人の女性になるには、友達を信じる強さがないと。
ヴェンデル、イシア、ふたりになら見せられるよ――心の底からそう思い、ドアを開けた。
「おお。とても似合ってるね」
「あ、ありがとう……ございます」
似合わないなんて言われたらどうしよう、なんて不安は杞憂だった。
ドアを開けたら、爽やかなウェイターさんとなったヴェンデルがいて、私を見ると優しげに笑い、可愛いと褒めてくれた。
「服のサイズがピッタリだね。メイミィは身長何センチ? 手足が長いよね」
「ひゃ、一六二センチです……。あの、ヴェンデルもとっても格好いいです……。こんなウェイターさんが働いてるカフェが実在していたら、連日長蛇の列の大人気店になっているはずです……」
「あはは! ありがとう……。ほら、イシアも可愛い姿をメイミィに見てもらいな」
「あれ、イシアはどこにいますか。メイドさんになった姿を見たいです」
「ドアの後ろに隠れてる。ほら、大丈夫だよ、早くおいで」
ヴェンデルがそう言うと、ドアに隠れていたイシアが恥じらいながら出てきた。
「え⁉ なにこの清純派メイドは……」
メイド服を着たイシアを見て、私は驚き、そのあまりの可愛さに釘付けになってしまった。
「頭からつま先まですべてが可愛いんですけど……」
イシアはふんだんにフリルとリボンがあしらわれたメイド服を、完璧に着こなしていた。黒のドレスの上に着用された白いエプロンは、フリルやリボンで装飾されメルヘンさを強調し、ウエストマークがイシアの細い腰をさらに際立たせていた。ハーフアップにまとめたダークレッドの髪の毛を飾る白のヘッドドレスは、乙女チックな印象を受ける。
「夢みたいに可愛い……」
イシアは落ち着かないのか、ふんわりとした襟足をいじっている。
本当に綺麗なお姉さまのようだ。イシアはクラシカルなロング丈の英国風メイド服を着て、絵本に出てきそうな優雅で清純な雰囲気に包まれていた。
「イシア……。私ね、実は昔から、サイダーみたいに甘いけどちょっと刺激的な清純文学少女になりたいと思っていたんだ……。だからイシアの清純さを尊敬します」
「なに言っているのメイミィ」
突然変なことを言い出した私に、ヴェンデルが呆れている。
「あは。おかしなことを言ってごめんなさい」
「いくらでもおかしいことを言っていいけど、イシアのことは困らせないで」
「ど、どうしようかな……。ふふっ。うふふっ」
「どうしようかなじゃないよまったく……。でもメイミィは暗い顔より笑顔の方が似合うね。自然体の笑顔が素敵だよ」
突然、ヴェンデルに笑顔が素敵と言われて、思わず目を丸くしてしまった。笑顔が素敵なんて、生まれて初めて言われた……。
「そ、そう言ってくださり、ありがとうございます」
「なんだかメイミィが輝いて見えるよ」
「ほ、本当ですか? 嬉しいな……。きっと輝いている理由はこのコスチュームのおかげですね」
「うーん、それもあると思うけど、僕らにだいぶ気を許してくれるようになったからじゃない? リラックスした環境のほうが本来の輝きを放てるんだよ。あ、さらに輝くために、その目にかかっている邪魔な前髪をアレンジしようか」
「え、前髪を⁉ で、でこ出しはできません……」
「今のメイミィならひたいを出したほうがいいよ。表情が少しづつ明るくなってきているし、なにより綺麗な瞳をしているから。前髪で顔を隠すのはもったいない」
「え、でもまだ心の準備が……」
「心の準備なんかしなくて大丈夫だよ。普段イシアのヘアアレンジは俺が担当しているから、こういうの得意なんだ」
ヴェンデルは私を姿見の前まで移動させると、ポッケからピンを取り出し、前髪をちょちょいのちょいと高速でアレンジした。
「はいできた。髪の毛は結ばず、ヘアピンだけを使った簡単ねじり前髪だよ」
「すごい……。天才的なヘアアレンジです……」
目にかかっていた前髪をセンターで左右に分け,、分けた前髪を一束ずつ後ろにねじりながらピンをクロスするように留める、ねじり前髪というヘアレンジ。産毛を少し残しているのもかわいらしい。
「ほら、前髪で顔を隠すよりひたいを出して明るく見せるんだよ。髪のせいでわかりずらかった、メイミィのたれ目がよく見える!」
「あ、ありがとうございます……。あ、で、でも、本当に、私が悪いんですけど、おでこにニキビがあるので、やっぱり、恥ずかしいです……」
