なぜか他人事(ひとごと)には思えなかった。

“アイドルになんてなるつもりない”と吐き捨ててリハ室をあとにした紫音の背中を見つめながら、不思議とそう思った。

もちろん、俺はアイドルを目指しているし、心からアイドルになりたいと願っている。でも、なんというかそこじゃなくて。なんか、こう……“寂しそう”だった。決して背は低くないのに、紫音の背中が小さく見えた。それがずっと気になって、家に帰ってきてからもこうして思い出してしまう。

「セイちゃん、ご飯だよ」
ダイニングのほうから俺を呼ぶおばあちゃんの声が聞こえてきた。ひとまず紫音のことを考えるのはやめて、まっすぐダイニングに向かう。ダイニングに近づくにつれて、夕食の良い香りが漂ってきて食欲を刺激される。

すると「今日はお祝いだからちらし寿司にしちゃった」と嬉しそうに言うおばあちゃんに、「ずいぶん張り切ったなぁ〜」とこちらも嬉しそうに言うおじいちゃんの会話が聞こえてきた。

「そりゃあそうよ、私たちの大事な孫のお祝いですもの」
「そうだな」

2人ともどこか誇らしげな声をしていて少し照れくさくなりながらも、ダイニングに入った。

『うわぁ、すごい!美味しそう!』
テーブルを埋め尽くすようにサラダや唐揚げ、ローストビーフなどのたくさんのごちそうが並んでいて思わず感嘆の声をあげた。特にテーブルの中央にあるちらし寿司は錦糸玉子やエビが色鮮やかに盛り付けられていてとても美味しそうだ。俺が小学生だった頃、“おばあちゃんの作るちらし寿司が一番好き”と言っていたことを覚えてくれていて、何か嬉しいことがあった時は必ず作ってくれるようになった。

『おばあちゃん、ありがとう』
取り皿をテーブルに配っているおばあちゃんにお礼を言うと、「いいのよ。さっ、食べましょう」と優しい目で俺を見てくれる。

おじいちゃんとおばあちゃんが向かい合って座り、おばあちゃんの左隣に俺が座る。これがいつものダイニングの景色。いただきます、と3人揃って手を合わせる。早速ちらし寿司を一口頬張ると、錦糸玉子とエビの甘さがふわっと口の中に広がった。

『おばあちゃん、最高に美味しいよ!』
「そう?よかった」

おばあちゃんが嬉しそうにニコッと笑うと、自然と自分も嬉しくなる。

「それにしても、彗太郎。よく頑張ったな。1年間も試験を受け続けるなんて、本当にすごいよ」
『おじいちゃんありがとう。でも試験じゃなくて、オーディションね』
「そうか。オーデションか」
『はははっ。でも、うん。今回ばかりは自分を褒めてもいいかなって思ってる』

おじいちゃんの褒め言葉に照れ隠しをするように唐揚げに手を伸ばしながら、控えめに言ってみる。自分のやってきたことを自分で褒めるのはやっぱり少し恥ずかしい。

「そうよ〜!もっと自慢したっていいのよ?だって300人の中から選ばれたんだもの。とってもすごいことだわ!……まぁ私はセイちゃんが選ばれると思っていたけどね」

でも、おばあちゃんはそんな自信の無い俺を盛り立てるように大げさに褒めてくれるから、俺の自己肯定感は維持されているんだと思う。もちろん、おじいちゃんも。

「……きっと、明日香と和真くんも喜んでいるわね」

2人の名前に、ぴたっと、箸が止まる。

「あぁ、もちろんそうだとも」
おじいちゃんが、おばあちゃんの言葉に優しい声で同意する。

『うん、そうだといいな』

ダイニングから見える和室にある仏壇の前。2人並んで笑う両親の写真に、ふっ、と涙が出そうになるのをなんとか堪える。

両親は俺が6歳の時に交通事故で亡くなった。それ以来おじいちゃんとおばあちゃんが親代わりになって育ててくれている。中学3年生の時に俺がアイドルを志した時も、“セイちゃんが決めたことなら応援する”と言ってくれた。その期待に応えたくて、必死に努力を重ねてきたんだ。そして、今日、アイドルデビューという夢への切符を掴んだ。

