こんこん。
ドアを丁寧にノックする。
「入ってどうそ」
部屋から入室を許可する声が聞こえてきたので、失礼します、と言ってドアを開け、寝室へ足を踏み入れる。
「あらぁ芽深ちゃん。どうしたの」
「少しおばあさまとお話しをしたいと思ってここに来ました。今、お時間ありますか? 夜も更けているので、そんなに長くはお話ししません」
「そんなにかしこまらないで。全然時間あるわ、今日は夜更かししましょうか」
おばあさまは、机に置いてあるポッドからティーカップに紅茶を注ぎ、クッキーと一緒に私に差し出してくれた。小鳥の形をした可愛らしいクッキーに、エレガントな花柄のティーカップからは湯気が出ている。
「紅茶にクッキーに、ありがとうございます」
「いえいえ。それよりどうしたの。私に話したいことがあるのよね。そんなに緊張しないで、リラックスしていいのよ」
「あ、はい。リラックスして話をします……。おばあさまは、なぜ私たちを受け入れてくれたのですか。私たちがタイムスリップしてきたことを信じてくれて、こうして居候することも許してくれて。私は幸せですけど、おばあさまにはなんのメリットもないじゃないですか。見返りも求めず見ず知らずの人間を家に泊めるなんて優しすぎます」
「芽深ちゃんたちがこの屋敷に居候をすることを許しているのはね、簡単に言えば、ばあちゃんは金だけ余った淋しい老人だからよ。ばあちゃんは淋しがり屋で、昔の楽しかった頃の思い出がいつまっで経っても忘れられない大馬鹿者なの」
「……どういうことですか? すみません、私、理解力がなくて」
「昔ね、ばあちゃんが芽深ちゃんより若かった頃、ばあちゃんの従兄弟のお兄様がここで体操教室を開いていたのよ」
「従兄弟のお兄様が、体操教室を?」
「そう体操教室。体操の選手に慣れなくて一族中から爪弾きにされたお兄様は、東京にある本家から追い出されて、栃木県の森の奥にあるこのお屋敷で体操教室を開いたの」
「本家に一族……? おばあさまは財閥のご令嬢なのですか」
「実は天間(てんま)財閥という巨大財閥出身なの。従兄弟のお兄様が本家の息子でばあちゃんは分家の娘だけれどね。次期当主になるはずのお兄様が会社を継がずに体操選手になりたいなんて言い出したせいで、光一朗叔父様が怒って二度と本家に足を踏み入れるな、顔を見せるな、なんて言って世俗離れたこのお屋敷にお兄様を送り込んだわ」
「そ、そんなことがあったのですね」
「『一族の恥を人目に晒すようなことはしない』と叔父様が言って、使用人もつけずにお兄様はひとりお屋敷へ追放された。お兄様が社会に出ることを許さなかった叔父様は、『私も人の親だ。可哀想な息子のために金銭面は支援してやる。生涯働かなくていい、だから絶対に外へ出るな』なんて言ったの」
「こんな人里離れたお屋敷に閉じ込めるなんて、よほどお兄様の存在を恥ずかしく感じていたのですね。でも、働きたくなくて人と関わることが苦手な私からしたら、森の奥で隠居生活なんて憧れますけどね。金銭面の保証もあるし」
「芽深ちゃんもそう思う? 実は若い頃のばあちゃんもそう思っていたわ。大財閥の一族の娘として生まれたけれど、競争社会から離れてのんびり暮らしてみたかったの。ひとりでただ青空を眺めながら、本を読んだりぼーっとしたり音楽を聴いて一日が終わって、たまにスーパーマーケットの鮮魚コーナーで魚を捌いてお金を稼ぐ生活がしたかった。そんなばあちゃんからしたら、森の奥でひとり自由気ままに生きるお兄様が羨ましかった。だから、ばあちゃんもお兄様の後を追ったの。わざと不良になり天間一族の人間としてふさわしくない行動をして、高校一年生の春に一族から追放されたの」
「お屋敷に追放されるために不良になったんですか? びっくりです」
「のんびり暮らすには天間一族から脱出しないといけないもの。不良になるしかないわ。まあ、このお屋敷に追放されたところでのんびりな生活なんてできなかったけどね。お兄様が地元の子どもたち向けに体操教室をを開いていたから、毎日が騒がしかったのよ」
「なぜお兄様は体操教室を開いていたのですか。こんな森の奥に子どもなんて来ないでしょう。どうやって地元の子どもたちと知り合いになったのですか?」
「それがねぇ、中学生の男の子が新聞の配達に定期的に来ていたらしいわ。いつも新聞を配達してくれるお礼に羊羹とお茶を差し出したら、ふたりはすぐに仲良くなったみたい。仲良くなるうちに小規模の体操教室が始まったの」
「へぇ……。体操選手になる夢が叶わなかったけど、その代わりに子どもたちに体操を教えるなんて楽しそうでいいですね」
「お兄様はどんな立場に置かれても人生を楽しむ、とても強くて立派な人だったわ。毎日を全力で生きることができるかっこいいお兄様は、今も昔もばあちゃんの憧れね」
