私はおとぎ話の世界に、本当に迷い込んでしまったのかもしれない。
 広大な森を通り抜けた先に、こんなに素敵なお屋敷があったなんて。
 麗しの天使に落し物を届けるために、閉塞感につつまれた草木生い茂る森の中を、何回もつまずきながら走り続けた。
 足元がふらつきながらも走り続けるうちに、視界をさえぎる木々の群れが少なくなり、ぼんやりと白い大きな物体が見えてきて、それがお屋敷だと理解した瞬間息を呑んだ。
 温かいオレンジ色の灯りが窓ガラスから漏れている、和と洋がミックスされた二階建ての真っ白なお屋敷はとても神秘的だった。

「こんっこんっ……ガチャガチャ!」
 明治時代の建物特有の、西洋の建築様式を取り入れているけれど、和のテイストも抜け切れていない擬洋風建築のお屋敷の前で、天使は困り果てていた。
 鍵を無くしたことに気づいてこんこんとドアを叩き、ドアノブをガチャガチャとひねっている。大きな音をたてずに手の甲をドアに向けて、こんこんと小さく鳴らすその可憐な焦りようは、このお屋敷にかつて住んでいたと思われるご令嬢を想像させた。
 焦りながらドアを叩いているその姿がとても可愛らしい。
 しかし、可愛らしいと思うと同時に、家の鍵を無くしたなんて非常事態のときでも、こんなに可憐でカワユクいられるのね、と少し不愉快な気持ちになった。
 美しい造形をしていると、なんでもない仕草でさえ絵になる。ドアを叩いてあたふたしている姿が、映画のワンシーンみたいに見えてきて、そのことに羨ましさや少しばかりの憎たらしさを感じる。せいぜいもう少し苦しみを味わってほしいと思い、遠目から天使を観察することにした。私は見た目も中身もカワユクない。
 私だったらムンクの叫びみたいな顔をして、「鍵を落としちゃったの。助けて!」みたいな独り言を大声で言って、ドンドンドンドンッ! とドアを叩き、家族にうるさい、と怒られているであろう。
 そんなことを考えていたら、天使がドアを叩いているということは、お屋敷の中に誰かがいるということに気がついた。
 あのお屋敷の中にいるのは人間なのか、天使なのか、それともまた違う種族の生き物なのか。
 中にどんな生き物がいるのかはわからないけれど、ドアの前で困り果てている天使を、ただぼーっと眺めているだけのイジワルな人間を見つけたら、怒ることは想像がつく。
 変な騒ぎになる前にさっさと鍵を渡そう。
 私はできる限りの大声を出した。
「あっ……すみません! さっき公園で鍵を落とされま――」
「どうしたイシア、そんなにドアを叩いて。鍵を持たずに外へ出た?」
 天使に声をかけたその瞬間――お屋敷の中から、少女漫画に出てくる眼鏡をかけた文学青年のような天使が現れた。
 ふたりの天使が驚いた顔をして、私を見る。
 私も驚いた顔をして、ふたりの天使を見る。
 固まること数秒、
「俺たちのことが見えるの?」
 最初に声を発したのは、ドアから出てきた天使だった。
「え……見えます。あの、かっ鍵を、落としませんでした……?」
「本当だ。それお屋敷の鍵だね。イシア落としたの?」
 鍵を落とした天使はイシアというらしい。イシアはずっと無口で、もうひとりの天使が優しい声色で問いかけしているというのに答えることはせず、私を見て怯えている。
 人畜無害な女子高生に怯えるなんて、失礼極まりないやつだな! 