「ニキビがあるならひたいを出さなきゃ。前髪で隠したらダメだよ」
「そ、そうですよね……」
「夜更かしせずにちゃんと寝るんだよ。睡眠不足は肌に悪いからね」
「あ、そう思うのですが、夜寝る前にするスマホいじりや妄想が楽しくて、ついつい睡眠時間が短くなってしまいます……」
「これからはそういうのは程々にしてね。思春期だしストレス溜まってそうだからメイミィは」
「は、はい。これからは睡眠時間を長くします。それに、気が向いたら皮膚科に行ってニキビの治療をしてもらいます」
「そうしな。ひたいの形が綺麗なんだからニキビがあったら勿体ないよ」
「ね、ねじり前髪、とってもおしゃれで可愛いです。自分じゃない誰かにヘアアレンジしてもうらうと、なんだかモデルさんやアイドルになれた気がして嬉しいです。ありがとうございます……」
「どういたしまして。それじゃあ、おばあさまのところへ行こうか」
作業服に着替えた私たちは、おばあさまのいる食堂へ向かった。途中、ヴェンデルがイシアに服のサイズがきつくないか聞いていて、スカートは足がすーすーするのが落ち着かない、とイシアは答えていた。
「あらぁ、みんな可愛いわぁ」
おばあさまは作業服を着た私たちを笑顔で褒めてくれた。
「俺も可愛いですか」
「そうよ。芽深ちゃんとイシアちゃんも可愛いけど、年寄りから見たらヴェンデルちゃんも可愛いのよ」
「お、おばあさま……。あの、作業服を貸してくださり、ありがとうございます」
「うふふ。芽深ちゃんもイシアちゃんも清楚な雰囲気があっていいわね」
おばあさまに褒められたことで、私は照れつつ、掃除へのやる気がさらに湧いてきた。
「ぜ、全力で部屋の掃除をします! 全力掃除宣言!」
「俺達はこのお屋敷を隅から隅まで綺麗にすることを、ここに誓います。ほらイシアも誓おうよ……っておい、ちょっとイシア! まだおばあさまに怯えているのかよ! 体がビクついている!」
「わあ、猫が怯えているみたいです」
「そういうこと言ってる場合じゃない! メイミィも部屋に帰ろうとしているイシアを捕まえて!」
騒ぎ始めた私たちを、おばあさまは相変わらず観音菩薩の微笑みで見守っていて、朗らかな声で呼びかけた。
「それじゃあ、若者たちがお屋敷をピカピカにしている間、私はゆっくり紅茶を飲みながらラジオでも聞いているわ」
「ふたりは、現代ではこのお屋敷に住んでいますよね」
「うん。ただ実のところまだ住み始めて三ヶ月くらいしか経ってないし、キッチンと寝室とお風呂場しか使ってないから、あんまりお屋敷の構造とか把握してないんだよね」
「そうだったんですか。住み始めて三ヶ月くらいじゃこの広いお屋敷のすべてを把握しきれないですよね」
「そうなんだよ。あとメイミィ、もう敬語を使わないで」
「え、敬語ですか?」
「そう敬語。メイミィが昨日より言葉がつっかえなくなったことがすごく嬉しいのに、まだ敬語を使ってて距離を感じる」
「あ、確かに言葉がつっかえずに出るようになりました。家族以外でスムーズに会話できるようになるなんて、感無量です」
「また敬語使ってる。友達なのに、一緒にタイムスリップした仲なのに敬語使ってる」
「ご、ごめんなさい……。じゃなくて、ご、ごめん」
「謝らなくていいよ。ただ敬語をやめてほしいだけ」
一階の応接間にて、ヴェンデルは窓を拭き、イシアは雑巾をかけ、私はほうきでゴミを集めていた。
お屋敷の掃除をしますなんて勢いで言ったはいいものの、お屋敷は広く部屋の数も多いいため、掃除開始から一時間しか経っていないというのに疲れていた。切実に体力が欲しい。
雑巾がけをしていたイシアがバケツの水を変えに応接間から出ていくと、集中力が切れた私とヴェンデルは掃除を中断して、雑談を始めたのである。
「ねぇメイミィ。おばあさまは何で現代にはいないのかな」
「なぜでしょうか……。あ、違う。な、なんでかな。ふ、ふたりがお屋敷に住んだときには、もうおばあさまはいなかった?」
「うん。いなかったよ。天上界から地上に降りてどこで暮らそうか悩んでいたときに、このお屋敷を見つけたんだ。お屋敷には誰も住んでいなかったし、森の奥にあるから人が訪れることはなさそうで、掘り出し物を見つけたからイシアと一緒に喜んだ。まさかあんな優しい人が昔このお屋敷に住んでいたなんて」
