この世界は誰も信用できない。信用なんてするもんか。
――そう思って生きてきた。

12歳のあの日、母さんが俺を置き去りにしたんだと気づいたあの瞬間に、人間は残酷で、人生は不平等だと思い知らされた。街を歩けば幸せそうに笑う家族連れがたくさんいて、俺の隣には誰もいないんだと痛感する。そんな日々は胸が張り裂けそうなほどに辛かった。

そして、やがて誰かと深く関わることを避けるようになった。誰かに期待すると、どうせまた裏切られる。それならはじめから期待なんてしないほうがいい。だから、一人で生きていくと決めていた。道端で踊っている人に憧れてダンスを独学で始めて、いずれはソロダンサーとして生きていこうと思っていた。

だけど……。
一週間前、突然家にきたあいつ、――彗太郎、に言われた言葉がずっと心に残っている。

“俺らは家族になったんだよ”。“紫音が背負っているもの、俺にも分けてくれないか”。そんな言葉をかけられたのは初めてだった。彗太郎は、うわべだけで取り繕う大人たちとは違う気がした。

(……信じてもいいのかもしれない)
誰かのことをそんなふうに思えた自分に自分で驚いてしまう。

『っ、はあ〜〜』

大きなため息をつきながらスチール製のベッドに倒れ込み、へたれたマットレスに横になる。

あの時の彗太郎の表情は真剣だった。俺をまっすぐに見つめていた瞳を未だにハッキリと覚えている。



その時、ドンドンドンッという音が聞こえて慌ててすりガラスの玄関のほうを見ると、黒い人影が見えた。時刻は18時半。この家に来訪者なんて滅多にいないのに、こんな時間に誰だろうか。不思議に思いながら玄関に近づくと、「しーおーんー!俺!彗太郎!!」という声が聞こえた。

(え、彗太郎?)

慌てて玄関を開けると、右手にボストンバッグ、左手にコンビニの袋を持った彗太郎が立っていた。

「おい〜、なんで今日もレッスン来ないんだよー」と言いながら、ズカズカと家へ入ってくる。
『なになに、なにその荷物』

困惑しながらそう問うと、「え?あぁ、今夜紫音の家に泊まろうと思って」と笑った。

『は?馬鹿なの?』
「えー、なんでよ。いいじゃんかー」
そう言いながら、当たり前のようにダンボール机の前に腰をおろした彗太郎。

「てかお腹すいてない?コンビニで適当に買ってきた。紫音、おにぎりとパンどっちがいいー?」

完全に彗太郎のペースで話が進んでいく。以前の俺なら無理矢理にでも追い返すのに、今日はそれもいいかも、と思ってしまった。相手が彗太郎だから、だろうか。自己中心的な奴は大嫌いだけど……。彗太郎はきっと、そうじゃない。

差し出された鮭おにぎりとソーセージパンを交互に見て、鮭おにぎりを選んで受け取る。

(俺にこんなふうに近づいてきてくれる人は初めてだ……)

愛想のない人間だと自覚しているし、誰とも関わらないつもりだったのに……。それでも、この家に久しぶりに俺以外の誰かのぬくもりがあるのはやっぱり少し嬉しかった。

「そういえば、これ、一緒に見ようと思って持ってきた!」
彗太郎がそう言いながらボストンバッグから取り出したのは、ポータブルDVDプレーヤーと何かのライブDVDのようだった。

『なにこれ』
「俺らの事務所の先輩アイドルのライブ映像!」
『へえ』
「もっと興味もてよ〜。本当にかっこいいんだからな〜」

そう言いながらソーセージパンをがぶっと豪快に頬張った彗太郎が、もぐもぐと口を動かしながらDVDプレーヤーをセットし始める。

別にアイドルに興味がないわけではなかった。ただ、なんというか、アイドルの良さがわからない。ちょっと歌って、ちょっと踊って、嘘くさい笑顔を振りまいてるだけの人たちとしか思えなかった。

「よし、出来た」
そんなことを思っている俺をよそに、DVDをセットした彗太郎が再生ボタンを押す。すると、大きなドーム型のライブ会場を埋め尽くす何万人ものファンが色とりどりのペンライトを持っているシーンが映し出された。それはまるでカラフルな星空のようで、思わず『うわぁ、』と感嘆の声が漏れる。