『ごちそうさまでした。おばあちゃん、ありがとう』
おばあちゃんの手料理でお腹がいっぱいになった俺は、2階にある自分の部屋に戻った。

部屋の隅にある本棚に飾られた、両親の写真が入った写真立てをそっと手に取る。仏壇に飾られているものとは別の、お父さんとお母さんに5歳の俺が挟まれて手を繋いでいるもの。とびっきりの笑顔で笑う5歳の俺に、胸がきゅっと締め付けられる。正直に言うと、両親との記憶はほとんどない。ただ今でも覚えているのは、交通事故に遭ったあの瞬間(とき)、俺を守るようにぎゅっと抱きしめてくれたお母さんのぬくもり。思い出したくない記憶の中にある、唯一の思い出。……頬が何かで濡れた。

(泣いてるんだ、俺)

特に覚えてないのに、なんで。いや、覚えていないから泣いているのかもしれない。もっとハッキリと両親との日々を記憶していたかった……。欲を言えば、お父さんとお母さんにも、褒めてほしかった。“彗太郎、よくがんばったね”と、優しい声で抱きしめてほしかった。

写真立てにポタポタと落ちる俺の涙。お母さんの顔が、涙で歪んでいく。どんなに年月が経ったとしても、癒えることはない。なくなることはない。

こうやって、定期的に感傷に浸りたくなる時がある。嗚咽に合わせて、自分の肩がビクビクと揺れる。

(……あぁ、また、情けない背中をしているんだろうな、俺は……)

『これか、』
自分の情けなさに嫌気がさした時、なぜかまた思い出した紫音の背中。ヨレたTシャツを着た紫音の肩が小さく丸まって見えた。“この世界に味方なんていない”と背中が語っているかのようにも思える。

(もしかしたら紫音にも、俺と似たような経験があるのかもしれない)

大切な人を失ったことがある人にしかわからない、何かが……。


◇◆◇


最終審査の合格発表から二週間が過ぎた、5月のはじめ。週5回行われるレッスンに、紫音は一度も顔を出していなかった。ひぐっちゃんや、航汰くんと柊くんが紫音の家を訪ねても応えることはなかったらしい。

『航汰くん』

午後4時。今日のダンスレッスンが終わり、ツヤのある黒髪をガシガシとタオルで拭く航汰くんに聞いてみる。

『今日も紫音の家に行くんですか?』
「まあな。……一応メンバーだから」

あの日、“アイドルダサすぎ発言”をした紫音に、航汰くんは感情をむき出しにして怒っていた。もちろん俺だって気分が悪かったし、航汰くんが怒るのも無理はない。それでも、紫音がCOLORSに入ることは変えられない。だから、航汰くんなりに紫音に向き合おうとしているんだろう。それなら、俺だって……。

『あの、』
「ん?」

凛々しく整えられた眉を少し上げて、優しく聞き返してくれる航汰くん。普段からとっても優しくて、正義感の強い、憧れの先輩。COLORSのメンバー発表の時、航汰くんが呼ばれた時は嬉しかったな。すごく安心したのを覚えている。

『今日は、俺が紫音の家に行ってみてもいいですか?』

航汰くんや柊くんにばかり甘えてちゃいけない。俺もCOLORSの一員なんだ。出来ることをしたい。

「……そうだな。彗太郎が行けば、紫音も何か変わってくれるかも」

数秒考えたあと、航汰くんがそう言った。

『それはちょっとプレッシャーだなぁ』
「はははっ、でも、ありがとな。あいつと関わろうとしてくれて」
『そんなこと。紫音のことを知りたいって思っただけなんで』

俺の言葉に航汰くんは二度三度頷いて、「そうだよな、知ることが大事だよな」と神妙な面持ちで言う。


「よし!彗太郎、まかせた!!」
そのすぐあと、パッと明るい顔に戻った航汰くんに盛大な見送りを受けた。
教えてもらった住所をスマホに打ち込み、マップアプリ頼りに紫音の家へと向かった。







『ここ、か、?』

紫音の家、と思われるその家は、街外れの路地裏の最奥にあった。古びた見た目で、表札もインターホンもない。玄関はすりガラスの格子の引き戸で、電気がついていたら家の中が見えそうだ。しかし、今は室内は暗く、人の気配はない。本当にここに住んでるのかと不安になる。

(これはどうやって訪ねればいいのか?ノックする?それって怖いよなぁ……)

