天上界は女神さまが創った美しい世界。地上から来た人間たちは、天界に来るといつも驚く。
 「あの世はこんなに美しい場所だったのだなぁ。この世の汚さとは大違いだ」
 この世は汚く、美しいものがない、と人間たちは言う。
 だから、地上に降りて凛々しい顔をした彼と出会ったとき、本当に驚いた。
 「うわぁ。本物の天使だ。はじめて見た」
 その人は浮いていた。ぼんやりとしたこの世を背景に、色鮮やかに浮き立っていた。
 天界にはいない美しさだと、そう思った。
 女神さまに見つかったら大変だ、今すぐ天上界に連れていくために殺されてしまうよ。ラズベリーケーキみたいに甘いマスクをしているのに、どこか雄々しさを感じる君を、女神さまはきっと欲しがる。
 「僕の名前はイシア! となりの天使はヴェンデル。人間を護り、支え、導き、そして幸せにすることが僕らの使命なんだ。君はなにを望むの?」
 いつもはヴェンデルが言うはずの言葉を、あのときは緊張で手が震えながらも僕が言った。。天使が人間に緊張するなんておかしいね、みんな僕たちを前にすると歓声や悲鳴をあげるのに。なんで僕が今すぐ叫びたい気持ちになっているの?
 「震えないで。ねぇ、その声をもっと聞かせてよ。今ものすごく淋しいんだ。一緒にいてよ、友達になろう」
 とろけるような瞳でそう言ってくる彼のことを、本気で信じてしまった。まさかあんな顔をして平気で噓をつくなんて、純粋な僕には想像もつかなかった。ずっと一緒にいようだなんて思ってもいなかったくせに、そんなこと言わないでよ。
 彼はコンクリートの壁に囲まれた狭い部屋に住んでいた。外から隔絶されたこの要塞は、団地と呼ばれているらしい。団地はこの空間で起こるすべてのことを世界から隠すのだと、僕は後に身をもって知ることになる。
 外からどれほど食い入るように見つめても、決して探ることのできない秘密の空間。狭くて薄暗くておんぼろな部屋の中で、彼とふたりっきり、静かに雑談する。
 「見世物小屋へ売り飛ばされそうになったことがあるの?」
 「うん。僕たちはこの世に存在していない世界で生きてきたから、見世物にされちゃう」
 「そうか、あの世で生まれたもんね。だからその真っ白な翼が美しいんだ」
 「美しいでしょ! あのね、天使の翼はとっても高く売れるらしいよ」
 「へえ、そりゃあ高値がつくはずだよ」
 「欲しい? 天使の翼」
 「え、くれるの?」
 「うん。一枚だけならあげられるよ」
 ぷちんと、一枚の羽根が翼から抜け落ちた。無理やり引っこ抜くと少し痛い。
 「はい、あげるよ」
 「ありがとう、でもダメだ。一枚の羽根なんかじゃ足りない。俺はまるごと、その美しい白い翼が欲しい」
 そう言って、彼は僕の翼を折った。折れた翼からひらひらと羽根が舞い降ちる。
 この世には美しいもので溢れているというのに、天界に来る人間はどうして地上の美しさに気づかないのだろう。彼の顔を眺めながらそんなことを考えていたら、翼を折られた。
 ヴェンデルと女神さまは、きっと僕を軽蔑するだろう。ラズベリーケーキみたいに甘い笑顔を浮かべる人間に釘付けになり、いつの間にか大切な天使の証を奪われていたなんてことを知ったら。
 僕の背中の根元からわずかに生える翼が、どんどん朽ちていく。
 「引っこ抜こうとしたのに折れちゃった。理想とは違って、ちょっと欠けた翼を手に入れることになったけど、うん、大丈夫。充分美しいね」
 宝石のように輝く瞳で、彼は折れた翼を眺めている。
 彼は笑っていた。初めて会ったときから、僕の翼を折った後も、ずっと魅力的な笑顔を浮かべていた。
 ヴェンデルは薄気味悪く笑うから苦手だな、と言って、なるべく彼に近づかなかった。団地のことも非常に嫌がっていた。ヴェンデルは僕と違って賢いから、彼が危険人物だということを察知していたのだろう。
 「イシア! なにが起きた⁉」
 僕らはふたりでひとつの生命体。片方に異変が起きたら、もう片方はすぐに気づく。異変により苦しむ僕を心配するヴェンデルの声が、離れていても脳に直接聞えてきた。
