二〇二五年二月六日木曜日、黒板の前でチョークを片手に持ったままフリーズしている私に、クラスメイトからの冷たい視線が突き刺さっていた。
「どうした町野。早く回答を書きなさい。この課題は今日の授業までに解いているはずだろう」
ため息とともに吐き捨てた数学の先生の言葉が、静まり返った教室に鈍く響いた。
背中から大量の汗が流れ落ちる。
「町野以外は課題をちゃんと解いてきたよな?」
先生がそういうと、もこもこのブランケットを膝に掛けている小野さんが、小さく頷いた。
私は何も知らなかった。
黒板に書かれた問題の答えも、黒板に書かれている問題が前回の授業の課題であったことも、何も知らなかったのだ。
「前回の授業の最後に言ったよな、このページの問題を来週の授業までにやっとけって」
このクラスで私だけが先生の話を聞き逃していたみたいだ。クラスメイトは全員課題があったことを知っていたので、ちゃんと問題を解いてきている。
「町野―。答えがわからないなら『わかりません』ってハッキリ言っていいんだぞ」
先生が助け舟を出してくれたけれど、私は緊張により「わかりません」のひと言すら言えなかった。
問題が解けず黒板の前で固まる間抜けな私に、クラスメイトが苛立ちを募らせていることが背中に突き刺さる視線から感じ取れる。しかしどうすればいいのだろう。黒板に解答を書いて、早くこの場から立ち去りたいと自分自身そう思っているけれど、緊張して頭が回らないので何もできないのだ。
ぽた、ぽた……ぽた……。
今の私から出てくるのは解答でも声でもなく汗だけ。背中から、手から、額から、透明なのに汚い水が溢れ出る。どうしてこんなに汗が出てくるのだろう? いまだに私だけが八月に取り残されたような気分だ、もう二月になったというのに。
「町野、もう一回言うぞ。この問題は課題として今日の授業までに解くはずだった。なぜ黒板に解答を書けない?」
ベタベタとした汗が出てくるせいで、あれだけベビーパウダーをまぶした前髪もうねってしまった。
「もう戻りなさい。授業の邪魔だ、みんな迷惑している」
せっかく早起きして崩れない前髪を作ってきたというのに、結局前髪はうねってしまった。最悪だ、前髪が湿っている。
「席に戻れと言っているだろう。なぜ動かない? 俺の言っていることがわからないのか? もう一度言うぞ。みんなの邪魔になっているから早く席に戻りなさい」
早くシャワーを浴びて髪を綺麗にして、ドライヤーで乾かしてサラサラにしたい。ベタベタした汗を気持ちのいいシャワーで洗い流したい……。
家にいると出ないベタベタした汗が沢山溢れ出すから、学校はとても怖い場所だ。どうしてみんなは汗をかかずにクールな顔をして、毎日かわいくいられるのだろう。
この教室で私だけだ。勉強も身だしなみも友達作りも上手くいかないのは、私しかいないよ。
早く学校から逃げ出して、誰か私を小動物が住む緑あふれる神秘的な空間に連れていってほしい。家族のことは大好きだけれど、家を飛び出してこんな私には想像することもできないような夢みたいな場所に行きたいの。全てを投げ出して、誰も知らない私だけの秘密基地を作って、そこでひっそりと暮らしたいんだ――
「町野! いい加減にしろ!」
気づいたら額に青筋を立てた先生が、窓ガラスを割らんばかりの大声で怒鳴っていた。
先生の怒鳴り声のおかげで、考え事でいっぱいになった脳内が一瞬にしてクリアになっていく。
私は課題の回答を書かずに、ただ黒板の前に長時間突っ立って現実逃避をしていた。そんな姿に呆れたクラスメイトから鋭く冷たい視線で睨まれて、極めつけに先生にとんでもない大声で怒られてしまった。
私ってとっても恥ずかしくて惨めな存在だ……。
考え事でぼんやりとしていた脳内が、ようやく動き始め、現実を吞み込み始めた。
どうしてこんなことが起こってしまったのだろう。
それは学校に馴染めない哀れな高校二年生、町野芽深がすべて悪いからです。