日が沈み薄暗くなってきた路地裏。1つしかない街灯は薄暗い光を放っているだけで、灯りの意味をなしていない。こんなところでまごまごしている自分は、端から見るとただの怪しい男でしかないじゃないか。

『うわ〜……、どうしよう』

(航汰くんになんて言おうか。期待してもらったのに、怖くて行けなかったなんて言えないし……)

完全に詰んだ。素直に謝るしかないか。あぁ、そうだ航汰くんと一緒に来たらよかったのか……。そんなまとまりのない感情が頭の中をぐるぐるとまわる。

『はぁ……』
「……は?」

俺のか細いため息が薄暗い路地裏に消えたのと同時に、背後から声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには紫音が立っていた。

『紫音!』
「うわ、最悪……」
『よかった〜、会えてよかった』
「俺は全然よくないんだけど」
『まぁ、そんなこと言うなよー」

二週間ぶりに会った紫音は、あの日と同じヨレたTシャツを着ていた。手にはスーパーの袋を下げていて、買い物帰りだと想像できる。相変わらず無愛想で悪態をつくけれど、それでもいい。

(本当によかった、助かった……)
そう安心したのも束の間、「じゃ、」と短く言い残した紫音が俺の真横をサッと通り過ぎて、すりガラスの引き戸に手をかける。

『いやいやいや、待ってよ』
慌てて紫音の肩に手をかけると、「なに?」と不機嫌そうに振り向く。

『こんなところで置いてけぼりはさすがに酷すぎるんじゃない?』
「は?お前が勝手に来たんだろ」

(それはそうだ。ごもっとも。でも、ここまで来て俺だって引き下がれない)

『そうだけど。同じグループのメンバーなんだし、いいじゃん!家入れてよ』
「絶対嫌」
『じゃなきゃずっとここにいるよ、入れてくれるまで。それはさすがに迷惑でしょ?!』
「……はぁ?」
『ほら、早くしないとアイス溶けちゃうよ』
「……っもう、仕方ねぇな」

スーパーの袋から透けて見えていたソーダアイスを人質に、作戦成功。なんとか紫音の家に入ることができた。

ガラガラガラと音を立てて紫音が引き戸を開けると、そこには六畳ほどの和室があった。部屋の奥には(ふすま)のない押入れがあり、その前には小さなベッド、そして中央に置かれたダンボールがあった。どうやらそのダンボールを机代わりにしているらしく、ダンボールの上には白のマグカップが一つ置かれている。

「で、なんの用?」

ベッドに座った紫音が、ぶっきらぼうに言う。とりあえずダンボールを前にして紫音に向かい合うように座る俺。紫音の冷たい視線が、痛い。

(でも、ここでひるんじゃだめだ。紫音にだって、何か理由があるはず)

そう自分を奮い立たせて、紫音と向き合う。

『冷たいなぁ。いいじゃん、用なんてなくても』
「どうせ、レッスンに来いとか言うんだろ」
『わかってるんじゃん〜』
「俺は行かない。今仕事探してるから。見つかったらあの事務所なんてすぐ辞める」

紫音の考えはあの日から変わっていないみたいで、決意は固そうに思えた。俺と同い年の高校生なのに、どうやら紫音にはお金が必要な事情があるらしい。

『なんで?レッスン受けるだけでお金がもらえるなら、そのほうがよくない?』
「そう思ってたからあの社長について行ったのに、完全に騙された。アイドルデビューなんて全く聞かされてなかった」

(なるほど。紫音はアイドルになることも嫌だけど、社長に騙されたことも気に入らないんだな……)

『そっか。まぁ、それは嫌になるよ。紫音は悪くない』
「……」
『ていうかさ、紫音の親さんは?』
「っ、」

しれーっと、一番気になっていたことを聞いてみる。すると、紫音の目から光が消えたように見えた。明らかに言葉に詰まっている。
先程までの悪態をついていた紫音とは別人のようで、さらに気になってしまう。そんな紫音を無理に追求するのは違うと思い、まずは自分の話をしてみることにした。

『……俺はさ、親がいないんだよね。俺が6歳の時に死んだんだ』

ほとんど誰にも話したことがないこの話を、なぜか紫音にはすらーっと話すことができた。ちらっと紫音のほうを見ると、黒く重たい前髪の向こうで、瞳をまるくして驚いている様子。

『それからはおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしてる。幸せだけど、なんだか切なくなる時もあるんだよね。もう二度と会えないんだなって思うと、なんかやるせなくなるよ。やっぱりほら、両親って特別じゃん?』

何も飾らない本心を伝えてみた。相手に心を開いてもらうには、まずは自分が心を開くこと。そんなことを、どこかで聞いたことがある。

「そう、だよな、」

しばらくの沈黙のあと、紫音がぽつりと呟いた。じっ、と言葉の続きを待っていると、「誰にも言わないでほしいんだけど」と前置きをした紫音が少しためらいがちに言葉を紡ぎ始めた。

「……俺の父親は、俺が2歳の時に出て行った、らしい。どんな父親だったかなんて覚えてない。それからは母さんが女手一つで育ててくれたけど……12歳の時に突然いなくなった。“ごめんね。でも、本当に紫音のことを大事に思ってる”って置き手紙だけ残して。……なんだそれって感じだよな。大事に思ってるなら……、急にっ、居なくっ、なるなよっ……」

「うぅっ、」という紫音の嗚咽がこの部屋に漏れた。

『紫音……』

小さくうずくまる紫音の背中をさする。紫音は俺が想像していた以上に辛い経験をしていた。あの強い発言や態度も、ただ虚勢を張っていただけなのかもしれない。

「ごめん、こんなの聞かされても仕方ないよな」

ふと我に返ったかのように、紫音が手首で荒々しく涙を拭いた。

『そんなこと、』
「いや、マジで。……もう帰って」

こちらに泣き顔を隠すようにして、俺の手を勢いよく振り払った紫音。

『無理。帰らない。』
紫音の左手を握りながら、そう言う俺。

「……は?お前、正気?」
眉間にシワを寄せた紫音が鋭く俺を睨む。

(……どう思われていいから、この手を離してはいけない)
強くそう思い、また一段と紫音の手を握る力を込める。

『紫音。いい?二週間前、俺たちが同じグループになると発表された時、俺たちは“家族”になったんだよ』
「え?」

俺の言葉に眉をひそめる紫音に、かまわず言葉を続ける。

『これからは、6人で一つ。一緒にいろんなことを経験して、喜怒哀楽のどんな感情も共有して……。家族以上に同じ時間を過ごすことになるんだ。……だからさ、そんな寂しいこと言うなよ』

紫音の顔に浮かんでいた困惑の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。少し茶色がかった黒目の紫音の瞳を、さらにまっすぐに見つめて言う。

『紫音が背負ってるもの、俺にも分けてくれないか』







紫音の家をあとにして家へと向かう帰り道、先程の紫音との会話を思い出す。泣きながら小さくうずくまる紫音が打ち明けてくれた過去と、今の紫音を受け止めたいと思った。気づけば、“俺たちは家族になったんだよ”と、そう口にしていた。咄嗟に出てきたその言葉に、聞き覚えがある。

(あの時、おじいちゃんがかけてくれた言葉だ)

両親を亡くしたことは、幼かった俺にはなかなか理解できなかった。お葬式が終わってもなお泣きじゃくる俺を抱きしめたおじいちゃんは、“彗太郎は、おじいちゃんとおばあちゃんと家族になった”と震える声でそう言っていた。そんなおじいちゃんの大きくて温かい胸に顔を押し付けて、俺は声を上げて泣き続けたんだ。

(誰かに同じセリフを言う時がくるなんて……)

あれから12年経って、誰かの痛みを受け止めたいと思えるくらいには強くなれたのかもしれない。目指していた自分に近づけた気がして少し嬉しくなる。

俺がアイドルを目指したのは、おじいちゃんとおばあちゃんに支えらればかりではいけないと思ったから。弱い自分を断ち切りたいと自立を意識し始めた中学3年生の時、目に留まったのがアイドルだった。CDを発売したりテレビに出ることで、おじいちゃんとおばあちゃんに喜んでほしいと思った。そしてそれが仕事になるなら願ったり叶ったりだと。

(俺には今、2つの家族がいるんだ)

大切な存在が増えることは嬉しいけれど、少し怖い。


でも今はそんな本音に蓋をして、2つの家族と共に夢を追いかけていきたいと改めてそう思った。