二○○七年十二月十四日金曜日、ヴェンデルのカンを信じるなら、今日事件が起きる。
 現在時刻は午後十五時三十分。食堂のダイニングテーブルにて、悠さんと湖雪さんがおばあさまと雑談をしている。悠さんも湖雪さんも期末試験で学校が早く終わったので、昼過ぎにお屋敷に来た。
 私は食堂に近い部屋で横になり、先日湖雪さんと一緒に撮ったプリクラを眺めていた。
 真っ白の壁から三人の和気あいあいとした声が聞こえてくる。
 冬休みはなにして過ごすの? なにか困ったことがあったらいつでもお屋敷に来なさい、とおばあさまが言い、悠さんと湖雪さんは困ったことがなくてもお屋敷に来ます、と答えていて、つい笑ってしまった。
 おばあさまは湖雪さんのことをとても気にかけていて、おにぎり教室がない日も、湖雪ちゃんは元気に過ごせているのかしら、とよく心配している。
 「あの子は強がりだけど繊細な子よ。家庭にちょっと事情があってね、学校にも馴染めないあの子の唯一の居場所がおにぎり教室なの。あんなに美人さんなのに、私たちとおにぎりを作っているときが一番幸せ、なんて言えるくらい純粋でまっすぐな子よ」
 数日前、おばあさまに湖雪さんはどんな人ですか、と聞いたことがある。そのとき返ってきた言葉に、私は羨ましいな、なんて魅力的な人なんだ、と悔しくなってしまった。
 顔立ちや彼女が纏う空気感すべてが人を惹きつけるというのに、辛い事情を抱えても懸命に生きる強さもあって、しかもあんなに美人なのに私みたいな冴えない女子とも仲良くしてくれる。彼女に勝てる要素なんてひとつも見つからない。悠さんが彼女に恋をする心理も理解できてしまう。
 悠さんは、湖雪さんが学校の苦しみからも家庭の苦しみからも解放されて、笑顔で自由気ままに生きてほしいと、そう思いながら恋をしていた。
 なんて偽りのない、純度一○○%の恋心なのだろう。
 「湖雪さんの幸せが悠さんの幸せなんだからね。事件を未然に防いで、おにぎり教室を守らないと」
 大人になった悠さんが笑っているところが見たい、そのためには今から起こる事件はなにがなんでも防がないと。そうしないと、悠さんは湖雪さんと離れ離れになり、淋しさを抱えて生きることになる。
 過去にタイムスリップしてわかったことは、湖雪さんを失ったことで生まれた悠さんの淋しさを、私なんかが埋めることはできない、ということだった。深く広がった彼の心の穴を修復するには、この世界でただひとり、湖雪さんにしかできないのだ。
 私は悠さんが幸せになるための『お手伝い』しかできないから。
 「……悠さんの幸せのためにいっちょやりますかぁ」
 プリクラを制服のポケットに入れ立ち上がり、部屋を出て食堂へ向かった。

 「すみませんおばあさま、ちょっと外に出ます」
 「芽深ちゃん、十六時からおにぎり教室が始まるから、それまでには戻ってきなさい。今日はちょっと早めのクリスマスパーティーをするわ。子どもたちの親も参加して一緒におにぎりを作るの」
 「クリスマスパーティですか。それはいいですね」
 「親が来られない子には、私や悠くん、湖雪ちゃんに芽深ちゃんと一緒におにぎりを作るようにしましょう」
 悠さんがクリスマスパーティーという単語を聞いて飛び跳ねる。心なしか湖雪さんもワクワクしているように見えた。湖雪さんは高校生がガキ臭いパーティーに参加するのは恥ずかしい、とか面倒なことを言い出さない。子どもたちのためのクリスマスパーティーを純粋に楽しみと思える、本当に素敵な人なんだ。

 「……芽深ちゃん、待って!」
 外に出ようと玄関で靴を履いていたら、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
 振り返ると、少し息を切らした湖雪さんがいた。
 「あ……えと、なんでしょう」
 「あのね、すごい髪がボサボサ。自分で気づかない?」
 「あ、ホントだ……アホ毛が立ってる」
 「いつも芽深ちゃんアホ毛出てるよ。おいで、あたしが直してあげる」
 湖雪さんはそう言うと、壁に掛けられている鏡の前に私を移動させ、雑に結ばれたポニーテールをほどいた。
 ポケットに入っていた櫛を取り出し、私の髪を丁寧にブラッシングする。冬だというのに、湖雪さんの手はまったく乾燥していなかった。
 「え、こ、湖雪さん、指が綺麗ですね……。湖雪さんみたいな綺麗な人に髪の毛結んでもらうの、緊張しちゃいます……」