「わあ! おばあさまのその気持ちわかります! 親戚の優しいお兄さんって憧れますよね! 私も小さい頃は親戚のお兄さんがとてもかっこよく見えましたもん」
「ふふ。でも芽深ちゃんのは恋ではないでしょう? ばあちゃんはお兄様に恋をしていたのよ」
おばあさまはうふふっと、顔に手を当てて笑った。
おばあさまは年を重ねた現在もプリンセスのように上品であるため、小さな頃からご令嬢にふさわしい品を身に着けるための厳しい教育を受けていたことが察せられる。高校一年生の春に一族から追放されたというのに未だ風化しない、呪いのような、そんな厳しい教育。
「ここに来てからは、お屋敷でお兄様の体操教室の手伝いをずっとしていたわ。体操教室の生徒は全員男性で中学生から高校生の七人で構成されていたの」
「当時のおばあさまと同年代ですね」
「高校に通わなくても同年代の子とコミュニケーションがとれるのは有難かったわ。本当、『普通じゃない青春』を送ったの。夏休みは合宿をして。無料でみんなをこのお屋敷に泊めて、バーベキューしたり肝試ししたり、水遊びしたり舞踏会を開いたり、そんなことを夏休みの始まりから終わりまで。本当にずっと遊んでいたわ」
「いくらお金があるとはいえ、中高生たちを夏休みの間、お屋敷でずっと遊ばせるなんて、お兄様はとても面倒見がいい人です」
「そうよ。とても面倒見がいい人よ。体操教室に来る子はみんな何かしらの事情を抱えていたのだけれど、お兄様はひとりひとりの心に寄り添っていた。思春期の少年たちが素直に頼ることのできる、とても素敵な大人の男だったのよ。生徒のみんなもばあちゃんに優しくしてくれたし、本当に天国みたいな場所だったわ。みんな格好良くて、毎日がときめきの連続だった」
「ときめきの連続ですか! それはいいですねぇ」
「いいでしょう? 毎日が少女漫画のヒロインの気分だったわ。ばあちゃんはねぇ、もうお兄様だけじゃなくて体操教室にいるみんなに恋をしていたと思うわ」
「みんなですか? お兄様に加えて七人もいる生徒全員に恋をしているのは無節操じゃないですか」
「だってみんな穏やかで格好良かったもの。仕方ないわ」
「あー、穏やかな男性はいいですね」
「そう。それに高校に行かなかったばあちゃんのために、みんなで勉強会を開いてくれて、本当に優しくしてくれたもの」
「それじゃあおばあさまは誰かと付き合ったりしたんですか?」
「いいえ。誰とも付き合うなんてことなかったわ」
「みんなに恋をしていたのに告白しなかったんですね」
「ばあちゃんは臆病者だったからねぇ。告白する勇気なんてなかったのよ。それに体操教室に恋愛を持ち込むなんてことしたくなかった。みんなのことが好きだったけれど、色恋なんて無縁にワイワイ楽しむ体操教室も同じくらい好きだった。恋愛なんて不純物を持ち込まずにみんなと一緒にいたいと思ったのよ」
「恋愛抜きに青春している場所に、恋愛を持ち込みたくないって気持ちわかります」
「一生この世間から離れたお屋敷でみんなとのんびり遊んでいたい、なんて思うくらい大切な場所だったのよ。それでもばあちゃんの意思に反して体育教室は自然消滅したわ。生徒は大人になり、大学へ行ったり社会人になったりして少しずつこのお屋敷から去っていた」
「自分の気持ちに蓋をするほど大切だった場所は、皆さんが大人になることで終わりを迎えたんですか」
「本当に時の流れというのは残酷ねぇ。青春からの卒業を余儀なくされるもの。私とお兄様は一生社会に出ることは許されないというのに、みんなは社会に出て、このお屋敷で過ごした日々は残念ながら、素敵な思い出となってしまった」
「一生続いて欲しいと思った時間は遠い日の素敵な思い出になり、皆さんはそれを受け入れて大人になったんですね……」
「いいえ、それは違うわ。生徒だったみんなも、お兄様も、このお屋敷で過ごした青春の日々を思い出として心のアルバムに大切にしまったけれど、私だけはずっとあの体操教室の輝かしい日々が心の柔らかい部分にこびりついているの。だからおにぎり教室を開いているのよ。もう一度、楽しい日々を送りたかった。今度は恋する少女ではなくて、お兄様みたいに迷える子どもたちに慈愛を注ぐ、素敵な大人として。子どもたちの心の拠り所になる教室を開きたかった。そう、ばあちゃんは尊敬するお兄様みたいになりたかったのよ、なれっこないのにね……」
「おばあさまはとても素敵な人じゃないですか」
「違うのよ。ばあちゃんは素敵な大人じゃないの」
「なんでそんなことを言いますか」
「だって、私は結局本家の呪縛から逃れられなかったもの。忌々しい血を残してしまった」
「どういうことですか、教えてください」
昔を懐かしむような優しい笑顔を浮かべて、体操教室の話を語っていたおばあさま。しかし、今、おばあさまの目には真珠のような美しい涙が浮かんでいた。
