昨日見た悪夢のせいで朝は大変気分が悪かった。おばあさまの作ってくれた美味しい朝食もあまり喉を通らなかったけれど、食べ物を粗末にするのはいけないと思い、なんとか時間をかけて完食した。
浮かない気持ちのまま作業服に着替え、天使と一緒におにぎり教室でお屋敷掃除をしていたら、ふたりが私を一日中笑わせてくれたのでだいぶ心は軽くなった。やはり持つべきものは友達だ。
「イシアー、メイミィ。俺もう疲れたから休んでもいい?」
「いいよー。十五分くらい休憩するかー」
午後十六時過ぎ、ヴェンデルは長い間雑巾がけをしていたせいか、今すぐにでも寝てしまいそうだ。
「ソファで横になりなよ」
「うん。そうする……。そう、す、る……」
「ソファに座って三秒で寝ちゃった。ヴェンデルって寝つきがいいんだね」
私の言葉にイシアは首を左右に振った。
「え、寝つきはそこまでよくないの? そっか、ヴェンデルもここ数日は気を張って疲れていたんだね……。ゆっくり休んでほしいな」
イシアによると、普段ヴェンデルはあまり昼寝もせず夜も遅くまで起きているという。自分のことが見える人間にふたりも遭遇して、神経を尖らせていたのはイシアだけではないのだ。
「イシアは眠いの? 遠慮しないでイシアも昼寝しなよ」
イシアは再び私の言葉に首を左右に振った。
「あ、じゃあおやつでも食べる? 疲れた体には甘味だよ」
イシアは猫みたいな大きな目を輝かせた。
声が出なくても、表情や身振り手振りを使ってイシアは自分の気持ちを表現してくれる。全身を使って自分の気持ちを表現するイシアはなんとも素敵で可愛らしくて、コミュニケーション能力が低い私にはなんだかそれがとても心地よかった。
「確か冷蔵庫にカップのアイスがあったはずだよ! ストロベリーとチョコレート!」
――うん。やっぱり声が出なくても全身を使って、嬉しい気持ちを表現するイシアは可愛いね。ぴょんぴょん跳ねている姿を見たら、何でも食べさせたくなっちゃう。
私たちは食堂へと全速力で駆け出した。
「何だか本当に映画に登場するキラキラな女の子って感じだね」
現在、私たちはバスタブに入ってアイスクリームを食べている。
冷凍庫でお目当てのアイスクリームを見つけた私は、イシアに「ねえ、せっかくならお風呂でアイスを食べようよ」と提案をした。
幼き頃に見ていた海外の青春映画に、バスタブに浸かりながらアイスを食べているシーンがあったのだ。その映像を見た私は、「絶対に再現したい!」と思ったけれど、お風呂でアイスを食べるなんてお母さんに見つかったら怒られてしまうので、なかなか再現することができなかった。
しかし、今私がいるのは我が家ではない。おばあさまのお屋敷だ。おばあさまにバスタブでアイスを食べているところを見つかっても、怒られはしないだろう。
「お湯は貯めなくていいからさ、空のバスタブでアイスを食べよう!」
イシアはアイスが食べれるならどこでもいいようで、私の願望に付き合ってくれた。
そうして、私たちは空のバスタブに入って、片方はメイド服を着て、片方はアメリカンダイナーガール風のワンピースを着て、アイスを食べている。
夢みたいだ。こんなに可愛い服を着て、幼き頃に憧れていたシチュエーションを再現しているなんて。
「すっごく可愛いねぇイシアは」
私は上機嫌でアイスクリームを食べ、イシアを褒める。
チョコレートアイスを食べるメイド姿のイシアを見て、寝ているヴェンデルに、こんなに可愛いイシアを独り占めしてごめんなさいね、と心の中で謝った。
「芽深ちゃん、ちょっと頼み事いいかしら」
「はーいよろこんでー」
このお屋敷に居候をし、早くも数日が過ぎた。今日は平成十九年十二月五日水曜日である。
学生も社会人も疲れがたまる水曜日の午後でも、ずっとお屋敷の中にいる私は元気だ。
「芽深ちゃんったら、そんなに急がなくていいのよ。危ないじゃない」
「ごめんなさい! でも、おばあさまに頼み事されるのが嬉しくて、ついつい走ってきちゃいました……」
どんなに些細なことでも相手に頼み事をするというのは、その相手を信頼していなければできないはずだ。少なくとも私はそうである。
「私に頼み事されるのが嬉しいの? 面白い子ねぇ」
「お、面白いなんて、照れちゃいます」
「照れなくていいのよ。あのね、芽深ちゃん、ばあちゃんがあなたに頼みたいことは――って人の話を聞いているの!」
「いえーい。面白いって言われちゃった」
面白いと言われて舞い上がっている私に、おばあさまが「ばあちゃんの言うことを聞きなさい!」と怒る。