 「芽深ちゃんのほうが指が細くて長いでしょ。爪の形まで綺麗だし。ていうかすごいスレンダーだよね、背も高くて羨ましい」
 「え、そうですか? 褒めてくれてありがとうございます、とても嬉しいです……。でも私は身長一六二センチしかないですよ。姉は一六五センチあります」
 「一六○超えてるからいいでしょ。私は一五六しかない」
 「湖雪さんはかわいい顔があるからいいじゃないですか。身長も欲しいなんて高望みするのは欲張りですよ」
 「あーうるさい。あんたはたれ目で優し気な顔してて背が高いし、私には持てない清楚な雰囲気あるし」
 「え、本当ですか、清楚な雰囲気ありますか……。私、実はサイダーのような清純文学少女を目指しているので、そう言ってもらえて嬉しいです」
 「え、今なんて言った? よくわかんないけど理想の自分があるんだ、いいじゃんそういう子好きだよ……はいできた」
 鏡を見ると、アホ毛が一本も出ていないポニーテールの少女がいた。緩やかに波打つウェーブの髪が高い位置から垂れていて、少し頭を動かすだけで髪の毛が揺れる。
 「あ、あの、湖雪さん髪の毛を結んでくれてありがとうございます。湖雪さんは私なんかにも優しくしてくれて……とっても良い人です」
 「芽深ちゃんは自信を持ちなよ。今のあんたは蝶々になる前のサナギなの。自信がないとあんたは一生羽化しない。サナギのまま幕を閉じたらいけないよ。……あと、私のこと良い人なんて言う女子あんたしかいないからね。ありがとう」
 照れくさそうに私に『ありがとう』と言った湖雪さんはあまりにも魅力的で、私は彼女から目が離せなられなかった。
 ずっと見つめられているのが恥ずかしいのか、湖雪さんは両手で顔を隠したけれど、指の隙間からその大きなな瞳を覗かせて、『ふふ、うふふ』と笑った。
 ああ、もう完敗だ。レベル一○○の恋のライバルに勝てっこない。

 ポニーテールを揺らし外に出ると、ふたりの天使が寒さに耐えるようにお互いの体を寄せ合っていた。天使たちは男が来るのをいまかいまかと待ちわびている。
 寒い中見張りをしているふたりに、ポケットからホットココアの缶を取り出し差し入れをする。
 「男の人が来たら、『色々な事情があってお屋敷には入れません』って言うね。それでもお屋敷の中に入ろうとしたら全力で止めるから。この手に握る木刀を使って」
 「うん。俺達も柔道で止めるよ」
 イシアは必死にふーふーとココアに息を吹きかけている。ココアを冷ますことに夢中のイシアに「ちょっとは緊張感を持ちなさい」と言いたかったけれど、必死にココアを冷ます様子が猫みたいにかわいかったので、怒る気が失せてしまった。
 「イシアはマイペースだなぁ」
 「マイペースは自由である証拠だね」
 「ヴェンデルはイシアに甘すぎじゃない?」
 「甘くない。むしろ厳しいよ。メイミィの見えないところではすごく厳しくしてるから」
 「えーそれホント?」
 「本当だよ」
 「そうですか。ヴェンデルの言葉を信じますよ私は……」
 「メイミィ、なんでさっきから少し悲しそうな顔をしているの?」
 「……話が変わるんだけどさ。私が『あの人の願い事を叶えてほしいです』ってふたりにお願いしたのを覚えてる? 初めて会った日の夜、お屋敷で名前も知らない人の願いが叶うように願ったことを」
 「もちろん覚えているよ」
 「なんでかわからないけど、すごい奇跡が起こって、おにぎり教室に中学生の『あの人』がいた。あの人は昔からかっこよかった」
 「そうなんだ」
 「『あの人』は悠さんっていうらしい。素敵な名前でしょ? 私は過去の悠さんに会えたことに舞い上がったの。……でもね、悠さんはとっても素敵な人に恋をしてたの。私、失恋しちゃったぁ」
 「メイミィ、俺達の前では無理して笑って話さなくていいんだよ」
 「無理してないよぉ」
 「そんなぎこちない笑顔を浮かべて強がってさ……」
 「もう、ヴェンデルのいじわる! 私が強がってることなんて気にしないで!」
 「わかったよ。メイミィが涙目なことには触れないからさ……。ねえ、失恋したけどまだ悠さんの願いが叶ってほしいと思うの?」
 「うん。願いが叶ってほしい、幸せでいてほしい、ずっと笑っていてほしい……。湖雪さんみたいな素敵な人と一緒にいるのが悠さんの幸せなら、私はその幸せの手助けをしたい。結局は悠さんが幸せならそれでいいんだ」