ポケットの中に入れていた、ペンギンのキャラクターが描かれたハンカチを取り出し、おばあさまに差し出す。
「すみませんおばあさま。『忌々しい血を残してしまった』という意味を私に話してください」
「……聞いて後悔しない? ばあちゃんのことを嫌いになるかもしれないわよ?」
「嫌いになるわけがありません。私はおばあさまのことが大好きです。……面と向かって言うのは恥ずかしいですね」
「ふふ、大好きと言って照れてしまう芽深ちゃんは、とても誠実な子ね」
おばあさまは歯を見せて笑った。
泣きながら笑うおばあさまを見ていたら、この人はかつて美少女であった面影が残る顔立ちをしていることに気がついた。
「……体操教室が消滅した後、ばあちゃんとお兄様はただ穏やかに暮らしていたわ。一日中読書をして、読書に疲れたら青空を見上げて、日が暮れたらふかふかのお風呂に入る、そんな理想の生活。だけどそれも長くは続かなかった。ばあちゃんは光一朗叔父様によって本家に連れ戻されたのよ」
「なぜですか。だっておばあさまは追放されたんじゃ――」
「追放されたからよ。天間一族の人間たちは社会から孤立している健康で若い女性を探していたの。なぜだかわかる?」
おばあさまの問いかけに答えるために、役に立たない頭を精一杯回転させ、なぜ本家に連れ戻されたのかを考える。
「社会から孤立している人とは、それは社会の輪から外れていること、そして社会の輪に入れてくれる人間がいないということ。そんな人間が欲しい理由なんて、悪いことをするために利用したいくらいですかね。おばあさまは同じ境遇のお兄様しか関わりある人間がいないですし本家の闇を他言することはなさそうです。そして健康で若い女性という条件も加味すると……、当主の子どもを産むために連れ戻されたんですね」
「ご名答。すごいわ芽深ちゃん。あなた賢いわね」
「賢くなんてないですよ。数学の問題は一つも解けないし」
数学の問題は解けないくせに『子どもを産むために連れ戻された』という答えには簡単に辿り着いてしまった。なんだか嫌な気分だ。
「ばあちゃんはお兄様の代わりに当主となった方の子どもを産むために、本家へ連れ戻されたわ。子育ての邪魔になるから、子どもを産んだらすぐにお屋敷に帰らされたけどね。当主の奥さんは体が弱く、子宝に恵まれなくて、誰か代わりに出産できる女はいないか一族中で話し合った結果、ばあちゃんに白羽の矢が立ったわ」
「追放された分家の娘なんて、光一朗叔父様からすれば、ここまで適任な人はいないでしょうね。元々社会から孤立しているうえに一族の恐ろしさを産声を上げた瞬間に叩きこまれているから、絶対に他言しないだろうし。赤の他人より元身内の方が信頼できます」
「そうね、正妻の代わりに子どもを産むことを口外しないと一族の人間から確信されていた理由は、天間財閥に歯向えばどうなるか知っていたからよ」
「天間財閥に歯向かえばどうなるんですか? 不謹慎なことを言いますが、殺されるとか……」
「ご名答。その通りよ」
「本当に、天間財閥に歯向かえば、殺されるのですか……」
「『我々に逆らう愚かな人間には死をもって教育を』これが天間財閥の掟よ。この掟に従って、歴代当主は天間財閥に逆らうものを始末してきた。みんな殺されたくないから、天間財閥の命令に従うのよ。光一朗叔父様は恐怖で人を支配することが得意な人で、叔父様に出会った人はみんな彼の操り人形として生涯を終えるの。……あら芽深ちゃん、顔が真っ青よ。少し怖がらせちゃったわね。紅茶を飲みなさい」
「……今は喉に飲食物が通りません」
天間財閥の恐ろしさに震え上がる私を気づかい、おばあさまはティーカップに紅茶を注いでくれたが、胃が飲食物を受け付けない。紅茶を飲んだら吐き出してしまいそうだ。
光一朗叔父様への恐怖心に震え上がる私に、おばあさまは優しく「大丈夫よ」と声をかけ、頬を撫でてくれた。おばあさまの手は暖かくてふわふわしている。
おばあさまはウサギ型のクッキーを咀嚼し、紅茶を飲んでひと息ついた後、話を再開した。
「天間財閥は各業界とパイプを持つ超巨大財閥なのよ。光一朗叔父様の交友関係はとっても広くて、」
「こ……怖い。光一朗叔父様はとんでもない人ですね」
「だけどね、そんな天間財閥も二○○七年現在、弱体化に弱体化を重ねてボロボロなの。光一朗叔父様が死んでからは一気に崩壊の一途をたどったわ。次々に子会社は倒産していったの」
「ほ、本当ですか。そんな光一朗叔父様が亡くなったくらいで、超巨大財閥が弱体化することがあるんですか」
「それがねぇあるのよ」
天間財閥は光一朗叔父様の死により弱体化したらしい。いくら凄腕だったとして、一人の死によって組織が崩壊寸前なんてことあり得るのだろうか?