「ここまで届けに来てくれたの? 本当にありがとう」
 イシアの手を引きながら、もうひとりの天使が私のもとまで駆け寄ってきた。彼もまたイシアと同じように背中に翼が生えていない。
「ここまで来るの大変だったよね? ごめんね」
 夜寝る前に聞きたくなるような、心地の良い低い声で話しかけられる。この低音ボイスと月明かりに照らされた黒髪が、彼のクールでミステリアスな雰囲気を作り出していた。    
「森の中を通り抜けるのは、あの、たしかに、大変でした。だけど、こんなに綺麗なお屋敷を見れたので平気です……。なにより、鍵を届けられて……よかったです……」
 私がしどろもどろな返事をすると、天使は少しだけ口角を上げて、ありがとう、と言った。口角がほんの少し上がっただけの笑顔に、私は釘付けになる。
「まぶしいなぁ」
 言葉がすらすら出てこない人間にも、笑顔でありがとう、と言ってくれるなんて。思わず感嘆の声を漏らした。
「……俺のことがまぶしい?」
「あ、はい。笑顔が、輝いてます。い、いやすみません。急に意味がわからないことを言って……」
「いや、大丈夫だよ。謝らないで」
 まぶしいなんて変なことを言っても、天使は変わらず優しい笑顔で話しかけてくれた。
 天使という神聖な生き物であるというのに、魔女の使い魔とされる黒猫を連想させる彼の笑顔に見惚れつつも、ちりん、と鳴った鍵の音を聞いて、ここに来た本来の意味を思い出す。
「あ、そうだ、こ、これ……。鍵です」
「ありがとう」
 天使の大きな手が、鍵を持っている私の手を握った。骨ばった長い指が綺麗で、本当に隅から隅まで丁寧に創られていることを実感した。
「あ、あの……。夜も深まって寒くなってきたし、そろそろ家に帰ります。今からまた、あの広大な森を超えて公園のある住宅地の方へ戻ります」
「夜の森はとても危険だ。暗くて何も見えないし、不審者だっているかもしれない」
「で、でも森を抜けないと家に帰れないです……」
 あの森をまた通り抜けるなんて考えただけで気が滅入る。
 しかし家に帰るには森を通り抜けなくてはいけない。
 早く家に帰ってご飯が食べたいしお風呂にも入りたいのだ。
 家族にも会いたいし。
 授業中に怒られたときも天使を追いかけているときも、遠く離れた世界に行きたいと考えていたはずなのに、結局は家族のいる家に戻りたいと、安心できる場所に帰りたいと、そう思ってしまう。
 今頃お母さんは美味しいご飯を作って私を待っているだろうか。これ以上帰りが遅くなったらきっと心配するだろうな。
 今日のご飯はなんだろう? なんでも喜んで口にするけれど、この疲れた体に染み渡るような、美味しいお味噌汁が飲みたいなぁ。この、冷えた体を温めるような……。
 ご飯を食べたらお風呂に入りたい。温かいお湯を全身に浴びて、寒さに震える体をお湯で癒したい。
 どうしよう。家に帰らなくてはいけないのに体の力がどんどん抜けてくる。
 足の感覚が鈍くなって、頭も朝靄がかかったようにぼやけてくる。
 なんだか瞼がすごく重い……。
「大丈夫!?」
 瞼を閉じた瞬間、強烈な睡魔に襲われた。睡魔は私の心身を支配し夢の世界へと誘う。
 薄れゆく意識の中、全身が温かいものに包まれた。
 天使が頼りがいのあるたくましい腕で抱き留めてくれたのだ。
 黒髪の天使はクールでミステリアスだけれど、私を抱き留めてくれる優しさがある。鍵を届けに来た私を見て怯えるもうひとりの天使とは大違いだ。だいたい、なんでイシアはただの女子高生に怖がっているの? 私が挙動不審だから!? 