 大丈夫だよ心配しないでと返事をしたかったのに、苦しみ悶えることしかできない。声にならない声を漏らす僕に、ヴェンデルはあの団地で何が起きた、あいつに何をされたと何度も問いただしてきた。
 風を切らす音が聞えてくる。団地に駆けつけていることがわかって、優しくてしっかり者のヴェンデルのおかげで、僕はこれまで天使としての使命を果たすことができたのだと改めて思った。
 「イシア!」
 鉄のドアがばたんと乱暴に開く音が、団地に響いた。
 「ああ、外の世界に知られてしまったね」
 彼はこんなときでも笑みを浮かべていた。ヴェンデルは怒りでどうにかなりそうなのに、それでも笑っているなんて。
 この惨状を見つめるヴェンデルの切れ長の瞳が、痙攣したように揺れ動いている。
 「き、きちゃだめ……! 翼を……取られ……る……うぅ」
 「翼を失ったていうのに他の子の心配をするなんて、ああ哀しいくらいに心の清い天使だ。お前はすごいね、傷つけたくなる」
 その言葉を聞いた途端、ヴェンデルはそのカッコ良い顔を歪ませ、人間には使ってはいけないと女神さまに警告された呪文を唱えた。
 「んぅ……にんげ……んには……つかっちゃ……だめ……ぇ」
 「こいつは人間じゃないから大丈夫だよ。ちょっとの間おぞましい夢を見るだけの呪文だ。罰としては軽すぎるくらいでしょ」
 ヴェンデルが禁じられた呪文を唱えると、彼は折れた翼を抱きしめたまま眠りに落ちた。おぞましい夢を見ているとは思えないくらい、彼の寝顔は綺麗だった。
 「イシアの翼に触るな」
 そう言ってヴェンデルは、彼から僕の折れた翼を取り上げた。
 「……ご……めん……ね……」
 うめき声とともに、ごめんねと発した僕を、ヴェンデルがとても悔しそうに、哀しそうに、やりきれなさそうに見つめる。
 ヴェンデルの、その色んな感情が混ざった表情を見て、僕はまたごめんねとつぶやく。僕がバカなせいで君を傷つけてごめんねと伝えたかった。
 「ずっと一緒にいようだなんて胡散臭いことイシアに言って。あいつは翼を奪うことだけが目的だったのに。あいつは、あいつはイシアの翼を折った、折ったんだよ」
 ヴェンデルは声を震わせ泣き出してしまった。瞳から涙が溢れ出し床を濡らす。
 そんなヴェンデルの姿を見たら、背中の痛みも忘れ、ただ慰めたいという思いで心がいっぱいになった。
 両手を使ってヴェンデルの頭と背中を撫でる。
 僕の不注意のせいで、片割れを傷つけてしまった。
 もう僕は天界に戻っても、天使として扱われることはないし、君の隣にいることもできない。翼を折られるなんて女神さまの逆鱗に触れてしまうから、これからはひとりぼっちの化け物として生きていくことになるんだ。
 ……なんだか視界がぼやけてきた。これからヴェンデルと離れて生きていかなくちゃいけないなんて。昨日までは、ふたりこの先ずっと一緒に生きていけると思っていたのに、こんな形でヴェンデルとさよならするなんて……。
 あのねヴェンデル。離れていても、この先の君の未来がずっと幸せに溢れていることを心から祈っています。化け物に幸せを祈られたって気味が悪いかなぁ……。
 ずいぶん長いことヴェンデルの背中を撫でていたら、ヴェンデルの服が濡れていることにようやく気づいた。ああ、髪も濡れている。外は雨が降っていたんだなぁ。本当に、団地って外の世界から離れた秘密の空間なんだ。雨が降っていたなんてこの密室にいると気がつかないよ。
 コンクリートの壁に遮断された外の世界に思いをはせ、雨の音を聞こうと耳を澄ます。
 耳を澄ましても、聞こえてきたのはヴェンデルの嗚咽だけだった。

 「イシア起きてー。まだお風呂入ってないでしょー」
 人間の女の子の声がする。この声はメイミィだ。初めて会ったときと比べて、滑らかに話すようになった。
 辺り一面を見渡すと、薄暗いコンクリートの壁に囲まれた狭い団地じゃなくて、白くて広いお屋敷にいた。夢を見ていたらしい、食堂のダイニングテーブルに突っ伏して寝ていた僕を、メイミィが起こしてくれたのだ。