しかし、チャンピオンズリーグを優勝したサッカークラブが、ひとりの選手の退団で急激に弱体化したり、クラブの会長が変わったことで黒字経営だったはずが、いつの間にか財政難で崩壊寸前という話はわりと聞く。組織というものはトップが変わっただけで繁栄もすれば、崩壊もする。案外もろいのだ
「光一朗叔父様から当主の座を継いだ方は、自分で物事を考えることができない人で、一族の大人たちの操り人形として生きていたわ。ばあちゃんが産んだ子も、同じように操り人形になってしまった」
「それは可哀想ですねぇ」
「あら芽深ちゃん。本当に可哀想だなんて思っているの?」
「実を言うとあんまり思っていません。なにも考えることをせずに、誰かの思い通りに動くだけで生きていける人生、正直羨ましいです。」
「芽深ちゃんは天間財閥で生き抜く素質があるわね。ばあちゃんやばあちゃんの孫と違って。あの子たちは操り人形になりたくなくて家を飛び出したわ」
「そうなんですか? そういえばこのお屋敷はふたりのお孫さんが以前住んでいたんですよね。私が借りている部屋が、たしか孫娘さんのものだったって」
「孫ふたりは、中学生の夏休みに家出したの。どうして家出しようと思ったのかは知らないけど、まあ、ふたりとも自由を求めていたのでしょうね。栃木の森の奥に追放されたばあちゃんの噂話をどこかで聞いたらしくて、その噂を信じて遥々東京からやって来たわ。もう弱体化した天間財閥では、家出したふたりの少年少女を連れ戻すこともできなかった」
「お孫さんたちはおばあさまに似たんですね。中学生で家から飛び出す覚悟があるってすごいですよ。私なんて一生実家暮らしがいいですもん」
「芽深ちゃんはとても優しいご両親に育てられたのね。ばあちゃんたちと違って……。ふたりの孫のうち、孫娘の美香ちゃんはとても立派に育ったわ。天間一族の血を引くというのに、常に他人を思いやる聖母のような女性に成長したの。今は小学校の教員になって、毎日子どもたちのために身を粉にして働いているわ。だけどね、もうひとりの孫の方は、光一朗叔父様のように恐ろしい男に育った。ばあちゃんは、可愛い孫たちが天間一族に染まらずに、誰に対しても優しく接することのできる、強い意志を持った清らかな人間に育つことを願っていたの。ふたりをそう育てることが、天間の血を残してしまったばあちゃんのケジメだと思った。生まれたばかりの我が子を抱くことも許されなかったあの時とは違って、孫とは同じ屋根の下で暮らすことができたから、ばあちゃんはふたりが立派な人間になれるよう教育したの。教育したつもりだったの……。結局、孫は天間一族の男になってしまった。光一朗叔父様のように、自分自身の欲望のためなら、他人がどうなっても構わないと思うような、恐ろしい悪魔の男になった」
「おばあさま……」
「ばあちゃんは天間一族の呪縛から逃れられなかった……。素敵な大人になんかになれなかったわ……」
「……それでも、私はおばあさまを素敵な大人だと思います」
「どうして? 芽深ちゃんはばあちゃんに恩を感じているからそう言っているだけでしょう? 現代から過去へタイムスリップしてた不法侵入三人衆でも屋敷に住ませた、その恩からそう言っているだけでしょう? 別に恩なんて感じなくていいのよ。冨と時間を持て余した老婆の、ちょっとした気まぐれで居候させてるだけだから」
「気まぐれだとしても、私達のことを受け入れてくれたじゃないですか! 恩しか感じないですよ、なぜ卑屈になる必要があるんですか!」
「芽深ちゃんは、ばあちゃんの悪いところを知らないもの、卑屈になる理由なんてわからないわ……」
「確かに、私はおばあさまの良いところしか知りません! でも、これから先おばあさまの悪いところを知ったって、良いところも悪いところも、全てひっくるめておばあさまのことを愛してますよ!」
「愛してるね……。その言葉、遠い昔の、あの素敵な男の人たちにも言われたかったわ」
「いや、みなさん口に出さなかっただけで、おばあさまのことを物凄く愛していたと思いますよ」
「なんでそう思うの? 恋が成就したことのない可哀想なばあちゃんに向かって、気休めの言葉をかけるなんて酷いわ」
「気休めなんかじゃないです本当に! おばあさまが体操教室の生徒のみなさんのことが好きだったのと同じように、皆さんもおばあさまのことが好きだったんですよ! だって、おばあさまは今、ご老人になっても純粋で綺麗です。天間一族に生まれて、思春期という繊細で危うい季節に森の奥の屋敷に追放されたっていうのに、おばあさまは純粋な心のまま育った! 体操教室の皆さんに大切に大切に育てられたから! これって物凄い愛じゃないですか⁉ 美人なおばあさまに手を出さないで純潔のまま守り抜いた、体操教室の男性たちの愛に気づいてください! 付き合うだけが恋愛じゃないです!」
普段は口数の少ない私がまくしたてるように話してしまった。それだけ目の前にいる人に伝えたかった言葉があったのだ。
おばあさまは真珠のような涙を零した。また泣かせてしまった。こんなに短い間にご老人を二回も泣かせる私は極悪非道である。