「ごめんなさい。おばあさま、頼み事ってなんですか?」
「お使いに行ってほしいの。駅の近くに二階建てのスーパーがあるでしょ? そこで今度のおにぎり教室で使う食材を買ってほしいわ」
「了解しました!」
おばあさまからエコバッグとがま口財布を貸してもらい、作業服から制服に着替えて、私はお屋敷を飛び出した。
「この森は昼間に通るとなんだか癒されますなぁ。」
駅前のスーパーに行くには、まずはお屋敷の前に広がる広大な森を通り抜けなければいけない。森を抜けると公園があり、公園から出て平和な住宅地を歩き続けると駅前に着く。
太陽の光に木々の揺れる音、どこからか聞こえる小鳥のさえずり、固すぎることのない大地の感触、私は全身に自然の神秘を感じながら、広大な森を通り抜けた。
「ふうー。ひと休みしよ」
現在、午後十六時五分。森を抜け、小さくてどことなく寂しげな公園のベンチに座る。現代で悠さんと出会ったこの公園は、十八年前からもの哀しい雰囲気を漂わせていた。
背もたれに背中を預ければ、若い男女の声が遠くから聞えてくる。帰宅部の学生は下校している時間帯だ。
悠さんは部活に入っているのだろうか。おにぎり教室に参加しているくらいだから入っていないのかな、もし入っていたとしても規則の緩い文化部だろうな。手芸部とか、ボランティア部みたいな。
あの謎の美少女、湖雪さんも部活には入っていないだろう。おにぎり教室に参加しているくらいだし。まったくふたりとも、学生時代は部活に入るべきだ。せっかくの貴重な学生時代、思いっきり青春を謳歌しなくちゃいけない。
いや、しているかふたりとも。おにぎり教室で普通じゃないとびきりの青春を送っているのか。
「私もおにぎり教室で悠さんと一緒に青春を謳歌したかった」
ポツリ、と思わず心の声が漏れてしまった。
私が生まれる前から悠さんは湖雪さんに恋をしていた。
彼に愛されるガラス細工のような彼女になれなくても、せめてもっと早く生まれておにぎり教室の生徒になりたかった。おにぎり教室の生徒になって、憧れのお兄さんの成長を一瞬も目を離すことなく見届けていたかった。彼と一緒に年を重ねたかった。
おとぎ話に出てくるようなお屋敷で、妖精のような子どもたちに囲まれておにぎりを作っているとき、悠さんは私のことを見向きもしなかった。ただただ彼のお姫様である湖雪さんのことだけを一身に見つめていた。どれだけ悠さんのことを想っても、私は彼の人生には関われない。久遠悠という名のラブコメ映画の登場人物にはなれない。私は登場人物ではなく、観客という余所者なんだ。
……なんだかこんなことを、前も考えたような気がする。
ああそうだ。タイムスリップする前だ。イシアを見つける前に、同じようにベンチに座って成就する予感のない悠さんへの恋心に途方に暮れていたのだ。
「日が暮れる前に、スーパーで買い物しなくちゃ」
足腰になんとか力を入れて、私は立ち上がった。
おばあさまに渡されたメモを見ながらスーパーで買い物をする。
夕方のスーパーは主婦や学校帰りの学生で賑わっていた。現代との物価の違いに驚きながら、私も活気溢れる店内を練り歩く。
今では販売終了してしまった商品が多数あって、なんだか哀愁を感じた。このピンクのサルのパッケージがかわいいお菓子とか、ぜひ現代でも販売してほしい。
「おつぎでお並びのお客様―! どうぞー!」
光の速さでレジ打ちをする店員さんがいる列へと並び、財布からお金を取り出す。この時代にはセルフレジなんてものはない。それがコミュニケーション能力が低い私には少々不便に感じた。店員さんと多少会話するだけでも緊張してしまうのだ。
「ありがとうございましたー!」
「あ、ありがとうございます」
店員さんにぎこちなくお礼を言った後、カウンターでエコバッグに明太子や海苔やふりかけやしらすを入れる。メモに書いてあることをもう一度確認し、買い忘れがないことに安堵した。
無事におばあさまからのお使いミッションも達成したので、スーパーから出ようとした。しかし、とある好奇心が私の中に浮かんだ。
「そういえば、二階ってどんな風になっているんだろ」
駅前のスーパーは、一階は食品を売っていて二階は百均ショップとなっている。
このまま帰るのもいいけれど、二○○七年の百均コーナーに興味がある。きっと可愛くて派手な品物が沢山売られているだろう。
私は、二階へと足を運ぶことにした。
平成の百均ショップは、想像以上にごちゃごちゃしていた。
