仏壇を眼前に、私は両の手を合わせていた。手の手の感触がやけに重たく感じる。スーツの着心地は悪くはなかったが、正座には向いていないようだった。
線香の香りが鼻腔をくすぐる。窓の外から香る桜の香りは、線香の香りに掻き消されてしまっていた。部屋の空気は春の暖かさよりも冬の乾燥した時のような空虚な空気が部屋中を支配するようにしんみりとしていた。
早苗さんと再会したあの日以来、私たちは会っていない。いや、会えなくなった、と言った方が正しい。今日に至るまで早苗さんとは一日たりとも会えていない。これからも会うことはできない。
目の前の仏壇は数年間飼っていた犬のものである。早苗さんの明るい性格がそのまま現れたかのような犬で、餌を見た途端に尻尾を振ってこちらへ駆けてくる様子がなんとも愛らしかった。一緒に近所を散歩した記憶、部屋でまったりとテレビを見て過ごした記憶、動物病院に通院した記憶。どれもが真新しく感じる。ありありと記憶が浮かび上がった。
肝心の早苗さんはというと、あの日以来から会うことは愚か、連絡すら取れていない。生きてはいるだろう。もしかすると不慮の事故に遭遇したり、不治の病にかかった可能性があったりするのでは、ということも考えられなくはないが、私には分かる。早苗さんは生きているだろう、と。早苗さんとの二度目の再会を私は願わずにはいられない。
彼女の書き残したあのメモには、またいつか会おうね、だなんて書き記されていたが、実際には連絡先は交換されていなかった。彼女の連絡先を記載した紙など、私が部屋を出る前に隅から隅まで部屋中を散策したため、そんなものはなかった、ということになる。では、あのメモに書き記されていたのか。いや、それも違った。裏面を見ようがそんなものは書かれていなかったし、形跡もない。
騙された、と思ったが、すぐにそんな訳がない、と思い直す。単に早苗さんがまさかの失態を犯しただけだろう。早苗さんならやりかねない。
勿論、一番に早苗さんと再会した時の場所、彼女の勤め先が思いついたが、早苗さんは既に会社を辞めていたため会うことは不可能だと思った。他にも思い当たる節を考えてはみたが、見つからない。早苗さんの地元はどうだろう、とも考えたが、田舎なんて山ほどあるし、見つかりっこない。それに早苗さん自身も覚えていないようでは、到底無理な話だ。
しかし、早苗さんと会えなくとも私は着実に前を向いて生きている。あの時の早苗さんの、私の判断は正しかった。私たちが正解にしていったのだ。
今日は第一志望の就職面接が控えられている。私の想いをぶつけて内定を勝ち取ってやる。強気に、前を向いて挑もうと思う。
気づけば線香が半分以上なくなっていた。
「宮田さん。次の新人教育をあなたに任せたいと思うのだけどどうかしら?」
「勿論、任せてください」
眼鏡のレンズ越しに自分が映る。あの時のあたしとは違う、成長した自分がいた。
ここがあたしの居場所なんだ。そう実感できる会社にあたしは就職した。中途採用という肩書きが障壁となってしまうのではないか、という不安に反してあたしの実力は認められていった。
あの時のことを今でも思い出す。あれから結生はどうなったのだろうか。無事に家に帰れただろうか。不安が過ぎらない訳ではなかった。だが、無事であることを信じている。またいつかどこかで再会することも、信じている。
今日は数日前に恵まれた上司に任された新人教育の初日だ。正直言って、緊張で今にも心臓が飛び出そうなくらいにドクドクと鼓動している。新人の方が緊張している、と自分に言い聞かせるが、あまり効果はない。
あたしに新人教育が務まるのだろうか、と直前にしてマイナスなことが頭を過ぎる。あたしだってまだまだ未熟で成長途中なのに。でも、そういう自分だからこそ新人と共に成長していきたいとも思う。
オフィスのドアが開く音がする。正面から足音が近づいてくる。カッカッとヒールの音が揃って幾つか聞こえる。
「林さん」
「はい」
「えっ」
聞き覚えのある声がする。同じ部署で働く者の声ではない。この声は────
「結生?」
顔を上げて、目の前の顔を捉える。結生だった。あの時の結生とは変わって、少々幼さが一気になくなっている。あの時から時間は経って、結生大人びた顔つきに変わっていた。きちんとアイロンがけされたスーツ。どこを見ても変わっていた。しかし、鋭く信念のある瞳だけは変わっていなかった。
「どうし……」
真っ先に声をかけようとしたが、これからまもなく新人たちの自己紹介が始まるため開いた口を噤む。
あたしの目線は結生にしかいかなかった。結生もあたしと同じようだった。他の新人を、他の上司を見ることなく一線が延びる。最後まで途切れることはなかった。
新人とその指導を行う者が対面する。眼前にあの時から成長した結生が立っている。凛々しいその表情は眩しいくらいだ。
名刺は今更渡す必要がなかった。自分の名を述べる訳でもなく結生があたしに手を差し出す。
