「イシア、ヴェンデル。おにぎり教室が終わったよ」
「おー。その声はメイミィ」
天使たちの部屋は二階の端っこにある。部屋の扉をコンコンと叩くと、中からドタバタした音が聞こえてきた。扉が開き、黒色の髪が見える。
「さっきおにぎりを作ったの。ふたりとも食べる?」
「ありがとう でもイシアは今寝てるんだ」
「じゃあヴェンデルと私でおにぎりを食べよう。イシアには申し訳ないけど」
おにぎりを作りすぎてしまったので、余ったおにぎりをふたりにおすそ分けしたかったのだけれど、あいにくイシアは寝ていた。
「これは明太子のおにぎり?」
「おしい。タラコのおにぎりでした」
ヴェンデルは美味しいねと言い、タラコおにぎりを頬張った。
「そんなに美味しそうに食べてくれるなんて、おにぎりを握ったかいがあったぜ」
「メイミィちょっとカッコつけてる?」
「うん。カッコつけてる」
「おにぎり教室楽しかった?」
「楽しかったけど、ちょっと辛かった」
「ねぇ、俺達の前では明るく振る舞わなくたっていいよ。辛いことがあったら落ち込んでいいんだ」
「ありがとう。でも大丈夫。さっきまで落ち込んでたけど、ヴェンデルとイシアの顔見たら元気になったよ。ほんとだよ。うん、だから大丈夫」
「メイミィが平気ならいいけどさ」
「あのね、ヴェンデル。辛かったこともあったけど、だけどね、嬉しいこともあったの。文字盤見つけたんだ。掃除してるときにさ、入っちゃダメって言われた部屋があったでしょ? あそこにあった」
「そうなの? あの部屋に入ったんだ」
「うん。後で文字盤持ってくるね。あ、ヴェンデルは入っちゃダメだよ? 私はあの部屋に入る許可が下りたからね」
「あの部屋に興味はないよ。文字盤に興味があるだけ」
「……ねぇヴェンデル。なんでイシアは声が出ないの? なんでふたりは現代でこのお屋敷に住んでいるの? 確かもう天上界には戻ることはないって言っていたよね?」
「え、それ聞いちゃう?」
「ふたりのことをもっと知りたいじゃん、友達なんだから」
「まぁそうだよね。メイミィは友達だし、俺達のことが見える不思議な人間だからな」
ヴェンデルは、そう言って私の目を見つめる。心の奥底まで見透かすような眼差し向けられ、身構えてしまう。
「……仕方ないなぁ。信頼できるメイミィに俺らのヒミツを話すからね、心して聞いてよ?」
私は頷いた。ヴェンデルに信頼できると言われて、とても嬉しい。
「俺とイシアはね、天上界という場所で遥か昔に創られたんだ」
「え、ふたりとも若く見えるけどすごい長寿なんだね」
「天使は年を取るスピードが物凄く遅いんだよ」
「へぇ。ふたりは天使のお母さんから生まれたの? 血は繋がってるの?」
「違うよ。俺達は天界の美しきドン・女神さまの魔法で創られたの」
「女神さまの魔法で……。なんだかすっごいロマンチック! だからふたりはこんなにキラキラしているのね。ねぇ、女神さまはどんな方なの?」
「女神さまはとっても美しい神様だよ。自分の容姿だけじゃなく、創り出すものすべてが美しいんだ。俺達のこともそれはそれは大切に、時間をかけて創ったらしい。だから俺達は美しいの」
「そうなんだ……。女神さまが親だったら、私も美少女になれたのかなぁ。まぁお母さんのこと大好きだし、この親の元に生まれてよかったって思っているけどね」
「あのさぁ、メイミィは穢れなき魂を持った唯一無二の少女なの。もっと自分に自身を持ちなよ。愛されて育ってきたことが伝わるし、女神さまの元に生まれたいなんて絶対に思うな!」
「いやぁ、本気で言っているわけじゃないよ? でもさ、ふたりは体のひとつひとつがすごく繊細な形をしていて、オーラがあるんだもん。ついつい女神さまに、私もキラキラ輝く美少女にしてください! ってお願いしたくなっちゃうよ。女神さまはふたりを作るためにどんな魔法を使ったの?」
「僕たちの体は、女神さまが灯した聖なる炎と天界の湖から汲んだ水、そしてオオデマリに積もった泡雪でできているの。あと仕上げに月の光の粉をまぶされたらしい」
「オオデマリってなに?」
「天界にある花のことだよ。たしか地上にも咲いているはず」
花の種類はスイセンとクリスマスローズとマーガレットと、ひまわりと薔薇と桜とタンポポしか知らないことを生まれて初めて恥じた瞬間だった。