 「恋した相手の幸せを純粋に願えるなんて、メイミィだって素敵な子だよ」
 「ありがとう。でもさ、強がってるけどさ、本当は、ほんの少しだけ辛いんだ……」
 「よし、じゃあ作業服に着替えてきなよ。あのピンクの派手な服を着ると元気が出るでしょ」
 「え、い、今、私、ダイナーガールになるの? 確かに元気が出るけど、未来が変わる分岐点であるこの大事なときにあの服着るの? ダイナーガールがお屋敷の前にいたら、来るであろう男の人だって驚いちゃうよ」
 「だからだよ。ダイナーガールが玄関にいたら、お屋敷に入ることをためらうよ。メイミィを見た瞬間に引き返すはずだ」
 「『なんかコスプレした女が玄関の前にいるから引き返そう』って思わせる作戦ね……」
 「メイミィが変な人と思われること以外は特にデメリットないし、かなりの名案だろう」
 「私のデメリットが大きいことをちょっとは考慮してよ! ま、まあ男の人が私を見ただけでお屋敷から引き返してくれるなら、とりあえずやってみる価値はあるか……」
 そうして私は、お屋敷へ戻り、寝室のクローゼットに大切にしまわれているダイナーガール風のコスチュームを手に取った。
 ピンク色の可愛いコスチュームを身に纏い、ダイナーガールになった私を姿見の前で確認する。
 「……あれ、なんか顔つきが優しくなった?」
 初めてこのコスチュームを着た日から、格段に顔つきが優しく、明るくなっていることに自分自身驚き、つい鏡の中の自分を凝視してしまう。
 「毎日とっても楽しかったもんね、ずっと笑ってたもん。そりゃあ顔も輝きますわ」

 「おまたせ!」
 「おーメイミィ似合ってるね」
 「ポニーテールを崩したくなくて下から服を脱いだり着たりしてたら時間かかっちゃった」
 「ぜんぜん時間は過ぎてないよ。まだイシアはココアを飲んでるくらいだし」
 「どんだけ猫舌なのイシア!」
 「あ、でももう飲み終わるみたいだよ。うわぁ、すごいなイシア。最後は一気に飲み干したのか」
 「もう、いつ男の人が来るかわかんないんだよ? そろそろ気合い入れて! 緊張感を持って!」
 「あんまり怒るなメイミィ。俺もイシアも油断はしていないよ。しかし、いったい何の目的があって男はお屋敷を訪ねてきたんだろうね。一人暮らしのおばあさまを心配して親戚がこのお屋敷に足を運んだとか? それだったらおばあさまが包丁を持つ必要はないか」
 「うん。イシアから週刊誌の話を聞いたときから謎だったけど、結局おばあさまが人を刺そうとする状況がわからないよね――」 
 「あんた! なにをしに来た!」
 突然、いつも穏やかで優しいおばあさまの怒鳴り声が聞えてきた。
 「ばあちゃんどうしたの! この人だれ⁉」
 すぐに悠さんの驚いた声が聞こえてきて、お屋敷の中で緊急事態が発生したことを理解した。
 その場にココアの缶を置き、急いでお屋敷へ戻る。
 広いお屋敷の中を全速力で駆け抜け、声のする方――食堂へと急いだ。
 「待てメイミィ。まずは状況を把握しないと」
 お屋敷を全速力で駆け抜け、そのまま食堂へと突進しそうになる私に、ヴェンデルがブレーキをかけた。
 「焦って突入して場をかき乱したらダメだろ。物陰に隠れてまずは何が起きているか理解しないと」
 私たちは物陰に隠れて食堂をこっそりと観察した。
 「え、あれ……あの人……?」
 食堂には、ふたりの天使に負けず劣らずキラキラと輝く青年がいた。
 青年は天使と勘違いしそうなくらい整った顔立ちをしているが、首元にある傷や日に焼けて少しだけきしんだ髪から人間臭さを感じる。あの世で生まれた生物特有の、宝石製のラメを纏ったような煌めきも感じない。
 ただ、本当に整った顔立ちをしているし、天使とはまた違った輝きを青年は放っていて。その輝きは美しいものだけで成り立っていないこの世で育ったからこそ出せるものだった。
 「なにしにって……自分の家に帰ってきただけだよ」
 「もう帰ってこないと言っただろう、晴都(はると)
 「そんなこと言ったけっけなぁ。でもさ、ばあちゃんには優しくするから一緒に住ませてよ」
 「ばあちゃんは悪さばかりするお前の面倒をもう見切れないんだよ。早くこのお屋敷から出ていきなさい」
 「俺をこのお屋敷にちょっとのあいだ昔みたいに住ませて。孫のお願いだよ、ばあちゃん」
 晴都はおばあさまの孫――?
