不審者三人衆がタイムスリップをする、ほんの少し前のこと。
芽実が天使の落とし物である鍵を届けにお屋敷に着いたとき、天上界を統治する美しき女神さまが、興味深そうに地上を見下ろしていました。
普段は、それはそれは退屈そうに頬杖をついて地上を眺めているのですが、愉しそうなデキゴトが地上で珍しく起こっていたので、女神さまの口角はこのときばかりは上がっていました。相変わらず頬杖はついていますが。
女神さまの口角が上がっている理由、それは直属の部下であった、ヴェンデルとイシアが芽深という人間に見つかってしまったからです。
「あやつらはまた人間と関わる気か。あんなことが起きたというのに性懲りもなく近づいて……本当に愚か者だな。それにしてもヴェンデルはまだしも、イシアは例の件以来、人間に酷く恐怖心を抱いていたはずだが」
女神さまのいうとおり、イシアは人間をとても怖がっています。何事もなく芽深と会話をするヴェンデルとは裏腹に、イシアは今すぐ逃げだしたいように見えました。
しかしヴェンデルが人間に友好的であるから、逃げだそうにも逃げられないといった様子。なんとまあ、あの頃と変わらずヴェンデルに対して健気な子だ、と女神さまは思いました。
「イシアよ、人畜無害な人間に怖がらなくてもよいというのに。あんなやつのどこに怖がる必要があるというのか、あの女は純粋なお前すら傷つけることができなそうだぞ」
女神さまは、芽深に目を向けました。どうやら、冴えない人間の少女のことが少し気になったようです。
まだ染めたことのない黒い髪に黒い瞳。少しだけウェーブがかった髪は胸上まで伸びています。冴えない少女のくせに毛先を遊ばせているなんて生意気ですね。しかし芽深の緩く巻いたような髪は地毛です。髪を下すと巻き毛が目立ってしまうので低い位置で一つに結び、日々生活をしているようです。
本人の意志薄弱さを表したような垂れた目に、瘦せた体は心身の弱さを感じさせ、それでいて常に挙動不審のため、女神さまは芽深を観察していると、だんだん苛立ちが募りました。
なぜヴェンデルと目と目を合わせてを会話をしない? 言葉を発するとき、いちいち身振り手振りを入れるな、急に手をガチャガチャと動かして気持ちが悪い!
女神さまは芽深に大変怒っているようです。
それにしてもあの女、気持ちが悪くこれといった才能はなさそうであるというのに、なぜか翼の折れた天使が見えるらしい。翼が生えていないと、人間たちが天使を認識することはできないはずであるが、あんなやつでも見えるくらいだから、案外透視能力を持った人間は多いのかもしれない。
なんと、女は疲れ果てて倒れてしまったぞ。急に眠り込んでしまった女をヴェンデルが抱き留めた。むぅ、こいつは寝ているときは少々見てくれがよくなるな。睡眠中は気味の悪い魂が抜け落ちるからか。
女神さまは芽深のことを好き放題言っていますが、確かに寝ているときの芽深は安らかな表情を浮かべていました。デフォルトで下がっている口角も睡眠中は上がっています。芽深は寝ることが大好きです。幸せな夢を見ているときも悪夢を見ているときも、その寝顔は幸せそうに笑っているのでした。
「我もなんだか眠くなってしまった――ん、あやつら別の時代へ移動したか」
女神さまは寝ている芽深を見て眠気に誘われてしまったようでしたが、突然、お屋敷から姿を消した不審者三人衆がタイムスリップしたことを不思議に思いました。
――あやつらは例の件の処罰として、人の願いを叶える能力以外はすべて剝奪したはず。そもそも、あやつらには時空を操る能力は創造時に与えていなかった。
時空を操る能力などない天使が、突然別の時代へと移動した原因が気になりましたが、女神さまはすぐに考えることをやめ、天上界で今話題のノンフィクションミステリー小説を読み始めました。
あやつらふたりの背中には、もう翼が生えていない。天使でも人間でもない、ただの化け物だ。化け物が何をやっても気にならん。
女神さまは、冴えない少女に多少の興味はあっても、化け物に興味は微塵もありません。美しい装丁の本を開けば、すぐにふたりの天使――いや、化け物が時空を操ったことを忘れ、ノンフィクションミステリー小説を愉しみました。
女神さまも夢中になるほどの、今話題のノンフィクションミステリー小説には、こんなことが書かれています。
十七年前に、人を刺そうと包丁を振り上げた日、私から未来は消えた。