「えーじゃあさ、ふたりは大切に創られたなら天上界に戻らなくていいの? きっと女神さまは家に帰らないふたりを悲しんでるよ」
「そう思うでしょ。あのね、ここからがポイントだからね。俺とイシアの壮絶な過去を語るから、もう一度言うけど心して聞いてよ」
「わかった。心して聞く」
私の返事を聞いて、ヴェンデルはおとぎ話の語り手のように過去を話し始めた。
「イシアとヴェンデルという天使が、かつて天上界に住んでいました。イシアにはすべてを包み込む闇夜のように黒い翼が、ヴェンデルにはすべてを輝かせる真昼の太陽のように白い翼がありました」
「太陽って白じゃなくて赤色じゃない?」
「この国では太陽は赤色なんだっけ? 人間たちってなんで太陽の色を統一しないの? 他の国は太陽を白とか金色で表現してたよ」
「日本以外の国にも行ったことがあるんだ」
「まだ僕もイシアも翼が生えているときにね、色んな国を飛び回ったよ。翼が無くなってから訪れたのはまだ日本だけだ」
「ずっと気になっていたの。なんでふたりには翼が無いの? 天使なのにさ」
「それを説明しようとしたのに、メイミィが太陽の色がどうとか言い出したんじゃないか!」
「ごめんごめん。お話聞かせて? 今度は話を脱線させないようにするから」
「僕の話真剣に聞いてよね……。イシアには黒い片翼が、ヴェンデルには白い片翼が生えていました。ふたりあわせると一対の翼になるのです。イシアとヴェンデルは天界で楽しく暮らしていましたが、ある日創造主である女神さまに、人間を護り、支え、導き、そして幸せにするという様々な使命を授けられました」
「ふたりは女神さまに『人間の願いを叶える』という能力が使えるように創られました。この能力を使って、人間の願いを叶えて幸せにするのです」
「天使は地上へ降りて、色々な国の色々な人たちの願いを叶えました。女神さまから授けられた使命を果たしていくうちに、人間だけではなくイシアとヴェンデルも幸せになりました」
「『ヴェンデルはさ、もしも願いが叶うならどんなことを祈るの? 僕の願いは君とずっと一緒にいることだよ!』いつの日か、イシアはヴェンデルに向かってこんなことを言いました。恥じらいながらもヴェンデルの隣にいたいと伝えるイシアはとても綺麗で、護りたいとヴェンデルは思いました。しかし世の中はとても理不尽です。幸せは簡単に壊れてしまうのでした」
「ある時、いつものように使命を果たそうと、ひとりの男に天使は近づきました。しかしその男はとんでもなく悪い人間で、イシアの翼を折ってしまったのです」
「翼が折られたイシアを見た女神さまは、『翼が朽ちた化け物と一緒に生きていくなど、ヴェンデルが可哀想で仕方がない』と言い、ふたりの天使は離れ離れになりました」
「女神さまは『天上界にいる天使たちはみなふたりでひとつ。このままひとりで生きていくことはできぬ、ヴェンデルにはじきに新しい命を与えよう。正式に命を与える日が決まるまで、少しの辛抱だが待つのだ』と言いました。女神さまは翼の折れたイシアには目もくれません」
「天界にいる天使たちは、翼が折れたひとりぼっちのイシアのことを化け物と嘲笑い、迫害しました。イシアは天上界にいるはずなのに、奈落に堕とされたと錯覚してしまうくらい酷い仕打ちを受けました。ひとりで苦しみ続ける中、ヴェンデルに新しい命を与える日が決定したことが、イシアの耳に入りました」
「天上界に居場所はもうどこにもないことを悟り、イシアは地上に降りて二度と生まれ故郷に戻らないことを決意しました。イシアが地上へ飛び降りようとした丁度そのとき、黒い翼を失ったヴェンデルが現れました。『翼は自分で折った、俺も地上に降りるから。大丈夫、絶対にひとりにさせない』と言い、イシアの腕をヴェンデルは掴みました。そうして、ふたりの天使は一緒に飛び降りました」
「……ヴェンデル格好いいじゃん、イシアを護ったんだね」
「全然格好よくないよ。俺はイシアの純粋な心を護りたかった。ずっと後悔している。翼を折られたとき、俺はイシアのそばにいなかった。あのときイシアを、あの憎たらしい人間とふたりっきりにさせてしまった自分を怨んでいる。イシアの翼も綺麗な声も失わせ、心に深い傷を残した。この悔しさは生涯忘れることはない。ずっとこの感情を抱えながら生きていくんだよ……」
