メイミィと天使のタイム・トラベル

「……ヴェンデル! ヴェンデル! 見て、見て!」
 「はは。くすぐったいてば」
 角砂糖みたいに甘くて可愛らしい声と、ブラックコーヒーみたいにほろ苦いけど優しい声が聞こえる。
 可愛らしい声の方はイシアで、優しい低い声がヴェンデルだ。
 ふたりの声色はとても弾んでいる。過去から無事に帰ってこれたことを喜んでいるのだろうか。
 「メイミィも見て! ほらふわふわでしょ! 早く起きて!」
 「うわぁ、なにこれくすぐったいよ……」
 「こらイシア。メイミィにいたずらをするな。メイミィもいつまで寝ているんだよ。早く目を開けて、二〇二五年に戻ってきたんだから」
 「はいよ……。あれ、今って何時? あと私達って今どこにいるの」
 「今は午後八時三十分だよ。場所はメイミィの願いを叶えるために呪文を唱えた小さな部屋。俺達がタイムスリップしたときから、ほんの数分経っているみたい。服装もタイムスリップする前と元通りで、メイミィは制服を着てる」
 「あ、そうなの。良かった。本当に現代に帰ってこれたんだ……」
 「そうだよー! だから早く起きてメイミィー!」
 「わかったよイシア……」
 まばゆい光に長い間包まれていたせいで途中から寝てしまったのだけれど、ふたりの天使達に早く起きるよう催促されたので目を少しずつ開く。
 少しずつ、少しずつ世界に慣れるように目を開けば、美しき異形が視界に映る。
 「……なんて美しいの」
 あまりにも幻想的なふたりの姿を見て、思わず目も口もあんぐりと見開いた。
 ヴェンデルには黒色の翼が、イシアには白色の翼が背中から生えていたのだ。
 シャンデリアの光を反射するように輝くふわふわで大きな翼は、大空を飛ぶために、そして迷える人間を慈愛を込めて抱きしめるためにある――ふたりの翼を見て、私はそんなことを考えた。一瞬でそんなことを考えてしまうほど、翼の生えたふたりは幻想的だった。
 「良かった、本当に良かったね……ふたりの翼が元に戻って……。晴都を懲らしめたから翼を失う過去が変わったんだ……!」
 天使達に美しい翼が生えていることと、晴都がイシアを傷つける人間ではなくなったこと、この二つの事実に私は言葉では言い表せないほどの感動を受けていた。
 おばあさまは晴都が光一朗叔父様のように、自分自身の欲望のためなら、他人がどうなっても構わないと思うような悪魔の男になったことをずっと後悔していた。
 でも、晴都は私と闘った後、おばあさまの再教育によってイシアの翼を折るような最低最悪の人間から変わったのだ。
 おばあさまは自分の手で、天間一族の呪縛を断ち切ったのだ。
 「ありがとうメイミィ。君のおかげで俺達の願いまで叶ってしまった。天使の翼が生えること、そしてイシアの声が戻ること……。イシアの翼が折られた日から、憎しみばかりを抱えて生きていた……」
  ヴェンデルの涼しげな目元から、熱い涙の粒が流れ落ちる。
 そんなヴェンデルの姿を見て、イシアはそのふわふわの白い翼でヴェンデルを包み込む。
 「あのね、僕はずっと君に伝えたかったことがあるの。翼がなくてもヴェンデルが隣りにいてくれるから、僕はいつだって幸せだったよ。君が隣りにいてくれるなら、僕はこれからも幸せなんだ。だからヴェンデル、泣かないで……」
 「……俺だってお前が隣りにいるなら幸せだよ」
 イシアはとろけるような笑顔でヴェンデルを見つめる。
 イシアに見つめられていることに気づいたヴェンデルは、目元をぬぐってイシアに負けないくらいの優しげな笑顔で見つめ返した。
 「本当にこの背中に生える翼とお前の声を取り戻せてよかった。これからは今以上に俺に話しかけろ。イシアの声を沢山聞きたいよ」
 「うん。沢山話しかけるよ。改めてヴェンデル、これからもどうぞよろしくお願いします。また世界中を飛び回って、頑張る人間を幸せにする手伝いをしよう。この翼があればどこへだって行けるよ」
 「え……ふたりともどこかへ行ってしまうの?」
 ふたりの会話から聞きずてならない言葉が出てきて、つい口を挟んでしまった。
 世界中を飛び回る……。天使は人間を幸せにすることが使命だとイシアもヴェンデルも言っていた。だから翼が戻ったら世界中を飛びまわって、また天使の使命を果たす旅に出てしまうんだ……。
 ふたりに翼が戻ったとしても、このお屋敷に残ると勝手に思っていたからショックを受けてしまう。
 悲しいよ、せっかくふたりと友達になれたのにお別れするなんて……。
 「大丈夫だよメイミィ」