両手を顔にあて、涙を零すおばあさまの背中を撫でる。ふと、ベッドサイドのテーブルに置いてある写真が目に入った。
写真には背の高い青年と十代と思われる男の子たち、そしてモノクロでもわかるほどハッキリとした顔立ちの、美少女がいた。
あれは、きっと体操教室の皆さんだ。おばあさまは、もう二度と会えないみんなに、夢で逢うために、ベッドの横に写真を置いているのだ。
夢で、夢で、夢で、もう二度と逢えないみんなに逢うために……。
「もう決して戻ることはない大切な時間だったの。追放されても、また本家に連れ戻されて子どもを産まされたばあちゃんにとって、人生で一番楽しい時間だったの……誰とも付き合わなかった、恋は成就しなかった。だけど、芽深ちゃんの言うとおり、確かにばあちゃんはとても愛されていたわ……。ありがとう、芽深ちゃん、そのことに気づかせてくれて……」
おばあさまのその言葉を聞いて、私だけではなく、おばあさまだって成就しそうにもない無謀な恋を今もしていることに気がついた。もしかしたら誰かに片想いをしている人は、天使が見えるのではないかと思った。
おばあさまが泣き終わるまで、私は背中を撫で続けた。
ドアを丁寧にノックする。
「入ってどうそ」
部屋から入室を許可する声が聞こえてきたので、失礼します、と言ってドアを開け、寝室へ足を踏み入れる。
「あらぁ芽深ちゃん。どうしたの」
「少しおばあさまとお話しをしたいと思ってここに来ました。今、お時間ありますか? 夜も更けているので、そんなに長くはお話ししません」
「そんなにかしこまらないで。全然時間あるわ、今日は夜更かししましょうか」
おばあさまは、机に置いてあるポッドからティーカップに紅茶を注ぎ、クッキーと一緒に私に差し出してくれた。小鳥の形をした可愛らしいクッキーに、エレガントな花柄のティーカップからは湯気が出ている。
「紅茶にクッキーに、ありがとうございます」
「いえいえ。それよりどうしたの。私に話したいことがあるのよね。そんなに緊張しないで、リラックスしていいのよ」
「あ、はい。リラックスして話をします……。おばあさまは、なぜ私たちを受け入れてくれたのですか。私たちがタイムスリップしてきたことを信じてくれて、こうして居候することも許してくれて。私は幸せですけど、おばあさまにはなんのメリットもないじゃないですか。見返りも求めず見ず知らずの人間を家に泊めるなんて優しすぎます」
「芽深ちゃんたちがこの屋敷に居候をすることを許しているのはね、簡単に言えば、ばあちゃんは金だけ余った淋しい老人だからよ。ばあちゃんは淋しがり屋で、昔の楽しかった頃の思い出がいつまっで経っても忘れられない大馬鹿者なの」
「……どういうことですか? すみません、私、理解力がなくて」
「昔ね、ばあちゃんが芽深ちゃんより若かった頃、ばあちゃんの従兄弟のお兄様がここで体操教室を開いていたのよ」
「従兄弟のお兄様が、体操教室を?」
「そう体操教室。体操の選手に慣れなくて一族中から爪弾きにされたお兄様は、東京にある本家から追い出されて、栃木県の森の奥にあるこのお屋敷で体操教室を開いたの」
「本家に一族……? おばあさまは財閥のご令嬢なのですか」
「実は天間(てんま)財閥という巨大財閥出身なの。従兄弟のお兄様が本家の息子でばあちゃんは分家の娘だけれどね。次期当主になるはずのお兄様が会社を継がずに体操選手になりたいなんて言い出したせいで、光一朗叔父様が怒って二度と本家に足を踏み入れるな、顔を見せるな、なんて言って世俗離れたこのお屋敷にお兄様を送り込んだわ」
「そ、そんなことがあったのですね」
「『一族の恥を人目に晒すようなことはしない』と叔父様が言って、使用人もつけずにお兄様はひとりお屋敷へ追放された。お兄様が社会に出ることを許さなかった叔父様は、『私も人の親だ。可哀想な息子のために金銭面は支援してやる。生涯働かなくていい、だから絶対に外へ出るな』なんて言ったの」
「こんな人里離れたお屋敷に閉じ込めるなんて、よほどお兄様の存在を恥ずかしく感じていたのですね。でも、働きたくなくて人と関わることが苦手な私からしたら、森の奥で隠居生活なんて憧れますけどね。金銭面の保証もあるし」
「芽深ちゃんもそう思う? 実は若い頃のばあちゃんもそう思っていたわ。大財閥の一族の娘として生まれたけれど、競争社会から離れてのんびり暮らしてみたかったの。ひとりでただ青空を眺めながら、本を読んだりぼーっとしたり音楽を聴いて一日が終わって、たまにスーパーマーケットの鮮魚コーナーで魚を捌いてお金を稼ぐ生活がしたかった。そんなばあちゃんからしたら、森の奥でひとり自由気ままに生きるお兄様が羨ましかった。だから、ばあちゃんもお兄様の後を追ったの。わざと不良になり天間一族の人間としてふさわしくない行動をして、高校一年生の春に一族から追放されたの」
「お屋敷に追放されるために不良になったんですか? びっくりです」
「のんびり暮らすには天間一族から脱出しないといけないもの。不良になるしかないわ。まあ、このお屋敷に追放されたところでのんびりな生活なんてできなかったけどね。お兄様が地元の子どもたち向けに体操教室をを開いていたから、毎日が騒がしかったのよ」