 『ばあちゃんは天間一族の呪縛から逃れられなかった……。素敵な大人になんかになれなかったわ……』
 『孫は天間一族の男になってしまった。光一朗叔父様のように、自分自身の欲望のためなら、他人がどうなっても構わないと思うような、恐ろしい悪魔の男に』
 おばあさまの過去を知ったあの日の夜を思い出す。
 孫を真っ当な人間に育てることこそが自分の使命だと思っていたのに、光一朗叔父様のような悪魔に育ってしまったことを、震える声で私に話してくれた
 優しいおばあさまの教育を受けても光一朗叔父様みたいな悪魔の男に育って、おばあさまを悲しませる親不孝が、あの人なんだ。
 「……放せよ、イシア」
 ふとただなら気配を感じ、ちらりと後ろを振り向くと、ヴェンデルが絶対零度の瞳で、晴都と呼ばれる男を睨んでいた。見つめられただけで体の芯から凍ってしまいそうな、冷たい瞳の奥には憎悪が宿っている。
 イシアはぎゅっと哀しそうに目を閉じて、今にも晴都に飛びかかりそうなヴェンデルを後ろから抑えていた。
 「抑えなくていいよイシア。あいつを今ここで殺せば――お前は翼を失わない」
 ヴェンデルの口から飛び出したのは明確な殺意。イシアは一瞬愕然とした後、すぐにヴェンデルの視界から晴都を見えなくするよう顔を手で覆った。
 「え、なんでそんなにヴェンデルは怒ってんの……。まさか、あの男性がイシアの翼を折った人間なの――」
 私の言葉を遮るように、ヴェンデルはイシアの手を乱暴に顔から剥がした。
 「あいつが……翼を……」
 ヴェンデルは今にも晴都に飛びかかりそうなほど怒り狂っていた。イシアがもう一度後ろからヴェンデルを抑えるように抱きしめるが、強引に身体から引きはがされて床に倒れこんでしまった。
 「ごめんイシア、危ないから一旦離れて!」
 ヴェンデルを一刻も早く冷静にしなくてはいけないと思った私は、イシアに一言謝った後、ヴェンデルに思いっきりタックルをして押し倒した。
 「痛いな……メイミィどいて」
 「どかない。ヴェンデル、あの人がイシアの翼を折った男だと考えると私まで腹が立つよ。でも今は冷静にならないと! 私たちはおばあさまによる晴都への傷害事件を防がないといけないんだよ。お願い、落ち着いて……」
 憎悪に満ちたヴェンデルの瞳が、私を容赦なく睨んでくる。ただ睨まれているだけなのに、心臓が矢を貫かれたように痛い。しかし、イシアがもう一度ヴェンデルの顔を手で覆ったので、痛みはすぐに消えた。
 イシアは声にならない声を上げて、ヴェンデルに向かって何かを必死に訴えている。
 ヴェンデルに自分の言葉を届けようと、荒い息を吐きながら口を動かしている。
 ――僕たちの使命は人間を幸せにすること。だからどんな人間にだって絶対に攻撃しちゃいけない。
 ――ヴェンデル、羽がなくたって僕は君といるだけで幸せだよ。だから君があの人を憎む必要なんてないの。
 不思議なことに、息をゼーゼーと吐いている音しか聞こえないけれど、この時私はイシアの言いたいことが理解できたのだった。
 イシアと知り合って日の浅い私でも言いたいことが伝わってくるのだから、ヴェンデルには絶対にイシアの言いたいことを理解しているのだろう。
 イシアがヴェンデルの顔から手を離すと、ヴェンデルは涙を流していた。
 「……イシア、メイミィ、もう大丈夫だから。メイミィ……睨んでごめんね」
 「いいよ別に。気にしなくていいから、大丈夫」
 ヴェンデルが冷静になったことに安堵した私は、再び食堂の方へと意識を向けた。
 おばあさまと晴都が会話を続けている。
 「お屋敷に住ませろ? ふざけたこと言ってるんじゃないよ」
 「ふざけてないよ。ここを飛び出して数年経つけど、すぐ物を無くす俺がちゃんと屋敷の鍵を無くさなかったし。偉くない?」
 「いつ屋敷に入り込んできた」