あたしはその手を力強く握った。
線香の香りが鼻腔をくすぐる。窓の外から香る桜の香りは、線香の香りに掻き消されてしまっていた。部屋の空気は春の暖かさよりも冬の乾燥した時のような空虚な空気が部屋中を支配するようにしんみりとしていた。
早苗さんと再会したあの日以来、私たちは会っていない。いや、会えなくなった、と言った方が正しい。今日に至るまで早苗さんとは一日たりとも会えていない。これからも会うことはできない。
目の前の仏壇は数年間飼っていた犬のものである。早苗さんの明るい性格がそのまま現れたかのような犬で、餌を見た途端に尻尾を振ってこちらへ駆けてくる様子がなんとも愛らしかった。一緒に近所を散歩した記憶、部屋でまったりとテレビを見て過ごした記憶、動物病院に通院した記憶。どれもが真新しく感じる。ありありと記憶が浮かび上がった。
肝心の早苗さんはというと、あの日以来から会うことは愚か、連絡すら取れていない。生きてはいるだろう。もしかすると不慮の事故に遭遇したり、不治の病にかかった可能性があったりするのでは、ということも考えられなくはないが、私には分かる。早苗さんは生きているだろう、と。早苗さんとの二度目の再会を私は願わずにはいられない。
彼女の書き残したあのメモには、またいつか会おうね、だなんて書き記されていたが、実際には連絡先は交換されていなかった。彼女の連絡先を記載した紙など、私が部屋を出る前に隅から隅まで部屋中を散策したため、そんなものはなかった、ということになる。では、あのメモに書き記されていたのか。いや、それも違った。裏面を見ようがそんなものは書かれていなかったし、形跡もない。
騙された、と思ったが、すぐにそんな訳がない、と思い直す。単に早苗さんがまさかの失態を犯しただけだろう。早苗さんならやりかねない。
勿論、一番に早苗さんと再会した時の場所、彼女の勤め先が思いついたが、早苗さんは既に会社を辞めていたため会うことは不可能だと思った。他にも思い当たる節を考えてはみたが、見つからない。早苗さんの地元はどうだろう、とも考えたが、田舎なんて山ほどあるし、見つかりっこない。それに早苗さん自身も覚えていないようでは、到底無理な話だ。
しかし、早苗さんと会えなくとも私は着実に前を向いて生きている。あの時の早苗さんの、私の判断は正しかった。私たちが正解にしていったのだ。
今日は第一志望の就職面接が控えられている。私の想いをぶつけて内定を勝ち取ってやる。強気に、前を向いて挑もうと思う。
気づけば線香が半分以上なくなっていた。
「宮田さん。次の新人教育をあなたに任せたいと思うのだけどどうかしら?」
「勿論、任せてください」
眼鏡のレンズ越しに自分が映る。あの時のあたしとは違う、成長した自分がいた。
ここがあたしの居場所なんだ。そう実感できる会社にあたしは就職した。中途採用という肩書きが障壁となってしまうのではないか、という不安に反してあたしの実力は認められていった。
あの時のことを今でも思い出す。あれから結生はどうなったのだろうか。無事に家に帰れただろうか。不安が過ぎらない訳ではなかった。だが、無事であることを信じている。またいつかどこかで再会することも、信じている。
今日は数日前に恵まれた上司に任された新人教育の初日だ。正直言って、緊張で今にも心臓が飛び出そうなくらいにドクドクと鼓動している。新人の方が緊張している、と自分に言い聞かせるが、あまり効果はない。
あたしに新人教育が務まるのだろうか、と直前にしてマイナスなことが頭を過ぎる。あたしだってまだまだ未熟で成長途中なのに。でも、そういう自分だからこそ新人と共に成長していきたいとも思う。
オフィスのドアが開く音がする。正面から足音が近づいてくる。カッカッとヒールの音が揃って幾つか聞こえる。
「林さん」
「はい」
「えっ」
聞き覚えのある声がする。同じ部署で働く者の声ではない。この声は────
「結生?」
顔を上げて、目の前の顔を捉える。結生だった。あの時の結生とは変わって、少々幼さが一気になくなっている。あの時から時間は経って、結生大人びた顔つきに変わっていた。きちんとアイロンがけされたスーツ。どこを見ても変わっていた。しかし、鋭く信念のある瞳だけは変わっていなかった。
「どうし……」
真っ先に声をかけようとしたが、これからまもなく新人たちの自己紹介が始まるため開いた口を噤む。
あたしの目線は結生にしかいかなかった。結生もあたしと同じようだった。他の新人を、他の上司を見ることなく一線が延びる。最後まで途切れることはなかった。
新人とその指導を行う者が対面する。眼前にあの時から成長した結生が立っている。凛々しいその表情は眩しいくらいだ。
名刺は今更渡す必要がなかった。自分の名を述べる訳でもなく結生があたしに手を差し出す。
あたしはその手を力強く握った。