 優しげなたれ目がじーっと僕を見つめてくる。彼女は目にかかっていた前髪を、先日眉毛が隠れるくらいの長さに切った。メイミィはヴェンデルのねじり前髪アレンジも気に入っていたけれど、木刀を振り回しているうちにヘアピンが外れてしまうので、視界が髪の毛で邪魔しないようにぱっつん前髪にしたらしい。
 「おばあさまが作ったラズベリーケーキを食べたら寝ちゃって心配したよ。やっぱり最近疲れてる?」 
 メイミィは僕を心配した後、私も疲れてるよー木刀振り回しているからねーと言った。
 メイミィは包丁を持ったおばあさまを止めることができるように、最近は朝から晩まで剣道を極めている。
 僕たちがまだ呪文を唱えることができたら、簡単におばあさまを止められたのに。僕は翼を失って声が出なくなってしまったし、ヴェンデルは禁止された呪文を唱えてしまったことが女神さまにバレて、願い事を叶える呪文以外使えなくなってしまったのだ。
 「被害者の男性はいつ現れるのかな」
 メイミィは剣道を極めているが、僕ら天使は柔道を極めている。お屋敷の本棚に柔道の本があったので、ヴェンデルと一緒に技をかけられるように日々特訓中なんだ。事件の日までには背負投げができるようになりたい。
 例の事件は毎週金曜日のおにぎり教室の日に起こることを想定し、十二月七日金曜日は一日中玄関に座って青年が来ないか見張っていた。だけどその日に青年は現れなくて、平和に一日が終わった。
 「十四日の金曜日に事件は起きるって、ヴェンデルの直感はそう言っているらしいよ」
 そうなんだ。ヴェンデルのカンはよく当たるから、絶対その日に事件は起きるね。
 今まで天使の使命を果たすために、沢山の困難を乗り越えてきた。乗り越えられなかった困難もあったけど、でも大丈夫。今回は僕らふたりだけではなくメイミィもいる。みんなで力を合わせればどうにかなる、そう信じている。
 結局、あんなこと――乗り越えられなかった困難に遭ったというのに、ヴェンデルはそばにいてくれた。天界に居場所がなくなった僕を見捨てないで、一緒に地上へ降りてくれた。
 どこまでも優しい片割れの翼を折らせてしまったこと、美しい天界で暮らす権利を奪ってしまったことの償いをどうやって果たせばいいんだろう。答えが永遠に出てこない。
 心の中がもやもやとしてきたので、今の気持ちを言葉にしてすっきりしたいと思い、となりの椅子に置いてあった文字盤を取り出した。
 「ん、イシアだいぶ文字盤を使いこなせるようになったね」
 初めて文字盤を使った日はぎこちなく文字を指差していたのに、今は軽やかに指を動かしている。メイミィは僕が指した文字を見落とさないように、真剣に文字盤を見ていた。
 「えーと、なになに……『ヴェンデルがとなりに居るだけで幸せ、でもヴェンデルは僕のとなりにいたら不幸』え⁉ ちょっと待ってよ! そんなことイシア考えていたの!」
 指差しされた文字を順に読み、メイミィは驚嘆の声を上げた。目と口を丸くして、僕をありえないという顔で見つめるメイミィはなんだか面白くて、自然と笑顔になる。
 「いや笑ってる場合じゃないよ! ていうかなんで笑ってるの⁉」
 メイミィはまた僕にツッコミをした。この子はいつも全力でコミュニケーションを取ってくれる。
 「ヴェンデルはイシアのとなりでいつも笑っているのに、そんなこと考えないでよ。イシアと一緒にいるときが、一番ヴェンデルの笑顔は輝いているよ」
 もう、えるいーでぃーらいと並にキラキラしている、とメイミィは言った。
 「あのさ、ヴェンデルがこの前色々話してくれたけどね、イシアの翼と声が失った悔しさを、生涯抱え込んで生きていくって言っていたよ。ねえ、イシアはヴェンデルを幸せにしたいと思う?」
 メイミィの言葉を聞いて、当たり前! という意思を込めて、顔を上下に振った。
 「ヴェンデルの生涯残る悔しさをひとつ消そう。翼はもう取り戻せないけど、声は取り戻せるよ。イシアの声を聞いたら、ヴェンデルはきっと幸せだよ」
 失った翼は二度と戻らないけれど、でも声は戻る。
 声を出せるようになれば、ヴェンデルの悔しいことがひとつ無くなる?