 ヴェンデルを抱きしめたままイシアはくるっと私の方へ振り向き、とびきりのエンジェル・スマイルを浮かべた。
 「僕達は君のことを一生忘れないよ。離れていてもずっと友達だ。助けてほしいときはいつでも呼んでね、すぐに駆けつけるから」
 「俺達は故郷に戻らずこの世に残って、生涯をかけて自分たちの使命を果たすために生きる。この世に残るんだ。またいつか逢えるさ」
 「ふふっ。ヴェンデルってば。メイミィに泣き顔見られたくないからずっと僕の翼に隠れていたのに、メイミィが悲しんでるから思わず身を乗り出しちゃったんだね」
 「うるさいぞ。おい、こらメイミィもなに笑ってんだよ」
 「えへへ、ヴェンデルって不愛想に見えて情に厚いんだね」
 さっきまで悲しんでいたのにふたりと会話するうちにすぐに元気になった私を見て、イシアは安心したように笑い、その白い翼から羽根を一枚プチンと引っこ抜いた。
 「はい、メイミィ。友達の印だよ。天使の羽根はあらゆる災いから人間を守ると言い伝えられているの」
 「俺もあげる。天使の羽根はいつだってメイミィの心に寄り添ってくれるはずだ。息苦しい学校にいるときも、なかなか眠ることができない孤独に押しつぶされそうな夜にもね」
 「ありがとうふたりとも。肌身離さず持ち歩くし、淋しくて仕方がない夜には羽根を枕元に置いて眠るよ。ふふ、ヴェンデルは黒の羽根でイシアは白の羽根。ふたりの個性にあっているね」
 「でしょ、でしょ!」
 イシアは翼をパタパタと動かす。
 「あのね、僕、お世話になったおばあさまにもこの翼を見せたいんだ。天使の羽根もあげたいの」
 「そうだね。俺達のことを受け入れてくれたおばあさまに感謝を伝えに逢いに行こう。メイミィが頑張ってあの憎き男と闘ったんだ。未来が変わって今でも彼女はこのお屋敷に住んでいるはずさ」
 「そうだね。とりあえずこの部屋から出ようか――」

 コロンチリリンテンテレテン・・・・・・

 突然、懐かしいオルゴールの音が聞こえてきた。
 ――この音は、私たちがタイムスリップしたときに聞いた、あのオルゴールのメロディだ。
 私達は顔を見合わせた後、すぐに小部屋の扉を開けた。

 扉を開けると、上品なグレイヘアの老女が花柄のベッドの上に座っていて、突然目の前に不審者三人衆が現れても、彼女は観音菩薩の微笑みを浮かべたまま私達を見つめてくる。
 ああ、この肝のすわった素敵なご老人は、まぎれもなくおばあさまだ。
 「お、おばあさま……ご無沙汰してました」
 私はおばあさまに向かって、震える声でそう言い、頭を下げる。
 そんな私を見て、おばあさまは十八年前と変わらない優しい声で、
 「おかえりなさい、芽深ちゃん、ヴェンデルちゃん、イシアちゃん。ばあちゃんみんなに会うために、健康に気をつけて生きてきたのよ」
 と言った。
 「おばあさま……!」
 私は感極まっておばあさまに抱き着いた。
 おばあさまは私の頭を撫で、「まあヴェンデルちゃん、イシアちゃん。とても美しい翼を持っていたのね」と笑った。
 「おばあさま、俺達のことを屋敷に住まわせて、美味しいご飯を食べさせてくれてありがとうございました。俺達は見ての通り天使の翼が戻ったので、世界中の人間を幸せにする旅に出ます」
 「あのね、人間を幸せにすることが僕達の使命なんだ。今も世界中の沢山の人達が悲しんだり、淋しそうにしている声が聞こえてくるんだ。おばあさまやメイミィと別れることはすごく辛いけど、天使の使命を果たすため、僕達はすぐにここを旅立ちます」
 「人間を幸せにすることがふたりの使命なんて、それはとても良いことね。ばあちゃんはいつでも頑張るふたりを応援してますよ」
 「ありがとうございます。あの、これ、僕達の羽根です。天使の羽根は持ち主の心に寄り添います。おばあさまが淋しいとき、この羽根を手に持ったり眺めたりしてください。きっと心が落ち着くはずです」
 「あらまぁ、こんな素敵なプレゼントをどうもありがとう」
 「……イシア、行こう。これ以上いても別れが辛くなるだけだ」
 「そう、だね……。あ、最後に少しだけ……」
 イシアはそう言うと短い呪文を唱え、私の制服についていた泥やほこりを一瞬で綺麗にしてくれた。
 新品のようになった綺麗な制服は、しゃぼん玉の匂いがする。
 「メイミィ、これから家に帰るんでしょ? 制服が汚れていたら家族が心配するよ」
 「あ、ありがとうイシア」
 「気がきくわねぇイシアちゃん」
 「そうだろ? イシアは女神様に似た美しい容姿をしているのに、女神様とは真逆の優しい心を持つ奇跡みたいな天使なんだ」