「そうなんだ……。じゃあおばあさまが現代でお屋敷に住んでいない理由って、親族の家に引っ越したとか、老人ホームに入居したとか……。不謹慎だけど、お亡くなりになられたから、とか……」
「まぁ、考えられるとしたらそうだよね」
おばあさまは朝から自家製のパンを作るくらい元気な人だけれど、十八年の間に体調が悪くなってしまったのかもしれない。時の流れはいつだって残酷だ。
なぜ時間は容赦なく過ぎるのだろう。時間が過ぎるせいで、大切な人に二度と会えなくなったり、大切な思い出も忘れてしまうし色褪せてしまう。
大切な人も思い出も、広大な時空の海に飲み込まれて消えてしまうのだ。
永遠に二○○七年で止まっていれば、おばあさまはいつまでも元気にこのお屋敷で暮らせるのになぁ。
「あ、でも、それじゃあ私は生まれないや」
「生まれない? どうしたのメイミィ」
「いや、おばあさまがこのお屋敷にいなくなるのが悲しくて、時がこのまま止まってしまえばいいと思ったんだけど……。でも私は丁度一か月後の十二月三十日が誕生日だから、時が止まったら生まれてこないなーって」
「まだメイミィ生まれていないんだ、一緒だね。僕らもまだこの時代には存在してないよ」
「え、ふたりとも人間でいえば二十代後半の男性に見えるけど……」
「生まれてはいるんだよ天上界で。だけど地上に降りてないから、まだ俺達がこの世に存在していることにはならないの。俺達は天上界っていう地上とは次元の違う場所で生まれ育ったんだ。この世には存在しない美しいところだよ」
「どういうこと? 天上界で既に生まれたならこの時代に存在してるんじゃないの」
「人が死ぬときに『あの世に行く』と言うよね? 『あの世』は俺達が生まれた天上界のこと、この世には存在しない場所。この世、つまり地上にはメイミィが存在しているけれど、死亡して天上界に昇っていないから、まだメイミィはあの世に存在したことにはならない。その逆で、俺達は十年くらい前に地上に降りたから、そのとき始めてこの世に存在したことになったんだよ」
「な、なるほど……。天上界から地上に降りて、ようやくこの世に存在したことになったんだ」
「そうそう……懐かしいな、昔は天上界と地上を行ったり来たりしてたな。今はもう天上界に戻る気はないけど」
「そうなんだ。じゃあ、まだみんなこの世に存在していないのね……」
「うん。まだこの世には。……あ、イシアお帰り」
応接間の扉が開き、バケツに綺麗な水を汲んだイシアが戻ってきた。ヴェンデルは、「水を汲むの大変だったか?」とイシアに声をかける。
イシアは潤んだ唇を申し訳なさそうに動かし、なにかをヴェンデルに伝える。
「……え、おい! 聞いてよメイミィ。イシアってばバケツに水を汲んだ後、おばあさまに休憩しなさいって言われて緑茶と羊羹食べてきたって」
ひとりで楽しむなよ、と小言を言うヴェンデルを、イシアはとても穏やかな微笑みで見つめている。本物の天使が浮かべるエンジェル・スマイルを見て、不覚にも胸がときめいてしまった。
怯えた顔なんてしないでずっと笑っていればいいのに。そう考えるほどイシアの微笑みは魅力的だった。イシアはその気になれば、端整な顔立ちを生かして人を惑わせる悪魔になれるかも、なんて思ったけれど、しかし他者を手玉にとるほどの器量が彼にはない。何をしても許される美貌の持ち主のくせに、真面目で誠実で、私と同じくらい自分の気持ちを他人に伝えることが苦手なのだ。
「イシアが羊羹を食べてる間に応接間は綺麗にしたからな。さっさと次の部屋へ行こう」
次の部屋では人一倍イシアが掃除するんだよ、なんて言いながらヴェンデルは応接間を飛び出した。イシアと私はちょこちょこと早歩きで追いかける。ヴェンデル、イシア、そして私が縦に一列に並んで歩いている姿は、なんだか昔のロールプレイングゲームみたいである。ドット絵の時代には一直線に並んでフィールドを移動するゲームが沢山あったらしい。
それこそ二○○七年なら、二画面の携帯ゲーム機が主流の時代だ。ドット絵のレトロゲームが沢山あると考えると、家電量販店に行ってゲーム機とソフトを買ってみたくなる。二○二五年だと中古ゲームショプでも、なかなかこの時代のゲームソフトは売っていないのだ。
次はどの部屋を攻略するのだろう、とゲームのキャラになりきって心を躍らせていたら、一番先頭にいる勇者ポジションのヴェンデルが突如立ち止まった。次の目的地に辿り着いたのだ。今度はこの部屋を掃除すればいいのかな?