 「翼を折られて色々あって声が出なくなったなんて、とんでもない困難にぶつかっちゃたけどさ、でも声が戻ったら、困難乗り越えてハッピーエンドだよ!」
 メイミィのその言葉を聞いて、もやもやとした心の中が夏の青空のように晴れる。
 そうだ、まだ僕たちはハッピーエンドを迎えられることができるんだ。 
 ヴェンデルは生涯僕の翼と声を失ったことを悔やみ続けると言っていたらしい。
 そんなのはハッピーエンドじゃない。ヴェンデルが僕のせいで悔しさを抱え込んで生きるなんて、そんなこと絶対にあってはいけないよ。
 声を出せるようになって、ヴェンデルに伝えるんだ。翼を失ってもヴェンデルがとなりにいてくれるから幸せだって。
 もう取り返しのつかないことは沢山ある。だけどまだ取り返せるものもある。
 僕はがたんと椅子から立ち上がり、ガッツポーズをした。メイミィはそれを見て笑い声を上げ、イシアなら大丈夫だよ! 私もイシアの味方だよ! と言った。
 うん。メイミィは面白くてとても優しい子だ!

 空は雲一つない快晴だった。しかし、残念なことに爽やかさは微塵として感じない。
 空は墨汁を水で薄めたような灰色に染まっていた。
 私の視線の先には悠さんがいて、彼は相変わらず公園のベンチに座って隣りにいる湖雪さんと楽しく会話をしている。
 「湖雪さんに怒られてニヤけてやんの、怒っててもかわいいなぁとかそんなこと考え
 てるんだろ。ふん、ムカつく。中学生の悠さんは見てるとイライラする。湖雪さんにベタ惚れだし、沢山の人から愛されてるのがなんかイライラする」
 大人の悠さんは、ひとり淋しそうにしている姿が私の琴線に触れるけれど、中学生の悠さんは湖雪さんにデレデレだし、人から愛されることを当然のように思っているところがなんだかいけ好かない。あなたに興味がない人間だってこの世に星の数ほどいるからな、と言ってたみたくなる。
 「今のあなたは皆から愛されて、明るいし社交的だから、私みたいな日陰者の存在は目に入らないよね! 大嫌いだ、ばぁか!」
 日陰者の私には、周囲から愛の光を浴びる彼を直視できない。
 逆に大人になった悠さんは、誰からも愛されていないことが伝わってくるので直視することができる。色がとても白くて顔に生気がないので、家に引きこもっていることがなんとなく察せられるのだ。日が暮れる時間にあの公園のベンチに彼は出現するが、それ以外外に出ることはあるのだろうか?
 大人の悠さんは、いったい誰に愛されているのだろう。
 ――私だ。こんな私だけにしか愛されないなんて、なんて可哀想な大人なんだ。
 そのあまりの不憫さに、愛おしさが止まらない。
 「……うん。やっぱり明るくて元気いっぱいの悠さんもいいけど、口数が多くない控えめでひとりぼっちの大人の悠さんが、私は好きだなぁ……。でも、きっと中学生の悠さんが本来の姿なんだよね」
 明るくて元気いっぱいで、沢山の人から愛されて、その愛を倍にして周りの人間に返し、そして湖雪さんに特別の愛を注いでいる中学生の悠さんが本来の姿なんだ。
 だから、本当は公園のベンチに悲しい顔をしてひとりぼっちで座る大人になんかなってはいけないんだ。
 悠さんは湖雪さんを愛していた。
 しかし例の事件のせいで、悠さんと湖雪さんは離れ離れになってしまう。
 おばあさまによる傷害事件によりおにぎり教室は消滅し、悠さんと湖雪さんは犯行現場に居合わせていたということもあって、世間から白い目で見られただろう。ふたりが一緒にいれば、またなにか犯罪が起こるなんて下世話な噂話でもされて、疎遠になってしまったのだと想像がつく。
 悠さんが大人になっても笑顔でいるためには、湖雪さんが隣りにいなくちゃいけないんだ。そのためには絶対に事件の発生を防がないと。
 今後の人生で彼に愛されることはないなんてことわかっているけれど、それでも好きな人がずっと笑顔で生きていくために頑張る権利は、こんな私にだってきっとあるはずだ。 「いつまでも夢を見ている場合じゃないね」
 悠さんを笑顔にするため、私は一刻も早く目を覚めなきゃいけない。
 夢から覚めたら、木刀を千回素振ろう。強くなるんだ。