 「ヴェンデル褒め過ぎだよ! 僕はヴェンデルのほうが奇跡みたいな天使だと思うよ……。ああ、自分の考えていることを口に出すって照れるね。ごめん、メイミィ、おばあさま、恥ずかしいからもう行くね!」
 「おい、窓を開けて勝手に飛び出すな! おばあさま、メイミィこんなドタバタした別れでごめん! またいつか逢う日まで元気でいてください!」
 「メイミィー! おばあさまー! ありがとうー! 大好きだよー! うわぁ、友達に向かって大好きっていうだけでとっても恥ずかしいや!」
 「待てー! イシアー! くっそ、あいつすばしっこいんだよな……」
 天使はその美しき翼を広げて窓から飛び出し、私達に別れの挨拶を告げたら瞬く間に夜の闇の中へ消えてしまった。
 「……行っちゃった。なんかムードのない別れ方ですね」
 「ばあちゃんは湿っぽいのが嫌だから、これでいいと思うわ」
 おばあさまの言葉を聞いて、それもそうか、と思いながらも、でもやっぱりムードがないよな、なんてグダグダと考える。
 私はボーっと、イシアとヴェンデルのことを想いながら夜空を見上げた。今日は雲一つない。そのおかげで月と星が良く見える。まん丸のお月様が、ふたりの門出を喜んでいるように輝いている。
 「今日の夜空は綺麗ねぇ。きっと悠くんと湖雪ちゃんも星を見上げていると思うわ」
 私の心臓が、ドキリ、と脈打つ。
 晴都との一件の後、悠さんと湖雪さんはどうなったのだろう。
 結婚してふたりで幸せに暮らしているのだろうか。それとも疎遠になってお互い別々の場所で生きているのだろうか。
 ふたりが幸せな毎日を送っていることを願う気持ちで、おばあさまに問いかける。
 「おばあさま……。悠さんと湖雪さんは今どこで、何をしていますか。ふたりは幸せですか……」
 「ふふ、これを見なさい」
 おばあさまは悠さんと湖雪さんの現在を心配する私の頭を撫で、ベッドサイドのテーブルを見るように促した。
 ベッドサイドのテーブルには、体操教室のモノクロの写真と――満面の笑みを浮かべた男女の写真が置いてあった。
 「ゆ、悠さんと湖雪さん……」
 「ふたりは結婚して北海道で暮らしているわ。子どもは作らず郊外でひっそりと生きているって、毎年ばあちゃんの誕生日に送られる手紙に書いてあったわ」
 「郊外でひっそりと……。湖雪さんらしいですね」
 写真に写っている悠さんと湖雪さんは、二十代後半から三十代前半に見える。
 湖雪さんは相変わらず綺麗だけれど、雰囲気がとても柔らかな大人の女性になっていた。十八年の間、やっぱり晴都のことが憎くてたまらない日があっただろうに、それでもダークサイドに落ちず毎日をとても懸命に生きた結果、幸福なオーラが溢れ出す女性へと成長したのだろう。
 悠さんは太陽のような明るい少年から、年相応の落ち着きのある大人へと成長していた。中学生のときの派手な雰囲気はなくなっているけれど、公園のベンチに座っていたあの淋しさだって感じさせない。つまり悠さんも、湖雪さんと一緒で毎日を懸命に生きた結果、素敵に年を重ねていたのだ。ああ、良かった。ふたりはとても幸せそうだ。
 ふたりが大人になっても楽しげで元気そうでいてくれたのが、何よりも嬉しくて、悠さんの願いを叶えるために頑張ってよかったなぁ、と改めてそう思った。
 「芽深ちゃん、気が向いたらふたりに手紙を送りなさい。ふたりとも芽深ちゃんのことを長い間ずっと待っていたのよ。特に湖雪ちゃんなんて、早く芽深ちゃんに、私のたったひとりの友達に逢いたいって何度も言っていたわ」
 「そんなことを、湖雪さんが……」
 「ほら、住所を教えるからメモしなさい」
 「わかりました。どうしよう、手紙だけじゃなくて、早く湖雪さん達に逢いたい!」
 「今年の春休みは北海道へ旅行しましょう」
 旅行費のことは気にしないで、ばあちゃんが芽深ちゃんのぶんまで負担するから、とあまりにもかっこよすぎることを上品に笑いながらおばあさまは言った。
 「ほ、北海道旅行ですか」
 「そうよ。行きたくない?」
 「行きたくないわけないです! うわぁ春休みが待ちきれない!」
 今は二月でまだ寒さは続くけれど、すぐに暖かくなって短くて温かい春休みが訪れる。春はもう目の前だ。
 また、すぐに悠さんと湖雪さんに逢える。
 「ふたりに逢えたらなにをしよう! 湖雪さんとプリクラをまた撮りたいし、みんなでまたおにぎりを作りたい! 春休みが楽しみだなぁ。私、北海道にすごく憧れがあるんですよ! 好きなゲームの舞台が北海道をモデルにしていて――」
 ドンドン! ドンドン!