 なんて恨み言をくどくど吐きながら、私は眠りについた。

 夢を見ている。
 足元に広がる草原も、木製のベンチも、小さなブランコも、無限に続く空も、すべてが灰色に染まった、漆黒にも透明にもならないぼんやりとした不気味な世界が広がっている。
 それでも、そんな世界の中でも、灰色のベンチに座る瘦せた青年は光り輝いていた。私の片想いの相手はいつでもキラキラしていて、すべてが灰色に染まったぼんやりとした世界の中でも、モノクロ映画の俳優みたいに光と影がある。
「あなたのお名前を教えてほしいです」
 淋しげにベンチに座る瘦せた白シャツのあなたの名前が知りたくて、私は声を張り上げる。しかしあの人は私の質問に答えてくれない。
 「あなたのお名前を教えてほしいです!」
 聞こえてないのかと思い、今度は先ほどより声を数倍張り上げて質問をする。しかし彼は腕と足を組んで、斜め下に生えている灰色の花を見つめるだけで、私の質問に答えてくれない。
 どうして私のことを無視するの。こっちを見てよ。私に無関心なのやめてよ……。
「酷いよー! バカバカバカバカ! さっきからずっと無視して! 私よりその花を見ているほうが幸せかー!」
 高校生が幼稚園児のように声を張り上げているというのに、彼は表情一つ変えない。せめてうるさい私に心底嫌な顔をするとか、なにかリアクションをしてほしい。なぜこんなにも無視するの。
「なんで無視するのかなぁ。夢でくらいあなたと会話したいよ」
 私は夢の中ですら好きな人と会話できないらしい。

「パチパチ……パチ……パチ」  
 アラームのような機械音とは違った、普段の生活ではあまり聞かない音が聞こえてくる。
 瞼を少しずつ開けていくとカスタード色の世界がぼんやりと見える。先刻見た灰色の世界より、この温かで淡い黄色い世界のほうが夢だと錯覚してしまうくらいには綺麗だった。
 数回しぱしぱと瞬きをしたら、少しずつ目がまぶしさに慣れてくる。眼球だけを動かすと、鈴蘭みたいな形をしたシャンデリアが視界に映った。シャンデリアの灯りが、カスタード色の世界を創り出していたのか。
 シャンデリアから目線を移動し周りを見渡せば、優しく、けれど力強くゆらぐものが目に入った。
 炎だ。暖炉で薪が燃えている。パチパチと鳴る音の正体はこれだったのだ。
 暖炉なんて生まれて初めて見た。思わずうおぉ、と声が出た。
 鈴蘭のシャンデリアにパチパチと音の鳴る暖炉。今、私が横になっているソファは、まるで森の中で生活するくまさんが使っているみたいに可愛らしい。視界に入るもの全てが絵本に登場してきそうだ。毛布もふわふわだしね。自分の部屋もこんな風に可愛くしたいなぁ――
 あれ? ここは自分の部屋じゃない。なぜ私は他人の部屋で寝ているの?
 そうだ、天使に鍵を届けたら、強烈に眠たくなってしまったのだ。
 ということは、天使の住む家で休ませてもらっているの?
「起きた?」
「え……うぁあ」
「完全に目が覚めたみたいだね。俺のことわかる?」
「わっわかります。さっきお喋りしてくれた……途中で私が倒れちゃったけれど……あなたが、たっ助けてくれ、たんですよね? あっ、あなたが……すみません……」
「俺はあの世にある天上界出身のヴェンデル。倒れた君をここまで運んだ。ここは俺とイシアが住む家だよ」
「え、そ、そうなんですね……素敵な家です。す、すみません、急に眠気に耐えられず、倒れてしまいました……」  
「鍵を届けに来たせいで疲れたよね。謝らないで。むしろ俺たちが君に謝らないと」
「いえ、そんな……」
「君の名前はなんていうの?」
「えっ、わっ私の、名前っは、ま、町野芽深(まちのめいみ)です……」
「メイミィっていうの?」
 ちょっと違う気もするけれど、下の名前で呼んでくれる人が家族以外にいないので、嬉しさから訂正しようという気持ちにはならなかった。
「そうです。あなたはヴェ……ヴェンデルって言いましたよね……。とってもいい名前です……。ヴェンデルさん……イシア……さん……天使にピッタリの名前……」
「ねぇ、なんで俺たちのことが天使だとわかるの?」
 ヴェンデルは涼しげな目元を見開き、驚きの声を上げた。
「それ以前に、なんで俺たちのことが見えるんだ」
「は……はぃ……?」
「俺たちには翼がないでしょ? 翼がないと俺達は人間には見えないんだ。透明人間もとい透明天使ってやつ」
「あ、そっそうなん……ですか?」
「諸事情あって俺達は翼を失ったんだ」
 なんだか頭がこんがらがってきた。
 翼はなくともヴェンデルとイシアが天使だということは本能で気づいた。そこまではいい。問題は、翼がないとそもそも人間がふたりを見ることはできないことだ。これは完全に想定外だった。
 翼をなくしたふたりの天使は、透明人間もとい、透明天使だという。じゃあ、なぜ私はふたりのことが見えるのか?