学校も終わって我が家に向かって走る電車にぽつんと座り、私は自分自身の情けなさに心を痛めていた。
窓の外の景色に目を向ければ、町は穏やかな太陽の光に照らされている。
今日は日差しがぽかぽかしたいい日だと思う。三時間目の数学の授業で問題を起こさなければ、もっといい日になったに違いないけれど。
いまだに先生の大きな声が脳内に流れ続けて嫌になってしまう。思い出したくもないことが頭の中で反復して、落ち着いていたはずの心は再度ざわめきだしてしまった。
「町野! いい加減にしろ!」
私はとても恥ずかしくて惨めな存在だ。
だって、高校二年生にもなって課題に取り組んでいなかったことが原因で、クラスメイトから冷ややかな目で見られ、先生に怒られているのだから。
なんでずっとフリーズしているの? チョーク片手に固まっている場合じゃないよ。課題を解いてこなかったことを早く謝って席に戻れ、早く、早く、早く、謝れ。これ以上惨めな姿を人目に晒すな。
頭の中で声が鳴り響ている。
早く謝らなくちゃいけないことはわかってる。わかっているのに、私は先生に謝ることができない。
皆の前で先生に怒られていることがとても恥ずかしくて、何もできないのだ。
恥ずかしいという感情が、私の全身を支配する。
「もういい。さっさと自分の席に戻れ! さっきからずっと俺の言葉を無視して、そんなに俺が気に食わないのか!」
「あ、い、いや……。気に食わないなんて、おっ思ってないです。す、すみません」
喉を締め付けてなんとか出した声は、あまりにも小さかった。
先生に怒られた後は、クラスメイトの顔が視界に入らないように、必死になって真下だけを見て自分の席に戻った。視覚はなんとか遮断できても聴覚はどうにもならないので、並木さんという女子生徒が小声で、「大丈夫?」と気遣う声が耳に入ってきてしまった。
こんな情けない私を気遣ってくれるその優しさも、怒られて呆然としている今の私にはなにも心に響かなかい。
席に戻ると、少しでも学校で安心できるようにと小学生の頃からお守りのように使っている、ペンギンのキャラクターが描かれた下敷きが視界に入った。しかし、可愛いという感情が浮かんでこない。真っ白になった私の頭は、それがただの青い物体としか認識できなかった。
だんだん視界がぼやけ鼻の奥がツンと痛くなってきたが、これ以上惨めな自分を人前に晒したくなくて、泣くな、泣くな、と必死に自分自身に言い聞かせた。
シャープペンシルを持つこともできず俯き、ただ時が流れるのを待つ。だけどあまりにも時間の流れが遅い。私の席だけ重力によって時空が歪んでいるのではないかと思う。
少しずつ、本当に少しずつ時間は流れ、この苦境から開放されるチャイムが鳴ったとき、開放感から思わず机に突っ伏した。
痛む頭を両手で抱えながら私は、友達がいれば授業が始まる前に課題の確認ができるんだろうなぁ、なんてことを考えていた。
クラスのみんなには友達がいるから、課題の確認だって忘れ物の貸し借りだってできる。私だけ日々学校を孤軍奮闘して生きている。
友達がいたらもう少し授業が楽になるのにコミュニケーション能力が低いから、友達ゼロ人のまま高校二年生が終わりそうだ。
先生に怒られてトボトボと席に戻っているとき、並木さんは私を心配そうに見つめていた。本当は並木さんと仲良くなりたいけれど、私みたいな人間と友達なんかになったら並木さんが可哀想だ。
「・・・・・・やだなぁ。脳に深い傷が刻まれた感覚が気持ち悪い」
ポツリと、ひとりごとをつぶやく。
今日の数学の授業のことは、今後何気なく生活しているふとした瞬間にフラッシュバックしてしまうのだろう。ご飯を食べているとき、スマートフォンを操作しているとき、勉強をしているとき、脳が暴走して思い出したくもないことを勝手に思い出して、その度に傷ついてしまうのだろう。フラッシュバックに苦しむ未来の私を想像するだけで憂鬱になる。
「次は終点~みなさまお忘れ物が無きようご注意してください~」