そんな俺をちらっと見た彗太郎が「まだまだ。すごいのはこれからだよ」と楽しそうに言った。

その言葉通り、映像が進んでいくにつれて心が高揚しているのが自分でもわかった。DVDに映っているアイドルはステージの下から勢いよく飛び出して登場してきたかと思えば、ドームの中を動くステージで移動して……。可愛らしいポップな曲から、ダンスナンバー、バラード……と様々な楽曲を踊りながら歌いこなしている。そして特に印象的だったのは、アイドルは常に笑顔だということ。一度たりとも笑顔を絶やしたりしない。そんな姿を見ているファンの人たちもまた、ずっと笑顔だった。

(……すごい。アイドルって、すごいな)

約2時間半のライブ本編が終わって真っ暗になった画面に、食い入るように見ていた俺の顔がうつった。無意識に画面のほうへと身を乗り出していて、自分でも驚く。それほど、心を揺さぶられた。完全に魅了されていた。

彗太郎が声を弾ませながら「どう?かっこよかったでしょ!?」と俺に問いかける。なんだか素直になれずに、『ま、まぁ』と曖昧に返事をする俺。そんな俺を見て少し口角を上げた彗太郎がしみじみと話しだした。

「……アイドルってさ、偉大なんだよ。単に歌って踊るだけの人たちじゃない。歌って踊る姿を見て、誰かが元気になったり笑顔になったりする。アイドルという存在を毎日を頑張る(かて)にしてる人もいる」

少し尊い目をした彗太郎が一拍おいて、また口を開いた。

「……誰かの“生きる意味”、に、なれたりするんだ」

大事そうにゆっくりと、そしてハッキリと口にされたその言葉が、心の中でガツンと何かを突き動かした。





その後もアイドル談義を熱心に語っていた彗太郎はだんだんと眠気に襲われ、ベッドと机代わりのダンボールの間の畳に倒れ込むように眠ってしまった。来客用の布団セットなんてあるわけがないので、一応自分の薄いタオルケットをそっとかけてあげた。すーすーと寝息をたてて気持ちよさそうに眠る彗太郎に、なんだか笑顔がこぼれる。

本当はずっと、こんな時を待っていたのかもしれない。誰も信用しないと決めていた自分のその裏で、もう一人の自分は心を許せる相手を求めていた。ずっと自分の本当の気持ちに蓋をしていたんだと気づいた途端、心に重くのしかかっていた何かが軽くなったような気がした。

(――母さん。俺、やっとで誰かを受け入れられるようになったよ)

どんなに憎んでも憎みきれない母さんの、あの優しい笑顔を思い出す。じんわりと温かくなっていく心に、今決めた。彗太郎の寝顔を見つめながら、小さく呟く。

『俺、アイドルになりたい。誰かの“生きる意味”になりたいんだ』

(出来ることなら、母さんの――)


◇◆◇


翌日、学校終わりの彗太郎と待ち合わせをして百貨店やハイブランドの店舗が立ち並ぶ大通りを二人で歩き、もう二度と行くことはないと思ってた事務所へと向かう。最悪の初対面になってしまった自覚があるから、他のメンバーに会うのが怖い。

(もしメンバーに受け入れてもらえなかったら……)

そうなっても自業自得なのに、不安が頭の中を埋め尽くす。誰かに期待しないようにして生きてきたからこそ、他人にどう思われようがどうでもよかった。そんな昨日までの自分とは真逆のことを考えることになるとは思わずに、事務所に向かう足取りが重くなってしまう。

「大丈夫。みんなきっとわかってくれるよ」

隣を歩く彗太郎が、重い足取りの俺に歩幅を合わせてそう言った。不意を突かれ『ふぇっ?』と変な声が出てしまう。俺のほうを見て「自慢じゃないけど、COLORSって優しい人の集まりみたいなものだから」と言う彗太郎はとても穏やかな顔をしている。学生服姿の彗太郎は俺と同い年のはずなのに、俺よりもずっと大人だと思った。

『でも、俺の発言は許されないよな……。みんなが誇りを持って目指しているアイドルを馬鹿にしたようなこと言ってさ』
「まぁ、それはたしかに」
『……だよなぁ……』

さすがの彗太郎もフォローできないくらい酷い発言をしてしまった過去の自分に後悔が募る。

「紫音が出来ることは、精一杯自分の気持ちを伝えることだよ。反省してること、アイドルを目指そうと思ってることとその真剣さ、それをみんなにきちんと伝えられたら、紫音の誠意は絶対にわかってもらえるよ」

落ち着いた声でそう言う彗太郎に勇気づけられる。

(そうだな。まずは俺の誠意を伝えることが大事だよな)