「なぜお兄様は体操教室を開いていたのですか。こんな森の奥に子どもなんて来ないでしょう。どうやって地元の子どもたちと知り合いになったのですか?」
「それがねぇ、中学生の男の子が新聞の配達に定期的に来ていたらしいわ。いつも新聞を配達してくれるお礼に羊羹とお茶を差し出したら、ふたりはすぐに仲良くなったみたい。仲良くなるうちに小規模の体操教室が始まったの」
「へぇ……。体操選手になる夢が叶わなかったけど、その代わりに子どもたちに体操を教えるなんて楽しそうでいいですね」
「お兄様はどんな立場に置かれても人生を楽しむ、とても強くて立派な人だったわ。毎日を全力で生きることができるかっこいいお兄様は、今も昔もばあちゃんの憧れね」
「わあ! おばあさまのその気持ちわかります! 親戚の優しいお兄さんって憧れますよね! 私も小さい頃は親戚のお兄さんがとてもかっこよく見えましたもん」
「ふふ。でも芽深ちゃんのは恋ではないでしょう? ばあちゃんはお兄様に恋をしていたのよ」
おばあさまはうふふっと、顔に手を当てて笑った。
おばあさまは年を重ねた現在もプリンセスのように上品であるため、小さな頃からご令嬢にふさわしい品を身に着けるための厳しい教育を受けていたことが察せられる。高校一年生の春に一族から追放されたというのに未だ風化しない、呪いのような、そんな厳しい教育。
「ここに来てからは、お屋敷でお兄様の体操教室の手伝いをずっとしていたわ。体操教室の生徒は全員男性で中学生から高校生の七人で構成されていたの」
「当時のおばあさまと同年代ですね」
「高校に通わなくても同年代の子とコミュニケーションがとれるのは有難かったわ。本当、『普通じゃない青春』を送ったの。夏休みは合宿をして。無料でみんなをこのお屋敷に泊めて、バーベキューしたり肝試ししたり、水遊びしたり舞踏会を開いたり、そんなことを夏休みの始まりから終わりまで。本当にずっと遊んでいたわ」
「いくらお金があるとはいえ、中高生たちを夏休みの間、お屋敷でずっと遊ばせるなんて、お兄様はとても面倒見がいい人です」
「そうよ。とても面倒見がいい人よ。体操教室に来る子はみんな何かしらの事情を抱えていたのだけれど、お兄様はひとりひとりの心に寄り添っていた。思春期の少年たちが素直に頼ることのできる、とても素敵な大人の男だったのよ。生徒のみんなもばあちゃんに優しくしてくれたし、本当に天国みたいな場所だったわ。みんな格好良くて、毎日がときめきの連続だった」
「ときめきの連続ですか! それはいいですねぇ」
「いいでしょう? 毎日が少女漫画のヒロインの気分だったわ。ばあちゃんはねぇ、もうお兄様だけじゃなくて体操教室にいるみんなに恋をしていたと思うわ」
「みんなですか? お兄様に加えて七人もいる生徒全員に恋をしているのは無節操じゃないですか」
「だってみんな穏やかで格好良かったもの。仕方ないわ」
「あー、穏やかな男性はいいですね」
「そう。それに高校に行かなかったばあちゃんのために、みんなで勉強会を開いてくれて、本当に優しくしてくれたもの」
「それじゃあおばあさまは誰かと付き合ったりしたんですか?」
「いいえ。誰とも付き合うなんてことなかったわ」
「みんなに恋をしていたのに告白しなかったんですね」
「ばあちゃんは臆病者だったからねぇ。告白する勇気なんてなかったのよ。それに体操教室に恋愛を持ち込むなんてことしたくなかった。みんなのことが好きだったけれど、色恋なんて無縁にワイワイ楽しむ体操教室も同じくらい好きだった。恋愛なんて不純物を持ち込まずにみんなと一緒にいたいと思ったのよ」
「恋愛抜きに青春している場所に、恋愛を持ち込みたくないって気持ちわかります」
「一生この世間から離れたお屋敷でみんなとのんびり遊んでいたい、なんて思うくらい大切な場所だったのよ。それでもばあちゃんの意思に反して体育教室は自然消滅したわ。生徒は大人になり、大学へ行ったり社会人になったりして少しずつこのお屋敷から去っていた」
「自分の気持ちに蓋をするほど大切だった場所は、皆さんが大人になることで終わりを迎えたんですか」
「本当に時の流れというのは残酷ねぇ。青春からの卒業を余儀なくされるもの。私とお兄様は一生社会に出ることは許されないというのに、みんなは社会に出て、このお屋敷で過ごした日々は残念ながら、素敵な思い出となってしまった」
「一生続いて欲しいと思った時間は遠い日の素敵な思い出になり、皆さんはそれを受け入れて大人になったんですね……」
「いいえ、それは違うわ。生徒だったみんなも、お兄様も、このお屋敷で過ごした青春の日々を思い出として心のアルバムに大切にしまったけれど、私だけはずっとあの体操教室の輝かしい日々が心の柔らかい部分にこびりついているの。だからおにぎり教室を開いているのよ。もう一度、楽しい日々を送りたかった。今度は恋する少女ではなくて、お兄様みたいに迷える子どもたちに慈愛を注ぐ、素敵な大人として。子どもたちの心の拠り所になる教室を開きたかった。そう、ばあちゃんは尊敬するお兄様みたいになりたかったのよ、なれっこないのにね……」
「おばあさまはとても素敵な人じゃないですか」