 目の前にいるヴェンデルも、なんで俺達のことが見えるのか、と不思議がっている。
 でも、そんなこと聞かれたって、私にだって理由はわからないよ。
「ふたりのことが、みっ、見える理由は、わかりません……。でもふたりは、宝石製のラメが、全身に纏われているように、輝いています……。この輝きは、人間には出せません……。天使にしか出せないから、人間じゃなくて、ふたりは天使だと、思いました」
「メイミィは、俺達がラメを纏っているように見えるの? そうか、人間にはない輝きが、まだ俺達には出せたのか……」
「あっあなたの輝きは、夏の夜空みたいです。イ、イシアさんの輝きは、月のように優しくて、夜の闇に溶けるような……。とっ……溶けるようなぁ……」
「夜の闇に溶けるような奥ゆかしさがあったんだね」
「すっ、すごい。私が言いたかったことを言ってくれた」
 イシアは月のように輝やいているのに、どこか奥ゆかしさがある、と伝えたかったのに言葉がつっかえて情けない気持ちになってしまう。思ったことを言葉にして相手に伝えるのは、本当に難しい。世界中のみんなは、なぜこんなに難しいことを当たり前にできているのだろう?
 しかしヴェンデルは、こんな拙い話し方をする私に、「メイミィの話をもっと聞かせてほしいな」と言ってくれた。
 ああ、こんなに会話をすることが苦手なのに、私の話を、思いを聞いてくれる相手がいて嬉しいな。
「……ふたりはっ、人間とは違う、異質の輝きをしていて、住む世界が違うことを、その、本能で感じました。私には想像することができないくらいに、特殊な生活を、て、天上の世界で、お、送ってきたから、これだけ輝いているんです……」
「……ありがとう。そんなこと言ってくれて」
 馬鹿にされたり気持ち悪がられてもしょうがないような話し方をしているのに、ヴェンデルは一度もそんな態度をとらない。本当に天使なんだな。
 優しさに溢れたヴェンデルと会話をするうちに、自分の気持ちを相手に伝えることは楽しいと思い初めてきた。目の前にいる翼の無い天使と、もっとスムーズに話せるようになりたい。もっと仲良くなりたい。
「ヴェ、ヴェンデルさんは、とても、や、優しいですね……」
「メイミィ。せっかく仲良くなれたんだし俺の名前は呼び捨てにしてよ。あ、もちろんイシアのことも呼び捨てにして」
「あ、よ、呼び捨てですか? ヴェ、ヴェンデル……と、イ……イシア!」
 仲良くなりたいと思った矢先に、ヴェンデルが呼び捨てで呼んで、なんて言ってくれたので、少しだけ躊躇いながらふたりの名前を呼んでみる。
 心の中では勝手に呼びすてだったけれど、実際に声に出してみるとなんだか恥ずかしい。私がふたりの名前を敬称なしで呼ぶなんてこと、してもいいのかな……。 「うん。これからは呼びすてにして。イシアも大丈夫だよね」
 ヴェンデルがそう言うと、ソファの近くにあるドアが静かに開き、不安そうな表情を浮かべる天使――イシアが現れた。
 こいつはまだ私に怯えているのか! と思ったけれど、明るい部屋でまじまじと見ると、怯えているのではなく私とヴェンデルの会話に入っていいのか戸惑っているように見えた。
 そんなイシアをヴェンデルは手招きし、暖炉の横にある木製の椅子に座るよう促した。
「イシアはずっと俺達たちの話をドアのむこうで聞いていたよ」
「え、あ、そうなん、ですか?」
「うん。イシアも倒れたメイミィのことをすごく心配していた。自分が鍵を落としたからメイミィに迷惑をかけたこと、すごく反省しているよ」