商品が乱雑に並べられていて、ぬいぐるみや文房具が棚から飛び出している。ピンク色とオレンジ色の大きなポップが目立ち、全体的にカラフルな店内になんだかワクワクする。
「物がごちゃごちゃ並べられてる……。このペン可愛いな。てっあれ? こ、湖雪さん⁉」
「……あんたは、この前お屋敷にいた、えっと」
「め、芽深です。めみです」
「ああ、芽深ちゃん」
店内にはなんと私の憎き恋敵、湖雪さんがいた。
「ちょっと、なんでそんな驚いた顔してんの」
「す、すみません」
「ふん」
湖雪さんは私の謝罪を聞くと、プイっと顔を横に向けてしまった。
「な、なにしに来たんです、か」
「初めて会ったときにも思ったんだけどさ、あんた喋り方変だよね……。ちょっと、そんな悲しそうな顔しないでよ。あーもう調子狂うな。ノート買いに来たのよ」
「ノートですか?」
「リングノート買いに来た、プリ帳作るために。おかしいよね。同い年の友達がいないからノートだけ買ったってなんの意味もないのに」
「プ、プリ帳? な、なんですかそれ」
「あんたプリ帳知らないの⁉」
二○○七年の女子高生は『プリ帳』というものがマストアイテムらしい。これはマズイ。湖雪さんは名探偵並に頭が切れる人で、もしかしたらプリ帳を知らないという情報だけで、私が未来人であることを見破る可能性がある。現に、湖雪さんは私をジトっとした目で見ている。
私がプリ帳を知らないのは二○二五年の女子高生だからだ。それ以外でプリ帳を知らない理由をなにか考えなくちゃいけない。「未来からタイムスリップしたので、この時代のことは詳しくないんです」なんて言えない。
……こうなったら仕方がないな。ついに伝家の宝刀を抜くときが来たか。
私が世間知らずである理由を他者に納得してもらうには、これしかない!
「わ、私も友達がいないから世間の流行がわからないんですよ」
「あーあんた友達いなそうだもんね」
「と、友達いないからプリ帳を知らないんですよ。ぐすん」
「あたしも友達いないから半泣きにならなくていいよ。プリ帳っていうのわね、文字通りプリクラをノートやシール帳に貼り付けたものよ。ボールペンとかカラーペンとかシールを使ってデコるの。プリクラが貼ってあるページの余白にペンで日記や漫画の名言とか好きな歌詞とか書いて派手にすんの」
「そ、そうなんですね」
「絶対わかってないでしょ」
「プリ帳についてはあんまり理解してないんですけど、湖雪さんはプリ帳を作りたいからノートを買おうとしたけど、結局プリクラを取る相手がいないからノートを買っても意味がないということはわかってます!」
「そうよ。よくわかってんじゃない。ムカつくわね」
「ムカムカしないで私とプリクラ撮りましょうよ」
「え、いいの……?」
「プリ帳を作りたいんですよね? 私でよければ一緒にプリ撮りますよ」
湖雪さんは恋敵であるから、本当のところはあまり優しくしたくないのだけれど、リングノートを見つめる湖雪さんの横顔があまりにも淋しそうだったので、ついそう言ってしまった。それに悠さんの好きな人だからと意地悪するほうが、なんだか小物みたいで嫌だ。
「でもプリクラってどこにあるんですかね、ここら辺ってゲームセンターないですよね」
「なに言ってんの。プリクラあるじゃない」
「え、どこにあるんですか――っておお! 百均にプリクラがある!」
店内の隅に、なんとプリ機があった。
百均ショップにプリ機があることに衝撃を受けている私を、湖雪さんがまたもやジトっとした目で見つめている。平成では当たり前の光景かもしれませんが、令和にプリクラは百均ショップにないのです。だからこうやって驚いてしまうことを許してください、湖雪さん。
「じゃ、これ買ってくるから、あんたは、いや、芽深ちゃんはそこで待っててね」
湖雪さんはそう言うと、リングノートを持ってそそくさとレジの方へ歩いてしまった。
私は、熱くなった顔を両手で抑えながら、湖雪さんを待った。
湖雪さんに、あんな美少女に自分の名前を呼ばれてドギマギしてしまった。
だからこんなに顔が熱いのだ。
「あたしお金ないんだよね。だから一回きりね」
「わかりました」
「これ二百円プリクラだから、芽深ちゃん百円入れて」
「え、二百円でプリクラ取れるんですか! この前クラスの女の子が六百円でプリクラ撮ったって言っていましたよ!」
「六百円なんてその子はどこのプリ機で撮ったのよ」
「どこで撮ったんですかねー。あ、始まりましたよ。なんかイケイケの音楽が流れてる、すごい、美肌機能とかありますね。ポーズどうしますか? 私ピースしか知らない。あ、ギャルがポーズのお手本を見せてくれてますよ!」