「ヴェンデル……」
「イシアは地上に降りたとき、ごめん、ごめんって泣きながらずっと謝っていた。もうイシアを迫害する天使はいないのに、天上界にいるときよりずっと苦しんでいた。謝る必要ないって何回も何回も俺は伝えたけど、イシアはずっと泣きじゃくって……。だんだん声が掠れて、気づいたら声は出ないのにごめん、ごめんねヴェンデルって、必死に口を動かしていた……」
「……ねぇヴェンデル。イシアの声が出なくなった理由ってさ、翼を折られたことのショックもありそうだけど……。でもそれ以上に……」
「イシアは幸せにしたいと思った人間に翼を折られたことよりも、同胞である天使たちに化け物と嘲笑されたことよりも、美しい天界に住めなくなるまで迫害されたことよりも……。俺が天界でずっと幸せに暮していく権利を奪ってしまったことが、そのことがなによりも辛くて、声が出なくなってしまった。……あんな酷い仕打ちを受けても声だけしか失わなかったことが奇跡だけどね。でも、今のあいつは天使としての使命を果たせる精神状態じゃない。メイミィに、おばあさまに、俺に心配かけたくないから、必死にボロボロになった心を隠して生きている」
私は、なんて言葉を返せばいいのかわからなくて、俯いてしまった。こういうとき、おばあさまならどんなことを言うのだろう。
ヴェンデルの抱える苦しみを溶かすようなことを言わなくちゃいけないのに、気の利いた言葉が全く思いつかない。部屋は静まり返っている。
結局、この場を支配する重い沈黙を破ったのはヴェンデルだった。彼は再びふたりの過去について話し出す。
「地上に降りた後、まずは家を探した。俺達に天使の翼があったころ、悪い人間に捕まりそうになったら翼を羽ばたいて空へ逃げた。でも、もう翼はないから空へ逃げることはできない。誰にも見つからない家がほしいと思った。天使も人間と一緒で、安心して暮らせる場所が欲しいんだよ」
「だからおばあさまのいないお屋敷に住んでいたの……。翼があったころは、人間はふたりを認識することができたんだよね?」
「うん。人間たちは俺達を見て多種多様な反応をしたよ。ある子どもは天使さまがいる、と感激していて、ある大人は宝石をくれた。俺達を祭り上げることで願いを叶えようと躍起になる人もいた。イシアは、そんなことをしなくても、ただ願い事を言えば叶えてあげるよ、と悲しそうに言っていたな」
「他にはどんな人がいたの?」
「オカルト好きな人に生態を観察させてほしいとか言われたりもしたね。観察するだけならいいけど、俺達の生態をまとめた記録ノートを出版社に持ち込もうとしたヤツがいた。写真に撮ってインターネットに公開しようとしたり、挙句の果てには見世物小屋に売り飛ばそうとした大馬鹿者もいた……」
「なにそれ。酷い人たちだね」
「そう酷い人たちだ。でもね、見世物小屋に売り飛ばされそうになったときも、それだけ俺達は人間にとって価値のある生き物なんだって思うことにした。価値があるから感動されたり、崇められたり、ときには酷い仕打ちを受けたりするんだって」
「天使は優しいね。人間の残忍さに絶望したことはなかったの?」
「翼を無くした途端、人間が俺達に目もくれなくなったときは絶望した。あれだけ人間は俺達を崇めていたのに、急に存在に気づきもしなくなったからね。翼が折れると天使は透明になるから仕方ないけどさ、でも俺達ここにいるのに……」
自分はここにいるのに誰も気づいてくれない悲しみを、私もよく知っている。
確かに存在しているはずなのに、クラスメイトから教師から透明人間として扱われ、心にすり傷が残るのだ。
目の前にいる天使も、そんな悲しみを味わってきたのだ。そんなもの心の優しい天使が味わう必要なんてないのに。
「だからね、メイミィ。俺は本当に感謝しているよ。俺を、イシアを見つけてくれたことを。俺達のことを、宝石製のラメが纏われているように輝いていると言ってくれたことが、本当に嬉しかった。翼を失った俺達に、そう言ってくれてありがとう」
「ふたりを見て純粋に感じたことを言っただけだよ。感謝されるようなことしてないよ」