 突然、私が話していることを遮るようにドアを叩く音が鳴った。
 「ばあちゃんご飯だよ、早く降りておいで。俺がおんぶして食堂まで連れていってやるから」
 扉の向こうから大人の男性の声が聞こえてくる。
 あれ、おばあさまはひとり暮らしじゃないんだ……なんて思っていたら、すぐに扉のむこうにいう男性は部屋に入ってきた。
 ――なんで彼がここにいるの。
 北海道旅行に浮足立つ私は、突然の来訪者に腰を抜かしてしまった。
 まあ、腰を抜かしたのは相手も同じなわけで。
 「き、君は……」
 「あ、お、お久しぶりです――晴都さん」
 目の前には、年齢を重ねても相変わらずイケメンな晴都がいた。
 「なんで君がここにいるんだよ」
 「そ、それはこっちのセリフです! お、おばあさま、なんで晴都がお屋敷に」
 「ふふ、晴都がいて驚いたでしょう? このバカ孫が二度と悪さをしないよう厳しく見張るために一緒に暮らしているのよ。ふたりともいつまでも腰を抜かしてる場合じゃないわ。ご飯が冷めちゃう。早く食堂へ行きましょう」
 そう言っておばあさまは、晴都に驚く私をおいてひとりで部屋を出てしまった。
 「あ、待っておばあさま」
 晴都とふたりっきりは気まずいので、急いで立ち上がりおばあさまへついていく。
 部屋を出る前にちらりと振り返ると、晴都は呆然と私のことを見つめていた。
 「……湖雪ちゃんも、悠くんも……そして氷菜ちゃんも楽しく暮らしているから安心して」
 晴都は静かに私に話しかける。
 「ひ、氷菜さんって、湖雪さんのお姉さん……ですよね」
 「うん。俺が介護しないと生きていけないくらい病弱な、この世で一番綺麗な女性だよ」
 「氷菜さんのことを傷つけたら許しませんよ。私は氷菜さんの妹である湖雪さんの友達ですからね」
 「大丈夫。俺は氷菜ちゃんのことを愛おしく思っているから」
 「本当ですか」
 「本当だよ」
 そう言って、晴都は私から視線を外し黙りこんでしまった。
 これ以上晴都と会話を続けられないと理解した私は、足音を立てずに部屋から出て食堂へ向かった。
 晴都が氷菜さんと湖雪さんを傷つけるようなことをしたら、また木刀を持って闘いに行こう、そう考えながら階段を下りる。
 食堂へ近づくにつれ、油とソースとマヨネーズの匂いが漂ってきた。
 「晴都がたこ焼きを買ってきてくれたみたいね」
 ダイニングテーブルに置かれているたこ焼きを見て、おばあさまが笑う。
 八つ入りのたこ焼きがテーブルの上に二個置かれている。ひとつはソースとマヨネーズがたっぷりとかかったたこ焼きで、もうひとつは天つゆとネギを乗せたあっさりとしたたこ焼きだ。
 「ばあちゃんは天つゆのほうね。芽深ちゃんも食べる?」
 「あ、じゃあひとつ食べてもよろしいでしょうか……」
 私は天つゆネギたこ焼きをひとつ食べて、めっちゃ美味しいです、と笑った。
 「芽深ちゃん、この後はどうするの。夜も遅いわ。泊まっていく?」
 「そう言ってもらえて嬉しいのですが家に帰らなくちゃいけないので、すみません。そろそろ失礼します」
 「そうね。ご家族が首を長くして芽深ちゃんのことを待っているはずだわ。気をつけて帰るのよ。家に帰るまでがタイムスリップですから」
 「はい。気をつけて帰ります。あの、私はタイムスリップする前、いつもクラスのみんなは毎日を色鮮やかに生きているのに、どうして私は灰色の世界で生きているんだろうってずっと考えていたんです。でも、もうそんなこと考えません。だってみんなと、大切な人達と出会えたから」