「興奮するのはわかるけど、ちょっと落ち着きなよ」
人生初めてのプリクラに興奮している私に対して、湖雪さんは冷静である。しかし、クールに振る舞っていても楽しんでいることは隠し切れていない。口角は自然と上がっていて、それはそれは可愛い笑顔を浮かべている。
「撮影終わりました! 次は落書きですって!」
「よっしゃ、超デコるよ」
「なんでも書いていいんですよね! うわぁ、スタンプめっちゃかわいい!」
「書きな書きな。スタンプも好きなだけ押しな」
「好きなアニソンの歌詞を書いてもいいですか!」
「いいよ。その代わり、こっちのプリはあたしが自由に落書きしていいよね?」
「もちろんです!」
画面に二枚ずつ、先ほど撮影したプリクラが表示される。私と湖雪さんがそれぞれ自由に落書きをしていると、あっという間に制限時間を超えてしまった。
「えーこんな短い時間じゃ落書きが終わりませんよ!」
「大丈夫だから芽深ちゃん、ほら」
「あれ、ボーナスタイムですって! なんですかこれ」
「ほとんどのプリクラは制限時間が過ぎたらボーナスタイムっていうのを設けてくれんの」
「じゃあまだまだ落書きできますね!」
「そういうこと。まだまだデコれるよ」
私も湖雪さんも夢中になって落書きをする。まだまだ画面が余白でいっぱいだ。可愛いもので埋め尽くさなきゃ。もっとカラフルにしなきゃ。もっとテンションが高いことを書かなくちゃ。
「芽深ちゃん。『友達いない同盟』って書いていい?」
「え、そこは『今日、友達になっちゃいました!』みたいなことを書きませんか?」
「うわダッサ。それなら『我等友情永久不滅』でしょ」
「え? なんて?」
「あーもうあたしに任せて!」
そう言って、湖雪さんはピンクのネオンペンで、我等友情永久不滅、と書いた。
我等友情永久不滅……。なんてカッコイイ言葉なんだ。
「『我等友情永久不滅』っていい言葉ですね! あれ? なんで『友達いない同盟』も書いてるんですか! 私たち、と、友達じゃないですか! 友達いなくないです! それに黙っていましたが、私は人間以外に友達がいますからね!」
「なに言ってんの。あ、もうボーナスタイム終了するって」
「えー!」
「これでも田舎のプリ機はボーナスタイム長いほうだよ。東京とかはすぐに終わっちゃう」
私たちは落書きブースから出て、プリクラが印刷されるのを待つ。
「この印刷する時間が長いんだよね」
「でも、もう少しで出てきますよ! ほら、ストンってプリクラが落ちてきました! うわあ、湖雪さんとっても可愛いです! プリクラの湖雪さんも実物の湖雪さんもどっちも可愛い!」
「芽深ちゃんもかわいいよ」
「またまたぁ、湖雪さんは褒め上手ですね!」
「本当にそう思っているんだけど。初めて会ったときは目に光が入っていなかったのに、今日はたれ目に光が入っているじゃん。失礼だけど、顔色の悪かった肌も綺麗になってるし。清楚な女になってんじゃん」
「そ、そんな褒めないでください!」
「芽深ちゃんは褒められただけでそんなに照れるの? すごい純粋な子だけど、なに、まさか恋人いない歴が年齢だったりする?」
「え、そうですけど、なんですか、なんか問題ありますか! まだ私たち高校二年生ですけど!」
「違うよ、恋人がいないことを馬鹿にしているんじゃなくて、変な男に騙されていない純粋な芽深ちゃんが羨ましいの。あたしは、クラスでただ声が大きいだけの横暴な男が初めての恋人だったからさ」
「初めての恋人が横暴な人だったんですか?」
「そう。私には優しいけど、私以外にはとことん高圧的だったの! クラスのおとなしい女の子に怒鳴ってるとこ見てソッコーで別れた」
「うわー酷い人ですね。やっぱり自分だけに優しい人より、みんなに優しい人の方がいいですよね。だって好きな人が誰かに優しくしているところを見た方がキュンキュンしますもん。グループ決めで余っちゃった子を自然と自分のグループに入れたり、店員さんに優しかったり、ご老人の荷物を持ってあげたり、そういうことができる人の方がキュンキュンしませんか?」
「めっちゃわかるんだけど」
プリクラをハサミで切っているときも、スーパーから出て家に帰っているときも、私たちは他愛のない話をずっとしていた。思い返してみればそんなに面白くもない話も馬鹿みたいに笑っていた。お気に入りのギャグ漫画を読んでいるときくらい笑っていたのだ。
湖雪さんは生まれて初めての恋敵であり、生まれて初めての人間の友達となった。