「謙遜しないで。イシアもメイミィにものすごく感謝しているんだよ? イシアは自分を受け入れてくれた、心の広いメイミィとおばあさまに恩返しをしたいと言っていた。だからメイミィ、素直にありがとうの気持ち受け取ってよ」
「そ。そう? こ、こちらこそ天使たちにありがとうを言いたいよ……。あ、夜も更けてきたのでさっさとお風呂に入る! 私にふたりの過去を話してくれてありがとう! じゃあね! グンナイ!」
面と向かって、ありがとう、と言うのも言われるのも照れてしまうので、急いで天使のいる部屋から飛び出した。
ふたりが辛い思いをしたなら、それ以上に毎日が笑顔で幸せに過ごせるように手助けをしたいと思った。
私はイシアとヴェンデルの友達だ。
友達だから、ふたりが幸せで心穏やかに過ごせるように頑張らないといけない。
灰色の公園に中学生の悠さんがベンチに座っている。
中学生の悠さんは、大人の悠さんみたいに足元に咲いている花をひとり淋しく眺めていない。足をプラプラとばたつかせ、隣に座っている湖雪さんに弾けるような笑顔で話しかけている。
美しい若い男女が仲睦まじくベンチに座って、いやらしく戯れ合うわけでもなく、ただお互いの顔をまじまじと見つめて言葉を交わしていた。名作ロマンス映画のワンシーンみたいな光景だ。灰色の世界でも、悠さんと湖雪さんは俳優みたいに輝いている。
「ねえ、なんでいつも悲しそうな顔をしているの? 俺は湖雪さんにいつも笑顔でいて欲しいんだ。俺になにかできることはない? 湖雪さんを傷つけるヤツなんて俺が倒してやる」
「あたしのためになんかしようだなんて、そんなこと思わなくていいの。格好つけたこと言わないで。悠くんと一緒にいるだけで楽しいから」
「やっぱりなにか悩みや不安を抱えているよね。俺になんでも言って! 俺は湖雪さんを苦しませるもの全てをやっつけるから!」
中学生ならではの全能感に溢れた悠さんは、湖雪さんを苦しみから守ろうと張り切ってる。湖雪さんは、別にそんなことをしなくていいと何度も言っているのに、悠さんは湖雪さんを悲しませるものは俺が倒す、俺が湖雪さんを守る、と繰り返していた。話が嚙み合っていない。悠さんは、好きな人のためになにかしたいと思っているというのに、実際は迷惑がられていた。
空回りしている悠さんに、湖雪さんが迷惑そうに、けれど嬉しそうに「悠くんと話すだけで心が軽くなるから」と返していた。おにぎり教室より、悠さんに素直に接している。
湖雪さんの大きな瞳には、悠さんへの慈愛で溢れていた。自分のために本気になってくれる年下の男の子なんて、それはそれは愛おしいだろうな。
遠目からピュアで可愛らしいふたりを眺めていたけれど、これ以上は見たくなくて、自分の心を守るために目を逸らした。
ふたりは楽しそうだけれど、私の心はどうにもならない痛みで傷ついている。
湖雪さんだけではなくて、私のことも守ってほしいよ。
私にだって優しくしてくれたっていいじゃん。
私も悠さんに愛されたいなぁ。
湖雪さんは悠さんに愛されているのに、私は決して愛されないことが酷く苦痛で悲しくて。
目を逸らしても今度はふたりの楽しそうな声が聞こえてきた。嫌だ、もうふたりが愛し合っていることを感じたくない。
どうして神様は、私にこんな意地悪をするのだろう? どうして悠さんと湖雪さんが愛し合っている姿を私に見せつけてくるの。
夢ならばいいのに、夢ならばいいのに! 今、感じている苦しみが夢ならば……。
そのとき、私は覚醒した。
「あれ? これ本当に夢じゃない?」
この灰色の世界が夢の世界であることに気づいたのだ。
なんだ、夢ならこの苦しみからも解放される。
……いや、夢から醒めたって苦しいままか。悠さんは湖雪さんに恋をしているのだ。そして、おそらく、湖雪さんも悠さんに恋をしている。湖雪さんは悠さんほど表に出してはいなかったけれど、おにぎり教室での湖雪さんは、恋する乙女であった。悠さんを見つめる目が、あまりにも純粋でとろけていた。
「現実では素っ気ない態度をとってた湖雪さんも、夢の中でなら正直になれるんだなぁ」
悠さんのことは好きだけれど、湖雪さんのことが好きな悠さんは大嫌いだ。
もうこんな悪夢は見たくないから、さっさと起きよう。