「違うのよ。ばあちゃんは素敵な大人じゃないの」
「なんでそんなことを言いますか」
「だって、私は結局本家の呪縛から逃れられなかったもの。忌々しい血を残してしまった」
「どういうことですか、教えてください」
昔を懐かしむような優しい笑顔を浮かべて、体操教室の話を語っていたおばあさま。しかし、今、おばあさまの目には真珠のような美しい涙が浮かんでいた。
ポケットの中に入れていた、ペンギンのキャラクターが描かれたハンカチを取り出し、おばあさまに差し出す。
「すみませんおばあさま。『忌々しい血を残してしまった』という意味を私に話してください」
「……聞いて後悔しない? ばあちゃんのことを嫌いになるかもしれないわよ?」
「嫌いになるわけがありません。私はおばあさまのことが大好きです。……面と向かって言うのは恥ずかしいですね」
「ふふ、大好きと言って照れてしまう芽深ちゃんは、とても誠実な子ね」
おばあさまは歯を見せて笑った。
泣きながら笑うおばあさまを見ていたら、この人はかつて美少女であった面影が残る顔立ちをしていることに気がついた。
「……体操教室が消滅した後、ばあちゃんとお兄様はただ穏やかに暮らしていたわ。一日中読書をして、読書に疲れたら青空を見上げて、日が暮れたらふかふかのお風呂に入る、そんな理想の生活。だけどそれも長くは続かなかった。ばあちゃんは光一朗叔父様によって本家に連れ戻されたのよ」
「なぜですか。だっておばあさまは追放されたんじゃ――」
「追放されたからよ。天間一族の人間たちは社会から孤立している健康で若い女性を探していたの。なぜだかわかる?」
おばあさまの問いかけに答えるために、役に立たない頭を精一杯回転させ、なぜ本家に連れ戻されたのかを考える。
「社会から孤立している人とは、それは社会の輪から外れていること、そして社会の輪に入れてくれる人間がいないということ。そんな人間が欲しい理由なんて、悪いことをするために利用したいくらいですかね。おばあさまは同じ境遇のお兄様しか関わりある人間がいないですし本家の闇を他言することはなさそうです。そして健康で若い女性という条件も加味すると……、当主の子どもを産むために連れ戻されたんですね」
「ご名答。すごいわ芽深ちゃん。あなた賢いわね」
「賢くなんてないですよ。数学の問題は一つも解けないし」
数学の問題は解けないくせに『子どもを産むために連れ戻された』という答えには簡単に辿り着いてしまった。なんだか嫌な気分だ。
「ばあちゃんはお兄様の代わりに当主となった方の子どもを産むために、本家へ連れ戻されたわ。子育ての邪魔になるから、子どもを産んだらすぐにお屋敷に帰らされたけどね。当主の奥さんは体が弱く、子宝に恵まれなくて、誰か代わりに出産できる女はいないか一族中で話し合った結果、ばあちゃんに白羽の矢が立ったわ」
「追放された分家の娘なんて、光一朗叔父様からすれば、ここまで適任な人はいないでしょうね。元々社会から孤立しているうえに一族の恐ろしさを産声を上げた瞬間に叩きこまれているから、絶対に他言しないだろうし。赤の他人より元身内の方が信頼できます」
「そうね、正妻の代わりに子どもを産むことを口外しないと一族の人間から確信されていた理由は、天間財閥に歯向えばどうなるか知っていたからよ」
「天間財閥に歯向かえばどうなるんですか? 不謹慎なことを言いますが、殺されるとか……」
「ご名答。その通りよ」
「本当に、天間財閥に歯向かえば、殺されるのですか……」
「『我々に逆らう愚かな人間には死をもって教育を』これが天間財閥の掟よ。この掟に従って、歴代当主は天間財閥に逆らうものを始末してきた。みんな殺されたくないから、天間財閥の命令に従うのよ。光一朗叔父様は恐怖で人を支配することが得意な人で、叔父様に出会った人はみんな彼の操り人形として生涯を終えるの。……あら芽深ちゃん、顔が真っ青よ。少し怖がらせちゃったわね。紅茶を飲みなさい」
「……今は喉に飲食物が通りません」
天間財閥の恐ろしさに震え上がる私を気づかい、おばあさまはティーカップに紅茶を注いでくれたが、胃が飲食物を受け付けない。紅茶を飲んだら吐き出してしまいそうだ。
光一朗叔父様への恐怖心に震え上がる私に、おばあさまは優しく「大丈夫よ」と声をかけ、頬を撫でてくれた。おばあさまの手は暖かくてふわふわしている。
おばあさまはウサギ型のクッキーを咀嚼し、紅茶を飲んでひと息ついた後、話を再開した。
「天間財閥は各業界とパイプを持つ超巨大財閥なのよ。光一朗叔父様の交友関係はとっても広くて、」
「こ……怖い。光一朗叔父様はとんでもない人ですね」
「だけどね、そんな天間財閥も二○○七年現在、弱体化に弱体化を重ねてボロボロなの。光一朗叔父様が死んでからは一気に崩壊の一途をたどったわ。次々に子会社は倒産していったの」
「ほ、本当ですか。そんな光一朗叔父様が亡くなったくらいで、超巨大財閥が弱体化することがあるんですか」
「それがねぇあるのよ」
天間財閥は光一朗叔父様の死により弱体化したらしい。いくら凄腕だったとして、一人の死によって組織が崩壊寸前なんてことあり得るのだろうか?