 「今日の夜明け前。こっそり鍵を開けた後、自分の部屋で寝てた」
 「勝手に家に入るなんて、礼儀知らずの孫だね」
 「孫だからいいじゃん」
 「あんたは金が無くなるとここに転がり込んでくるけど、今は健全な女の子が居候している。さっさと帰りなさい」
 「へぇ。その女の子ってどんな子? 家庭環境が悪くて家出でもしたの?」
 ふたりの会話の内容に私が登場したので、思わず心臓が飛び跳ねてしまった。
 詳しい事情は知らないが、決して雰囲気の良い会話をふたりはしていない。しかしおばあさまが晴都を刺そうとするほど、怒りで我を忘れるような状況にはまだなっていなかった。
 おばあさまの怒りがヒートアップしないよう、ここは私がふたりの仲裁役になろう、そう思い会話に割り込もうとした瞬間、

 「おまえ、あたしのこと知ってる?」 

 湖雪さんの鬼気迫る声が、この場を支配した。
 湖雪さんはヴェンデルのように憎悪に満ち溢れた顔をしていた。どうして湖雪さんがそんな顔をしているのだろう。
 晴都は飄々とした態度を変えることはなく、湖雪さんに話しかける。
 「あれ、氷菜(ひな)ちゃんの妹? もう高校生になったの。すごい、制服似合ってる」
 「軽々しく姉の名前を呼ぶなゴミ男! 姉の優しさを仇で返したおまえなんかに――」
 「氷菜ちゃんは天然氷みたいな子だったなぁ。見た目も不純物がなくて、触れるとすぐに溶けちゃう。抱きしめたらとろとろの瞳でこっちを見てきたよ。すべてを俺に委ねているのがわかった」
 「はぁ? なにベラベラ喋ってんの? 突然恋人を置いて音信不通になったような男でも、そんな詩人みたいなことが言えるんだ」
 「俺は同じことをずっと続けられるような崇高な人間じゃないよ。どんなに好きでも飽きちゃうから仕方がないでしょ? 今まで何人も彼女がいたけど、まあ氷菜ちゃんは希少価値の高い子だったから、今も俺を思い続けてくれていたら嬉しいな」
 「うるさい! 姉が病気になった途端ふらふらどっか行きやがったおまえが! 今にも野垂れ死にそうなおまえを助けた優しい姉を裏切ったおまえが!」
 「病人なんて負担を背負いたくないじゃん。俺は自由に生きたいの」
 「湖雪さん! だめだ!」
 晴都との口論で激情に駆られた湖雪さんは、悠さんの制止を振り切り台所にある包丁を掴んだ。
 包丁を掴んだ湖雪さんを見た瞬間、私は事件の真相を理解した。
 包丁で晴都を刺そうとしたのはおばあさまではない、湖雪さんだ! 
 姉のことで晴都に確執のある湖雪さんは、我を忘れて包丁を振りかざしていたところを親子に発見されたのだろう。週刊誌におばあさまが犯人と報道されていたのは、湖雪さんの未来を守るために、おばあさまは自分を犠牲にしたのだ。
 おばあさまは噓をついた、孫である晴都を刺したのは自分だと。
 湖雪さんの過ちを庇って、事件を起こしたおばあさまは精神病院へ入院した。人里離れた豪邸に住む老人が自分の孫を刺し殺そうとした事件なんて、たいそう世間様のネタになっただろう。気が狂った老人が自分の孫を殺そうとした――と
 「包丁なんか持ってどうするの? 俺を殺したいなら好きなだけ刺せばいいよ。刺されることに飽きたら、俺も君のこと包丁でぐちゃぐちゃにするけどね。」
 晴都は酷薄に笑い、自分に対して怒りの感情をぶつける女の子をさらに煽った。
 この男は、晴都はなぜ笑っているのだろう。湖雪さんが親愛なる姉を傷つけられたことに怒っているのに、なぜへらへらと笑えるのだろう?
 「俺のことを刺し殺したいくらい頭に血が上っている湖雪ちゃんはかわいいね。病人なんて見捨てられて当然なのに……」
 その言葉を聞いた瞬間、もうこれ以上湖雪さんと氷菜さんのことを傷つけないでほしいと思った。お願いだから、これ以上彼女たちを苦しめないで!