「おー。その声はメイミィ」
天使たちの部屋は二階の端っこにある。部屋の扉をコンコンと叩くと、中からドタバタした音が聞こえてきた。扉が開き、黒色の髪が見える。
「さっきおにぎりを作ったの。ふたりとも食べる?」
「ありがとう でもイシアは今寝てるんだ」
「じゃあヴェンデルと私でおにぎりを食べよう。イシアには申し訳ないけど」
おにぎりを作りすぎてしまったので、余ったおにぎりをふたりにおすそ分けしたかったのだけれど、あいにくイシアは寝ていた。
「これは明太子のおにぎり?」
「おしい。タラコのおにぎりでした」
ヴェンデルは美味しいねと言い、タラコおにぎりを頬張った。
「そんなに美味しそうに食べてくれるなんて、おにぎりを握ったかいがあったぜ」
「メイミィちょっとカッコつけてる?」
「うん。カッコつけてる」
「おにぎり教室楽しかった?」
「楽しかったけど、ちょっと辛かった」
「ねぇ、俺達の前では明るく振る舞わなくたっていいよ。辛いことがあったら落ち込んでいいんだ」
「ありがとう。でも大丈夫。さっきまで落ち込んでたけど、ヴェンデルとイシアの顔見たら元気になったよ。ほんとだよ。うん、だから大丈夫」
「メイミィが平気ならいいけどさ」
「あのね、ヴェンデル。辛かったこともあったけど、だけどね、嬉しいこともあったの。文字盤見つけたんだ。掃除してるときにさ、入っちゃダメって言われた部屋があったでしょ? あそこにあった」
「そうなの? あの部屋に入ったんだ」
「うん。後で文字盤持ってくるね。あ、ヴェンデルは入っちゃダメだよ? 私はあの部屋に入る許可が下りたからね」
「あの部屋に興味はないよ。文字盤に興味があるだけ」
「……ねぇヴェンデル。なんでイシアは声が出ないの? なんでふたりは現代でこのお屋敷に住んでいるの? 確かもう天上界には戻ることはないって言っていたよね?」
「え、それ聞いちゃう?」
「ふたりのことをもっと知りたいじゃん、友達なんだから」
「まぁそうだよね。メイミィは友達だし、俺達のことが見える不思議な人間だからな」
ヴェンデルは、そう言って私の目を見つめる。心の奥底まで見透かすような眼差し向けられ、身構えてしまう。
「……仕方ないなぁ。信頼できるメイミィに俺らのヒミツを話すからね、心して聞いてよ?」
私は頷いた。ヴェンデルに信頼できると言われて、とても嬉しい。
「俺とイシアはね、天上界という場所で遥か昔に創られたんだ」
「え、ふたりとも若く見えるけどすごい長寿なんだね」
「天使は年を取るスピードが物凄く遅いんだよ」
「へぇ。ふたりは天使のお母さんから生まれたの? 血は繋がってるの?」
「違うよ。俺達は天界の美しきドン・女神さまの魔法で創られたの」
「女神さまの魔法で……。なんだかすっごいロマンチック! だからふたりはこんなにキラキラしているのね。ねぇ、女神さまはどんな方なの?」
「女神さまはとっても美しい神様だよ。自分の容姿だけじゃなく、創り出すものすべてが美しいんだ。俺達のこともそれはそれは大切に、時間をかけて創ったらしい。だから俺達は美しいの」
「そうなんだ……。女神さまが親だったら、私も美少女になれたのかなぁ。まぁお母さんのこと大好きだし、この親の元に生まれてよかったって思っているけどね」
「あのさぁ、メイミィは穢れなき魂を持った唯一無二の少女なの。もっと自分に自身を持ちなよ。愛されて育ってきたことが伝わるし、女神さまの元に生まれたいなんて絶対に思うな!」
「いやぁ、本気で言っているわけじゃないよ? でもさ、ふたりは体のひとつひとつがすごく繊細な形をしていて、オーラがあるんだもん。ついつい女神さまに、私もキラキラ輝く美少女にしてください! ってお願いしたくなっちゃうよ。女神さまはふたりを作るためにどんな魔法を使ったの?」
「僕たちの体は、女神さまが灯した聖なる炎と天界の湖から汲んだ水、そしてオオデマリに積もった泡雪でできているの。あと仕上げに月の光の粉をまぶされたらしい」
「オオデマリってなに?」
「天界にある花のことだよ。たしか地上にも咲いているはず」
花の種類はスイセンとクリスマスローズとマーガレットと、ひまわりと薔薇と桜とタンポポしか知らないことを生まれて初めて恥じた瞬間だった。