あいつの憎たらしい顔が今でも忘れられない。忘れるどころか時が経つにつれ憎しみが増しているような気がする。なぜあの日刺し殺せなかったのだろう。
包丁をあいつの胸に刺そうとしても、刃先を掴まれた。放せ、お前を刺すと喚く私に、手のひらから血をダラダラと流したあいつは、どうしたの、俺をもっと傷つけたくないの、と笑っていた。
包丁をひねるように動かせば、あいつは痛みに顔を歪め、掴んでいた刃先を放した。
さっきまで酷薄な笑みを浮かべていたくせに、ちゃんと血を流す手のひらは痛いのね。
ああ、それにしても鮮やかな血だ。ラズベリーケーキよりも美味しそうな色をしている。
痛みに歪める顔と美味しそうな血を見て気分を良くした私は、思いっきり包丁を振り上げた。この世からこいつの存在が消えたら、私と姉の心が軽くなる。私たちを苦しめる存在を、自分の手で殺すことができるなんて、なんて嬉しいことなのだろう。
「な、なにをやっているの⁉」
振り上げた包丁をあいつの胸にめがけて突き刺そうとした瞬間、お屋敷に女性の悲鳴が響き渡った。
この声は真梨花ちゃんのお母さんだ。どうして真梨花ちゃんのお母さんがここにいるのだろう? あ、そうか。今日はクリスマスパーティーの日だから、いつもはお屋敷に来ない保護者各位も食堂にまで入ってきたのか。今日は親子でおにぎりを作る特別な日だったことを忘れていた。
真梨花ちゃんのお母さんは判断力に優れている。すぐに携帯を操作した。警察に電話するのだろう……。
「うわああああん」
真梨花ちゃんは泣き出した。
「なにが起きているの、なにが起きている、の……」
太陽みたいに元気いっぱいの中学生、悠くんの声は震えていた。
悠くんごめんね。怖がらせてしまったね。中学生にして人を気遣うことのできる悠くんを哀しませてごめんなさい。
――ねぇ、心の優しい中学生だったあなたは、今どんな大人になっている? 太陽の光を一身に浴びたような明るさと優しさも変わらぬまま、素敵な大人になっているといいな。どうか幸せに毎日を過ごしてください。
ああ、楽しくて穏やかだった日々に戻りたい。あの子たちと、同じ釜の飯を食べていたあの頃に。あの頃の悠くんにもう一度会いたい。
悠くんに会いたい、悠くんに会いたいな。
破れた布団を頭から被り、私は声を上げて泣き出した。
芽実が天使の落とし物である鍵を届けにお屋敷に着いたとき、天上界を統治する美しき女神さまが、興味深そうに地上を見下ろしていました。
普段は、それはそれは退屈そうに頬杖をついて地上を眺めているのですが、愉しそうなデキゴトが地上で珍しく起こっていたので、女神さまの口角はこのときばかりは上がっていました。相変わらず頬杖はついていますが。
女神さまの口角が上がっている理由、それは直属の部下であった、ヴェンデルとイシアが芽深という人間に見つかってしまったからです。
「あやつらはまた人間と関わる気か。あんなことが起きたというのに性懲りもなく近づいて……本当に愚か者だな。それにしてもヴェンデルはまだしも、イシアは例の件以来、人間に酷く恐怖心を抱いていたはずだが」
女神さまのいうとおり、イシアは人間をとても怖がっています。何事もなく芽深と会話をするヴェンデルとは裏腹に、イシアは今すぐ逃げだしたいように見えました。
しかしヴェンデルが人間に友好的であるから、逃げだそうにも逃げられないといった様子。なんとまあ、あの頃と変わらずヴェンデルに対して健気な子だ、と女神さまは思いました。
「イシアよ、人畜無害な人間に怖がらなくてもよいというのに。あんなやつのどこに怖がる必要があるというのか、あの女は純粋なお前すら傷つけることができなそうだぞ」
女神さまは、芽深に目を向けました。どうやら、冴えない人間の少女のことが少し気になったようです。
まだ染めたことのない黒い髪に黒い瞳。少しだけウェーブがかった髪は胸上まで伸びています。冴えない少女のくせに毛先を遊ばせているなんて生意気ですね。しかし芽深の緩く巻いたような髪は地毛です。髪を下すと巻き毛が目立ってしまうので低い位置で一つに結び、日々生活をしているようです。
本人の意志薄弱さを表したような垂れた目に、瘦せた体は心身の弱さを感じさせ、それでいて常に挙動不審のため、女神さまは芽深を観察していると、だんだん苛立ちが募りました。
なぜヴェンデルと目と目を合わせてを会話をしない? 言葉を発するとき、いちいち身振り手振りを入れるな、急に手をガチャガチャと動かして気持ちが悪い!