 「ばあちゃんの存在が、少しでも芽深ちゃんの心の支えになるならこれほど嬉しいことはないわ」
 「おばあさま、私と出会ってくれてありがとうございます。またこのお屋敷へ遊びに来てもいいですか?」
 「もちろん。いつでも大歓迎よ」
 おばあさまは少女のような笑顔を浮かべて、そう言った。

 私は真っ白の美しいお屋敷を飛び出し、お花畑を駆け抜け森の中へと入っていく。
 まだまだおばあさまやおとぎ話に出てくるようなお屋敷と一緒にいたかったけれど、私には帰る家がある。私が帰る家はお屋敷ではない、家族のいるウッドハウスだ。
 森を抜け、公園から出て暗い住宅街を走る。
 家に帰ったら、みんなにおとぎ話のような体験をしたことを話そう。今日の夜ご飯はきっと長くなるぞ。
 手に汗握るおとぎ話をみんなに話したら、温かいお風呂に入って、安心感のある毛羽立った毛布に包まれて眠るのだ。そして朝になったら学校へ行き、地獄のような数学の授業を受ける。
 「うわあ、明日の数学って課題出されてたっけ」
 夜の住宅街を駆け抜けているときも、数学のことを考えると不安でいっぱいになって身体が重くなってしまう。
 思わず足がもつれこけそうになったとき、突然、ポケットに入れていた二枚の天使の羽根が光り、私の身体を軽くしてくれた。
 「あ、足が軽い! すごい、ものすごい全速力を出せる!」
 コンクリートで固められた道路に突っ込むことを覚悟していたのに、天使の羽根が――イシアとヴェンデルが、私のことを助けてくれた。
 「ありがとうふたりとも……。あ、そうだ! 明日の昼休みに課題があるか聞けばいいんだよ!」
 どうやら身体だけではなく、思考まで軽くなったようだ。
 課題が出されたことがわからないのなら、先生に聞けばいいだけの話だ。
 明日の数学は六時間目にある。昼休みに職員室へ行って先生に課題があるかどうか聞きに行こう。
課題があるなら、昼休みに急いでやればいいし、課題がなかったらラッキーだと思うだけだ。
  また課題を解かずに先生にみんなの前で怒られたらどうしよう、なんて重く考えなくていいのだ。
 「職員室に入るのは緊張するけど、だけど頑張る」 
 先生に課題があるか聞けばいい、という考えを思いついて心も体も軽くなった私は、夜の住宅街を流れ星のように駆け抜ける。
 まがり角を右へ回ると家はもう目の前だ。全速力で走ったおかげで、汗を沢山流してしまった。前髪が汗で湿っていたら嫌だと思ったけれど、以外にも前髪はさらさらだった。
 一応前髪を手ぐしでとかした後、家のピンポンを押す。
 今開けるよーとお母さんの声が聞こえ、ガチャリと鍵が解錠する音が鳴った。
  扉を開けると、オレンジ色の灯りに照らされた私の家族がいて、思わずみんなの顔をまじまじと見つめてしまう。
 タイムスリップして、家族のことを考えてセンチメンタルになってしまったとき、おばあさまとふたりの天使は私のことを励ましてくれた。
 必ず帰れるから安心しなさい、と。
 無事に家に帰ることができたことを、お屋敷にいるおばあさまと夜空を駆け巡る天使達に心の中で報告する。
 「どうしたの、ぼーとしちゃって。今日は唐揚げよ」
 ずっと家族の顔を見ていたら、お母さんに心配されてしまった。
 ううん、心配しなくていいよ、お母さん。
 「大丈夫だよお母さん! あのね、とっておきの話があるの。みんな唐揚げ食べながらよく聞いてね」

 その後、私は美味しい夜ご飯を味わいながら、夜が明けるまで宝石のように輝く二○○七年の冬の日々を語り続けた。