あれだけ憎んでいたはずなのに、湖雪さんに対して好意的な気持ちの方が強くなった。
今もほんの少し憎んではいるけどね。
浮かない気持ちのまま作業服に着替え、天使と一緒におにぎり教室でお屋敷掃除をしていたら、ふたりが私を一日中笑わせてくれたのでだいぶ心は軽くなった。やはり持つべきものは友達だ。
「イシアー、メイミィ。俺もう疲れたから休んでもいい?」
「いいよー。十五分くらい休憩するかー」
午後十六時過ぎ、ヴェンデルは長い間雑巾がけをしていたせいか、今すぐにでも寝てしまいそうだ。
「ソファで横になりなよ」
「うん。そうする……。そう、す、る……」
「ソファに座って三秒で寝ちゃった。ヴェンデルって寝つきがいいんだね」
私の言葉にイシアは首を左右に振った。
「え、寝つきはそこまでよくないの? そっか、ヴェンデルもここ数日は気を張って疲れていたんだね……。ゆっくり休んでほしいな」
イシアによると、普段ヴェンデルはあまり昼寝もせず夜も遅くまで起きているという。自分のことが見える人間にふたりも遭遇して、神経を尖らせていたのはイシアだけではないのだ。
「イシアは眠いの? 遠慮しないでイシアも昼寝しなよ」
イシアは再び私の言葉に首を左右に振った。
「あ、じゃあおやつでも食べる? 疲れた体には甘味だよ」
イシアは猫みたいな大きな目を輝かせた。
声が出なくても、表情や身振り手振りを使ってイシアは自分の気持ちを表現してくれる。全身を使って自分の気持ちを表現するイシアはなんとも素敵で可愛らしくて、コミュニケーション能力が低い私にはなんだかそれがとても心地よかった。
「確か冷蔵庫にカップのアイスがあったはずだよ! ストロベリーとチョコレート!」
――うん。やっぱり声が出なくても全身を使って、嬉しい気持ちを表現するイシアは可愛いね。ぴょんぴょん跳ねている姿を見たら、何でも食べさせたくなっちゃう。
私たちは食堂へと全速力で駆け出した。
「何だか本当に映画に登場するキラキラな女の子って感じだね」
現在、私たちはバスタブに入ってアイスクリームを食べている。
冷凍庫でお目当てのアイスクリームを見つけた私は、イシアに「ねえ、せっかくならお風呂でアイスを食べようよ」と提案をした。
幼き頃に見ていた海外の青春映画に、バスタブに浸かりながらアイスを食べているシーンがあったのだ。その映像を見た私は、「絶対に再現したい!」と思ったけれど、お風呂でアイスを食べるなんてお母さんに見つかったら怒られてしまうので、なかなか再現することができなかった。
しかし、今私がいるのは我が家ではない。おばあさまのお屋敷だ。おばあさまにバスタブでアイスを食べているところを見つかっても、怒られはしないだろう。
「お湯は貯めなくていいからさ、空のバスタブでアイスを食べよう!」
イシアはアイスが食べれるならどこでもいいようで、私の願望に付き合ってくれた。
そうして、私たちは空のバスタブに入って、片方はメイド服を着て、片方はアメリカンダイナーガール風のワンピースを着て、アイスを食べている。
夢みたいだ。こんなに可愛い服を着て、幼き頃に憧れていたシチュエーションを再現しているなんて。
「すっごく可愛いねぇイシアは」
私は上機嫌でアイスクリームを食べ、イシアを褒める。
チョコレートアイスを食べるメイド姿のイシアを見て、寝ているヴェンデルに、こんなに可愛いイシアを独り占めしてごめんなさいね、と心の中で謝った。
「芽深ちゃん、ちょっと頼み事いいかしら」
「はーいよろこんでー」
このお屋敷に居候をし、早くも数日が過ぎた。今日は平成十九年十二月五日水曜日である。
学生も社会人も疲れがたまる水曜日の午後でも、ずっとお屋敷の中にいる私は元気だ。
「芽深ちゃんったら、そんなに急がなくていいのよ。危ないじゃない」
「ごめんなさい! でも、おばあさまに頼み事されるのが嬉しくて、ついつい走ってきちゃいました……」
どんなに些細なことでも相手に頼み事をするというのは、その相手を信頼していなければできないはずだ。少なくとも私はそうである。
「私に頼み事されるのが嬉しいの? 面白い子ねぇ」
「お、面白いなんて、照れちゃいます」
「照れなくていいのよ。あのね、芽深ちゃん、ばあちゃんがあなたに頼みたいことは――って人の話を聞いているの!」
「いえーい。面白いって言われちゃった」
面白いと言われて舞い上がっている私に、おばあさまが「ばあちゃんの言うことを聞きなさい!」と怒る。
「ごめんなさい。おばあさま、頼み事ってなんですか?」