 「……ゴミ野郎が!」
 湖雪さんはそう言うと、片手で持っていた包丁を両手で握り直し、晴都に接近するために片足を踏み出した。
 「――おい、メイミィ! あの子はあと数秒であいつを刺すぞ! っておい!?」
 気がつけば私は、ヴェンデルの制止を振り切って食堂の中央へと全速力で駆け寄った。

 「晴都! このお屋敷から立ち去れ!」

 この場にいる全員が、物陰から木刀を持って飛び出してきた私を見て唖然とする。
 湖雪さんも氷菜さんもおばあさまも、そしてイシアとヴェンデルもこの男に傷つけられ不幸になった。
 その事実に気づいたとき、この男からみんなを守るという正義が、私の中で芽生えた。
 「私がみんなの仇を討ってやる!」
 晴都は、急にこの場に割り込んできた私を見て不愉快そうな顔をした。晴都の人を馬鹿にする薄笑いが崩れていい気味だ。
 「おらぁ!」
 先手必勝、物陰から飛び出した瞬間私は攻撃を仕掛けた。右足を踏み出し思いっきり木刀を振り上げ、左足を出すと同時に木刀を振り下げる。
 「おし! 当たったぁ!」
 理想は相手の脳天を直撃することだったが、少しかわされ右肩に木刀が当たった。それでも相手が私を見て唖然とている隙に先制攻撃を仕掛けることができたのは大きい。
 「湖雪さん、こんなヤツのために人生無駄にしちゃダメだ!」
 この状況に戸惑いながらも、咄嗟の判断で悠さんは湖雪さんを羽交い締めにし、包丁を取り上げた。
 「あいつのことが憎いよね、この先もずっと、大人になっても、あいつのことが許せないよね。あいつはそれくらい、湖雪さんたちを傷つけた悪い男だよ。でもさ、湖雪さんのイライラは全部俺が受け止めるよ! 傷ついた湖雪さんの心を、俺が愛情で治せるまでずっとそばにいるから! だからお願い、人を刺すなんてことしないで!」
 悠さんの必死の説得が湖雪さんに届いているといい。道を踏み外してほしくない、憎しみに飲み込まれてほしくないという悠さんの思いが、人を刺し殺そうとした湖雪さんに伝わっていてほしい。
 「湖雪さん! この勝負絶対私が勝ちます! 必ずこいつをとっちめてお屋敷から追い出すので安心してください!」
 そう言って、また木刀を振り上げる。いけ、今度こそ脳天直撃だ!
 「冴えない女が調子に乗って見苦しいよ」
 そう言って、晴都は脳天めがけて振り下ろされた木刀を、両の手のひらで挟んで受け止めた。
 見事な真剣白刃取りだ。敵ながら天晴れである。
 「う、うわあ!」
 両手で挟んだ木刀をそのままぎゅっと握りしめて、晴都は思いっきり私と木刀を床に叩きつけた。
 真剣白刃取りをしてから床に叩きつけられるまでの一連の動作があまりにも速い。人生で一番の痛みは、素足でおもちゃのブロックを踏んづけたことだったけれど、今受けた痛みはそれを遥かに上回っていた。
 床に倒れた私を、晴都は思いっきり蹴り飛ばす。蹴り上げられた衝撃でゴロゴロと床を転げまわれば、ミニスカートのポケットから私の宝物である、湖雪さんと撮った人生初めてのプリクラがこぼれ落ちてしまった。
 「ひ、ひろわなきゃ……」
 ジンジンと痛む腕に何とか力を入れてプリクラを拾えば、ピンクのネオンペンで書いた「我等友情永久不滅」という落書きが、ぼんやりと目に入った。
 我等友情永久不滅……我等友情永久不滅だもん。友達の幸せのためなら、どんな困難にも立ち向かわないといけないの。
 プリクラを撮ったときの、湖雪さんのはじけるような笑顔を思い出す。今ここで私が倒れてしまったら、湖雪さんは二度と笑えなくなってしまう。湖雪さんを傷害事件の犯人なんかにしたくないから、私が晴都を懲らしめなくちゃいけない。
 しかし頭からつま先まで痛みが全身を駆け巡り、立ち上がることができない。視界がチカチカとフラッシュしはじめ、全身を打ち付けられた衝撃で脳がダメージを受けていることが伝わってくる。
 痛みによりチカチカしている視界の中に、再び余裕そうな笑みを浮かべている晴都が映る。ちくしょう、ボロボロの私を見て嘲笑いやがって……。
 いやだ、本当は格好良く晴都を倒す姿をみんなに見せるはずだったのに、こんな一方的にボコボコにされている情けない姿を見せているなんて。湖雪さんと天使達の仇を討つために、おばあさまを天間一族の呪縛から解放するために、そして悠さんの未来のために、この勝負に絶対に勝たないといけないのに……。
 相手の強さに弱気になり、勝てないかもしれない、と本能で悟ったその瞬間、

 「「フレーフレー! メイミィ!」」

 「え、ヴェンデルと……イシアの声……?」
 天使『達』の希望の声が聞こえてきた。