「……なにイシア。え、ここはだめ?」
部屋のドアを開けようとするヴェンデルに、イシアがストップをかけてきた。ヴェンデルがイシアの唇を見て言葉を読み取る。
「メイミィ。どうやらこの部屋は入っちゃいけないらしい。さっき羊羹を食べているとき、おばあさまにそう伝えられたって」
「そうなんだ。じゃあ別の部屋を掃除しよう」
イシアにも理由はよくわからないが、この部屋には入ってはいけない、とおばあさまに念を押されたらしい。なぜ入ってはいけないのか理由が少々気になるけれど、私たちは駆け出しの勇者なのだ。レベルアップしたらいつかこの部屋に入れるだろう、とお気楽に考えることにした。すっかり勇者ごっこにハマっている。
その後、私たちは和室や倉庫に浴室を掃除し、お屋敷ダンジョンを次々に攻略した。部屋の隅から隅まで綺麗にするミッションをクリアしヒットポイントが切れてきたころ、おばあさまが、「美味しいお昼ご飯を作ったから食べましょう」と声をかけてきた。
「沢山働かせちゃったわねぇ。遅めのお昼ご飯を食べてくださいな」
「やったー!」
ウキウキで食堂に行くと、じゅわじゅわと鳴る熱々ハンバーグが机に並んでいた。急いでダイニングテーブルに座り、両手を合わせて、いただきます! と食事の挨拶をする。
フォークとナイフを両親に教えられたとおりに使ってハンバーグを食べる。すごい、口に入れた瞬間、幸せの味が体中を支配した。肉汁溢れるハンバーグに、さっぱりとしたたまねぎの和風ソースの組み合わせにご飯も進む。白く美しく光り輝くお米は甘みがあって非常に美味しい。
やはりハンバーグにはパンよりご飯が合う。そういえば、前に家族でファミレスに行ったとき、ハンバーグのお供にパンしか選べないときがあって、みんなで悲しみに暮れたことがあった。なんで白米ないのー、と家族揃って言っていたな。我が家はみんなパンよりご飯派だから……。
みんな、おばあさまのハンバーグを食べたら絶対に喜ぶだろうな。私だけこんなに美味しいものを食べているって知ったら、お姉ちゃんも、お父さんも、お母さんも羨ましがるだろうな……。
そういえば、お母さんから帰りの遅い私を心配するメッセージが携帯に届いていた。今頃お母さんはどうしているのだろう。元気にしているかな。私がタイムスリップした後、夕飯食べてお風呂入ってぐっすり寝て、仕事に行ったのかな……。それとも急にいなくなった私を探しているのかな……。
「メイミィ、大丈夫?」
ヴェンデルが心配そうに声をかけてきた。いや、ヴェンデルだけじゃない。おばあさまとイシアも、気づいたら私を心配そうに見つめていた。
こんなに美味しいハンバーグを悲しい顔をして食べていたせいで、みんなが私を気遣っている。
「ご、ごめんなさい……。とても美味しいのに、その、家族のことを思い出しちゃって。今、みんな何しているんだろう。とか、急にいなくなって、迷惑かけているのに、こんなに楽しく過ごして、ごめんなさいって考えちゃって……」
「芽深ちゃんの気持ちを、今感じていることを、私たちにもっと聞かせてほしいわ。支離滅裂でもいい、上手に伝えようと思わなくていい。大丈夫よ。あなたのどんな言葉もちゃんと受け止めるから、安心して言葉を紡ぎなさいな」
「家族が恋しいです……。掃除を始める前に、家族に、連絡しようと、スマホ……あ、スマホは携帯のことです……。えと、携帯を起動したんです。でも、携帯起動しているのに、圏外って出てきてしまって、家族と連絡できないんです……。それで、もう一生家に帰ることができないのかと思うと不安で……。家族に会いたいのに……。私、タイムスリップする前、いつもどこか、神秘的で不思議な世界に行きたいと思っていました……。有難いことに、念願叶っておとぎ話のようなお屋敷に今、いますよね……。それなのに、それなのに、結局家が恋しいです。現代に戻りたいです」