「お使いに行ってほしいの。駅の近くに二階建てのスーパーがあるでしょ? そこで今度のおにぎり教室で使う食材を買ってほしいわ」
「了解しました!」
おばあさまからエコバッグとがま口財布を貸してもらい、作業服から制服に着替えて、私はお屋敷を飛び出した。
「この森は昼間に通るとなんだか癒されますなぁ。」
駅前のスーパーに行くには、まずはお屋敷の前に広がる広大な森を通り抜けなければいけない。森を抜けると公園があり、公園から出て平和な住宅地を歩き続けると駅前に着く。
太陽の光に木々の揺れる音、どこからか聞こえる小鳥のさえずり、固すぎることのない大地の感触、私は全身に自然の神秘を感じながら、広大な森を通り抜けた。
「ふうー。ひと休みしよ」
現在、午後十六時五分。森を抜け、小さくてどことなく寂しげな公園のベンチに座る。現代で悠さんと出会ったこの公園は、十八年前からもの哀しい雰囲気を漂わせていた。
背もたれに背中を預ければ、若い男女の声が遠くから聞えてくる。帰宅部の学生は下校している時間帯だ。
悠さんは部活に入っているのだろうか。おにぎり教室に参加しているくらいだから入っていないのかな、もし入っていたとしても規則の緩い文化部だろうな。手芸部とか、ボランティア部みたいな。
あの謎の美少女、湖雪さんも部活には入っていないだろう。おにぎり教室に参加しているくらいだし。まったくふたりとも、学生時代は部活に入るべきだ。せっかくの貴重な学生時代、思いっきり青春を謳歌しなくちゃいけない。
いや、しているかふたりとも。おにぎり教室で普通じゃないとびきりの青春を送っているのか。
「私もおにぎり教室で悠さんと一緒に青春を謳歌したかった」
ポツリ、と思わず心の声が漏れてしまった。
私が生まれる前から悠さんは湖雪さんに恋をしていた。
彼に愛されるガラス細工のような彼女になれなくても、せめてもっと早く生まれておにぎり教室の生徒になりたかった。おにぎり教室の生徒になって、憧れのお兄さんの成長を一瞬も目を離すことなく見届けていたかった。彼と一緒に年を重ねたかった。
おとぎ話に出てくるようなお屋敷で、妖精のような子どもたちに囲まれておにぎりを作っているとき、悠さんは私のことを見向きもしなかった。ただただ彼のお姫様である湖雪さんのことだけを一身に見つめていた。どれだけ悠さんのことを想っても、私は彼の人生には関われない。久遠悠という名のラブコメ映画の登場人物にはなれない。私は登場人物ではなく、観客という余所者なんだ。
……なんだかこんなことを、前も考えたような気がする。
ああそうだ。タイムスリップする前だ。イシアを見つける前に、同じようにベンチに座って成就する予感のない悠さんへの恋心に途方に暮れていたのだ。
「日が暮れる前に、スーパーで買い物しなくちゃ」
足腰になんとか力を入れて、私は立ち上がった。
おばあさまに渡されたメモを見ながらスーパーで買い物をする。
夕方のスーパーは主婦や学校帰りの学生で賑わっていた。現代との物価の違いに驚きながら、私も活気溢れる店内を練り歩く。
今では販売終了してしまった商品が多数あって、なんだか哀愁を感じた。このピンクのサルのパッケージがかわいいお菓子とか、ぜひ現代でも販売してほしい。
「おつぎでお並びのお客様―! どうぞー!」
光の速さでレジ打ちをする店員さんがいる列へと並び、財布からお金を取り出す。この時代にはセルフレジなんてものはない。それがコミュニケーション能力が低い私には少々不便に感じた。店員さんと多少会話するだけでも緊張してしまうのだ。
「ありがとうございましたー!」
「あ、ありがとうございます」
店員さんにぎこちなくお礼を言った後、カウンターでエコバッグに明太子や海苔やふりかけやしらすを入れる。メモに書いてあることをもう一度確認し、買い忘れがないことに安堵した。
無事におばあさまからのお使いミッションも達成したので、スーパーから出ようとした。しかし、とある好奇心が私の中に浮かんだ。
「そういえば、二階ってどんな風になっているんだろ」
駅前のスーパーは、一階は食品を売っていて二階は百均ショップとなっている。
このまま帰るのもいいけれど、二○○七年の百均コーナーに興味がある。きっと可愛くて派手な品物が沢山売られているだろう。
私は、二階へと足を運ぶことにした。
平成の百均ショップは、想像以上にごちゃごちゃしていた。
商品が乱雑に並べられていて、ぬいぐるみや文房具が棚から飛び出している。ピンク色とオレンジ色の大きなポップが目立ち、全体的にカラフルな店内になんだかワクワクする。