 朦朧としてきた頭の中に、ヴェンデルとイシアの声が鳴り響く。イシアの低音とも高音とも言いづらい、中くらいの柔らかな声を聞いたとき、ついに幻聴でも聞こえてきたか、と思ったけれど、どうやら本当にイシアは声を出しているらしい。
 凛々しい顔をしたふたりの天使が、私の目の前に現れる。
 「メイミィ! 今、目の前で困難に立ち向かう君を見て、僕だっていつまでも声が出ないままジッとしてちゃいけないと思ったの! 僕たちの使命は人間を幸せにすること! 頑張る人間を応援すること! だからありったけの力を喉に込めて、フレーフレー! って叫んだら、声が激流のように溢れだしたんだよ!」
 「火事場の馬鹿力ってやつでイシアはもう一度声が出るようになった! メイミィ、俺達は天使の使命と誇りを持って、今から頑張る君を全力で応援する!」
 「「フレフレ! メイミィ! 頑張れ! 頑張れ! メイミィ! つまずいたって、起き上がれ! 起き上がったら、どうにかな・る・さ! 困難なんて怖くない! 乗り越えられるよ絶対に! 絶対、絶対、ダ・イ・ジョ・ウ・ブ!」
 天使たちは、いつの間にか用意していたポンポンを両手で振り回しながら、歌を歌って私を応援していた。チアリーダーみたいで可愛らしい。
 ヴェンデルは普段の声と同じように歌声も低いけれど、イシアは歌うと普段の声よりも高くて甘く可愛いい声になるんだなぁ、なんて思っていたら、体中からドンドンエネルギ―が湧きだした。
 「うおお! 力がみなぎってきた! まだ私は戦える!」
 悠さんと湖雪さんと晴都は、急に元気になった私を見て不思議そうにしていた。翼を失った天使たちのことを認識できるのは、私とおばあさまだけだもんね。
 おばあさまを見ると、ふたりの天使と私を涙目で見つめていた。天間財閥の呪縛に縛られているおばあさまを安心させたくて、思いっきり腕を伸ばしてグーサインを掲げる。
 「おばあさま! 私が晴都を懲らしめるので、もうすぐあなたは呪縛から解放されます! だから泣かないで!」
 「うるせぇ女だな。誰が誰を懲らしめるって?」
 「うるさいのはあなただ! ハッピーソングを聞いてこっちはパワー全開復! まだまだ私は頑張れる! 私があなたを懲らしめる!」
 そう言って、元気になった私は木刀を振り上げる。
 「ほら! 当たった!」
 「当たっても全然痛くないよ。蚊に刺されているみたい」
 「うるせー!」
 ばちばちと、木刀を真剣白刃取りされないように相手に当てる。しかし晴都は喧嘩が上手で、何度も私に蹴りを入れてきた。木刀でなんとか蹴りを防ぐこともできたけれど、やはり年齢差や経験値の差、筋力の差から、どんどん私は押されていく。
 「ねえ、お前はなんのためにここまで頑張っているの?」
 「私の名前は『おまえ』じゃない! 私の名前をよく覚えて! 私の名前は町野芽実! みんなを笑顔にするため、あなたを倒す!」
 「もういいじゃん。よく頑張ったよ」
 そう言って、晴都は私を思いっきり蹴っ飛ばした。
 私は三メートルくらい、本当に吹っ飛ばされた。
 人は大きな事故や恐怖など危険な状況に直面したとき、景色がスローモーションに見えると聞いたことがあるけれど、今の私は本当に視界に映るすべてが時が止まったように見えた。つまり、絶体絶命ってやつである。
 真っ白の壁が少しずつ近づいてくる。晴都は私をお屋敷の壁に叩きつけるために、思いっきり蹴り飛ばしたのだ。あんな硬い物体に勢いよく衝突したら、数本の骨は確実に折れるだろう。
 ああ、壁にぶつかる、痛みを想像して歯を食いしばった。
 ――しかし私は痛みを感じることはなかった。

 「お姉さん大丈夫⁉」

 悠さんが吹っ飛ばされた私を受け止めてくれていた。
 「だ、大丈夫です……」
 「強がっちゃいけないよ! お姉さんの体はボロボロだもん……」
 本当に大丈夫なんです。体はボロボロだけれど、痛みなんか感じていません。だって壁にぶつかる事故を防ぐためとはいえ、好きな人の腕の中にいるので私はとても幸せなんです。恋のパワーで、晴都に思いっきり蹴り飛ばされた痛みなんて忘れちゃいました。
 何度も大丈夫です、と伝えるけれど、それでも悠さんは私のことを心配そうに見つめてくるので、コーラのキャンディをくれたあの日と同じように心拍数が上昇していく。
 悠さん、私はあなたに愛さなくても、私はあなたのことを愛していますよ。
 だって、泣きながらブランコを漕いでいた日も、今、晴都と闘っているときも、いつだってあなたは私を助けてくれたもん。
 太陽のような少年から淋しい大人に変化してしまったけれど、それでも私を助けてくれる、ずっと優しい男の人だったのだ、悠さんは。