 そうヴェンデルが言うと、イシアは私の目を見つめて、少しだけぽってりとした唇を動かし始めた。なにかを私に伝えようとしているらしい。しかし声がまったく出ていない。
 イシアは喋ることができないみたいだ。
 私は、イシアが喋れないことに衝撃を受けた。厳密に言えば、その端整なビジュアルで声が出ないなんて、生き物というよりは本当にお人形さんみたいで、そこに衝撃を受けた。
 目の前にいる人形のような青年天使は、可愛いらしい唇を動かして一文字ずつ丁寧に言葉を伝えようとしている。しかし私は読唇術を習得していないため、なにを言っているのかがわからない。
「さっ最初は、『お』って言ってますか?」
 試しにあてずっぽうで五十音を言ったが、イシアはふるふると顔を左右に振った。
「……じゃっじゃあ『か』とかは!」
 またふるふると顔を左右に振った。これも違うみたいだ。
 イシアがなにを伝えようとしているかわかるまで、何度もこのやり取りを繰り返す。
 次第に、最初は「あ」で次は「り」だと判明し、あ・り・が・と・う・と言いたいのだと推測した。
「あ・り・が・と・う」
 私がそう言うと、イシアは花が咲いたような笑みを浮かべた。ヴェンデルが伝わってよかったね、とイシアに声をかける
 ありがとう、と感謝の気持ちを伝えたかったのか。
 自分の言いたいことが伝わって、嬉しそうなイシアの顔をまじまじと見る。なんで声が出ないのか不思議だけれど、それ以上にニッコリと笑う顔が可愛いくて、上手に笑うことのできない私はイシアが羨ましくなってしまった。
「……なんでメイミィはイシアの顔をずっと見ているの?」
「いやぁ、すっごく……、お人形さんみたいに端整だと思って……」
 そういうとイシアの顔は摘みたての苺のように染まった。いいなぁ、私は恥ずかしくても顔が真っ赤にならないから。
「ねぇ、メイミィ」
「な、なんでしょう」
 苺色のイシアに夢中になっていたら、ヴェンデルが少し真面目な顔をして、私に話しかけてきた。
「メイミィ。君は僕たちに鍵を届けてくれたでしょ?」
「そ、そうですね。」
「だから僕たち、君にお礼をしたい」
「お、お礼?」
「そう。君は俺達の恩人だよ。お礼にメイミィの願いをひとつ叶えてあげる」
「は……はい?」
「なんでもいいよ。俺達天使だからなんでも叶えられるよ」
 鍵を届けたお礼に、君の願いをなんでも叶えよう、とヴェンデルは言った。
 異種族の生物を助けたお礼に願いがひとつ叶うなんて、ますますおとぎ話じみてきた。正直、私はただ鍵を届けただけで、天使に願いを叶えてもらう程のことはしてない気もするけれど……。
 天使といえども人間の心の中までは読めなかったようで、戸惑う私をよそにふたりの天使はなんでもどんとこい! みたいな顔をしている。
 いや、ふたりの感謝の気持ちだけで十分だよ、そんな期待のこもった目で見つめられても、願いなんて何もないよ、と思っていたら、ピコーン! と明るい電子音が鳴りだした。スマートフォンの通知音だ。
 急いでスマートフォンを確認すると、お母さんからメッセージが届いていた。帰りの遅い私をとても心配している文面を見て、早く家に帰らなくてはいけない気持ちが強まる。
「あの、本当にすみません。気持ちは嬉しいですが、家に帰らないといけないので、お願いごとは大丈夫です……。た、倒れた私を介抱してくださり、ありがとうございました」
「遠慮しないで。願い事をひとつ言って」
「え……、いや本当に大丈夫です……。家に帰りたいので……」