「物がごちゃごちゃ並べられてる……。このペン可愛いな。てっあれ? こ、湖雪さん⁉」
「……あんたは、この前お屋敷にいた、えっと」
「め、芽深です。めみです」
「ああ、芽深ちゃん」
店内にはなんと私の憎き恋敵、湖雪さんがいた。
「ちょっと、なんでそんな驚いた顔してんの」
「す、すみません」
「ふん」
湖雪さんは私の謝罪を聞くと、プイっと顔を横に向けてしまった。
「な、なにしに来たんです、か」
「初めて会ったときにも思ったんだけどさ、あんた喋り方変だよね……。ちょっと、そんな悲しそうな顔しないでよ。あーもう調子狂うな。ノート買いに来たのよ」
「ノートですか?」
「リングノート買いに来た、プリ帳作るために。おかしいよね。同い年の友達がいないからノートだけ買ったってなんの意味もないのに」
「プ、プリ帳? な、なんですかそれ」
「あんたプリ帳知らないの⁉」
二○○七年の女子高生は『プリ帳』というものがマストアイテムらしい。これはマズイ。湖雪さんは名探偵並に頭が切れる人で、もしかしたらプリ帳を知らないという情報だけで、私が未来人であることを見破る可能性がある。現に、湖雪さんは私をジトっとした目で見ている。
私がプリ帳を知らないのは二○二五年の女子高生だからだ。それ以外でプリ帳を知らない理由をなにか考えなくちゃいけない。「未来からタイムスリップしたので、この時代のことは詳しくないんです」なんて言えない。
……こうなったら仕方がないな。ついに伝家の宝刀を抜くときが来たか。
私が世間知らずである理由を他者に納得してもらうには、これしかない!
「わ、私も友達がいないから世間の流行がわからないんですよ」
「あーあんた友達いなそうだもんね」
「と、友達いないからプリ帳を知らないんですよ。ぐすん」
「あたしも友達いないから半泣きにならなくていいよ。プリ帳っていうのわね、文字通りプリクラをノートやシール帳に貼り付けたものよ。ボールペンとかカラーペンとかシールを使ってデコるの。プリクラが貼ってあるページの余白にペンで日記や漫画の名言とか好きな歌詞とか書いて派手にすんの」
「そ、そうなんですね」
「絶対わかってないでしょ」
「プリ帳についてはあんまり理解してないんですけど、湖雪さんはプリ帳を作りたいからノートを買おうとしたけど、結局プリクラを取る相手がいないからノートを買っても意味がないということはわかってます!」
「そうよ。よくわかってんじゃない。ムカつくわね」
「ムカムカしないで私とプリクラ撮りましょうよ」
「え、いいの……?」
「プリ帳を作りたいんですよね? 私でよければ一緒にプリ撮りますよ」
湖雪さんは恋敵であるから、本当のところはあまり優しくしたくないのだけれど、リングノートを見つめる湖雪さんの横顔があまりにも淋しそうだったので、ついそう言ってしまった。それに悠さんの好きな人だからと意地悪するほうが、なんだか小物みたいで嫌だ。
「でもプリクラってどこにあるんですかね、ここら辺ってゲームセンターないですよね」
「なに言ってんの。プリクラあるじゃない」
「え、どこにあるんですか――っておお! 百均にプリクラがある!」
店内の隅に、なんとプリ機があった。
百均ショップにプリ機があることに衝撃を受けている私を、湖雪さんがまたもやジトっとした目で見つめている。平成では当たり前の光景かもしれませんが、令和にプリクラは百均ショップにないのです。だからこうやって驚いてしまうことを許してください、湖雪さん。
「じゃ、これ買ってくるから、あんたは、いや、芽深ちゃんはそこで待っててね」
湖雪さんはそう言うと、リングノートを持ってそそくさとレジの方へ歩いてしまった。
私は、熱くなった顔を両手で抑えながら、湖雪さんを待った。
湖雪さんに、あんな美少女に自分の名前を呼ばれてドギマギしてしまった。
だからこんなに顔が熱いのだ。
「あたしお金ないんだよね。だから一回きりね」
「わかりました」
「これ二百円プリクラだから、芽深ちゃん百円入れて」
「え、二百円でプリクラ取れるんですか! この前クラスの女の子が六百円でプリクラ撮ったって言っていましたよ!」
「六百円なんてその子はどこのプリ機で撮ったのよ」
「どこで撮ったんですかねー。あ、始まりましたよ。なんかイケイケの音楽が流れてる、すごい、美肌機能とかありますね。ポーズどうしますか? 私ピースしか知らない。あ、ギャルがポーズのお手本を見せてくれてますよ!」
「興奮するのはわかるけど、ちょっと落ち着きなよ」