今日の出来事を思い出していたらいつの間にか終着駅で、ずっと座っていたいと思いつつも、なんとか立ち上がって電車を降りた。
「どうした町野。早く回答を書きなさい。この課題は今日の授業までに解いているはずだろう」
ため息とともに吐き捨てた数学の先生の言葉が、静まり返った教室に鈍く響いた。
背中から大量の汗が流れ落ちる。
「町野以外は課題をちゃんと解いてきたよな?」
先生がそういうと、もこもこのブランケットを膝に掛けている小野さんが、小さく頷いた。
私は何も知らなかった。
黒板に書かれた問題の答えも、黒板に書かれている問題が前回の授業の課題であったことも、何も知らなかったのだ。
「前回の授業の最後に言ったよな、このページの問題を来週の授業までにやっとけって」
このクラスで私だけが先生の話を聞き逃していたみたいだ。クラスメイトは全員課題があったことを知っていたので、ちゃんと問題を解いてきている。
「町野―。答えがわからないなら『わかりません』ってハッキリ言っていいんだぞ」
先生が助け舟を出してくれたけれど、私は緊張により「わかりません」のひと言すら言えなかった。
問題が解けず黒板の前で固まる間抜けな私に、クラスメイトが苛立ちを募らせていることが背中に突き刺さる視線から感じ取れる。しかしどうすればいいのだろう。黒板に解答を書いて、早くこの場から立ち去りたいと自分自身そう思っているけれど、緊張して頭が回らないので何もできないのだ。
ぽた、ぽた……ぽた……。
今の私から出てくるのは解答でも声でもなく汗だけ。背中から、手から、額から、透明なのに汚い水が溢れ出る。どうしてこんなに汗が出てくるのだろう? いまだに私だけが八月に取り残されたような気分だ、もう二月になったというのに。
「町野、もう一回言うぞ。この問題は課題として今日の授業までに解くはずだった。なぜ黒板に解答を書けない?」
ベタベタとした汗が出てくるせいで、あれだけベビーパウダーをまぶした前髪もうねってしまった。
「もう戻りなさい。授業の邪魔だ、みんな迷惑している」
せっかく早起きして崩れない前髪を作ってきたというのに、結局前髪はうねってしまった。最悪だ、前髪が湿っている。
「席に戻れと言っているだろう。なぜ動かない? 俺の言っていることがわからないのか? もう一度言うぞ。みんなの邪魔になっているから早く席に戻りなさい」
早くシャワーを浴びて髪を綺麗にして、ドライヤーで乾かしてサラサラにしたい。ベタベタした汗を気持ちのいいシャワーで洗い流したい……。
家にいると出ないベタベタした汗が沢山溢れ出すから、学校はとても怖い場所だ。どうしてみんなは汗をかかずにクールな顔をして、毎日かわいくいられるのだろう。
この教室で私だけだ。勉強も身だしなみも友達作りも上手くいかないのは、私しかいないよ。
早く学校から逃げ出して、誰か私を小動物が住む緑あふれる神秘的な空間に連れていってほしい。家族のことは大好きだけれど、家を飛び出してこんな私には想像することもできないような夢みたいな場所に行きたいの。全てを投げ出して、誰も知らない私だけの秘密基地を作って、そこでひっそりと暮らしたいんだ――
「町野! いい加減にしろ!」
気づいたら額に青筋を立てた先生が、窓ガラスを割らんばかりの大声で怒鳴っていた。
先生の怒鳴り声のおかげで、考え事でいっぱいになった脳内が一瞬にしてクリアになっていく。
私は課題の回答を書かずに、ただ黒板の前に長時間突っ立って現実逃避をしていた。そんな姿に呆れたクラスメイトから鋭く冷たい視線で睨まれて、極めつけに先生にとんでもない大声で怒られてしまった。
私ってとっても恥ずかしくて惨めな存在だ……。
考え事でぼんやりとしていた脳内が、ようやく動き始め、現実を吞み込み始めた。
どうしてこんなことが起こってしまったのだろう。
それは学校に馴染めない哀れな高校二年生、町野芽深がすべて悪いからです。
学校も終わって我が家に向かって走る電車にぽつんと座り、私は自分自身の情けなさに心を痛めていた。