「えーじゃあさ、ふたりは大切に創られたなら天上界に戻らなくていいの? きっと女神さまは家に帰らないふたりを悲しんでるよ」
「そう思うでしょ。あのね、ここからがポイントだからね。俺とイシアの壮絶な過去を語るから、もう一度言うけど心して聞いてよ」
「わかった。心して聞く」
私の返事を聞いて、ヴェンデルはおとぎ話の語り手のように過去を話し始めた。
「イシアとヴェンデルという天使が、かつて天上界に住んでいました。イシアにはすべてを包み込む闇夜のように黒い翼が、ヴェンデルにはすべてを輝かせる真昼の太陽のように白い翼がありました」
「太陽って白じゃなくて赤色じゃない?」
「この国では太陽は赤色なんだっけ? 人間たちってなんで太陽の色を統一しないの? 他の国は太陽を白とか金色で表現してたよ」
「日本以外の国にも行ったことがあるんだ」
「まだ僕もイシアも翼が生えているときにね、色んな国を飛び回ったよ。翼が無くなってから訪れたのはまだ日本だけだ」
「ずっと気になっていたの。なんでふたりには翼が無いの? 天使なのにさ」
「それを説明しようとしたのに、メイミィが太陽の色がどうとか言い出したんじゃないか!」
「ごめんごめん。お話聞かせて? 今度は話を脱線させないようにするから」
「僕の話真剣に聞いてよね……。イシアには黒い片翼が、ヴェンデルには白い片翼が生えていました。ふたりあわせると一対の翼になるのです。イシアとヴェンデルは天界で楽しく暮らしていましたが、ある日創造主である女神さまに、人間を護り、支え、導き、そして幸せにするという様々な使命を授けられました」
「ふたりは女神さまに『人間の願いを叶える』という能力が使えるように創られました。この能力を使って、人間の願いを叶えて幸せにするのです」
「天使は地上へ降りて、色々な国の色々な人たちの願いを叶えました。女神さまから授けられた使命を果たしていくうちに、人間だけではなくイシアとヴェンデルも幸せになりました」
「『ヴェンデルはさ、もしも願いが叶うならどんなことを祈るの? 僕の願いは君とずっと一緒にいることだよ!』いつの日か、イシアはヴェンデルに向かってこんなことを言いました。恥じらいながらもヴェンデルの隣にいたいと伝えるイシアはとても綺麗で、護りたいとヴェンデルは思いました。しかし世の中はとても理不尽です。幸せは簡単に壊れてしまうのでした」
「ある時、いつものように使命を果たそうと、ひとりの男に天使は近づきました。しかしその男はとんでもなく悪い人間で、イシアの翼を折ってしまったのです」
「翼が折られたイシアを見た女神さまは、『翼が朽ちた化け物と一緒に生きていくなど、ヴェンデルが可哀想で仕方がない』と言い、ふたりの天使は離れ離れになりました」
「女神さまは『天上界にいる天使たちはみなふたりでひとつ。このままひとりで生きていくことはできぬ、ヴェンデルにはじきに新しい命を与えよう。正式に命を与える日が決まるまで、少しの辛抱だが待つのだ』と言いました。女神さまは翼の折れたイシアには目もくれません」
「天界にいる天使たちは、翼が折れたひとりぼっちのイシアのことを化け物と嘲笑い、迫害しました。イシアは天上界にいるはずなのに、奈落に堕とされたと錯覚してしまうくらい酷い仕打ちを受けました。ひとりで苦しみ続ける中、ヴェンデルに新しい命を与える日が決定したことが、イシアの耳に入りました」
「天上界に居場所はもうどこにもないことを悟り、イシアは地上に降りて二度と生まれ故郷に戻らないことを決意しました。イシアが地上へ飛び降りようとした丁度そのとき、黒い翼を失ったヴェンデルが現れました。『翼は自分で折った、俺も地上に降りるから。大丈夫、絶対にひとりにさせない』と言い、イシアの腕をヴェンデルは掴みました。そうして、ふたりの天使は一緒に飛び降りました」
「……ヴェンデル格好いいじゃん、イシアを護ったんだね」
「全然格好よくないよ。俺はイシアの純粋な心を護りたかった。ずっと後悔している。翼を折られたとき、俺はイシアのそばにいなかった。あのときイシアを、あの憎たらしい人間とふたりっきりにさせてしまった自分を怨んでいる。イシアの翼も綺麗な声も失わせ、心に深い傷を残した。この悔しさは生涯忘れることはない。ずっとこの感情を抱えながら生きていくんだよ……」