しかし、チャンピオンズリーグを優勝したサッカークラブが、ひとりの選手の退団で急激に弱体化したり、クラブの会長が変わったことで黒字経営だったはずが、いつの間にか財政難で崩壊寸前という話はわりと聞く。組織というものはトップが変わっただけで繁栄もすれば、崩壊もする。案外もろいのだ
「光一朗叔父様から当主の座を継いだ方は、自分で物事を考えることができない人で、一族の大人たちの操り人形として生きていたわ。ばあちゃんが産んだ子も、同じように操り人形になってしまった」
「それは可哀想ですねぇ」
「あら芽深ちゃん。本当に可哀想だなんて思っているの?」
「実を言うとあんまり思っていません。なにも考えることをせずに、誰かの思い通りに動くだけで生きていける人生、正直羨ましいです。」
「芽深ちゃんは天間財閥で生き抜く素質があるわね。ばあちゃんやばあちゃんの孫と違って。あの子たちは操り人形になりたくなくて家を飛び出したわ」
「そうなんですか? そういえばこのお屋敷はふたりのお孫さんが以前住んでいたんですよね。私が借りている部屋が、たしか孫娘さんのものだったって」
「孫ふたりは、中学生の夏休みに家出したの。どうして家出しようと思ったのかは知らないけど、まあ、ふたりとも自由を求めていたのでしょうね。栃木の森の奥に追放されたばあちゃんの噂話をどこかで聞いたらしくて、その噂を信じて遥々東京からやって来たわ。もう弱体化した天間財閥では、家出したふたりの少年少女を連れ戻すこともできなかった」
「お孫さんたちはおばあさまに似たんですね。中学生で家から飛び出す覚悟があるってすごいですよ。私なんて一生実家暮らしがいいですもん」
「芽深ちゃんはとても優しいご両親に育てられたのね。ばあちゃんたちと違って……。ふたりの孫のうち、孫娘の美香ちゃんはとても立派に育ったわ。天間一族の血を引くというのに、常に他人を思いやる聖母のような女性に成長したの。今は小学校の教員になって、毎日子どもたちのために身を粉にして働いているわ。だけどね、もうひとりの孫の方は、光一朗叔父様のように恐ろしい男に育った。ばあちゃんは、可愛い孫たちが天間一族に染まらずに、誰に対しても優しく接することのできる、強い意志を持った清らかな人間に育つことを願っていたの。ふたりをそう育てることが、天間の血を残してしまったばあちゃんのケジメだと思った。生まれたばかりの我が子を抱くことも許されなかったあの時とは違って、孫とは同じ屋根の下で暮らすことができたから、ばあちゃんはふたりが立派な人間になれるよう教育したの。教育したつもりだったの……。結局、孫は天間一族の男になってしまった。光一朗叔父様のように、自分自身の欲望のためなら、他人がどうなっても構わないと思うような、恐ろしい悪魔の男になった」
「おばあさま……」
「ばあちゃんは天間一族の呪縛から逃れられなかった……。素敵な大人になんかになれなかったわ……」
「……それでも、私はおばあさまを素敵な大人だと思います」
「どうして? 芽深ちゃんはばあちゃんに恩を感じているからそう言っているだけでしょう? 現代から過去へタイムスリップしてた不法侵入三人衆でも屋敷に住ませた、その恩からそう言っているだけでしょう? 別に恩なんて感じなくていいのよ。冨と時間を持て余した老婆の、ちょっとした気まぐれで居候させてるだけだから」
「気まぐれだとしても、私達のことを受け入れてくれたじゃないですか! 恩しか感じないですよ、なぜ卑屈になる必要があるんですか!」
「芽深ちゃんは、ばあちゃんの悪いところを知らないもの、卑屈になる理由なんてわからないわ……」
「確かに、私はおばあさまの良いところしか知りません! でも、これから先おばあさまの悪いところを知ったって、良いところも悪いところも、全てひっくるめておばあさまのことを愛してますよ!」
「愛してるね……。その言葉、遠い昔の、あの素敵な男の人たちにも言われたかったわ」
「いや、みなさん口に出さなかっただけで、おばあさまのことを物凄く愛していたと思いますよ」
「なんでそう思うの? 恋が成就したことのない可哀想なばあちゃんに向かって、気休めの言葉をかけるなんて酷いわ」
「気休めなんかじゃないです本当に! おばあさまが体操教室の生徒のみなさんのことが好きだったのと同じように、皆さんもおばあさまのことが好きだったんですよ! だって、おばあさまは今、ご老人になっても純粋で綺麗です。天間一族に生まれて、思春期という繊細で危うい季節に森の奥の屋敷に追放されたっていうのに、おばあさまは純粋な心のまま育った! 体操教室の皆さんに大切に大切に育てられたから! これって物凄い愛じゃないですか⁉ 美人なおばあさまに手を出さないで純潔のまま守り抜いた、体操教室の男性たちの愛に気づいてください! 付き合うだけが恋愛じゃないです!」
普段は口数の少ない私がまくしたてるように話してしまった。それだけ目の前にいる人に伝えたかった言葉があったのだ。
おばあさまは真珠のような涙を零した。また泣かせてしまった。こんなに短い間にご老人を二回も泣かせる私は極悪非道である。
両手を顔にあて、涙を零すおばあさまの背中を撫でる。ふと、ベッドサイドのテーブルに置いてある写真が目に入った。
写真には背の高い青年と十代と思われる男の子たち、そしてモノクロでもわかるほどハッキリとした顔立ちの、美少女がいた。
あれは、きっと体操教室の皆さんだ。おばあさまは、もう二度と会えないみんなに、夢で逢うために、ベッドの横に写真を置いているのだ。
夢で、夢で、夢で、もう二度と逢えないみんなに逢うために……。
「もう決して戻ることはない大切な時間だったの。追放されても、また本家に連れ戻されて子どもを産まされたばあちゃんにとって、人生で一番楽しい時間だったの……誰とも付き合わなかった、恋は成就しなかった。だけど、芽深ちゃんの言うとおり、確かにばあちゃんはとても愛されていたわ……。ありがとう、芽深ちゃん、そのことに気づかせてくれて……」
おばあさまのその言葉を聞いて、私だけではなく、おばあさまだって成就しそうにもない無謀な恋を今もしていることに気がついた。もしかしたら誰かに片想いをしている人は、天使が見えるのではないかと思った。
おばあさまが泣き終わるまで、私は背中を撫で続けた。