 時が経っても変わらないその優しさに、この人のことを好きになれてよかったと、心の底から思った。
 「俺も闘う! お姉さんばっかりいじめるな!」
 「だ、だいじょうです……。悠さん……」
 「お姉さん、ダメだよ! お姉さんは休んでて! 闘わなくていいんだよ!」
 「……時間は、稼げました……」
 ボロボロになった私を気にかける悠さんの気持ちは有り難いけれど、でも本当に大丈夫なのだ。
 大丈夫、時間は稼げた。もうすぐ来る、電話のないこのお屋敷に現れる、外部への連絡手段をもつ救世主が――
 「まぁ、なにが起こっているの!」
 救世主が、救世主が現れた。
 大人の女性の声だ。その後に真梨花ちゃんの悲鳴も聞こえてきた。
 晴都に馬乗りになって、包丁を突き刺そうとする湖雪さんを発見した親子が来たのだ。現在ふたりが見ているのは、木刀を持つボロボロの女子高生と、その女子高生を痛めつけた成人男性という光景だけれど。
 真梨花ちゃんのお母さんは判断力が早いのか、すぐに警察に通報した。その迅速な対応、助かります。このお屋敷はお兄様を世間から隔離するために電話が無く、中学生の悠さんはまだしも女子高生の湖雪さんすら貧乏で携帯電話を持っていなかったので、警察に通報できず自分たちで晴都をなんとかしなくちゃいけなかった。
 すぐに警察がくると真梨花ちゃんのお母さんは言った。そのことを聞いた晴都は、その場に座り込み黙りこんだ。警察が来ると聞いて、暴れることをやめてくれて助かった。あなたを倒すと言ったものの、私は晴都を倒すどころかたいした攻撃も仕掛けられなかった。湖雪さんと天使達の仇をとれずに申し訳ない。
 しかし仇はとれなかったものの、晴都は想像以上に落ち込んでいる様子だった。今まで何でも自分の思い通りになっていたというのに、冴えない女子高生すら倒せなかったことが悔しいのだろう。きっと彼は賢い人だから今回のことで、どんな人間だって舐めずに誠実に向き合うべきだと反省するだろう。
 闘いも終わり緊張の糸がほぐれた私は、ぼーっと真っ白の天井を眺める。
 頭を動かすこともせず、悠さんの腕の中で真っ白の天井をただ眺めていた私の視界に、突然、美少女の顔が映し出された。
 湖雪さんだ。湖雪さんはやつれていても美人だった。
 「ごめんなさい、芽深ちゃん。ボロボロになるまで戦わせて。あの男に煽られて、包丁で刺し殺そうとして、悠くんに泣きながら止められて、大切な友達がボロボロになっているのを見て、ようやく怒りが収まったの……あたしが暴走したから、芽深ちゃんが傷ついた……最低だ、あたし」
 私の右手が、ぎゅっと白魚のような手で包み込まれた。
 「ねえ、あなたともっと仲良くなりたい」
 私の右手を両手で包み込む湖雪さんは、永遠に眺めていたくなるほど綺麗だった。
 湖雪さんに熱い視線で見つめられて、思わず照れてしまう。
 こんなにジッと見つめられることが照れくさくて恥ずかしくて、思わず目をそらしたくなるけれど、こんな私と仲良くなりたいと言ってくれた相手に、そんな無礼な真似はしてはいけない。
 私は勇気を振り絞り、湖雪さんの宝石のような瞳を見つめ返した。
 「……こ、湖雪さん……私もです……だけど、わ、たし……」
 湖雪さんと友達になりたいけれど、二○○七年十二月十四日時点で、私は女子高生でなければ、まだ生まれてもいない。あと少し時間が経てば、私はこの世に生を受けるのだ。
 湖雪さんは慈愛のこもった瞳で、ボロボロの私を見つめていた。そんな湖雪さんを見て、ああ過去は変わったのだ、素敵な未来が待っている、と思った。
 「こ、湖雪さん、また逢えたら友達になりましょう。次逢うときは、ちょっと年が離れているかもしれないけれど……」
 「なに言ってるのよ芽深ちゃん、年が離れるって……」
 「時間はかかるかもしれないけれど、またいつか必ず逢えます。だから、湖雪さん……いや、みなさん懸命に生きてください」
 お別れの挨拶を述べたそのとき、私とふたりの天使は淡い光に包まれた。
 現代に戻れるのだろう。悠さんの願い事が叶ったから。

 「悠さんは、おばあさまと湖雪さんが幸せに生きて欲しかったんですね」

 淡い光に包まれる中、悠さんの願いは、「傷害事件を阻止すること」だと悟った。湖雪さんが人を刺し、おばあさまが湖雪さんを守るために犯人となってしまったあの事件を防ぎたかったのだ、私と天使は悠さんのささやかな願いを叶えるために、事件が起きる数十日前へタイムスリップしたのだ。
 ねえ悠さん。事件を防いで晴都も懲らしめたので、おばあさまと湖雪さん――そして悠さんも、きっと幸せに生きていけます。
 悠さんの願い、叶えましたよ。偉いでしょ、私たち。