「ヴェンデル……」
「イシアは地上に降りたとき、ごめん、ごめんって泣きながらずっと謝っていた。もうイシアを迫害する天使はいないのに、天上界にいるときよりずっと苦しんでいた。謝る必要ないって何回も何回も俺は伝えたけど、イシアはずっと泣きじゃくって……。だんだん声が掠れて、気づいたら声は出ないのにごめん、ごめんねヴェンデルって、必死に口を動かしていた……」
「……ねぇヴェンデル。イシアの声が出なくなった理由ってさ、翼を折られたことのショックもありそうだけど……。でもそれ以上に……」
「イシアは幸せにしたいと思った人間に翼を折られたことよりも、同胞である天使たちに化け物と嘲笑されたことよりも、美しい天界に住めなくなるまで迫害されたことよりも……。俺が天界でずっと幸せに暮していく権利を奪ってしまったことが、そのことがなによりも辛くて、声が出なくなってしまった。……あんな酷い仕打ちを受けても声だけしか失わなかったことが奇跡だけどね。でも、今のあいつは天使としての使命を果たせる精神状態じゃない。メイミィに、おばあさまに、俺に心配かけたくないから、必死にボロボロになった心を隠して生きている」
私は、なんて言葉を返せばいいのかわからなくて、俯いてしまった。こういうとき、おばあさまならどんなことを言うのだろう。
ヴェンデルの抱える苦しみを溶かすようなことを言わなくちゃいけないのに、気の利いた言葉が全く思いつかない。部屋は静まり返っている。
結局、この場を支配する重い沈黙を破ったのはヴェンデルだった。彼は再びふたりの過去について話し出す。
「地上に降りた後、まずは家を探した。俺達に天使の翼があったころ、悪い人間に捕まりそうになったら翼を羽ばたいて空へ逃げた。でも、もう翼はないから空へ逃げることはできない。誰にも見つからない家がほしいと思った。天使も人間と一緒で、安心して暮らせる場所が欲しいんだよ」
「だからおばあさまのいないお屋敷に住んでいたの……。翼があったころは、人間はふたりを認識することができたんだよね?」
「うん。人間たちは俺達を見て多種多様な反応をしたよ。ある子どもは天使さまがいる、と感激していて、ある大人は宝石をくれた。俺達を祭り上げることで願いを叶えようと躍起になる人もいた。イシアは、そんなことをしなくても、ただ願い事を言えば叶えてあげるよ、と悲しそうに言っていたな」
「他にはどんな人がいたの?」
「オカルト好きな人に生態を観察させてほしいとか言われたりもしたね。観察するだけならいいけど、俺達の生態をまとめた記録ノートを出版社に持ち込もうとしたヤツがいた。写真に撮ってインターネットに公開しようとしたり、挙句の果てには見世物小屋に売り飛ばそうとした大馬鹿者もいた……」
「なにそれ。酷い人たちだね」
「そう酷い人たちだ。でもね、見世物小屋に売り飛ばされそうになったときも、それだけ俺達は人間にとって価値のある生き物なんだって思うことにした。価値があるから感動されたり、崇められたり、ときには酷い仕打ちを受けたりするんだって」
「天使は優しいね。人間の残忍さに絶望したことはなかったの?」
「翼を無くした途端、人間が俺達に目もくれなくなったときは絶望した。あれだけ人間は俺達を崇めていたのに、急に存在に気づきもしなくなったからね。翼が折れると天使は透明になるから仕方ないけどさ、でも俺達ここにいるのに……」
自分はここにいるのに誰も気づいてくれない悲しみを、私もよく知っている。
確かに存在しているはずなのに、クラスメイトから教師から透明人間として扱われ、心にすり傷が残るのだ。
目の前にいる天使も、そんな悲しみを味わってきたのだ。そんなもの心の優しい天使が味わう必要なんてないのに。
「だからね、メイミィ。俺は本当に感謝しているよ。俺を、イシアを見つけてくれたことを。俺達のことを、宝石製のラメが纏われているように輝いていると言ってくれたことが、本当に嬉しかった。翼を失った俺達に、そう言ってくれてありがとう」
「ふたりを見て純粋に感じたことを言っただけだよ。感謝されるようなことしてないよ」