「恩人の願い事も叶えられないなんて、天使の名が廃るから。だから願い事を言ってよ」
「あ、じゃあ家まで瞬間移動させてほしいです。これが私の願いです」
「そんな投げやりなものは願い事とは言わない! 却下!」
 どうしよう。心からの願い事を言わないと、本当に家に帰らせてくれないみたいだ。
 脳みそをフル回転させ、願い事を考える。
 定番中の定番だけれど、億万長者になりたいはどうだろう。でももし億万長者になったとしても、栃木県の小さな町ではすぐに私がお金持ちになった噂が広まりそうで嫌だ。じゃあハイブランドのアクセサリーが欲しいとか……。でも見た目も中身も高級品が似合うような品性を持ってないしなぁ、私は。
 ずっと寝ていたいっていう願いは聞き入れてもらえるのだろうか。学校にも仕事にも行かず、この先死ぬまで食べては寝ての繰り返しをしたいです、なんて言ったら天使は叶えてくれるのかな? でも、私は毎日が日曜日みたいな生活に心が耐えられない気もする。
 億万長者も、食べては寝ての繰り返しも心からの願い事ではない。どうしよう。脳みそはどうでもいい願い事ばかりを思い浮かべてしまう。
 思い通りに動かない脳みそに苛立ちや焦燥感が募り、このままでは永遠に心からの願い事が浮かばない気がしてきた。こういうときは深呼吸だ。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしないと。
「……すぅ、はぁ」
 深呼吸をした後に、手のひらを胸にあてる。脳みそじゃない、心で考えろと自分自身に言い聞かせると、不思議と気持ちの波が穏やかになり、願い事がゆっくりと浮かんできた。

 ――私の願い事は――

「あの人の願い事を叶えてほしいです」
「……自分じゃない誰かの願いを叶えてほしい。それがメイミィの願い事?」
「そうです。いつの日か、私を慰めてくれた、あの人に、私だって恩返し……したいです。あ、あの人とは近所の公園のベンチに座っている男の人のことです。彼はいつもひとりぼっちで淋しそうなんです。彼の願い事を叶えて、淋しさなんか忘れて幸せにしてあげたいです」
「わかった。それじゃあメイミィ。願い事が叶ってほしい相手の顔をよく思い浮かべて。強く願って、相手が幸せになることを」
「わ、わかりました。で、でもすみません。ヴェンデルは私が思い浮かべる相手の顔も名前も知らないのに、願いを叶えてほしいなんて無理難題を言ってしまって。じ、実は私も、名前は知らないんですけど……」
「大丈夫だよ。俺達は過去に何度も人間の願いを叶えてきたけど、ほとんどの人間が無理難題を言ってきたからね」
「あ、そうなんですね……」
「そう。俺達は天使だからどんな難しい願い事だって叶えられるよ。だからメイミィ、安心して俺達に願い事を委ねてよ。目をつむって、両手を組んで、そしてあの人の顔を思い浮かべて」
 ヴェンデルの言葉を聞いて安心した私は、名前も知らない彼の願いが叶うことを祈り、両手を組んで目をつむった。
 目をつむる前に、ヴェンデルとイシアが両手を繋ぐ姿がちらりと見えた。ヴェンデルは優しいまなざしをイシアに向けていたけれど、イシアがヴェンデルの方を向くと、ヴェンデルはすぐに視線をそらしてしまった。