決意を新たにする俺に、「紫音だって、自慢したいくらい素敵なメンバーの一員なんだからさ」と付け加えてニカッと笑う彗太郎。

『どこまで良い奴なんだよ』。思わずそう言うと、「そんなことないよ」と彗太郎が謙遜しながら言う。

彗太郎は今まで出会った人の中で一番綺麗な心の持ち主だと、純粋にそう思った。出会いは巡り合わせだと実感する。俺の人生でこんなにも素敵な出会いがあったことに感謝しながら、彗太郎のあとをついていく。


「ここだ」
10分ほどが経ち、ようやく事務所に到着した。高層ビル群の一角で大手芸能事務所の風格を放ちながらそびえ立つ事務所は20階建てで、見上げるようにすると首が痛くなる。この事務所の中にオフィスはもちろん、数多くのリハ室やダンススタジオ、レコーディングルーム、ジムやカフェまで併設されていて、規模の大きさに圧倒される。

「行けそう?」
そう言いながら俺の顔を覗き込む彗太郎に『うん。よし、行こう』と返事をした。

エントランスを通過し、エレベーターホールに進むにつれて心臓が早くなっていく。吹き抜けのエントランスには大きなシャンデリアが飾られ、大理石の床は自分の顔が映るほどに磨き上げられている。高級ホテルのような事務所に、俺が今から飛び込んでいこうとしている世界のスケールの大きさを改めて思い知らされた。


彗太郎につれられて到着したリハ室。17時から始まるレッスンの前にメンバーと話したくて15分前に着いたのに、もうすでに他の4人のメンバーは集まっていた。4人とも俺を見るなり目をまるくして驚いている。そんなみんなに向かって勢いよく頭を下げた。

『本当にごめんなさい!』

恐る恐る顔を上げると、晴天の霹靂(へきれき)と、言わんばかりに驚いている彗太郎以外のメンバー。俺は構わず、無我夢中で話しを続けた。

『俺、アイドルを勘違いしてました。ただヘラヘラ笑ってるだけでチヤホヤされてる奴らだって、そんなふうに思ってた。でも違った。ステージに立つまでに想像もできないくらいに努力して、でもステージ上ではそんな顔一切見せないでファンの人に笑顔で手を振ってる。それってすごく、すごくかっこいい。俺も、俺のことを見た人が笑顔になってくれたらいいなって。誰かの心の支えになれたらいいなって思ったんだ。だから……』

(アイドルになりたい)
今、本気でそう思ってる。

『だから、もし俺の失礼な態度を許してもらえるなら、COLORSの一員として今日からデビューを目指して一緒に活動させてほしい』

誠心誠意、ありったけの気持ちを込めて、もう一度5人に深く頭を下げた。ぎゅっ、と強く目を閉じて、反応を待つ。

「紫音」

数秒後、俺の名前を呼ぶ声がして顔を上げると、整えられた黒髪にきれいな二重幅が印象的なイケメンが立っていた。そのぱっちりとした瞳で俺をじっ、と見つめている。――航汰、くん、だ。COLORSの結成が発表されたあの日、俺の「アイドルとかダサすぎ」という言葉に感情を露わにして怒っていた、あの人。面と向かうと顔立ちの美しさがよくわかって、なぜか少し緊張する。これがアイドルのオーラというものだろうか。そのオーラを全面に浴びながら、俺も航汰を見つめ返す。

すると、航汰くんはパッと明るく笑って、「紫音がそんなにアツい奴だったなんて感激したよ!」と俺の肩をポンポンッと嬉しそうに叩いた。その表情の変化に拍子抜けしながら『えっ』と戸惑うことしかできない。そんな俺のもとに、彗太郎や他のメンバーたちも駆け寄ってくる。

「よかったね、紫音」
そう言って俺に微笑みかけてくれる彗太郎に『……ありがとう、彗太郎』と言う。

「わ!今初めて名前で呼んでくれたね」
「え、彗太郎くんいつの間に紫音くんと仲良くなってたの!?」
「俺、柊。よろしくな」
「怜央です」
「僕、星夜。紫音くんと話してみたかったんだ!」

こんなにも誰かに囲まれたのは初めてで、メンバーの勢いについていけず圧倒されてしまう。でも、この感覚が嬉しくて思わず笑みがこぼれる。

「わぁ、今紫音くん笑顔になってた!」
「紫音、笑うと結構かっこいいじゃんっ」

今日から始まる新しい生活に、心が踊る自分がいた。