話しているうちに、どんどん不安が大きくなっていく。私は、現代に戻る方法もわからなければ、そもそもなぜ過去にタイムスリップしたのかもわからないのだ。吞気に美味しいハンバーグを食べている場合じゃなかった。
部屋を掃除しているときは、レトロゲームを買いたいな、とかおばあさまがこのお屋敷にずっと住んでいてほしいから時が止まってほしいな、とか思っていたのに、今はおばあさまのいない現代に帰りたい気持ちでいっぱいになっている。
ごめんなさいおばあさま。こんなに優しくしてくれるのに、私はあなたのいない現代が恋しくて仕方がないです……。本当に、ごめんなさい……。
心の中でおばあさまに謝罪すると、鼻の奥がツンと痛む。嫌だ、涙が出てきそうだ。みんなに情けない姿を見せちゃだめだ。私はすぐに泣くから、小学生の頃からクラスメイトに面倒な子だと思われてきたのに。
泣いてはダメだ、泣いてはダメだ、と必死に言い聞かせ、瞼を閉じる。泣いたらみんなに面倒な人だと思われるから、嫌われてしまうから。だから、お願いだから涙なんか流さないで。お願いだよ……。
頭の中ではそう思っているのに、瞳は潤んでいて。急いで服の袖で涙を拭こうとしたそのとき、
「メイミィ、必ず家族のもとへ帰れるから悲しむ必要なんてないよ……。安心して」
ヴェンデルが、私の両手をぎゅっと握った。力強さを感じる大きな手のひらが、私の両手を包みこむ。
「(とんとん)」
ヴェンデルに手を握られたと思ったら、今度は左肩を遠慮がちに叩かれる。左を向くと、月みたいに優しい微笑みを浮かべて私を見つめるイシアがいた。
ぼやけた視界の中でも淡く輝くイシアは、零れ落ちた涙をレースのついたシャボン玉のハンカチで拭き取ってくれた。
イシアは唇をゆっくりと動かす。鮮明になった視界に表れたイシアは、よりいっそうきらめいて見えた。
「だ……い……じょ……ぶ……? 大丈夫って言っているの?」
可愛らしい唇を見つめ、伝えようとしている言葉を読み取ると、イシアは頭を上下に揺らした。
大丈夫と言ってくれたのか。
天使たちは、大丈夫、必ず家族に会える、現代に戻れる。だから悲しむ必要なんてない、安心して、と私を励ましてくれた。
「ふたりとも、ありがとう……」
「メイミィ、あのさ、今は過去に来た理由も現代に戻る方法も、なにもわかっていないけど、でも、きっとどうにかなるからさ」
「うん……」
「せっかく自分が生まれる前の世界にタイムスリップしたんだから、この世界を存分に楽しもうよ、過去を楽しもう」
「……あはは、そうだね、ヴェンデルいいこと言うね」
「ううん、俺じゃなくてイシアの言葉だよ。俺は声が出ないイシアの代弁をしただけ」
「ええ、イシアが! イシアいいこと言うねぇ」
いい子と言われたイシアは照れくさそうにしている。そんなイシアの頭を、ヴェンデルが優しく撫でた。おばあさまは私たちを見て、みんないい子ねぇ、と笑っていた。
そうだよね、不安になるよりも過去を楽しもう。そして家に帰ったとき、この時間旅行の話を手土産に家族と夕飯を食べるのだ。
うん、そうだ。私はきっと家に帰れる。
「あの、おばあさま……。急にこんな話して、泣き出してすみません」
「何言っているの。さっき言ったでしょう? あなたの言葉をちゃんと受け止めるから、今感じていることを話してほしいって。芽深ちゃんは私のお願いに答えてくれただけじゃない。謝る必要なんてないわ」
「で、でも、私はスムーズに気持ちを伝えることができなくて、途中で泣いてしまって、天使を、おばあさまを困らせて……」
「自分の気持ちをちゃんと言葉にして相手に伝えられているじゃない。自信を持ちなさい。複雑な感情を説明できるってすごいことよ」
「あ、ありがとうございます……。あ、えと、さ、最後に、おばあさま。ハンバーグ、とっても美味しかったです」
私がそう言うと、おばあさまも、ふたりの天使もにっこりと笑ってくれた。