女神さまは芽深に大変怒っているようです。
それにしてもあの女、気持ちが悪くこれといった才能はなさそうであるというのに、なぜか翼の折れた天使が見えるらしい。翼が生えていないと、人間たちが天使を認識することはできないはずであるが、あんなやつでも見えるくらいだから、案外透視能力を持った人間は多いのかもしれない。
なんと、女は疲れ果てて倒れてしまったぞ。急に眠り込んでしまった女をヴェンデルが抱き留めた。むぅ、こいつは寝ているときは少々見てくれがよくなるな。睡眠中は気味の悪い魂が抜け落ちるからか。
女神さまは芽深のことを好き放題言っていますが、確かに寝ているときの芽深は安らかな表情を浮かべていました。デフォルトで下がっている口角も睡眠中は上がっています。芽深は寝ることが大好きです。幸せな夢を見ているときも悪夢を見ているときも、その寝顔は幸せそうに笑っているのでした。
「我もなんだか眠くなってしまった――ん、あやつら別の時代へ移動したか」
女神さまは寝ている芽深を見て眠気に誘われてしまったようでしたが、突然、お屋敷から姿を消した不審者三人衆がタイムスリップしたことを不思議に思いました。
――あやつらは例の件の処罰として、人の願いを叶える能力以外はすべて剝奪したはず。そもそも、あやつらには時空を操る能力は創造時に与えていなかった。
時空を操る能力などない天使が、突然別の時代へと移動した原因が気になりましたが、女神さまはすぐに考えることをやめ、天上界で今話題のノンフィクションミステリー小説を読み始めました。
あやつらふたりの背中には、もう翼が生えていない。天使でも人間でもない、ただの化け物だ。化け物が何をやっても気にならん。
女神さまは、冴えない少女に多少の興味はあっても、化け物に興味は微塵もありません。美しい装丁の本を開けば、すぐにふたりの天使――いや、化け物が時空を操ったことを忘れ、ノンフィクションミステリー小説を愉しみました。
女神さまも夢中になるほどの、今話題のノンフィクションミステリー小説には、こんなことが書かれています。
十七年前に、人を刺そうと包丁を振り上げた日、私から未来は消えた。
あいつの憎たらしい顔が今でも忘れられない。忘れるどころか時が経つにつれ憎しみが増しているような気がする。なぜあの日刺し殺せなかったのだろう。
包丁をあいつの胸に刺そうとしても、刃先を掴まれた。放せ、お前を刺すと喚く私に、手のひらから血をダラダラと流したあいつは、どうしたの、俺をもっと傷つけたくないの、と笑っていた。
包丁をひねるように動かせば、あいつは痛みに顔を歪め、掴んでいた刃先を放した。
さっきまで酷薄な笑みを浮かべていたくせに、ちゃんと血を流す手のひらは痛いのね。
ああ、それにしても鮮やかな血だ。ラズベリーケーキよりも美味しそうな色をしている。
痛みに歪める顔と美味しそうな血を見て気分を良くした私は、思いっきり包丁を振り上げた。この世からこいつの存在が消えたら、私と姉の心が軽くなる。私たちを苦しめる存在を、自分の手で殺すことができるなんて、なんて嬉しいことなのだろう。
「な、なにをやっているの⁉」
振り上げた包丁をあいつの胸にめがけて突き刺そうとした瞬間、お屋敷に女性の悲鳴が響き渡った。
この声は真梨花ちゃんのお母さんだ。どうして真梨花ちゃんのお母さんがここにいるのだろう? あ、そうか。今日はクリスマスパーティーの日だから、いつもはお屋敷に来ない保護者各位も食堂にまで入ってきたのか。今日は親子でおにぎりを作る特別な日だったことを忘れていた。
真梨花ちゃんのお母さんは判断力に優れている。すぐに携帯を操作した。警察に電話するのだろう……。
「うわああああん」
真梨花ちゃんは泣き出した。
「なにが起きているの、なにが起きている、の……」
太陽みたいに元気いっぱいの中学生、悠くんの声は震えていた。
悠くんごめんね。怖がらせてしまったね。中学生にして人を気遣うことのできる悠くんを哀しませてごめんなさい。
――ねぇ、心の優しい中学生だったあなたは、今どんな大人になっている? 太陽の光を一身に浴びたような明るさと優しさも変わらぬまま、素敵な大人になっているといいな。どうか幸せに毎日を過ごしてください。
ああ、楽しくて穏やかだった日々に戻りたい。あの子たちと、同じ釜の飯を食べていたあの頃に。あの頃の悠くんにもう一度会いたい。
悠くんに会いたい、悠くんに会いたいな。
破れた布団を頭から被り、私は声を上げて泣き出した。