窓の外の景色に目を向ければ、町は穏やかな太陽の光に照らされている。
今日は日差しがぽかぽかしたいい日だと思う。三時間目の数学の授業で問題を起こさなければ、もっといい日になったに違いないけれど。
いまだに先生の大きな声が脳内に流れ続けて嫌になってしまう。思い出したくもないことが頭の中で反復して、落ち着いていたはずの心は再度ざわめきだしてしまった。
「町野! いい加減にしろ!」
私はとても恥ずかしくて惨めな存在だ。
だって、高校二年生にもなって課題に取り組んでいなかったことが原因で、クラスメイトから冷ややかな目で見られ、先生に怒られているのだから。
なんでずっとフリーズしているの? チョーク片手に固まっている場合じゃないよ。課題を解いてこなかったことを早く謝って席に戻れ、早く、早く、早く、謝れ。これ以上惨めな姿を人目に晒すな。
頭の中で声が鳴り響ている。
早く謝らなくちゃいけないことはわかってる。わかっているのに、私は先生に謝ることができない。
皆の前で先生に怒られていることがとても恥ずかしくて、何もできないのだ。
恥ずかしいという感情が、私の全身を支配する。
「もういい。さっさと自分の席に戻れ! さっきからずっと俺の言葉を無視して、そんなに俺が気に食わないのか!」
「あ、い、いや……。気に食わないなんて、おっ思ってないです。す、すみません」
喉を締め付けてなんとか出した声は、あまりにも小さかった。
先生に怒られた後は、クラスメイトの顔が視界に入らないように、必死になって真下だけを見て自分の席に戻った。視覚はなんとか遮断できても聴覚はどうにもならないので、並木さんという女子生徒が小声で、「大丈夫?」と気遣う声が耳に入ってきてしまった。
こんな情けない私を気遣ってくれるその優しさも、怒られて呆然としている今の私にはなにも心に響かなかい。
席に戻ると、少しでも学校で安心できるようにと小学生の頃からお守りのように使っている、ペンギンのキャラクターが描かれた下敷きが視界に入った。しかし、可愛いという感情が浮かんでこない。真っ白になった私の頭は、それがただの青い物体としか認識できなかった。
だんだん視界がぼやけ鼻の奥がツンと痛くなってきたが、これ以上惨めな自分を人前に晒したくなくて、泣くな、泣くな、と必死に自分自身に言い聞かせた。
シャープペンシルを持つこともできず俯き、ただ時が流れるのを待つ。だけどあまりにも時間の流れが遅い。私の席だけ重力によって時空が歪んでいるのではないかと思う。
少しずつ、本当に少しずつ時間は流れ、この苦境から開放されるチャイムが鳴ったとき、開放感から思わず机に突っ伏した。
痛む頭を両手で抱えながら私は、友達がいれば授業が始まる前に課題の確認ができるんだろうなぁ、なんてことを考えていた。
クラスのみんなには友達がいるから、課題の確認だって忘れ物の貸し借りだってできる。私だけ日々学校を孤軍奮闘して生きている。
友達がいたらもう少し授業が楽になるのにコミュニケーション能力が低いから、友達ゼロ人のまま高校二年生が終わりそうだ。
先生に怒られてトボトボと席に戻っているとき、並木さんは私を心配そうに見つめていた。本当は並木さんと仲良くなりたいけれど、私みたいな人間と友達なんかになったら並木さんが可哀想だ。
「・・・・・・やだなぁ。脳に深い傷が刻まれた感覚が気持ち悪い」
ポツリと、ひとりごとをつぶやく。
今日の数学の授業のことは、今後何気なく生活しているふとした瞬間にフラッシュバックしてしまうのだろう。ご飯を食べているとき、スマートフォンを操作しているとき、勉強をしているとき、脳が暴走して思い出したくもないことを勝手に思い出して、その度に傷ついてしまうのだろう。フラッシュバックに苦しむ未来の私を想像するだけで憂鬱になる。
「次は終点~みなさまお忘れ物が無きようご注意してください~」
今日の出来事を思い出していたらいつの間にか終着駅で、ずっと座っていたいと思いつつも、なんとか立ち上がって電車を降りた。