「謙遜しないで。イシアもメイミィにものすごく感謝しているんだよ? イシアは自分を受け入れてくれた、心の広いメイミィとおばあさまに恩返しをしたいと言っていた。だからメイミィ、素直にありがとうの気持ち受け取ってよ」
「そ。そう? こ、こちらこそ天使たちにありがとうを言いたいよ……。あ、夜も更けてきたのでさっさとお風呂に入る! 私にふたりの過去を話してくれてありがとう! じゃあね! グンナイ!」
面と向かって、ありがとう、と言うのも言われるのも照れてしまうので、急いで天使のいる部屋から飛び出した。
ふたりが辛い思いをしたなら、それ以上に毎日が笑顔で幸せに過ごせるように手助けをしたいと思った。
私はイシアとヴェンデルの友達だ。
友達だから、ふたりが幸せで心穏やかに過ごせるように頑張らないといけない。
灰色の公園に中学生の悠さんがベンチに座っている。
中学生の悠さんは、大人の悠さんみたいに足元に咲いている花をひとり淋しく眺めていない。足をプラプラとばたつかせ、隣に座っている湖雪さんに弾けるような笑顔で話しかけている。
美しい若い男女が仲睦まじくベンチに座って、いやらしく戯れ合うわけでもなく、ただお互いの顔をまじまじと見つめて言葉を交わしていた。名作ロマンス映画のワンシーンみたいな光景だ。灰色の世界でも、悠さんと湖雪さんは俳優みたいに輝いている。
「ねえ、なんでいつも悲しそうな顔をしているの? 俺は湖雪さんにいつも笑顔でいて欲しいんだ。俺になにかできることはない? 湖雪さんを傷つけるヤツなんて俺が倒してやる」
「あたしのためになんかしようだなんて、そんなこと思わなくていいの。格好つけたこと言わないで。悠くんと一緒にいるだけで楽しいから」
「やっぱりなにか悩みや不安を抱えているよね。俺になんでも言って! 俺は湖雪さんを苦しませるもの全てをやっつけるから!」
中学生ならではの全能感に溢れた悠さんは、湖雪さんを苦しみから守ろうと張り切ってる。湖雪さんは、別にそんなことをしなくていいと何度も言っているのに、悠さんは湖雪さんを悲しませるものは俺が倒す、俺が湖雪さんを守る、と繰り返していた。話が嚙み合っていない。悠さんは、好きな人のためになにかしたいと思っているというのに、実際は迷惑がられていた。
空回りしている悠さんに、湖雪さんが迷惑そうに、けれど嬉しそうに「悠くんと話すだけで心が軽くなるから」と返していた。おにぎり教室より、悠さんに素直に接している。
湖雪さんの大きな瞳には、悠さんへの慈愛で溢れていた。自分のために本気になってくれる年下の男の子なんて、それはそれは愛おしいだろうな。
遠目からピュアで可愛らしいふたりを眺めていたけれど、これ以上は見たくなくて、自分の心を守るために目を逸らした。
ふたりは楽しそうだけれど、私の心はどうにもならない痛みで傷ついている。
湖雪さんだけではなくて、私のことも守ってほしいよ。
私にだって優しくしてくれたっていいじゃん。
私も悠さんに愛されたいなぁ。
湖雪さんは悠さんに愛されているのに、私は決して愛されないことが酷く苦痛で悲しくて。
目を逸らしても今度はふたりの楽しそうな声が聞こえてきた。嫌だ、もうふたりが愛し合っていることを感じたくない。
どうして神様は、私にこんな意地悪をするのだろう? どうして悠さんと湖雪さんが愛し合っている姿を私に見せつけてくるの。
夢ならばいいのに、夢ならばいいのに! 今、感じている苦しみが夢ならば……。
そのとき、私は覚醒した。
「あれ? これ本当に夢じゃない?」
この灰色の世界が夢の世界であることに気づいたのだ。
なんだ、夢ならこの苦しみからも解放される。
……いや、夢から醒めたって苦しいままか。悠さんは湖雪さんに恋をしているのだ。そして、おそらく、湖雪さんも悠さんに恋をしている。湖雪さんは悠さんほど表に出してはいなかったけれど、おにぎり教室での湖雪さんは、恋する乙女であった。悠さんを見つめる目が、あまりにも純粋でとろけていた。
「現実では素っ気ない態度をとってた湖雪さんも、夢の中でなら正直になれるんだなぁ」
悠さんのことは好きだけれど、湖雪さんのことが好きな悠さんは大嫌いだ。
もうこんな悪夢は見たくないから、さっさと起きよう。