人生初めてのプリクラに興奮している私に対して、湖雪さんは冷静である。しかし、クールに振る舞っていても楽しんでいることは隠し切れていない。口角は自然と上がっていて、それはそれは可愛い笑顔を浮かべている。
「撮影終わりました! 次は落書きですって!」
「よっしゃ、超デコるよ」
「なんでも書いていいんですよね! うわぁ、スタンプめっちゃかわいい!」
「書きな書きな。スタンプも好きなだけ押しな」
「好きなアニソンの歌詞を書いてもいいですか!」
「いいよ。その代わり、こっちのプリはあたしが自由に落書きしていいよね?」
「もちろんです!」
画面に二枚ずつ、先ほど撮影したプリクラが表示される。私と湖雪さんがそれぞれ自由に落書きをしていると、あっという間に制限時間を超えてしまった。
「えーこんな短い時間じゃ落書きが終わりませんよ!」
「大丈夫だから芽深ちゃん、ほら」
「あれ、ボーナスタイムですって! なんですかこれ」
「ほとんどのプリクラは制限時間が過ぎたらボーナスタイムっていうのを設けてくれんの」
「じゃあまだまだ落書きできますね!」
「そういうこと。まだまだデコれるよ」
私も湖雪さんも夢中になって落書きをする。まだまだ画面が余白でいっぱいだ。可愛いもので埋め尽くさなきゃ。もっとカラフルにしなきゃ。もっとテンションが高いことを書かなくちゃ。
「芽深ちゃん。『友達いない同盟』って書いていい?」
「え、そこは『今日、友達になっちゃいました!』みたいなことを書きませんか?」
「うわダッサ。それなら『我等友情永久不滅』でしょ」
「え? なんて?」
「あーもうあたしに任せて!」
そう言って、湖雪さんはピンクのネオンペンで、我等友情永久不滅、と書いた。
我等友情永久不滅……。なんてカッコイイ言葉なんだ。
「『我等友情永久不滅』っていい言葉ですね! あれ? なんで『友達いない同盟』も書いてるんですか! 私たち、と、友達じゃないですか! 友達いなくないです! それに黙っていましたが、私は人間以外に友達がいますからね!」
「なに言ってんの。あ、もうボーナスタイム終了するって」
「えー!」
「これでも田舎のプリ機はボーナスタイム長いほうだよ。東京とかはすぐに終わっちゃう」
私たちは落書きブースから出て、プリクラが印刷されるのを待つ。
「この印刷する時間が長いんだよね」
「でも、もう少しで出てきますよ! ほら、ストンってプリクラが落ちてきました! うわあ、湖雪さんとっても可愛いです! プリクラの湖雪さんも実物の湖雪さんもどっちも可愛い!」
「芽深ちゃんもかわいいよ」
「またまたぁ、湖雪さんは褒め上手ですね!」
「本当にそう思っているんだけど。初めて会ったときは目に光が入っていなかったのに、今日はたれ目に光が入っているじゃん。失礼だけど、顔色の悪かった肌も綺麗になってるし。清楚な女になってんじゃん」
「そ、そんな褒めないでください!」
「芽深ちゃんは褒められただけでそんなに照れるの? すごい純粋な子だけど、なに、まさか恋人いない歴が年齢だったりする?」
「え、そうですけど、なんですか、なんか問題ありますか! まだ私たち高校二年生ですけど!」
「違うよ、恋人がいないことを馬鹿にしているんじゃなくて、変な男に騙されていない純粋な芽深ちゃんが羨ましいの。あたしは、クラスでただ声が大きいだけの横暴な男が初めての恋人だったからさ」
「初めての恋人が横暴な人だったんですか?」
「そう。私には優しいけど、私以外にはとことん高圧的だったの! クラスのおとなしい女の子に怒鳴ってるとこ見てソッコーで別れた」
「うわー酷い人ですね。やっぱり自分だけに優しい人より、みんなに優しい人の方がいいですよね。だって好きな人が誰かに優しくしているところを見た方がキュンキュンしますもん。グループ決めで余っちゃった子を自然と自分のグループに入れたり、店員さんに優しかったり、ご老人の荷物を持ってあげたり、そういうことができる人の方がキュンキュンしませんか?」
「めっちゃわかるんだけど」
プリクラをハサミで切っているときも、スーパーから出て家に帰っているときも、私たちは他愛のない話をずっとしていた。思い返してみればそんなに面白くもない話も馬鹿みたいに笑っていた。お気に入りのギャグ漫画を読んでいるときくらい笑っていたのだ。
湖雪さんは生まれて初めての恋敵であり、生まれて初めての人間の友達となった。
あれだけ憎んでいたはずなのに、湖雪さんに対して好意的な気持ちの方が強くなった。
今もほんの少し憎んではいるけどね。