 少しの沈黙の後、呪文が聞こえ始めた。人間には理解不能なおどろおどろしい言葉の羅列である。さっきまでのヴェンデルの優しい低音とは違って、生気を感じさせない冷たい低い声が不気味だ。聴覚が不気味な言葉の羅列にどんどん支配されていく感覚が気持ち悪くて吐きそうになるうえ、畳み掛けるように今度は視覚が焼かれるように熱くなった。ヴェンデルの呪文が、目を閉じていても眩しいと感じてしまうほどの光を生み出したのだ。
 聴覚を支配されたと思ったら、間髪入れずに視覚を支配される。瞳が閃光に焼かれそうだ。このまま目を閉じ続けていたら、視覚を奪われ、残りの感覚もすべてを天使に支配されてしまう。
 天使に感覚を支配されることを恐怖した私は、まばゆい光の世界の中で思いっきり瞼を開いてしまった。瞼を閉じていても眩しいと感じるくらいの光に包まれているというのに、居ても立っても居られず目を見開いたのである。失明してしまったらどうするんだ。
 目を見開くと、辺り一面がレモン色に染まっていた。部屋全体が光に包まれている。
 眩い光の中に包まれていてもなぜか失明しなかったことに安心していると、端整な天使の顔がハッキリと目に入った。イシアである。輝きすぎてぼやけてしまった世界の中でも、イシアだけはなぜかはっきりと見えていた。イシアは、目を見開く私を見てしょうがないなぁと困ったように笑った後、まぶたを閉じるようアイコンタクトしてきた。
 イシアの指示におとなしく従った私は、すぐに目を閉じた。視界は困ったように笑うイシアの顔でいっぱいだ。一瞬の出来事だったはずなのに、魅力的な猫目が脳裏に焼き付いてしまった。
 再び目を閉じるとこれまた不思議なことで、感覚の支配から解放されたのである。
 ろおどろしい言葉の羅列は、子守唄のように聞こえ始め、光で目が焼かれるような痛みもなくなった。イシアの笑顔が感覚の支配から私を救ってくれたのだろうか。
 聞き心地のよくなった呪文に耳を澄ませる。天上界に登った魂は、毎日天使たちの綺麗な声を聞いているのかと思うと、少しだけ死ぬことへの恐怖心が薄まった。
 ヴェンデルだけではなくて、イシアが呪文を唱える声も聞いてみたかったなぁ。なんてことを考えながら、聞き取れる単語はひとつもないのに心地よいヴェンデルの呪文は止んだ。ずいぶん長く唱えていたけれど、今は何時だろうか。早く家に帰らないと家族が心配する。

 コロン、チリリン、テンテレテン……

 なんだろう? 呪文が止んだと思ったら、今度はまた別の音が聞こえてきた。
 天使の声ではなく、機械の音だ。機械音なのに安心感のあるコロコロとした音、そう、オルゴールの音。オルゴールが鳴っている。でも、なんで?
 天使が鳴らしているのだろうか? 願い事を叶えるためには、呪文を唱えた後にオルゴールを鳴らす必要があるのかな? 
 突然鳴りだしたオルゴールの音に困惑していたそのとき、どこか不安げなヴェンデルの声が聞こえてきた。
「メイミィ。目を開けていいよ」
 どうして不安げなの、こっちも不安になるよ。そう思いながらヴェンデルの言うとおりに目を開ける。
 目を開ければ、ヴェンデルとイシアの顔が視界に映る。ふたりはやはり宝石製のラメを纏ったようにキラキラしていた。しかしふたりどころかこの部屋の家具や床や壁まで、目を閉じる前よりなんだか綺麗でピカピカに見える。長いあいだ目をつむっていたから、なんでも光り輝いて見えるのかな?
「オルゴールの音が近くの部屋から聞こえてくる」
「え、やっぱりオルゴールの音するよね。て、ていうかふたりが鳴らしてるんじゃないの?」
 ヴェンデルの予想外の発言を聞いて、思わず敬語を使わずに返事をしてしまった。オルゴールはふたりが鳴らしているわけではない?
「と、とりあえずどこから鳴っているのか、確かめに、行きません?」
「そうだね。とりあえずこの部屋から出よう。この部屋の扉は向かい側の部屋に繋がっている」
 そうしてふたりの天使とひとりの人間は、突然鳴りだしたオルゴールの謎を解くため、小さな部屋の扉を開けたのだった。
 
 扉を開けた瞬間、目に入ったのは木製のシングルベッドに座り、オルゴールを鳴らすグレイヘアのおばあさまだった。
 「あらまぁ、かわいらしい天使とお嬢さんだこと」
 グレイヘアのおばあさまは、上品な微笑みを浮かべて私達に話しかけてきた。
 私と天使しかいないはずのお屋敷に、なぜかおばあさまがいる。
 ヴェンデルとイシアが、思わずその場に崩れ落ちた。
 おばあさまの存在にヴェンデルは啞然とし、イシアは怯えていた。翼のない天使を人間が見ることはできないとヴェンデルは言っていたけれど、それなのにこの超短期間に、私とおばあさまというふたりの人間に存在を見透かされてしまったのだ。天使達が啞然と、怯えてしまうのも無理はない。
 「あらあら、座り込んじゃったわね」
 おばあさまは崩れ落ちた天使ふたりをとくに気にすることなく、優雅にブラウン管テレビの電源をつけた。二○二五年にもなって未だにブラウン管テレビを使うなんて随分物持ちがいい。
 しかしおばあさまは優雅にブラウン管テレビをつけている場合だろうか、天使が目の前にいるというのに。あなたの寝室に、よくわからない存在が入り込んでいるというのに。
 勝手に寝室に入り込んできた不審者三人衆に遭遇しても、警察に通報することなく、テレビを見ているおばあさまの肝の据わりように驚いてしまう。あなたはいったい何者なのでしょうか、おばあさま。
 私は、目の前にいる肝っ玉おばあさまに話しかける勇気も湧かなかったので、とりあえずブラウン管テレビから流れる映像をぼーっと見ることにした。
 小さい画面に、都会の夜を空から眺めた映像が流れている。液晶テレビと比べれば画質は当たり前に悪いけれど、これはこれで味があっていい。なにより、丸っこくて分厚い形をしたブラウン管がかわいいな――なんて思っていたら、突如切り替わった衝撃映像に釘付けになってしまった。
 衝撃的だ。非常に衝撃的だった。
 そう、それはただ、男の人がマイクを向けられているだけの映像。
 しかし、長かったのだ。
 なにが長かったのかというと、そう、それは――襟足。
 テレビに映る男の襟足が、長かった。
 どうやら街頭インタビューをしているようだけれど、インタビューに答える男たちが令和の髪型をしていない。マッシュヘアの男がいない。とにかく襟足が長くて、外ハネなのだ、髪が外にハネている。襟足が特に長くない人も、なんだか今の髪型と少し違う。
 髪の毛がツンツンしている短髪だったり、眉毛が隠れる長さの前髪を、おでこと片眉が少し見えるように流していたり、イケイケでカッコイイのだけれど、平成のアイドルや俳優を見ている気分になる。
 なぜ画面に映る男たちは、全員平成の髪型をしているのだろう。二○○○年代に放送されていた、イケメン学園ドラマの雰囲気を感じる、そう「平成」の髪型……。
 今は西暦二〇二十五年で、二月六日木曜日で、元号は令和七年のはずなのに、なぜか街頭インタビューの映像は懐かしさを感じる。あれ、そういえば、現代は地上波デジタル放送なのだから、アナログのブラウン管テレビは電波を受信しないため映像が画面に映らないはずだ。なぜブラウン管テレビが『現代で使える』のだろう……?
 襟足の長い男達とブラウン管テレビが使える違和感に疑問を抱いていた私の脳内に、とある恐ろしい仮説が浮かび上がった。
 ……いや、まさか。流石にないだろう。でも、でも、でも、でも、本当に、もしかしすると、私は、芽深は、町野芽深は、もしかすると――
 か細い声で、おばあさまに話しかけた。
「お、おばあさま。い、今って、西暦、何年……ですか?」
「ん? 今は西暦二〇〇七年十一月二十九日だよ。元号にすると平成十九年だねぇ」
 に、にせ……ん、なな⁉ 二〇〇七年って私が生まれた年だけど!?
 おばあさまは私を絶望の淵にたたきつける言葉を、あまりにも軽くつぶやいた。

 町野芽深高校二年生、天使に落し物を届けたら、十八年前へタイムトラベルしていました。